今回は哲学の岩田直也先生による模擬講義の映像をご紹介します。残念ながら2020年のオープンキャンパスは中止になってしまいましたが、福岡大学でどんな講義が行われているのか、ちょっと覗いてみましょう。
福岡大学人文学部文化学科の公式ブログでしたが,2024年3月末をもって停止いたしました。記載情報は2023年度までのものですので,ご注意ください。 2024年度以降の学科の情報は「https://www.hum.fukuoka-u.ac.jp/department/lc」をご覧ください。
2020年9月2日水曜日
2020年7月27日月曜日
LC哲学カフェ開催のお知らせ:人生に目標は必要か?
次回のLC哲学カフェ、オンラインでの開催が決定しました。詳細は下記の通りです。
【LC哲学カフェ】
人生に目標は必要か?――フリーランスの先輩と考える
日時 8月2日(日)11:00-12:30
場所 オンライン(Webex使用)
ゲスト 野里のどかさん(フリーランス、ライター、LC12台卒業生)
今回は、ゲストにLC卒業生の野里のどかさんをお迎えし、「人生に目標は必要か?」というテーマについて考えてみます。
前期は遠隔授業が続いたため、おそらく、学生さんが授業外で集まる機会はなかなか無かったはず。今回の哲学カフェ開催には、LCの学生さんに、授業外で何となく集まれる場所を提供する、という意図もあります。特に、未だ大学に慣れないだろう新入生の皆さんには、この機会に、ぜひ色々なご意見やご質問を聞かせてもらえれば、と思います。
【LC哲学カフェ】
人生に目標は必要か?――フリーランスの先輩と考える
日時 8月2日(日)11:00-12:30
場所 オンライン(Webex使用)
ゲスト 野里のどかさん(フリーランス、ライター、LC12台卒業生)
今回は、ゲストにLC卒業生の野里のどかさんをお迎えし、「人生に目標は必要か?」というテーマについて考えてみます。
前期は遠隔授業が続いたため、おそらく、学生さんが授業外で集まる機会はなかなか無かったはず。今回の哲学カフェ開催には、LCの学生さんに、授業外で何となく集まれる場所を提供する、という意図もあります。特に、未だ大学に慣れないだろう新入生の皆さんには、この機会に、ぜひ色々なご意見やご質問を聞かせてもらえれば、と思います。
2019年12月22日日曜日
第8回 LCアーベントが開催されました
12月3日火曜日の夕方、約一年ぶりに、第8回目のLCアーベントが開催されました。
今回の提題者は、心理学がご専門の一言英文先生で、タイトルは「心と文化の根深い関係」。参加者は学生さんが15名程度、教員が3名。
相対的なものの中にも人間の心の「本質」があるのではないか。多様性を受け入れるにせよ、多様性を受け入れていくメカニズムがあるのではないか――。このような問題提起から、話がスタート。「文化」や関連概念の定義、検討がなされた上で、豊富な事例に基づきながら、感情は文化的なものである、という主張が展開されました。
心は習慣的な行動によって変わっていく。文化的な「思いこみ」を外そうとしても、外せない部分がある。何が許せて、何が許せないのか。「被害者がいなければ、できるだけ個々人の自由を認めるべきである」と考えるのか、そうでないのか。いじめはどのような「場」で起きやすいのか、等々。言葉のレベルではなく、文化によって心が変わっているとすれば、言葉のレベルでは心を変えられない……?
アーベントの終了後は大学近辺で打ち上げが行われ、深夜まで続いた模様。
日頃の講義やゼミなどで、私自身、しばしば「……という考えは絶対ではない。もっと多様であり得る」と偉そうに話したりしているものの、そのような言葉だけでは捉えられず、届かないものがあるのだろう、と改めて思う、今日この頃です。
今回の提題者は、心理学がご専門の一言英文先生で、タイトルは「心と文化の根深い関係」。参加者は学生さんが15名程度、教員が3名。
相対的なものの中にも人間の心の「本質」があるのではないか。多様性を受け入れるにせよ、多様性を受け入れていくメカニズムがあるのではないか――。このような問題提起から、話がスタート。「文化」や関連概念の定義、検討がなされた上で、豊富な事例に基づきながら、感情は文化的なものである、という主張が展開されました。
心は習慣的な行動によって変わっていく。文化的な「思いこみ」を外そうとしても、外せない部分がある。何が許せて、何が許せないのか。「被害者がいなければ、できるだけ個々人の自由を認めるべきである」と考えるのか、そうでないのか。いじめはどのような「場」で起きやすいのか、等々。言葉のレベルではなく、文化によって心が変わっているとすれば、言葉のレベルでは心を変えられない……?
アーベントの終了後は大学近辺で打ち上げが行われ、深夜まで続いた模様。
日頃の講義やゼミなどで、私自身、しばしば「……という考えは絶対ではない。もっと多様であり得る」と偉そうに話したりしているものの、そのような言葉だけでは捉えられず、届かないものがあるのだろう、と改めて思う、今日この頃です。
LC哲学カフェ開催:現代サーカスで哲学する
12月1日日曜、LC哲学カフェが開催されました。今回は列車を乗り継ぎ、福岡市東区千早の「なみきスクエア」へ。午後3時から下記を鑑賞し、その後、施設内の飲食店で議論しました。
第56回福岡市芸術祭メイン事業
フィンランド×日本 現代サーカス交流プロジェクト「Air/エアー」
http://www.ffac.or.jp/ff/(外部サイト)
参加者は学生さんが5名程度、教員が1名。鑑賞前に「サーカス」という言葉でイメージしていたものとはかなり異なる「芸術的」なパフォーマンスで、鑑賞後の哲学カフェでは直ちに「これはサーカスなのか、そもそもサーカスとは何か、現代とは何か」などが話題になりました。琵琶(?)などの「東洋的な」楽器を使った音楽も「サーカスっぽくない」ように感じられるし、とにかく「芸術的」。一つ一つの場面や動作が、何かを象徴している? あるいは解釈しようとせずに、動きそれ自体として見るべき……?
私も未だ、この体験をどのように表現すべきか、うまく言葉が見つからないでいるのですが、いずれにせよ、今まで自分があまり触れてこなかったタイプのものに触れている、という「戸惑い」を覚えたことは確かで、この感覚を大切にしたい、と思ったりしています。
なお、以前もお伝えしたように、大学の外で哲学カフェを開催する際には、大学内での開催の場合と異なり、日程などについては予め、参加希望者の間でのみ相談・告知しています。今後の開催予定などについて興味のある人は、小笠原まで気軽にご連絡下さい。
第56回福岡市芸術祭メイン事業
フィンランド×日本 現代サーカス交流プロジェクト「Air/エアー」
http://www.ffac.or.jp/ff/(外部サイト)
参加者は学生さんが5名程度、教員が1名。鑑賞前に「サーカス」という言葉でイメージしていたものとはかなり異なる「芸術的」なパフォーマンスで、鑑賞後の哲学カフェでは直ちに「これはサーカスなのか、そもそもサーカスとは何か、現代とは何か」などが話題になりました。琵琶(?)などの「東洋的な」楽器を使った音楽も「サーカスっぽくない」ように感じられるし、とにかく「芸術的」。一つ一つの場面や動作が、何かを象徴している? あるいは解釈しようとせずに、動きそれ自体として見るべき……?
私も未だ、この体験をどのように表現すべきか、うまく言葉が見つからないでいるのですが、いずれにせよ、今まで自分があまり触れてこなかったタイプのものに触れている、という「戸惑い」を覚えたことは確かで、この感覚を大切にしたい、と思ったりしています。
なお、以前もお伝えしたように、大学の外で哲学カフェを開催する際には、大学内での開催の場合と異なり、日程などについては予め、参加希望者の間でのみ相談・告知しています。今後の開催予定などについて興味のある人は、小笠原まで気軽にご連絡下さい。
2019年度「先輩と語る」が開催されました
福岡大学ステップアッププログラムの一環として、11月29日金曜の18時から、A811教室で「先輩と語る」というイベントが開催されました。参加者は学生さんが6名、卒業生が1名、教員が1名。
講師は、2018年度卒業の水落文佳さん。水落さんは現在、福岡で日本語教師として働かれています。イベントではその実体験に基づいて、日本語学校での実際の仕事内容や、教え子たちとの様々なエピソード、さらには在学中の就職活動のことなど、具体的で貴重なお話をお聞かせいただきました。
イベントの後半には質疑応答の時間を設けましたが、イベント終了後の教室でも、参加した学生さんの半数程度が、個別に水落さんに相談して話を聞く、という様子が見られました。日本語教師を目指している人や、目指そうかどうか迷っている人などには、特に有益な会になったように思います。
この「先輩と語る」というイベントは、来年度以降も開催される予定です。興味のある人は、ぜひご参加下さい。
2019年11月5日火曜日
LC哲学カフェ開催:パレードとアートで哲学する
昨日、11月4日月曜、LC哲学カフェが開催されました。今回は下記二つのイベントに参加し、その後、六本松の某カフェで議論。参加者は学生さんが2名、他大学の学生さんが1名、教員が1名。
九州レインボープライド2019
https://9rp.biz/(外部サイト)
公開講座「人と人との境界を問う――ダムタイプ《S/N》上映&トーク」
https://9rp.biz/1661/(外部サイト)
公開講座の後のカフェに限らず、その時々に、様々な話題が出ました。パレード開始前の公園の芝生上で、このパレードの持つ「政治性」について考えたり、パレード後の食事中には、いわゆる「心の性」とは何かという問題や、同性婚や選択的夫婦別姓について議論したり、夜のカフェでは、今観た作品の感想や解釈について話し合ったり、等々。私個人は、カフェでの「未来のラブソング」に関する議論(異性愛を前提しない「未来のラブソング」とはどのようなものか?)が印象に残っています。
さて来月も、大学の外での哲学カフェ開催を予定しています。大学内での開催の場合と異なり、日程などについては予め、参加希望者の間でのみ相談・告知していますので、興味のある人は、小笠原まで気軽にご連絡下さい。
2019年10月24日木曜日
第8回 LCアーベント開催のお知らせ
昨年の12月以来、しばらく活動を休止していたLCアーベントですが、第8回目の開催が決定しました。日程と場所、提題者は次のとおりです。
【LCアーベント】
日時 12月3日(火)16:20-17:50
場所 A715教室
提題者 一言英文 先生(心理学)
題目 「心と文化の根深い関係」
12月の第一週、火曜5限の時間帯です。昨年の第2回に引き続き、心理学がご専門の一言先生にご発表いただきます。
事前の登録などは不要です。ぜひ気軽にご参加下さい。
関連記事
LCアーベント開催のお知らせ
第1回 LCアーベントが開催されました
第2回 LCアーベントが開催されました
第3回・第4回 LCアーベントが開催されました
第5回 LCアーベントが開催されました
第6回 LCアーベントが開催されました
第7回 LCアーベントが開催されました
【LCアーベント】
日時 12月3日(火)16:20-17:50
場所 A715教室
提題者 一言英文 先生(心理学)
題目 「心と文化の根深い関係」
12月の第一週、火曜5限の時間帯です。昨年の第2回に引き続き、心理学がご専門の一言先生にご発表いただきます。
事前の登録などは不要です。ぜひ気軽にご参加下さい。
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第3回・第4回 LCアーベントが開催されました
第5回 LCアーベントが開催されました
第6回 LCアーベントが開催されました
第7回 LCアーベントが開催されました
2019年10月5日土曜日
LC哲学カフェ開催:『急に具合が悪くなる』を読んで哲学する(一)
昨日、10月4日の夕方、LC哲学カフェが開催されました。今回は下記の本がテキスト。
宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』、晶文社、2019年
https://www.amazon.co.jp/dp/4794971567/(外部サイト)
参加者は学生さんが5名、卒業生が1名、教員が1名の計7名。予め論点を絞ることなく、本の感想や、この本を読んで考えたこと、印象に残っている箇所などについて自由に話す、というスタイルでスタート。
時に沈黙しつつ、様々な話が出ましたが、以下、その一部です。
1.読み始めるのを躊躇していたが、実際に読んでみると、著者は二人とも前を向いている。想像していたのと違い、感傷的な内容ではない。ただし、最後は涙が出る。最後の二通くらい、宮野先生の文体がそれまでと少し変わっている気もする。
2.教員の知っている宮野先生の姿と、学生の知っている宮野先生の姿には、ズレがある。授業での宮野先生は「厳しい人」という印象。ピリッとしていて、学生にも自分にも厳しい。メリハリがある。この本を読んで、宮野先生が泣いていた、と知った。そんなに具合が悪いようには見えなかった。
3.宮野先生のお父さんについて書かれている部分が、読んでいて辛い。宮野先生はお父さんに腹立たしさを覚えたり、主治医に対するお母さんの質問に苛立ったりしている。なぜ「先生の家族が同じ状態だったら、どうしますか?」という質問が禁じ手なのか、よくわからないし、三つのセクターの話も難しい。
4.「100パーセントの患者になりたくない」というタイプの話は、はじめて読んだ気がする。テレビの中の「ガンが治ったら一番に何がしたいですか?」という質問やその答えに「今すりゃええやんか」と呟く箇所が印象的。世の中で当たり前に受け入れられている「患者」の扱い方や「物語」に、宮野先生は苛立っている。この本は「24時間テレビ」的なものとは違う。
5.前回の哲学カフェで、宮野先生のような生き方はできるのか、という話が出た。この本でも「自分の人生を取り返す」と書かれているが、難しい。宮野先生は「心がムキムキ」。でも、キツそう。後半で、「患者になってしまえば楽」という意味のことも書かれている。
6.「恋愛の偶然に身を委ねることと、自分が病になって周りを巻き込むことはけっこう違う」と書かれているが、どう違うのか。宮野先生は、恋愛を偶然性のポジティブな面、病をネガティブな面、と捉えていたのかもしれない。でも、恋愛でも周囲を巻きこんだり、周囲に迷惑をかけたりすることはあるはず……。
7.宮野先生は野球を、偶然性について考えながら観るのか、と思った。「偶然性」が理由で野球が好き? いや、サッカーの偶然性について話したとき、宮野先生は全く興味を示さなかった。偶然性にかかわらず、とにかく野球が好きなのだろう……。
8.「勝ちに行く」と書かれている。何に勝つのか、何と戦っているのか。死や病と戦っている。患者になってしまうことなく、哲学者として自分を賭ける。あるいは、この本を書くこと自体が、宮野先生と磯野先生にとっての勝負なのかもしれない。言葉を記し、世界に届ける、という勝負。
9.宮野先生は「哲学の基礎Ⅰ」の授業で、「してあげる人と、される人」という仕方で、役割や関係が固定されてしまうことについて論じていた。しかし、役割や関係が固定されることの、何が悪いのか。丸裸の個人がぶつかるのは大変だし、キツい。役割もある程度は必要。宮野先生も、お店の店員さんは「店員さん」として扱っていたはず。あるいは、その関係を超えて、仲良くなっていた……?
10.授業での宮野先生は、100パーセントの「教員」だった? いや、教員100パーセントならば言わないはずのことも、言っていた。「カープが負けて悔しい」など。あえて役割を固定しないことで、そこから生まれるものを大切にする。決めつけることなく、満ち溢れる可能性を妨げない――。
その他にも色々な話題が少しずつ積み重なっていく中、19時半を告げるチャイムと同時に強制的に終了。その後、お腹を空かせた参加者たちは、大学近辺の某居酒屋へ。
当初は、この本のどこかを輪読する時間を設ける予定でしたが、今回は見送りました。この本は引き続き扱っていくつもりで、今度は最初から「輪読会」のような形式にしてみる、という案や、あるいは、この本の参考文献を読んでみる、という案も出ています。
今後、できれば11月と12月に一回ずつ、哲学カフェの開催を。詳細が決まり次第、このブログ上、及びツイッター(https://twitter.com/lccafephilo)で告知しますので、少しお待ち下さい。
宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』、晶文社、2019年
https://www.amazon.co.jp/dp/4794971567/(外部サイト)
参加者は学生さんが5名、卒業生が1名、教員が1名の計7名。予め論点を絞ることなく、本の感想や、この本を読んで考えたこと、印象に残っている箇所などについて自由に話す、というスタイルでスタート。
時に沈黙しつつ、様々な話が出ましたが、以下、その一部です。
1.読み始めるのを躊躇していたが、実際に読んでみると、著者は二人とも前を向いている。想像していたのと違い、感傷的な内容ではない。ただし、最後は涙が出る。最後の二通くらい、宮野先生の文体がそれまでと少し変わっている気もする。
2.教員の知っている宮野先生の姿と、学生の知っている宮野先生の姿には、ズレがある。授業での宮野先生は「厳しい人」という印象。ピリッとしていて、学生にも自分にも厳しい。メリハリがある。この本を読んで、宮野先生が泣いていた、と知った。そんなに具合が悪いようには見えなかった。
3.宮野先生のお父さんについて書かれている部分が、読んでいて辛い。宮野先生はお父さんに腹立たしさを覚えたり、主治医に対するお母さんの質問に苛立ったりしている。なぜ「先生の家族が同じ状態だったら、どうしますか?」という質問が禁じ手なのか、よくわからないし、三つのセクターの話も難しい。
4.「100パーセントの患者になりたくない」というタイプの話は、はじめて読んだ気がする。テレビの中の「ガンが治ったら一番に何がしたいですか?」という質問やその答えに「今すりゃええやんか」と呟く箇所が印象的。世の中で当たり前に受け入れられている「患者」の扱い方や「物語」に、宮野先生は苛立っている。この本は「24時間テレビ」的なものとは違う。
5.前回の哲学カフェで、宮野先生のような生き方はできるのか、という話が出た。この本でも「自分の人生を取り返す」と書かれているが、難しい。宮野先生は「心がムキムキ」。でも、キツそう。後半で、「患者になってしまえば楽」という意味のことも書かれている。
6.「恋愛の偶然に身を委ねることと、自分が病になって周りを巻き込むことはけっこう違う」と書かれているが、どう違うのか。宮野先生は、恋愛を偶然性のポジティブな面、病をネガティブな面、と捉えていたのかもしれない。でも、恋愛でも周囲を巻きこんだり、周囲に迷惑をかけたりすることはあるはず……。
7.宮野先生は野球を、偶然性について考えながら観るのか、と思った。「偶然性」が理由で野球が好き? いや、サッカーの偶然性について話したとき、宮野先生は全く興味を示さなかった。偶然性にかかわらず、とにかく野球が好きなのだろう……。
8.「勝ちに行く」と書かれている。何に勝つのか、何と戦っているのか。死や病と戦っている。患者になってしまうことなく、哲学者として自分を賭ける。あるいは、この本を書くこと自体が、宮野先生と磯野先生にとっての勝負なのかもしれない。言葉を記し、世界に届ける、という勝負。
9.宮野先生は「哲学の基礎Ⅰ」の授業で、「してあげる人と、される人」という仕方で、役割や関係が固定されてしまうことについて論じていた。しかし、役割や関係が固定されることの、何が悪いのか。丸裸の個人がぶつかるのは大変だし、キツい。役割もある程度は必要。宮野先生も、お店の店員さんは「店員さん」として扱っていたはず。あるいは、その関係を超えて、仲良くなっていた……?
10.授業での宮野先生は、100パーセントの「教員」だった? いや、教員100パーセントならば言わないはずのことも、言っていた。「カープが負けて悔しい」など。あえて役割を固定しないことで、そこから生まれるものを大切にする。決めつけることなく、満ち溢れる可能性を妨げない――。
その他にも色々な話題が少しずつ積み重なっていく中、19時半を告げるチャイムと同時に強制的に終了。その後、お腹を空かせた参加者たちは、大学近辺の某居酒屋へ。
当初は、この本のどこかを輪読する時間を設ける予定でしたが、今回は見送りました。この本は引き続き扱っていくつもりで、今度は最初から「輪読会」のような形式にしてみる、という案や、あるいは、この本の参考文献を読んでみる、という案も出ています。
今後、できれば11月と12月に一回ずつ、哲学カフェの開催を。詳細が決まり次第、このブログ上、及びツイッター(https://twitter.com/lccafephilo)で告知しますので、少しお待ち下さい。
2019年9月28日土曜日
LC哲学カフェ開催のお知らせ
次回のLC哲学カフェ、詳細が決まりました。下記の通りです。
【LC哲学カフェ】
『急に具合が悪くなる』を読んで哲学する(一)
日時 10月4日(金)18:00-19:30
場所 2号館ゼミ室24J
今回は下記の本をテキストに、皆で議論を。
宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』、晶文社、2019年
https://www.amazon.co.jp/dp/4794971567/(外部サイト)
当日はこの本を持参し、かつ事前に読んできてもらうのが理想的ですが、まだ読んでいない、本を入手していない、という人でも、何も持たずに参加してもらって構いません。途中、本の一部を輪読する時間なども設ける予定です。
タイトルに(一)とつけたように、この本については今後も、引き続き扱っていくつもりです。
途中入室、途中退室は自由。自己紹介などの必要はなく、発言を強制されることもありませんので、ぜひ気軽にご参加下さい。
【LC哲学カフェ】
『急に具合が悪くなる』を読んで哲学する(一)
日時 10月4日(金)18:00-19:30
場所 2号館ゼミ室24J
今回は下記の本をテキストに、皆で議論を。
宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』、晶文社、2019年
https://www.amazon.co.jp/dp/4794971567/(外部サイト)
当日はこの本を持参し、かつ事前に読んできてもらうのが理想的ですが、まだ読んでいない、本を入手していない、という人でも、何も持たずに参加してもらって構いません。途中、本の一部を輪読する時間なども設ける予定です。
タイトルに(一)とつけたように、この本については今後も、引き続き扱っていくつもりです。
途中入室、途中退室は自由。自己紹介などの必要はなく、発言を強制されることもありませんので、ぜひ気軽にご参加下さい。
2019年9月15日日曜日
LC哲学カフェ開催:夜の動植物園で哲学する
昨日、9月14日土曜日の夕方、LC哲学カフェが開催されました。
今回は新企画として、福岡市動植物園へ。「夜の動植物園」をめぐりながら、その場その場で哲学の議論をする、という試み。参加者はLCの学生さんが2名、他大学の学生さんが2名、教員1名の、計5名。
主に話題になったのは、次の三つ。
第一に、檻について。普段は入ることのできないゾウ舎が特別に公開されていて、中に入ることができたのですが、ゾウの檻は、棒と棒の間隔が広く、人間は自由に出入りが可能。この檻は、ゾウにとっては檻でも、人間にとっては檻ではない。つまり何かが「檻」であるかどうかは相対的に決まることでしかなく、同じものが檻だったり、檻でなかったりする。確かに、人間の檻も、虫やネズミなどは自由に出入りが可能。したがって、檻ではない……?
第二に、「価値」について。植物園で、一年に二日(?)しか花を咲かせない「オオオニバス(?)」を鑑賞。しかし、「一年に二日」という希少性が価値を持つのはなぜか。例えば、結婚。誰かと結婚して、毎日一緒に暮らす、とする。すると、その誰かと一緒にいることの希少性は下がる。ならば、結婚とは、相手の価値を下げることなのか。一年に二日しか会わない相手と、毎日会う相手とでは、どちらの方が価値があるのか。あるいは、希少性と親密度は異なる? 両者は矛盾する、それとも矛盾しない……?
第三に、動物の「裸」について。動物たちは裸なのに、なぜ見ていて「セクシー」とは感じないのか。単に種が違うから? あるいは、動物たちは裸でいることが普通だから? 動物たちにも服を着せるのが普通ならば、裸でいる状態を「セクシー」と感じるようになるかもしれない。逆に人間も、もし皆が毎日裸で生活していれば、性的なものを感じなくなる? いや、服を着て生活している現在でも、裸を直ちに「セクシー」と感じるとは限らない。セクシーさは裸そのものではなく、裸を隠すことから生まれてくる……?
……以上のように書いてみると、何だか、哲学談義に終始していたような印象を与えるかもしれませんが、実際には、動植物園を素直に楽しんでいる時間がほとんどで、哲学談義はごく一部。歩きながらの議論はなかなか難しく、「哲学カフェ」としては課題が残ったものの、緩やかで、心地好い時間となりました。
次回については何も決まっていませんが、いずれまた、どこかで何かを。諸々、このブログ上でお伝えしますので、続報を気長にお待ち下さい。
2019年8月6日火曜日
LC哲学カフェ開催:旅と日常を哲学する
先週木曜、8月1日の夕方、久しぶりにLC哲学カフェが開催されました。今回のタイトルは「旅と日常を哲学する」。参考資料として取り上げたのは、宮野真生子先生が福岡大学への赴任一年目に書いたエッセイ、「旅と日常と偶然性」(2010年)。
参加者は、学生さんや卒業生など(他大学の院生1名も参加してくれました)が約15名に、教員が2名。
冒頭、まず小笠原がこのエッセイの内容について簡単に紹介、解説。このエッセイは「旅が好きです」という一文から始まるのですが、この「旅」は、どうやら「観光」とは違うらしい。「旅、と言っても、別に観光をしに行くわけではありません」。「その旅は非日常であってはなりません」。非日常を求めるのではなく、地元の喫茶店や飲み屋さんで「自分の知らない土地で営まれている生活」の空気に包まれて、コーヒーを飲んだり、お酒を飲んだりする。「そんなふうに、知らない日常を生きてみる」。
「そういうとき、たとえば、尾道のアイスコーヒーが美味しい喫茶店でアイスコーヒーとワッフルという定番の朝ごはんを食べているときや、梁が真っ黒にいぶされている金沢の居酒屋さんのカウンターでおでんをアテに熱燗を飲んでいるときや、海に近い白浜のパブで温泉あがりのほてった体をモスコミュールで冷やしているときに、ふと、「福岡にいる私はいったい誰なんだろう」と思います。もしくは、「あそこにいるのは、本当に私なんだろうか」と。さっきも言ったように、私は知らない土地の日常に入り込むように旅をしますから、圧倒的な異質さを感じつつも、はっと気付いたとき、自分もまたその別の日常のなかに入っているわけで、そのときには、今度、今までの日常が非日常の様相を帯びて、現れてくるのです。この、日常と非日常がくるっと反転し、自分の立っている場所がわからなくなる瞬間が、私はとても好きです。」
「街の中をさまよい歩き、どこかのカウンターに腰を落ち着けたその瞬間、私の日常は反転し、「当たり前の日々」に隠れていた可能性が一気に姿を表わして、私の足元を揺るがせます。そのふわふわとした感覚のなか飲むお酒ほど楽しいものはありません。気がつけば、お店の人や常連さんと当たり前のように笑いながら話していて、そんなときにふと、もし、この土地に生まれていたら、どんな人生だったんだろうという思いがよぎり、福岡の日常は吹っ飛んでしまうのです。そうなれば、私の旅は大成功です。」
旅先の日常に入りこむことで、福岡の日常が非日常に転じる。世界の偶然性に気づき、自分に開かれている可能性を見る。「当たり前の日々」と感じていた福岡の日常は、決して当たり前の日々ではない。
「そして、旅から帰ると、私はいつもごく普通の和食を作ります。だし巻き卵に焼き魚にお浸しと納豆、丁寧にひいた出汁でお味噌汁を作り、炊きたての白いご飯を食べる。そうやって、今、自分がこの生活を送っていることを、ここに日常があることを確認します。そうやって、日常はけっして、当たり前の日々ではないと、自分がこんな形で生きていることの不思議をかみしめるのでした。」
さて、ここからどのような問題が設定できるか、という問いかけから、全体の議論がスタート。「……宇宙、とか」「宇宙……?」。宇宙人たちの日常の中に居たとしても、宮野先生は、エッセイで書かれているのと同じような感覚を持つのかどうか。例えば、火星人たちの生活には溶けこめないはず。いや、宮野先生なら案外、火星人にもなじめる……?
そもそも日常とは何か。なぜ非日常を求めて、某テーマパークへ行くのか。日常では味わえない楽しさを求めて? しかし、仮にテーマパークで暮らしたとしたら、そこが日常になる。テーマパークに通って本を読む、というアイドルもいる。日常はどこまでが日常なのか。旅行などで「憧れ」を一時的に達成するとき、そこに非日常を感じる?
大学へ入学したとき、最初は非日常だったはず。その生活が、いつ日常になったのか。慣れてきて、新しい刺激が少なくなり、非日常が日常になる。当たり前になっていく。しかしこのエッセイには、日常が当たり前になってはダメ、とも書かれている……。
開始から約30分が経過した時点でエッセイの全文を輪読し、その後、再び議論を続行。
宮野先生にとっての日常とは何か。旅から帰ると、普通の和食を食べる。普通の和食を食べているけれど、当たり前の日々ではない。当たり前のものが、当たり前じゃない。たまたま日本で生まれて日本で過ごしているから、和食。イタリア人に生まれていたら、イタリア料理を食べるのが日常だったはず。
でも、当たり前を当たり前じゃない、と常に意識し続けるのは、しんどいと思う。当たり前を当たり前と捉えている方が、生きる上では楽そう。しかし、このエッセイによれば、日常を当たり前と見なすのは錯覚で、「世界に対する不遜な態度」でしかない――。
他方、宮野先生は以前、カップルがダメになる例として、何度も記念日を作るケースを挙げていた。記念日を作ることで、日常を特別なものに仕立て上げる。二人の関係を特別なものとして作り直す。しかし、それは「劇薬」で、記念日を作ること自体が日常になってしまい、特別さがなくなってしまう。非日常の旅行へ行くのも同じ。では、「サラダ記念日」もダメ? いや、案外「サラダ記念日」は良い……?
結局、宮野先生が一番大事にしたいのは、日常。旅をして、この日常の非日常さ、大切さをちゃんと噛みしめる。一日一日を大切にできないからこそ、旅に出る。非日常に逃げるのではなく、日常を日常として生きるために、旅をする。
この考え方ならば、クレーム問題は起こらない? 自分は客、相手は店員、という区別が固定されず、他者に感情移入できるようになる。「自分がこんな形で生きていることの不思議」は、他者が生きていることの不思議、他者が生きていたことの不思議にもつながる。自分の偶然性と、他者の偶然性。たまたま私は私だけれど、私もあの人だったかもしれない。偶然性同士が響き合う。
あるいは、このエッセイには他者との関係の話がなく、自分が生きていることへの問いが中心? 宮野先生が「出会い」というキーワードにこだわり始めるのは、このエッセイの後? しかし、私が成り立っているのは、周りからの影響による。周りが違っていたら、今の私の考え方なども違っていたはず。日常が成立していることの背景に、他者や出会いがすでに含まれているのではないか。
日常と非日常の具体例を挙げてみると、見えてくるものがあるかもしれない。肺で酸素を取りこむのが日常で、隕石が降ってくるのが非日常? しかし一旦起こってしまったら、何でも日常?
日常を作らずに生きることはできるか。ずっと嘘をついたり、他人を演じたりしても、続けている内に、それも日常になってしまうはず。その場所や人間関係に慣れる前、常に一週間以内に転居し続けて、人生を裁断し続ける?
生きている限り、「当たり前」という重力からは逃げられない。逃げられないからこそ、逃げられないことを忘れないように、思い出すために旅をする。一種の「思考実験」としての旅。だから実は、旅をしなくても良い。このエッセイには、旅をしないで旅をする方法が書かれている――。
この世界の当たり前が当たり前じゃない、というのは、怖いことでもある。他のことをしていたら、自分はこうではなかったかもしれない。自分はこうだ、という当たり前が崩される怖さ。同様に、他人も揺らぐ。自分も不安定で、寂しい。
そのような寂しさに抗うためなのか、恋愛の物語は、偶然の出会いを必然性の物語で覆う。出会うべくして出会った、と考えることで、偶然性の不安に蓋をする。しかし、そのような物語に逃げず偶然性に向き合う、というのが宮野先生の求めていることで、かなり要求が高い……。
確かに普段の生活では、偶然性が軽視されている。でも、もしかしたら、自分はここにいなかったかもしれない。偶然知り合って友人になったが、友人ではなかったかもしれない。偶然性を重視することで、必然ではないのにこうなっている、ということの貴さが感じられるようになる。
ところで、この偶然性は、他の可能性もある、という意味での偶然性なのか。むしろ、この現実をどう引き受けるか、という問いが重要なのだろう。私は他の可能性(こうではない私、という可能性)に支えられているが、でも、私は「この私」でしかない。「この私」という現実を引き受けて、他の可能性に逃げ道を残さない。他の可能性は、この現実と同列に置かれているわけではない――。
その他、メイド・カフェの非日常、洗脳のために作り出される非日常、バイト中に役割を演じていて「何をやってるんだろう?」と思う瞬間のこと、旅嫌いのドゥルーズ、旅としての読書、偶然・必然・運命、「今の人生に満足している人は他の人生を想像するのか」という問いなど、話題は様々。
特に結論も出ず、結論を出そうともしないまま、約2時間が経過。終了の際に交わされたのは、次のような会話でした。「何か、宮野先生、これ聞いたら喜びそう」「違う、とか言うかもしれない。全然理解してない、とか」「言ってそう(笑)」。
この「LC哲学カフェ」は、2014年9月、三浦隆宏先生をお招きして開催した映画上映会をきっかけに、不定期の課外イベントとして始まりました。取り上げる作品やテーマは、ほとんどの場合、宮野さんと相談して二人で決めていたので、私一人でテーマなどを決めたのは、ともすれば、今回が初めてだったかもしれません。
久しぶりに哲学カフェを、と思いついたときには、漠然と「これが最後の哲学カフェになるかもしれない」と考えていたのですが、続ける、と決めました。
以前のように毎月開催、とはいかないまでも、今後も場当たり的に、色々と仕掛けてみるつもりです。ちょっと面白そうな、新しい企画も思いついたので、できれば、とりあえず夏休み中に一回。詳細が決まり次第、このブログ上で告知しますので、興味のある方はぜひ気軽にご参加下さい。
※上記2枚の写真の内、1枚目は今回の哲学カフェの模様。2枚目は、2016年12月5日に開催された「「君の名は。」で哲学する、再び」の模様です。
参加者は、学生さんや卒業生など(他大学の院生1名も参加してくれました)が約15名に、教員が2名。
冒頭、まず小笠原がこのエッセイの内容について簡単に紹介、解説。このエッセイは「旅が好きです」という一文から始まるのですが、この「旅」は、どうやら「観光」とは違うらしい。「旅、と言っても、別に観光をしに行くわけではありません」。「その旅は非日常であってはなりません」。非日常を求めるのではなく、地元の喫茶店や飲み屋さんで「自分の知らない土地で営まれている生活」の空気に包まれて、コーヒーを飲んだり、お酒を飲んだりする。「そんなふうに、知らない日常を生きてみる」。
「そういうとき、たとえば、尾道のアイスコーヒーが美味しい喫茶店でアイスコーヒーとワッフルという定番の朝ごはんを食べているときや、梁が真っ黒にいぶされている金沢の居酒屋さんのカウンターでおでんをアテに熱燗を飲んでいるときや、海に近い白浜のパブで温泉あがりのほてった体をモスコミュールで冷やしているときに、ふと、「福岡にいる私はいったい誰なんだろう」と思います。もしくは、「あそこにいるのは、本当に私なんだろうか」と。さっきも言ったように、私は知らない土地の日常に入り込むように旅をしますから、圧倒的な異質さを感じつつも、はっと気付いたとき、自分もまたその別の日常のなかに入っているわけで、そのときには、今度、今までの日常が非日常の様相を帯びて、現れてくるのです。この、日常と非日常がくるっと反転し、自分の立っている場所がわからなくなる瞬間が、私はとても好きです。」
「街の中をさまよい歩き、どこかのカウンターに腰を落ち着けたその瞬間、私の日常は反転し、「当たり前の日々」に隠れていた可能性が一気に姿を表わして、私の足元を揺るがせます。そのふわふわとした感覚のなか飲むお酒ほど楽しいものはありません。気がつけば、お店の人や常連さんと当たり前のように笑いながら話していて、そんなときにふと、もし、この土地に生まれていたら、どんな人生だったんだろうという思いがよぎり、福岡の日常は吹っ飛んでしまうのです。そうなれば、私の旅は大成功です。」
旅先の日常に入りこむことで、福岡の日常が非日常に転じる。世界の偶然性に気づき、自分に開かれている可能性を見る。「当たり前の日々」と感じていた福岡の日常は、決して当たり前の日々ではない。
「そして、旅から帰ると、私はいつもごく普通の和食を作ります。だし巻き卵に焼き魚にお浸しと納豆、丁寧にひいた出汁でお味噌汁を作り、炊きたての白いご飯を食べる。そうやって、今、自分がこの生活を送っていることを、ここに日常があることを確認します。そうやって、日常はけっして、当たり前の日々ではないと、自分がこんな形で生きていることの不思議をかみしめるのでした。」
さて、ここからどのような問題が設定できるか、という問いかけから、全体の議論がスタート。「……宇宙、とか」「宇宙……?」。宇宙人たちの日常の中に居たとしても、宮野先生は、エッセイで書かれているのと同じような感覚を持つのかどうか。例えば、火星人たちの生活には溶けこめないはず。いや、宮野先生なら案外、火星人にもなじめる……?
そもそも日常とは何か。なぜ非日常を求めて、某テーマパークへ行くのか。日常では味わえない楽しさを求めて? しかし、仮にテーマパークで暮らしたとしたら、そこが日常になる。テーマパークに通って本を読む、というアイドルもいる。日常はどこまでが日常なのか。旅行などで「憧れ」を一時的に達成するとき、そこに非日常を感じる?
大学へ入学したとき、最初は非日常だったはず。その生活が、いつ日常になったのか。慣れてきて、新しい刺激が少なくなり、非日常が日常になる。当たり前になっていく。しかしこのエッセイには、日常が当たり前になってはダメ、とも書かれている……。
開始から約30分が経過した時点でエッセイの全文を輪読し、その後、再び議論を続行。
宮野先生にとっての日常とは何か。旅から帰ると、普通の和食を食べる。普通の和食を食べているけれど、当たり前の日々ではない。当たり前のものが、当たり前じゃない。たまたま日本で生まれて日本で過ごしているから、和食。イタリア人に生まれていたら、イタリア料理を食べるのが日常だったはず。
でも、当たり前を当たり前じゃない、と常に意識し続けるのは、しんどいと思う。当たり前を当たり前と捉えている方が、生きる上では楽そう。しかし、このエッセイによれば、日常を当たり前と見なすのは錯覚で、「世界に対する不遜な態度」でしかない――。
他方、宮野先生は以前、カップルがダメになる例として、何度も記念日を作るケースを挙げていた。記念日を作ることで、日常を特別なものに仕立て上げる。二人の関係を特別なものとして作り直す。しかし、それは「劇薬」で、記念日を作ること自体が日常になってしまい、特別さがなくなってしまう。非日常の旅行へ行くのも同じ。では、「サラダ記念日」もダメ? いや、案外「サラダ記念日」は良い……?
結局、宮野先生が一番大事にしたいのは、日常。旅をして、この日常の非日常さ、大切さをちゃんと噛みしめる。一日一日を大切にできないからこそ、旅に出る。非日常に逃げるのではなく、日常を日常として生きるために、旅をする。
この考え方ならば、クレーム問題は起こらない? 自分は客、相手は店員、という区別が固定されず、他者に感情移入できるようになる。「自分がこんな形で生きていることの不思議」は、他者が生きていることの不思議、他者が生きていたことの不思議にもつながる。自分の偶然性と、他者の偶然性。たまたま私は私だけれど、私もあの人だったかもしれない。偶然性同士が響き合う。
あるいは、このエッセイには他者との関係の話がなく、自分が生きていることへの問いが中心? 宮野先生が「出会い」というキーワードにこだわり始めるのは、このエッセイの後? しかし、私が成り立っているのは、周りからの影響による。周りが違っていたら、今の私の考え方なども違っていたはず。日常が成立していることの背景に、他者や出会いがすでに含まれているのではないか。
日常と非日常の具体例を挙げてみると、見えてくるものがあるかもしれない。肺で酸素を取りこむのが日常で、隕石が降ってくるのが非日常? しかし一旦起こってしまったら、何でも日常?
日常を作らずに生きることはできるか。ずっと嘘をついたり、他人を演じたりしても、続けている内に、それも日常になってしまうはず。その場所や人間関係に慣れる前、常に一週間以内に転居し続けて、人生を裁断し続ける?
生きている限り、「当たり前」という重力からは逃げられない。逃げられないからこそ、逃げられないことを忘れないように、思い出すために旅をする。一種の「思考実験」としての旅。だから実は、旅をしなくても良い。このエッセイには、旅をしないで旅をする方法が書かれている――。
この世界の当たり前が当たり前じゃない、というのは、怖いことでもある。他のことをしていたら、自分はこうではなかったかもしれない。自分はこうだ、という当たり前が崩される怖さ。同様に、他人も揺らぐ。自分も不安定で、寂しい。
そのような寂しさに抗うためなのか、恋愛の物語は、偶然の出会いを必然性の物語で覆う。出会うべくして出会った、と考えることで、偶然性の不安に蓋をする。しかし、そのような物語に逃げず偶然性に向き合う、というのが宮野先生の求めていることで、かなり要求が高い……。
確かに普段の生活では、偶然性が軽視されている。でも、もしかしたら、自分はここにいなかったかもしれない。偶然知り合って友人になったが、友人ではなかったかもしれない。偶然性を重視することで、必然ではないのにこうなっている、ということの貴さが感じられるようになる。
ところで、この偶然性は、他の可能性もある、という意味での偶然性なのか。むしろ、この現実をどう引き受けるか、という問いが重要なのだろう。私は他の可能性(こうではない私、という可能性)に支えられているが、でも、私は「この私」でしかない。「この私」という現実を引き受けて、他の可能性に逃げ道を残さない。他の可能性は、この現実と同列に置かれているわけではない――。
その他、メイド・カフェの非日常、洗脳のために作り出される非日常、バイト中に役割を演じていて「何をやってるんだろう?」と思う瞬間のこと、旅嫌いのドゥルーズ、旅としての読書、偶然・必然・運命、「今の人生に満足している人は他の人生を想像するのか」という問いなど、話題は様々。
特に結論も出ず、結論を出そうともしないまま、約2時間が経過。終了の際に交わされたのは、次のような会話でした。「何か、宮野先生、これ聞いたら喜びそう」「違う、とか言うかもしれない。全然理解してない、とか」「言ってそう(笑)」。
この「LC哲学カフェ」は、2014年9月、三浦隆宏先生をお招きして開催した映画上映会をきっかけに、不定期の課外イベントとして始まりました。取り上げる作品やテーマは、ほとんどの場合、宮野さんと相談して二人で決めていたので、私一人でテーマなどを決めたのは、ともすれば、今回が初めてだったかもしれません。
久しぶりに哲学カフェを、と思いついたときには、漠然と「これが最後の哲学カフェになるかもしれない」と考えていたのですが、続ける、と決めました。
以前のように毎月開催、とはいかないまでも、今後も場当たり的に、色々と仕掛けてみるつもりです。ちょっと面白そうな、新しい企画も思いついたので、できれば、とりあえず夏休み中に一回。詳細が決まり次第、このブログ上で告知しますので、興味のある方はぜひ気軽にご参加下さい。
※上記2枚の写真の内、1枚目は今回の哲学カフェの模様。2枚目は、2016年12月5日に開催された「「君の名は。」で哲学する、再び」の模様です。
2019年7月27日土曜日
LC哲学カフェ開催のお知らせ
【LC哲学カフェ】
旅行と日常を哲学する
日時 8月1日(木)18:00-20:00
場所 A803教室 ※当初は24Jの予定でしたが、教室を変更しました
定期試験最終日、試験終了後の夕方です。いつもより30分、時間を長く設定してみました。
今まではマンガ作品などを多く扱ってきましたが、今回は下記のエッセイ(当日、コピーを配布する予定)を手がかりに、議論をスタートさせてみたいと思います。
宮野真生子「旅と日常と偶然性」、『福岡大学人文学部 文化学科ジャーナル』所収、2010年11月
冒頭、小笠原がこのエッセイの内容について少し話し、その後は自由に、全体で議論を。
事前の登録などは不要。発言を強制されることはありませんし、途中入室、途中退室も自由。他学科、他学部の学生さんはもちろん、卒業生や学外の方々も歓迎します。興味のある人は誰でも、ぜひ当日、気軽にA803教室をのぞいてみて下さい。
参考までに、このエッセイの一部を以下に引用しておきます。
「なぜ、私はこの世に、このような形で生まれ落ちたのか。そんな問いに対して私たちは絶対的な正解を出すことはできません。さらにいえば、この世界それ自体があるということの理由に対しても。九鬼が生涯見つめ続けたのは、まさにこのような無根拠さ――「私」という存在の偶然性、世界の原始偶然――でした。そんな彼からすれば、「私」という存在も、そして「私」が営む「生活」もまた偶然性にゆらぐものでしかなかったはずです。なのに、人は「私」をたしかなものと信じ、「日常」を「当たり前」と錯覚してしまう。それは錯覚にすぎず、九鬼には、世界に対する不遜な態度と映ったはずです。世界はいつも偶然に動き、人はあらゆる可能性に対して開かれている。その不安定な動性こそ、彼が見つめ、愛したものでした。」
「そもそもLC哲学カフェって何?」という方は、次の記事をご参照下さい。
LC哲学カフェって何?
過去の活動記録は次の通り。
2014年9月27日 『ハンナ・アーレント』でかたらんと?
2014年10月31日 ペンギンは白と黒なのがかわいい?――『よつばと!』で哲学する
2014年11月26日 どの石がボクを好き?――『ぼのぼの』で哲学する
2014年12月10日 それは数字の8? それともちっちゃな雪だるま?――スヌーピーと哲学する
2015年1月7日 好きになるってどんなこと?――『ハチミツとクローバー』から考える
2015年3月30日 ニセモノの自分、ホンモノの自分?――『彼氏彼女の事情』で哲学する
2015年4月15日 紙の本を読みなよ――ビブリオバトルで決める大学生必読のマンガ
2015年4月28日 まあっもったいない?――『ミノタウロスの皿』で哲学する
2015年5月23日 私はあの時どんな顔をすればよかったのだろう――『空が灰色だから』で哲学する
2015年6月27日 平等な審査をお願いします?――『聲の形』で哲学する
2015年7月11日 あなたがこの10名のリーダーだとしたら?――『沈黙の艦隊』で哲学する
2015年11月4日 人間であるために最低限必要な部品?――『攻殻機動隊』で哲学する
2015年12月9日 忘れられるって死んでるのと同じ?――『ヘルタースケルター』で哲学する
2016年1月6日 一緒に帰った子は友達?――『ニトロちゃん』で哲学する
2016年9月26日 最も幸せな人生とはどのようなものか?
2016年11月15日 「君の名は。」で哲学する
2016年12月5日 「君の名は。」で哲学する、再び(※告知記事のみ、報告記事無し)
2017年5月8日 友情をめぐるビブリオバトル
2017年6月12日 愛情の搾取?――『逃げ恥』から考える家族
2017年7月10日 娘よ、ギリシアのためにおまえを生贄に?――ギリシア神話で哲学する
2017年9月27日 なぜこのマンガは怖いのか?――ホラーを哲学する
2018年12月26日水曜日
第7回 LCアーベントが開催されました
12月17日月曜日の夕方、第7回目のLCアーベントが開催されました。
今回の発表者は私(哲学・宗教学)で、タイトルは「物語られる生の諸相――生命倫理・神話・映画」。参加者は学生さんが5名程度に、教員2名。
まずは前半、J・レイチェルズの生命倫理・医療倫理の議論を踏まえて、生物学的な生命と区別される「物語られる生」という概念を導入(私の恩師は「物語られるいのち」という言葉を使っています)。さらに、自分が自分の生について物語る場合(物語られる生①)、他者がその生について生物学的生命の範囲内で物語る場合(物語られる生②)、他者がその生について生物学的生命の範囲を超えて物語る場合(物語られる生③)を区別。生物学的生命が続いていても「人生」はすでに終わっていると見なされるケースや、逆に生物学的生命が終わっていても「人生」は未だ続いていると見なされるケースなどについて、少し検討してみました。
その後、話は一挙に神話の世界へ。『ギルガメシュ叙事詩』を中心に、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』とも比較しながら、生物学的生命を賭して死後の名声(物語られる生③)を求めるような「英雄的人生観」、生物学的生命の永続を求める「死の恐怖と永生希求」、名声や生物学的生命の永続を求めず、生物学的生命の範囲内で楽しもうとする「現世享楽主義」、という三つの人生観について検討(これら三つの区別は、月本昭男氏の整理に依拠)。
最後に、少しだけ映画について。「ライフ・イズ・ビューティフル」や「ビッグ・フィッシュ」などの作品を参照しながら、「物語られる生」という捉え方の射程、可能性について付言し、とりとめのない発表が終了。
質疑応答では、生命倫理と宗教学との関連、死後の「神格化」の問題、英雄的人生観と現世享楽主義は両立するのではないか、キリスト教的な「永遠の命」の意味、脳死・臓器移植の問題などが問われ、議論が交わされました。
※なお、質疑応答の際、「スピリチュアル・ペイン」や「スピリチュアル・ケア」などの言葉を、宗教的な信仰に関わる痛みやそのケア、という意味で使ってしまいましたが、これらの言葉は狭い意味での「宗教」だけではなく、人生の意味に関する苦痛など、より広い意味でも使われます(「宗教的ケア」と「スピリチュアル・ケア」を明確に区別する立場もあります)。訂正してお詫びを。
「ギルガメシュよ、自分の腹を満たすがよい」という『叙事詩』の言葉に従い、終了後は近所の某居酒屋へ。先程の発表はどこへやら、ハリウッドのアクション映画やB級映画の話で盛り上がってしまいましたが、それもまた一興……。
さて、四月からスタートしたLCアーベントですが、一月以降の開催はスケジュール的に難しいため、今年度は以上で終了。来年度の予定は全くの白紙ではあるものの、異なる分野の教員が集まって議論する機会は、ぜひどこかで設けたい、と考えています。
完全な「見切り発車」で慌ただしく始めた研究会でしたが、多くの方々のご協力を得て、何とか計7回、開催することができました。ご参加いただいた皆さま、開催にご協力いただいた皆さま、本当にありがとうございました。
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2018年12月12日水曜日
第6回 LCアーベントが開催されました
11月20日火曜日の夕方、第6回目のLCアーベントが開催されました。
今回の提題者は、芸術学・美術史がご専門の落合桃子先生。「近代ドイツにおけるマルティン・ルターのイメージ」というタイトルで、ご発表いただきました。
ルター(1483年から1546年)の生涯に関する説明の後で、生前に描かれたルターの肖像画の話からスタート。ルターの肖像画は八つに分類できて、すなわち、①修道士としてのルター、②博士帽を被ったルター、③騎士ヨルクとしてのルター(カトリック教会からの破門後、ルターはヴァルトブルク城で「騎士ヨルク」としてかくまわれた)、④夫としてのルター、⑤説教師としてのルター、⑥大学教授としてのルター、⑦牧師としてのルター、⑧臨終のルター。同じルターでも、帽子を被っていたり被っていなかったり、着ている服が違ったり、様々。
ルターの死から約250年を飛び越え、いよいよ舞台は19世紀のドイツへ。この時期、ルターが改めて注目され、記念碑が建立されることに。複数の案の中から選ばれて、1821年、ヴィッテンベルクに建てられたのが、ヨーハン・ゴットフリート・シャドウによる「マルティン・ルター博士記念碑」。この彫像が後のルターのイメージを決定づけた、と考えられる。
他にも19世紀ドイツでは、銅版画や壁画として、ルターの生涯が絵画化された。ヨーハン・エルドマン・フンメルの銅版画集『マルティン・ルター博士礼賛』(1807年)や、ヴァルトブルク城「宗教改革の部屋」の壁画(1872年から1882年)、等々。
また、ドイツでのナショナリズムの盛り上がりに伴い、政治的な文脈の中で、ルターは歴史上の偉人、宗教改革者として重要視されるようにもなる。例えば、古代にローマ軍を撃退した英雄ヘルマン(=アルミニウス)と、ローマ教皇庁と戦ったルターが対比される。さらに20世紀前半、ナチスが台頭する中で、「ヒトラーの戦いとルターの教えがドイツ民族を守るのだ」というポスターも作られ(1933年)、ナチスのシンボルと共にルターが描かれたりもする――。
以上のように、近代ドイツでルターのイメージが再生産され、強化されていくプロセスについて、豊富な絵画資料などが示されながら、話は進みました。途中、落合先生ご所蔵の銅版画集が置かれた机を皆で囲み、一枚一枚の絵をじっくりと鑑賞する場面も。
ご発表後の質疑応答では、ルターの表情の描き方や、帽子や服の意味に関する質問、なぜ1821年の銅像のイメージが長く維持されているのか、等々の質問が出て、議論が交わされました。研究会の終了後、教室から出て歩いている最中も、なかなか話は尽きなかった模様。
私個人は、キリスト教の思想について勉強する過程で、ルターの著作を以前から読んではいたものの、ルターの絵画的なイメージについて考えることは全く怠っており、今回、多様な描かれ方の実例にはじめて触れることができて、色々と刺激を受けました。特に上記④のタイプの、家族と一緒にいるようなルターについては、あまりイメージしてみたことがなかった、と気づかされ、反省すること頻り。
残念ながら参加者は少なく、5名程度。幾つかの専門科目などと時間割が重なってしまってもいたようで、この点も反省中……。日程の決め方など、今後、工夫していきたいと思いますので、何か要望があれば、ぜひお聞かせ下さい。
さて、次回は来週月曜、17日の夕方の開催。
第6回・第7回 LCアーベント開催のお知らせ
私が発表者のはずですが、このブログ記事を書いている現時点で、準備は半分、あるいは三分の一程度。しかし、発表者の準備が終わろうが終わるまいが、非情にも、この会は予定通りに開催されます。
すっかり寒くなった師走の夕方、何か、温かい飲み物でも片手に、ぜひ月曜日、LCアーベントへ。
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2018年11月17日土曜日
第4回 LCシネマ文化学が開催されました
11月15日木曜日の夜、第4回目のLCシネマ文化学が開催されました。参加者は学生さんが10名、教員が1名。天神北のKBCシネマで、下記のドキュメンタリ映画を鑑賞。
華氏119(外部サイト)
「ボウリング・フォー・コロンバイン」などの作品で有名な、マイケル・ムーア監督の新作。宣伝ではトランプ大統領が前面に押し出されていましたが、むしろこの作品で中心的に描かれているのは、トランプ大統領が誕生する背景としての、アメリカの現状。特に、監督の故郷であるミシガン州フリントの水道水汚染の問題などに、多くの時間が割かれていました。
映画の鑑賞後、すでに夜も遅かったため、学科の行事としてはその時点で解散。残った面々で某パブへ移動し、夕食をとりつつ、今観たばかりの映画を巡ってトーク。映画と同様、必ずしもトランプ個人は話題の中心にならず、トランプに投票した人々のこと、いわゆる「排外主義」の問題、ヘイトスピーチの問題、そして日本のこと、等々が話し合われました。途中、そもそもドキュメンタリ作品で描かれていることは「(客観的な)事実」なのか、という問いも。
今まで関心のなかった事柄について、この映画を観て少しでも興味を覚えてもらえたならば、教員としては満足。この作品をきっかけに、さらに他のドキュメンタリ作品も観てもらえれば、と、夢想したりもしています。
さて、この映画企画ですが、せめて今年度、後一回は開催したいところ。当面の候補作は、すでに公開中の下記。
パウロ 愛と赦しの物語(外部サイト)
参加希望者は随時、募集中。どうか気軽に、小笠原までご連絡下さい。
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2018年11月10日土曜日
第6回・第7回 LCアーベント開催のお知らせ
第6回目、及び第7回目のLCアーベントの詳細が、下記の通り決定しました。
【LCアーベント】
日時 11月20日(火)16:30-18:00
場所 A702教室
提題者 落合桃子 先生(芸術学・美術史)
題目 近代ドイツにおけるマルティン・ルターのイメージ
【LCアーベント】
日時 12月17日(月)16:30-18:00
場所 A604教室
提題者 小笠原史樹 先生(哲学・宗教学)
題目 物語られる生の諸相――生命倫理・神話・映画(仮)
11月は火曜の夕方、12月は月曜の夕方の開催です。教室も異なりますので、ご注意下さい。
事前の登録などは不要です。お誘い合わせの上、ぜひ気軽にご参加を。
なお、小笠原の発表には、下記の作品に関する「ネタバレ」が含まれる可能性があります。予めご了承下さい。(ちなみに「ワンダフルライフ」以外は、図書館のDVDコーナーで視聴可能。)
「ライフ・イズ・ビューティフル」(ロベルト・ベニーニ監督、1997年)
「ワンダフルライフ」(是枝裕和監督、1998年)
「ビッグ・フィッシュ」(ティム・バートン監督、2003年)
「ミリオンダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド監督、2004年)
【LCアーベント】
日時 11月20日(火)16:30-18:00
場所 A702教室
提題者 落合桃子 先生(芸術学・美術史)
題目 近代ドイツにおけるマルティン・ルターのイメージ
【LCアーベント】
日時 12月17日(月)16:30-18:00
場所 A604教室
提題者 小笠原史樹 先生(哲学・宗教学)
題目 物語られる生の諸相――生命倫理・神話・映画(仮)
11月は火曜の夕方、12月は月曜の夕方の開催です。教室も異なりますので、ご注意下さい。
事前の登録などは不要です。お誘い合わせの上、ぜひ気軽にご参加を。
なお、小笠原の発表には、下記の作品に関する「ネタバレ」が含まれる可能性があります。予めご了承下さい。(ちなみに「ワンダフルライフ」以外は、図書館のDVDコーナーで視聴可能。)
「ライフ・イズ・ビューティフル」(ロベルト・ベニーニ監督、1997年)
「ワンダフルライフ」(是枝裕和監督、1998年)
「ビッグ・フィッシュ」(ティム・バートン監督、2003年)
「ミリオンダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド監督、2004年)
第5回 LCアーベントが開催されました
10月29日月曜日の夕方、第5回目のLCアーベントが開催されました。参加者は学生さんと教員を合わせて約10名。
今回の提題者は、地理学がご専門の藤村健一先生。タイトルは「世界遺産候補「百舌鳥・古市古墳群」の天皇陵の意味をめぐる葛藤――聖域か、文化財か、観光地か?」。
ご提題の中には未発表の調査データなどが含まれているため、細部について詳述することは避けますが、主な内容は、この古墳群に対する様々な意味づけ(①聖域、②観光地・観光資源、③文化財、④地域のシンボル)の整理や分析、そのような意味づけを行っている人々に関する調査の報告、それらの意味づけの間で生じる摩擦やその要因に関する検討、等々。多くの具体的な事例に基づく明晰なお話は、門外漢の私にもわかりやすくて引きこまれました。
後半の質疑応答では途切れることなく手が上がり、終了時間まで活発な議論が交わされたのはもちろん、終了後、某居酒屋への道程でも議論が続いたりしました。宗教研究の方法論に関する他分野からの問題提起などもあり、文化学科ならではの生産的な研究会だったように思います。私個人は、「聖域をして聖域たらしめる本質とは何か」という問いに心を奪われる一方で、哲学者や神学者の書いた本を読むだけで「宗教」にアプローチすることの限界を改めて痛感させられる、そんな夕べでした。
さて、今後のLCアーベントですが、年内に二回、開催する予定。詳細については、このブログ上の告知記事をご参照下さい。
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2018年10月13日土曜日
第4回・第5回 LCシネマ文化学開催のお知らせ
11月、課外活動の「LCシネマ文化学」を二回、開催する予定です。観にいく予定の作品は、下記の二つ。
「華氏119」(マイケル・ムーア監督のドキュメンタリ)
https://gaga.ne.jp/kashi119/ (外部サイト)
「パウロ ~愛と赦しの物語~」(使徒パウロを題材にしたクリスチャン映画)
http://www.paul-love.jp/ (外部サイト)
今までと同様、具体的な日程などについてはメール等で連絡・相談します。
新しくこの企画に参加してみたい、という学生さんは各自、小笠原までメールでご連絡下さい。メールの件名の冒頭には「【LCシネマ文化学】」と記し、本文には必ず学籍番号と氏名を明記。メールを送ったからといって絶対に参加しなければならないわけではありませんので、ぜひ気軽に連絡を。
「華氏119」(マイケル・ムーア監督のドキュメンタリ)
https://gaga.ne.jp/kashi119/ (外部サイト)
「パウロ ~愛と赦しの物語~」(使徒パウロを題材にしたクリスチャン映画)
http://www.paul-love.jp/ (外部サイト)
今までと同様、具体的な日程などについてはメール等で連絡・相談します。
新しくこの企画に参加してみたい、という学生さんは各自、小笠原までメールでご連絡下さい。メールの件名の冒頭には「【LCシネマ文化学】」と記し、本文には必ず学籍番号と氏名を明記。メールを送ったからといって絶対に参加しなければならないわけではありませんので、ぜひ気軽に連絡を。
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2018年10月2日火曜日
第5回 LCアーベント開催のお知らせ
第5回目のLCアーベントの詳細が、下記の通り決定しましたので、お知らせいたします。
【LCアーベント】
日時 10月29日(月)16:30-18:00
場所 A608教室
提題者 藤村健一 先生(地理学)
題目 世界遺産候補「百舌鳥・古市古墳群」の天皇陵の意味をめぐる葛藤――聖域か、文化財か、観光地か?
第6回目は11月、第7回目は12月に開催の予定ですが、詳細については検討中。
参加に際して、事前の登録などは不要です。お誘い合わせの上、ぜひ気軽にご参加下さい。
【LCアーベント】
日時 10月29日(月)16:30-18:00
場所 A608教室
提題者 藤村健一 先生(地理学)
題目 世界遺産候補「百舌鳥・古市古墳群」の天皇陵の意味をめぐる葛藤――聖域か、文化財か、観光地か?
第6回目は11月、第7回目は12月に開催の予定ですが、詳細については検討中。
参加に際して、事前の登録などは不要です。お誘い合わせの上、ぜひ気軽にご参加下さい。
2018年9月4日火曜日
第2回・第3回 LCシネマ文化学が開催されました
先の記事と同様、すっかり報告が遅くなってしまいましたが、第2回目と第3回目のLCシネマ文化学が開催されました。
第2回目は6月16日土曜日。参加者は学生さんが8名に教員1名。中洲の大洋映画劇場で下記を鑑賞しました。
マクベス(英国ロイヤル・オペラ・ハウス)(外部サイト)
シェイクスピアの戯曲を原作とする、ヴェルディ作曲のオペラ。録画ではあるものの、オペラを観るのは初めて、という参加者がほとんどの中、独特の荘厳な雰囲気を堪能。ただし、やはり幾らかハードルは高かったようで、午前10時から休憩を挟んで午後1時半頃までの長丁場、しばしば襲いかかる眠気に必死で抗ったり、時に屈してみたり……。
終了後は某喫茶店で昼食をとりつつ、映画に関連してトーク。マクベス夫人の心理描写や魔女たちの描かれ方、予言はなぜ成就したのか、原作『マクベス』との違いなどに関する話の他、オペラという形式の特徴、演劇とオペラの違い、芸術が持っている「退屈さ」、等々が話題となりました。
第3回目は8月6日月曜日の午前。参加者は学生さんが5名に教員1名。天神北のKBCシネマで、下記のドキュメンタリを鑑賞。
ゲッペルスと私(外部サイト)
作品は、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの元秘書、ブルンヒルデ・ポムゼルのインタビュー映像を中心に、その合間に当時の様々な映像資料が挿入される、という構成。原題は“A German Life”。この作品に関する事前の宣伝などから、悪や罪の問題に関する激論が交わされるのかと思いきや、ポムゼルの語りはどこまでも淡々としており、また内容的にも、必ずしもナチスの話がメインではない、と感じられました。
終了後の某喫茶店でのトークでも、ある種の「拍子抜け」で意見が一致。「『ゲッペルスと私』ではなく『私』というタイトルの方が適切」などの感想も聞かれつつ、歴史的な出来事に深く関わったはずの彼女の発言が、にもかかわらず個人的なものであることの「問題」などを検討。その他、100歳を越えたポムゼルの顔のアップを多用する映像表現や、ドキュメンタリという表現の特徴について。
第1回目の作品が通常の「物語」だったのに対し、第2回目はオペラ、第3回目はドキュメンタリで、あまり馴染みのない形式に戸惑う部分も多かったかもしれませんが、それはそれで貴重な経験。ただし、このままではどんどん参加人数が減っていく一方、という恐れもあるため、次回はより一般的な作品を……?
長い夏休みも終わり、来週末からは後期がスタート。LCシネマ文化学も再開する予定です。参加希望者は随時募集中ですので、小笠原までメールでご連絡下さい。
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課外活動「シネマ文化学」開催のお知らせ
第1回 LCシネマ文化学が開催されました
第2回目は6月16日土曜日。参加者は学生さんが8名に教員1名。中洲の大洋映画劇場で下記を鑑賞しました。
マクベス(英国ロイヤル・オペラ・ハウス)(外部サイト)
シェイクスピアの戯曲を原作とする、ヴェルディ作曲のオペラ。録画ではあるものの、オペラを観るのは初めて、という参加者がほとんどの中、独特の荘厳な雰囲気を堪能。ただし、やはり幾らかハードルは高かったようで、午前10時から休憩を挟んで午後1時半頃までの長丁場、しばしば襲いかかる眠気に必死で抗ったり、時に屈してみたり……。
終了後は某喫茶店で昼食をとりつつ、映画に関連してトーク。マクベス夫人の心理描写や魔女たちの描かれ方、予言はなぜ成就したのか、原作『マクベス』との違いなどに関する話の他、オペラという形式の特徴、演劇とオペラの違い、芸術が持っている「退屈さ」、等々が話題となりました。
第3回目は8月6日月曜日の午前。参加者は学生さんが5名に教員1名。天神北のKBCシネマで、下記のドキュメンタリを鑑賞。
ゲッペルスと私(外部サイト)
作品は、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの元秘書、ブルンヒルデ・ポムゼルのインタビュー映像を中心に、その合間に当時の様々な映像資料が挿入される、という構成。原題は“A German Life”。この作品に関する事前の宣伝などから、悪や罪の問題に関する激論が交わされるのかと思いきや、ポムゼルの語りはどこまでも淡々としており、また内容的にも、必ずしもナチスの話がメインではない、と感じられました。
終了後の某喫茶店でのトークでも、ある種の「拍子抜け」で意見が一致。「『ゲッペルスと私』ではなく『私』というタイトルの方が適切」などの感想も聞かれつつ、歴史的な出来事に深く関わったはずの彼女の発言が、にもかかわらず個人的なものであることの「問題」などを検討。その他、100歳を越えたポムゼルの顔のアップを多用する映像表現や、ドキュメンタリという表現の特徴について。
第1回目の作品が通常の「物語」だったのに対し、第2回目はオペラ、第3回目はドキュメンタリで、あまり馴染みのない形式に戸惑う部分も多かったかもしれませんが、それはそれで貴重な経験。ただし、このままではどんどん参加人数が減っていく一方、という恐れもあるため、次回はより一般的な作品を……?
長い夏休みも終わり、来週末からは後期がスタート。LCシネマ文化学も再開する予定です。参加希望者は随時募集中ですので、小笠原までメールでご連絡下さい。
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