2018年12月26日水曜日

第7回 LCアーベントが開催されました


12月17日月曜日の夕方、第7回目のLCアーベントが開催されました。

今回の発表者は私(哲学・宗教学)で、タイトルは「物語られる生の諸相――生命倫理・神話・映画」。参加者は学生さんが5名程度に、教員2名。

まずは前半、J・レイチェルズの生命倫理・医療倫理の議論を踏まえて、生物学的な生命と区別される「物語られる生」という概念を導入(私の恩師は「物語られるいのち」という言葉を使っています)。さらに、自分が自分の生について物語る場合(物語られる生①)、他者がその生について生物学的生命の範囲内で物語る場合(物語られる生②)、他者がその生について生物学的生命の範囲を超えて物語る場合(物語られる生③)を区別。生物学的生命が続いていても「人生」はすでに終わっていると見なされるケースや、逆に生物学的生命が終わっていても「人生」は未だ続いていると見なされるケースなどについて、少し検討してみました。

その後、話は一挙に神話の世界へ。『ギルガメシュ叙事詩』を中心に、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』とも比較しながら、生物学的生命を賭して死後の名声(物語られる生③)を求めるような「英雄的人生観」、生物学的生命の永続を求める「死の恐怖と永生希求」、名声や生物学的生命の永続を求めず、生物学的生命の範囲内で楽しもうとする「現世享楽主義」、という三つの人生観について検討(これら三つの区別は、月本昭男氏の整理に依拠)。

最後に、少しだけ映画について。「ライフ・イズ・ビューティフル」や「ビッグ・フィッシュ」などの作品を参照しながら、「物語られる生」という捉え方の射程、可能性について付言し、とりとめのない発表が終了。

質疑応答では、生命倫理と宗教学との関連、死後の「神格化」の問題、英雄的人生観と現世享楽主義は両立するのではないか、キリスト教的な「永遠の命」の意味、脳死・臓器移植の問題などが問われ、議論が交わされました。

※なお、質疑応答の際、「スピリチュアル・ペイン」や「スピリチュアル・ケア」などの言葉を、宗教的な信仰に関わる痛みやそのケア、という意味で使ってしまいましたが、これらの言葉は狭い意味での「宗教」だけではなく、人生の意味に関する苦痛など、より広い意味でも使われます(「宗教的ケア」と「スピリチュアル・ケア」を明確に区別する立場もあります)。訂正してお詫びを。

「ギルガメシュよ、自分の腹を満たすがよい」という『叙事詩』の言葉に従い、終了後は近所の某居酒屋へ。先程の発表はどこへやら、ハリウッドのアクション映画やB級映画の話で盛り上がってしまいましたが、それもまた一興……。


さて、四月からスタートしたLCアーベントですが、一月以降の開催はスケジュール的に難しいため、今年度は以上で終了。来年度の予定は全くの白紙ではあるものの、異なる分野の教員が集まって議論する機会は、ぜひどこかで設けたい、と考えています。

完全な「見切り発車」で慌ただしく始めた研究会でしたが、多くの方々のご協力を得て、何とか計7回、開催することができました。ご参加いただいた皆さま、開催にご協力いただいた皆さま、本当にありがとうございました。

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2018年12月23日日曜日

文化学科における学業と部活の両立 (LC16台 立岩遼高さん)

2018年度 第6回目の学生記事をお届けします。文化学科3年生の立岩遼高さんが、文化学科での学生生活において学業と部活動をどう両立させるのかということに関して記事を書いてくれました。



「文化学科における学業と部活の両立」
LC16台 立岩遼高

みなさん、こんにちは。人文学部文化学科の3年の立岩遼高です。私はみなさんに、文化学科でどのように学業と部活を両立させているかを伝えたいと思います。私は現在ゴルフ部に所属しています。ゴルフ部の活動として週3回、全体練習を行っています。そして、毎月学内で順位を争う月例杯、年に2回の合宿、年間10試合程の大会にエントリーしています。以上がゴルフ部全体としての活動になります。もちろん個人練習も欠かさずやっています。休日にゴルフ場でキャディのアルバイトをし、業務が終わればラウンドさせてもらうことが出来ます。こうして、週に5日のペースでゴルフをしています。残りの2日間は何をしているかというと、福岡市内のすし屋でアルバイトをしています。ご存じのように、ゴルフというスポーツはお金がかかりますので、アルバイトをしてお金を稼がなければなりません。このように、部活で忙しい学生生活を送っていますが、卒業に必要な単位を今年でほぼ取り終わるところまできています。両立させるためには何が必要でしょうか。

両立させるために最も大切なことは、当たり前のことかもしれませんが、授業を休まないということです。大会等でどうしても授業を休まなくてはならないことは、部活に入っている以上、必ずあります。福岡大学には公欠制度はありませんが、文化学科の先生方に正当な理由を伝えると、考慮してもらえます。授業を休まない。とても大切なことです。また、学生同士で友好関係を築くというのも大切です。文化学科の学生は活発な人が多いので、積極的に声をかけて友達をつくりましょう。友好関係が広いほど、同じ授業を履修している友達の確率が高まりますので、部活で休んだ時に授業内容を教えてもらうことが出来ます。また、ゼミという場はとても大切です。私は佐藤ゼミに所属しており、心理学を学んでいます。佐藤ゼミはとても仲の良いゼミです。ゼミの友達とバーベキューをしたり、ご飯を食べに行ったりもします。自分にあったゼミを、友達と相談しながらで構わないので、しっかり選んでください。私は以上の2つのことを大切にして、大学生活を送っています。部活動生は、他の学生と比べて大変だと思います。しかし、部活から得られるものはとても大きいです。私は大学生活で頑張ってきたことは学業と部活の両立だと胸を張って言えます。


佐藤ゼミでバーベキュー


私は高校まで野球をしていましたが、怪我の影響で本来の自分のプレーができなくなりました。しかし、大学に入ってもスポーツに真剣に打ち込みたいと思い、父親からの勧めでゴルフ部に入部しました。私の所属しているゴルフ部を紹介したいと思います。ゴルフ部は現在32名で活動しています。ゴルフ部のOBで監督である北原成氏プロのご指導のもと練習に励んでいます。福岡大学は九州学生ゴルフ連盟に所属しており、実力上位大学によるAリーグと下位大学によるBリーグに分けられ、福岡大学はAリーグとBリーグを行ったり来たりという現状です。今の目標はAリーグ昇格です。全部員が切磋琢磨し、レギュラーに選ばれようと努力しています。プロのツアーの大会でスタッフとして働いたりもします。トッププロと会話したり、そのショットを間近で見たりできるのは貴重な体験です。私にとってゴルフ部は大切な存在です。



団体戦の集合写真(鹿児島空港36ゴルフ倶楽部) 



普段の練習風景

2018年12月17日月曜日

平成31年度文化学演習の所属希望調査について(連絡)

文化学科学生各位

《重要》平成31年度 文化学演習所属希望調査について


◆平成31年度 新2年生(LC18台)・再履修者各位
 平成31年度の文化学演習Ⅰ、文化学演習Ⅱの所属希望について、下記の要領で提出してください。

◆平成31年度 新3年生(LC17台)・新4年生(LC16台)・再履修者各位
 平成31年度の文化学演習ⅢⅣ、文化学演習ⅤⅥの所属希望について、下記の要領で提出してください。

  1. 演習Ⅰ・Ⅱ(LC18台および再履修者)については、配布された「演習所属希望調査票」を前期と後期で各1枚提出してください(再履修を除くと、各自2枚提出)。
  2. 演習Ⅲ-Ⅳ、Ⅴ-Ⅵ(LC17台・LC16台)については、配布された「演習所属希望調査票」を前・後期通じて合計1枚提出してください(再履修を除くと、各自1枚提出)。ただし、再履修の場合は1科目(半期)ごとに1枚提出してください。
  3. 提出先は文系センター棟低層棟1階のレポート提出ボックスです(下記案内図参照)。
  4. 提出期間は 平成31年3月15日(金)~19日(火) 16:00  <厳守> です。提出がない場合や期限に遅れた場合は、教務・入試連絡委員が所属を決定します。 ※何らかの事情で上記の期間中に提出できない場合は、事前に教務・入試連絡委員(本多・林)へ相談してください。
  5. 決定した演習の所属は、3月22日(金)までにFUポータルと人文学部掲示板で発表します。
  6. 演習所属に関する問い合わせは、教務・入試連絡委員(本多・林)まで。

※注意事項
  1. 演習ⅢとⅣ、ⅤとⅥは前期と後期で同一教員の演習に所属することになります。
  2. 演習の所属は原則として本人の希望に基づいて決定します。ただし、希望人数が定員を超える場合は、平成30年度の成績に基づいて調整します。
  3. 各演習の内容については、3月上旬以降にFUポータルでシラバスを閲覧することができます。『文化学科 教員紹介』も参考にしてください。
  4. 登録制限科目を履修する場合、所属する演習の開講曜日・時限と重複しないように注意してください。
  5. 学芸員を志望者する3年生 (LC17台)は、必修の「博物館資料保存論」(火曜5限<前期>)が、火曜5限<前期>の文化学演習Ⅲと重なっています。学芸員必修科目を履修する場合、火曜5限の文化学演習Ⅲ・Ⅳは履修できませんので注意してください。
  6. 再履修が必要な場合、必要な用紙を別途用意し、「再履修」欄に必要事項を記入して提出してください。
  7. 「演習所属希望調査票」が手元にない場合は下記からダウンロードしてください。3月には、FUポータルからもダウンロードできるようにする予定です。ダウンロードした用紙は、配布したものと色が違う場合がありますが構いません。



2018年12月12日水曜日

第6回 LCアーベントが開催されました


11月20日火曜日の夕方、第6回目のLCアーベントが開催されました。

今回の提題者は、芸術学・美術史がご専門の落合桃子先生。「近代ドイツにおけるマルティン・ルターのイメージ」というタイトルで、ご発表いただきました。

ルター(1483年から1546年)の生涯に関する説明の後で、生前に描かれたルターの肖像画の話からスタート。ルターの肖像画は八つに分類できて、すなわち、①修道士としてのルター、②博士帽を被ったルター、③騎士ヨルクとしてのルター(カトリック教会からの破門後、ルターはヴァルトブルク城で「騎士ヨルク」としてかくまわれた)、④夫としてのルター、⑤説教師としてのルター、⑥大学教授としてのルター、⑦牧師としてのルター、⑧臨終のルター。同じルターでも、帽子を被っていたり被っていなかったり、着ている服が違ったり、様々。

ルターの死から約250年を飛び越え、いよいよ舞台は19世紀のドイツへ。この時期、ルターが改めて注目され、記念碑が建立されることに。複数の案の中から選ばれて、1821年、ヴィッテンベルクに建てられたのが、ヨーハン・ゴットフリート・シャドウによる「マルティン・ルター博士記念碑」。この彫像が後のルターのイメージを決定づけた、と考えられる。

他にも19世紀ドイツでは、銅版画や壁画として、ルターの生涯が絵画化された。ヨーハン・エルドマン・フンメルの銅版画集『マルティン・ルター博士礼賛』(1807年)や、ヴァルトブルク城「宗教改革の部屋」の壁画(1872年から1882年)、等々。

また、ドイツでのナショナリズムの盛り上がりに伴い、政治的な文脈の中で、ルターは歴史上の偉人、宗教改革者として重要視されるようにもなる。例えば、古代にローマ軍を撃退した英雄ヘルマン(=アルミニウス)と、ローマ教皇庁と戦ったルターが対比される。さらに20世紀前半、ナチスが台頭する中で、「ヒトラーの戦いとルターの教えがドイツ民族を守るのだ」というポスターも作られ(1933年)、ナチスのシンボルと共にルターが描かれたりもする――。

以上のように、近代ドイツでルターのイメージが再生産され、強化されていくプロセスについて、豊富な絵画資料などが示されながら、話は進みました。途中、落合先生ご所蔵の銅版画集が置かれた机を皆で囲み、一枚一枚の絵をじっくりと鑑賞する場面も。

ご発表後の質疑応答では、ルターの表情の描き方や、帽子や服の意味に関する質問、なぜ1821年の銅像のイメージが長く維持されているのか、等々の質問が出て、議論が交わされました。研究会の終了後、教室から出て歩いている最中も、なかなか話は尽きなかった模様。

私個人は、キリスト教の思想について勉強する過程で、ルターの著作を以前から読んではいたものの、ルターの絵画的なイメージについて考えることは全く怠っており、今回、多様な描かれ方の実例にはじめて触れることができて、色々と刺激を受けました。特に上記④のタイプの、家族と一緒にいるようなルターについては、あまりイメージしてみたことがなかった、と気づかされ、反省すること頻り。

残念ながら参加者は少なく、5名程度。幾つかの専門科目などと時間割が重なってしまってもいたようで、この点も反省中……。日程の決め方など、今後、工夫していきたいと思いますので、何か要望があれば、ぜひお聞かせ下さい。

さて、次回は来週月曜、17日の夕方の開催

 第6回・第7回 LCアーベント開催のお知らせ

私が発表者のはずですが、このブログ記事を書いている現時点で、準備は半分、あるいは三分の一程度。しかし、発表者の準備が終わろうが終わるまいが、非情にも、この会は予定通りに開催されます。

すっかり寒くなった師走の夕方、何か、温かい飲み物でも片手に、ぜひ月曜日、LCアーベントへ。

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2018年11月24日土曜日

倫理的な議論のための、非(反?)倫理的な思考実験?

平成30年度第11回目の「教員記事」をお届けします。哲学の林 誓雄先生です。今回の記事では、若干グロテスクな・人によっては想像するだけで嫌な気持ちになるような表現が出てきます。心臓の弱い方、グロテスクなものが苦手な方、辛いことを考えるのは嫌だという方は、お読みにならないことをお勧めします。お読みになられる場合は、何が起ころうと、ご本人の自己責任となりますこと、予めご了承ください。



倫理的な議論のための、非(反?)倫理的な思考実験?
   
     林 誓雄(哲学

 今年の私のゼミでは、毎回、倫理的に問題となるトピックを一つとりあげて、冒頭40分、それについてグループワークをした後、グループで出た意見や主張をとりまとめてプレゼンしあった上で、全体でディスカッションを行なっている。とある回のトピックは「安楽死」であった。古典的な、しかし、医療技術が進歩する昨今、ますますその判断が難しくなっている、倫理学における王道のトピックである。このトピックについてゼミの時間に議論するにあたり、あらかじめゼミ学生には、次の課題について、それぞれ考えてもらっておいた。

「治療中止」(医療者が、今やっている治療の継続を中止して、患者を死ぬに任せること:例 人工呼吸器のスイッチを切る)と「自発的・積極的安楽死」(医療者が、患者からの依頼を受けて、致死薬=毒物などを注射器や点滴で投与することによって患者を殺すこと)を区別した上で、自発的・積極的安楽死を、あなたが医療者に頼んで実現することは、道徳的に許されることだろうか?
この問いについて考える上での条件は、次の通り。この場合の患者は、あなたの愛する人(家族や恋人など)とする。また、仮に安楽死が実現した場合、医療従事者、および安楽死を依頼したあなたは、法的な罪に問われるものとする(例:懲役2年執行猶予2年)。日本において、安楽死OKとする場合、NGとする場合、それぞれの場合の理由を一つ以上考えた上で、最終的に自分がどちらの立場に立つのか、考えてくること。

 「倫理学」を授業で講じている身として、安楽死については一通り、どういう論点があるのかということを、把握しているつもりであった。そのため、実は教員としては、安楽死というトピックは、そこまで掘り下げるには値しない・ある程度答えが出てしまっている(ので、つまらない)ものであるという印象を持っていた。
 従来の議論を、簡単に紹介しておくならば、次の通りである。安楽死は、「(医療者側の・一般に考えられる)生命の神聖さ」と「(患者側の)生命の質」の対立の問題として描かれることが多く、近年、「患者の自己決定権」は尊重されるべきだという論調が強いことから、「生命の質」の方が支持され、その結果として、倫理的に安楽死は認められるべきだ、という主張が大勢を占めているように思われる。もちろん、日本において、医療者による積極的安楽死は法律で禁止されており、条件付きで(東海大学安楽死事件の4条件)なら認められるという判決を裁判所が下している。とはいえ、この条件付き安楽死については、いまだにその条件を満たす案件が出ておらず、実質的に日本において安楽死が合法的に行われたことはない。しかし、これ以上ない苦痛に苛まされている患者からの強い意思を尊重するならば、慈悲の心でもって早く楽にしてあげることこそが倫理的であると、一般には考えられているように思われるし、そのような風潮を受けて、安楽死の議論が日本において活性化することを望む研究者もいる*。そして実際に、私のゼミにおいても、学生たちの出してくる意見・主張は、「安楽死許容」に傾くものが多かった。

*参考:「安楽死という選択」〔「児玉聡の倫理学的にはどうなの?」より〕[2018.11.24確認]

 さて、ゼミの教員として、やはりそれでは物足りないわけである。ありきたりでいつも通りの穏当な結論は、哲学・倫理学をやっている身からすると、つまらないものである。むしろ、これまでにない、別の観点からも、このトピックについて考えてもらいたい、さらに掘り下げて考えもらいたいという思いがどうしても募ってしまう。「安楽死」というトピックの論点は、「患者の自己決定権を尊重する」のか、それとも「生命の神聖さを守り抜く」かのどちらか、というもので尽きるはずはない。もっと別の、考えるべき論点があるのではないか、と。しかしそれでは、どのようなさらなる論点が、安楽死について議論する場合にありえるのか。......いろいろと考え抜いた挙句(というよりも、学生たちに、患者の意思や自己決定権を重視する立場から離れてもらうことを当初は目的として)、ゼミの後半で議論が煮詰まってきたときに、先の課題に加えて、以下の話を提示し、再度「安楽死」の問題について考えてもらった。(注意:以下は、グロテスクな内容が含まれていると考えられるため、文章をドラッグするなどして反転させなければ読めないようにしてあります。そういった内容が苦手な方・不愉快に感じられる方は、読まないでください。)

愛する人(末期ガン余命3ヶ月。毎日激痛に苦しみほとんど眠れない)が安楽死を望んでいる。その人は、自身では死ねないので、あなたに自分を殺して欲しいと頼んでいる。医療者は安楽死を認めず、協力してもらえないので、あなただけが頼りである。さて、愛する人を安楽死させることを、あなたは受け入れ、実行するべきだろうか?
仮に、あなたが安楽死を実行しない場合、愛する人は3ヶ月間、地獄のような苦痛に四六時中苛まされて死んでいく。他方、あなたが愛する人を安楽死させるには、金属バットで頭を3回叩き割らねばならない(その他の手段が様々な事情で使えない、とする)。なお、1回バットで頭を殴ると、愛する人は気絶するので、これに関連する痛みについてはカウントしなくてよい(その意味でも、「安楽」死である)。ただし、完全に殺すには、あと2回、全力で頭を叩き割る必要がある。また、あなたが愛する人を殺しても、罪には問われない。さて、あなたは、愛する人の望みを受け入れて、安楽死を実行するか?  それとも、望みを受け入れず、愛する人が3ヶ月の間、地獄のような痛みを感じ続けることを、見守るか?

 大変辛い状況である。愛する人は、いま現在、これ以上ない苦痛に苦しんでいる。他方で、それを救う(?)方法として「あなた」に残されているのは、極めて悲惨な・暴力的な手段のみである。条件として、法律上、罪には問われないとされてはいるが、しかし、愛する人の願い・望みだからといって、そこまで悲惨で暴力的な手段をもちいて安楽死を実行することに、ためらいを覚える人は少なくないのではないだろうか。そうだとすると、おそらく安楽死について議論するときに、これまでとは異なる論点があるとしたら、それは、次の点にあると考えられるのである。すなわち、たとえ「安楽死」と呼ばれるとしても、しかしやっていることは依然として「殺人」であるわけだから、そのために自分の手が汚れ、そして自分の人生も、「殺人者の人生」となるわけだから、拭きれない穢れを帯びてしまうことになる。果たして、愛する人の願いを叶えること・愛する人の自己決定権を尊重することは、自分の手が汚れてしまうことを防いだり、穢れなくひたすら善く生きようと努めてきた自分の人生設計が狂ってしまうことを防いだりすること以上に、重視されなければならないことなのか。

 たとえ求められていることが「殺人」であるとしても、それこそが愛する人の願いなのだから、自分の手を汚すくらいのことは引き受けるべきなのであり、愛する人を殺したのちには、自分の人生は永久に善いものにはなりえないことを、どこまでいっても幸福にはなり得ないことを、受け入れるべきである。愛する人を殺して、自分の人生も台無しとなる。しかし、まさにそれこそが「純愛」なのである。このように言われることもあるかもしれない。もちろん、この話が、「愛する人」と「自分」という二者間の出来事であるのならば、愛だなんだということで、そのように納得してもよいのかもしれない。しかしながら、現実問題として、「安楽死」には医療者が、実際に手を汚す者として、「殺人」を実行する者として、関わってくる。そして、医療者にとって、「自分」の愛する人は、担当する患者の一人ではあるのだろうけれども、しかし依然として赤の他人に過ぎない。そのような赤の他人のために、医療者はどうして、自分の手を汚さなければならず、これまで徳を積み続けてきた自分の人生を台無しにされなければならず、そして、臨終の間際に人生を振り返って、なんの落ち度も穢れもない善い人生だったと幸せな気持ちに浸る瞬間を奪われなければならないのだろうか。そこまでの義務が、自分の人生を犠牲にしてまで患者に尽くさなければいけない義務が、医療者に、本当にあると言い切れるのだろうか。もともと、病気に苦しむ人を一人でも救いたいと強く願い、そのために日々過酷な仕事をこなしながら、命を救い続けてきた医療者に、たとえ手段が注射器で毒薬を投与するという、見かけは悲惨でも暴力的でもないやり方ではあるにしても、しかし、患者の自己決定権は尊重されるべきだからという理由で、安楽死の実行を求めても・強いてもよいのだろうか。自己決定権とは、他人に手を汚させることになっても、他人の人生を台無しにしてその人の幸福な人生を奪うことになっても、守られるべきものなのだろうか……。ただし、だからといって、医療者に安楽死を依頼せず、「自分」には、自らの手を汚すこともできないのならば、愛する人には3ヶ月もの間、地獄のような苦痛に四六時中苦しむことになることを受け入れてもらうしかなく、「自分」もその様子を見守り続けなければならない。「なぜ殺してくれないのか」「なぜ楽にしてくれないのか」と訴える愛する人から、恨まれ続けながら...である。大変難しく、悩ましい問題である。ここまで読んでくださった方は、どうすればよいとお考えになるだろうか。

 ところで、この話をゼミにて持ち出したのち、学生たちはだいぶん混乱したようでもあった。中には、悲惨で暴力的な手段を使うことを想像し、苦悩している学生もいたように記憶している。しかし、倫理学を学ぶときには、あるいは倫理・道徳について考えるにあたっては、ときにこのような、悲惨で辛く、想像するだけでも苦しくて泣きそうになるような場面について、考えなければならないことがある。そうした場面について考えてみなければ、倫理的な問題の本質的な論点は、見えてこないのかもしれないのだ......。

 とはいえ、そのような辛い目にあってまで、倫理的な問題の本質的な論点について、われわれは考察しなければならないのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。むしろ、「そのような辛く悲惨なことを、教育という名目で学生に考えさせるだなんて、この林とかいう教員は、ひどいやつなんじゃないか。あんな悲惨な例を思いつくだなんて、性格が邪悪な方向にひん曲がっているのではないか。そもそも、そういうことを考えさせるのって教育じゃなくて、アカハラ・モラハラなんじゃないのか?」と思う人がいるかもしれない。いやいや、違いますよ誤解ですよ私は学生たちから優しい先生だと常日頃から評判の明るくて気前が良くて卒論の諮問で毎回学生を泣かせたりとかしてないですしねこれほんとハラスメントとかからは一番遠いところにいると評判なのでしてあの......。(この記事のせいで、来年度のゼミ希望者が、ゼロになりませんように。)

2018年11月22日木曜日

「先輩と語る(LC版) 」開催のお知らせ(2018年12月7日)

先輩と語る(LC版)
日時:2018年12月7日 金曜日、18:00-19:30
場所:10号館1023教室

 文化学科を卒業後、様々な分野で活躍されているLC12・13台の先輩をお招きして、文化学科での過ごし方と卒業後の生活について、お話を伺います。
 在学している今、そして卒業してからの未来。残された大学生活をどう過ごす?身近な先輩からしか聞けない、たくさんのヒントが得られると思います。たくさんのみなさんの参加をお待ちしています。


登壇者紹介:
Fさん(2017年卒業)。銀行員。
4年生では鴨川先生のゼミに所属し、卒論を宮野先生に指導していただきました。また、学芸員課程では宮岡先生の民俗コースを選択しました。現在鹿児島県の地方銀行に勤めて2年目を迎えました。

Tさん(2016年卒業)。県職員。
4年の時は宮岡先生のゼミに所属し(学芸員課程の民俗でもお世話になりました)、卒論では白川先生にご教授頂きました。去年から地元の佐賀県で、県職員(行政職)として今は現地機関に務めています。

Nさん(2016年卒業)。パラレルワーカー。
現在はライターやブロガーをしながら、ITベンチャー企業でフリーランス養成を目的とした講座の企画運営を担当しています。簡単にいうと複業家です。宮野先生と小笠原先生と平井先生に育ててもらいました。