2019年5月27日月曜日

令和元年度 卒業論文の題目届提出について

「卒業論文」を登録している四年生以上の学生は、卒業論文の題目届を以下の要領で提出して下さい。


1.題目届の入手、記入について

【入手可能期間(お知らせ公開期間)】
令和元年 6月1日(土)9時 ~ 令和元年 6月28日(金)16時30分まで

【記入要領】
・黒のペンまたはボールペンを使用すること(鉛筆書きは不可)。
指導教員の署名・捺印を必ず得ること


2. 題目届の提出について
【提出期間】
 令和元年6月14日(金) ~ 令和元年6月28日(金)まで
 
 ※時間:平日9時~16時30分まで(土曜日は正午まで)
 ※昨年度以前に題目届を提出したことがある学生も、今年度用に再度提出する必要があります。

【提出場所】
 人文学部事務室(文系センター棟1階)

※ なお、6月1日(土)にポータルにて公開予定のお知らせに、注意事項が添付されます。
  各自必ず確認をしてください。

各自、指導教員と十分に相談の上で題目を決め、上記の期間内に必ず題目届を提出して下さい。何か不明な点があれば、教務連絡委員の林か藤村まで。

2019年5月16日木曜日

博多駅前広場の彫刻

「教員記事」をお届けします。本年度第二回は芸術学・美術史の植野健造先生です。


博多駅前広場の彫刻

植野健造(芸術学・美術史

日本美術史、博物館学担当教員の植野です。前回(2018年5月)は福岡市天神にあるパブリックアート彫刻のことについて書いたので、今回はJR博多駅前の彫刻について書いてみたいと思います。ただし、今回は値段の話はしません。

 皆さんは博多駅で待ち合わせをするとき、どこで待ち合せますか?もっとも最近の若い方はあらかじめ特定の場所を指定せず、漠然と博多駅と決めておいて、スマホで位置を相互連絡しながら自然と合流するという方法をとっていることが多いように見受けます。スマホなどなかった時代に青年期を過ごした私たち世代には信じがたい方法です。

 1979年4月に大学入学で福岡市にきた私が、5月の連休に友人数名と博多駅で待ち合わせた際に、友人が指定場所として伝えてきたのが「黒田節の彫刻の前」でした。これは米治一《母里太兵衛(もりたへい)の黒田節》像のことでした。それ以降、この彫刻の前を待ち合わせ場所としたことが何度かありました。当時はこの彫刻作品についての興味はそれほどもっていませんでした。博多駅博多口駅前広場にはこの作品の他に、安永良徳《博多節舞姿》、ヘンリー・ムーア《着衣の横たわる母と子》の2体の彫刻もあり、それぞれに博多駅前の目印となっていました。

 博多駅ビル(博多ステーションビル)には博多井筒屋が入居していましたが、2007年(平成19年)3月31日に閉店し、その後旧駅ビルは解体されました。代わって新駅ビル(JR博多シティ)が建設され、九州新幹線鹿児島ルート全線開業9日前の2011年(平成23年)3月3日に開業しました。その間、駅前広場も工事現場となり、3体の彫刻は別の場所で保管されていたようです。当時の私は、この3体の彫刻がどこに保管され、新しい博多駅が完成した際に、きちんと再設置されるかどうか心配していました。

 春日三球・照代という夫婦漫才コンビによる地下鉄漫才が1970年後半から80年代にかけて一世を風靡したことがあります。
「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えると一晩中寝られないの」のフレーズが有名でした。
 これになぞらえると、2007年から2011年にかけての時期の私は、博多駅前の彫刻がどこに保管され、新しい博多駅に戻ってくるのかをどうかを考えると眠れない夜がありました(嘘です)。

 はたして、2011年3月、新博多駅ビル開業とともに、3体の彫刻作品は博多口駅前広場にもどってきました。ただし、位置や設置環境は微妙に異なっているようです。

 なかでもヘンリー・ムーア《着衣の横たわる母と子》は、旧駅前広場時代には彫刻の台座の上、母子像の隣で寝そべったりして憩っている人が少なくありませんでしたが、新駅前広場ではそれを防止するかのように植え込みで囲まれています。良好な景観維持という観点からすると仕方がないと思いますが、ヘンリー・ムーアの彫刻には、包むもの(母)と包まれるものとの関係性が造形テーマの一つになっていて、それを考えると旧駅前広場時代の光景も、作家の創作理念からすると受け入れ可能な光景だったかもしれない、と思うこともあります。
 皆さんも、博多駅に行く際には足を止めて、これらの彫刻作品を見てみて下さい。


【博多駅博多口駅前広場彫刻作品】
1
米 治一《母里太兵衛(もりたへい)の黒田節》
1970年設置、ブロンズ
福岡博多ライオンズクラブ寄贈。
福岡藩主黒田長政の家臣で酒豪の母里太兵衛。
豊臣秀吉伝来の名槍「日本号」を抱え、右手に一尺の大杯を持つ。

2
安永良徳《博多節舞姿》
1968年設置、ブロンズ
博多織「松居」寄贈。
1883年創業の博多人形・博多織老舗 「松居」が85周年を記念して福岡市に寄贈。島田結いの芸妓が、黒紋の留め袖着物に博多帯を締める。花柳界の座敷唄の一つ、三味線をとって歌う正調「博多節」の舞いポーズ、とのこと。

3
ヘンリー・ムーア《着衣の横たわる母と子》
Henry Moore, Draped Reclining Mother and Baby
1988年設置、ブロンズ
福岡市制100周年を記念して、市民と企業の募金、それに市の事業費などで設置。



※画像はすべて著者撮影

fig.1
旧・博多駅ビル(博多ステーションビル)
1963年12月開業、2007年3月閉業、その後解体。
2005年12月16日撮影



fig.2
旧博多駅前時代の《母里太兵衛の黒田節》
2005年12月16日撮影




fig.3
旧博多駅前時代の《博多節舞姿》
2005年12月16日撮影



fig.4
旧博多駅前時代の《着衣の横たわる母と子》
2008年3月26日撮影



fig.5
現在の博多駅ビル(JR博多シティ)
2011年3月開業
2011年9月29日撮影



fig.6
新博多駅前の《母里太兵衛の黒田節》
2011年9月29日撮影



fig.7
新博多駅前の《博多節舞姿》
2011年9月29日撮影



fig.8
新博多駅前の《着衣の横たわる母と子》
2011年9月29日撮影



fig.9
新博多駅前の《着衣の横たわる母と子》
2011年12月12日撮影

2019年5月5日日曜日

南海からの風・広州 ―多様性を受け入れてきた「海の道」の街(異文化の接触地帯6)―

「教員記事」をお届けします。本年度第一回は地理学の磯田則彦先生です。



南海からの風・広州
―多様性を受け入れてきた「海の道」の街(異文化の接触地帯6)―

磯田則彦(地理学


こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。

 まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフステージの要所要所で移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」。以前から、そんなことが気になってしまいます。
 また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。

 次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行う中で身近になってきた分野と言えるかもしれません。過去5回、インナーモンゴリア香港回民哈尔滨についてご紹介してまいりましたが、今回は南海(ナンハイ)の港町・广州(グヮンジョウ)についてご紹介いたします。

広州は中国・华南(ホヮナン)の广东(グヮンドン)省の省会で、珠江(ジュージャン)デルタに位置する大都市です。古には、「南海」と呼ばれた時期もあります。人口は、市区人口が900万人近く、中心部には高層ビルが建ち並ぶ近代的な都市です。街の中心部を珠江が流れており、南海への出入り口となっています。経済的に発展した大都市が数多く立地する珠江デルタは、上海・北京エリアと肩を並べる同国の一大経済圏を形成しており、なかでも広州は、経済特区の深圳(シェンジェン)とともに同経済圏の中心都市となっています。国際的な空と海の港に加えて、高铁(高速鉄道・CRH)の発着地点にもなっており、同国の交通ネットワークの一大拠点として機能しています。改革・開放後は、主として中南部の省や自治区から多くの労働者(民工)を集めてきました。広州駅前に集まる出稼ぎ労働者の姿は、日本の教科書等でも紹介されました。





広州は、古来、海上交通の要衝としてさまざまな人やものを受け入れてきました。唐(タン)の時代には、遥か西方よりアラブ・イラン系のムスリム商人が訪れました。かつてご紹介した回民(フイミン)のアイデンティティに深くかかわる人たちです。一方、近代化に至る過程において、広州は長く困難な時代を迎えることになりました。すなわち、18世紀中頃以降、広州はヨーロッパ船の入港地に指定され、対外窓口の役割を担うことになります。続く、19世紀中頃の欧米諸国との条約では、当時の清(チン)がイギリス・フランスなどとの間に不平等条約を結ぶことになりました。現在でも、珠江沿岸には当時の外国人居留地の名残が見られ、異国情緒が漂っています。

広州の文化的特徴には、ほかにも食や言葉など枚挙にいとまがありません。「食在广州」という有名な言葉がありますが、食材や調理法の多様性には驚かされます。いわゆる「中華(チャイニーズ)」全般、大好きなのですが、その中でも广东菜(広東料理)は絶品です。日本ではいわゆる「飲茶」がとくに有名ですが、その他の料理についても、素材の持ち味を活かしながら、煮る・焼く・揚げる・蒸すなどの調理法を見事に組み合わせた広東菜は、まさに「世界三大料理の一角」に相応しいものです(「中華」全般です)。現地では、日本人が「広東料理」として一括りにしているものも、実際には顺德菜(シュンドゥツァイ)や潮州菜(チャオジョウツァイ)などいくつかの地域料理にわけられます。

一方、言葉については、元来、広州では广东话(グヮンドンホヮ)が広く使用されてきました。前述のとおり、増え続ける流入人口により、いわゆる「マンダリン・チャイニーズ」が一般的に話されるようになってきましたが、時より路上や公共交通機関の中で聞こえてくる地元の言葉は、隣国ベトナムのそれと勘違いしてしまうほどです。実際、普通话(プトンホヮ)の話者にはほとんどまったく聞き取れません。中国の言語の多様性を実感させられます。地铁(地下鉄)の到着案内も普通話と広東話の両方で行われ(英語も)、広東らしさ(エリア・アイデンティティ)を醸し出しています。

広州の地下鉄の路線網は発達しており、優に10路線を上回ります。空港や高速鉄道のターミナルと主要な観光地が高いフリクエンシーで結ばれています。前述の広州駅(广州火车站)に程近い旧市街にある小北(シャオベイ)や三元里(サンユェンリー)という駅の周辺では、私たちが想像する一般的な広州のイメージを超越した景観が見られます。この一帯は、いわば「アフリカ街」といったところでしょうか(中東の人たちも多い)。経済成長とともにアフリカ系の人々が数多く居住するようになりました。彼らの多くは、中国製の商品をアフリカや中東向けに販売しています。また、彼らを主な対象とした各種商店も建ち並んでいます。中国とアフリカ諸国は以前から密接な関係を有しており、同国はアフリカ外交に相当な力を注いできました。長らく続いた東西の冷戦構造の下で、中国は西側先進諸国ともソ連とも円滑な関係を築くことに困難を抱えていたからです。「第三世界」という言葉が思い出されます。広州や深圳など広東の街角では、アフリカ系の人たちを見かけることがよくあります。

ところで、今年の干支はイノシシですが、中国では「猪(ジュウー)」の年、すなわち、「ブタ年」となります。恒例の新年を祝う記念切手の中には、親子の猪が仲良く寄り添う構図のものがありましたが、それに従来とは異なる感覚を覚えた人たちもいたようです(2016年から変わってきました)。その切手には、お父さん猪とお母さん猪に3匹の子供の猪が描かれています。お母さん猪は黒く、黒っぽい子供の猪もいます。皆さんは、この記念切手の構図をどのように解釈しますか?長年、计划生育(いわゆる「一人っ子政策」)を実行してきた同国が、21世紀前半のこの時期、ひとつの転換点を迎えているのかもしれません。翻って、本格的な人口減少社会に入った日本はどうでしょうか?新たな制度(外国人労働者の受け入れに関するものなど)、新たな時代のもとに同じく変化の時を迎えているのかもしれません。私たちの日常の中に、「異文化の接触地帯」が次々と出現していく予感がします。