2023年8月7日月曜日

人工知能と夏休み

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は,哲学・倫理学の林誓雄先生です。



人工知能と夏休み

林誓雄(哲学・倫理学)

 今話題の生成型人工知能を使って書かれたレポートに,どのように対応するのか。学生が,自分の力で作成したものではないのだから,不正行為の産物と判断するのか。しかしその判断は教員側に可能なものなのか。むしろ人工知能をうまく使いこなせるようにするための指導や教育が必要なのではないか,などなど,各所で議論が盛り上がりを見せている。

 一方で,例えば前期の社会思想史の課題として提出されたレポートを,あるいは学会誌に投稿された学術論文を,人工知能を使って評価・審査することができるのだとしたら,あるいは人工知能が代わりに評価・審査してくれるようになるのだとしたら,評価・審査の効率が格段にあがることで教員・審査者の負担が劇的に減るだけでなく,学生さんや投稿者に対する評価・審査の的確性や公正性も大幅に向上することになり,それは間違いなく,学生さん・投稿者・教員・審査者にとってのみならず,世界全体にとって好ましいことなのではないかと,ぼんやり夢を描いてみることがある。しかしながら,やはりそれは夢でしかないのだろうと,大変悲しい気持ちにもなるのである。レポートや論文の評価・審査は,どこまでいっても,いつまでたっても,人間にしかできないものと思われるからである。

 「基礎演習」において通常は学び,私の「論理学」の授業でも触れることだが,レポートや論文には,論証が含まれていなければならず,その論証は,筆者のテーゼ・仮説・主張や意見と,それらを支える理由・根拠から構成されていなければならない。そこでまずは,どれがテーゼであり,それをどの理由・根拠が支えているのかを特定する作業が始まる。その際,その理由・根拠はテーゼを十分に支えていると言いうるのかを確認することになるわけだが,その「十分に支える」ということで一体なにを意味しているのか,なにを基準に「十分に」と判断するのか,そもそも,それら理由・根拠として提示されているものは「理由・根拠」としての役割を果たしえるものなのか,一方で示されている理由・根拠は,他方で示されている別の理由・根拠とうまく整合するのかなどなど,こうした諸々の事柄が評価・審査においては問われることになるし,こうしたことについて教員・審査者は考え,判断を下さねばならない。さらには,そうした根拠づけ関係が適切であると判断できるとしても,それによって導き出されるテーゼ・仮説・主張には,どのような意味・意義・ご利益があるのか。そのテーゼを提出することでそのレポート・論文は,当該の領域に対して,あるいは学術業界全体に対して,どのような影響を及ぼすことになるのか。そうした諸々を考えあわせることによってようやく,当該レポートに「可」以上をつけるのかどうかについて,あるいは当該論文を雑誌に掲載するかどうかについて,最終的な判断が下されることになる。

 さて巷で注目を浴びている人工知能に,あるいは今後,さらに進歩を遂げるであろう人工知能に,以上のようなことは,果たして可能であるのだろうか。私には,そのようなことは部分的にでさえ,不可能であるのだろうと思えてならない。当該の領域や学術業界全体に対する「影響」とはいったいどのようなものであって,それを評価する場合に,何を人工知能に実装すればよいのか。そんなものを実装することなど,可能であるのか。論文の「意味・意義・ご利益」とは,数学的な・統計的な計算によって,どうやったら弾き出すことができるのか。そもそも,レポートや論文において論証されることで示されるテーゼ・仮説・主張というものは,これまでにない新しくも独創的で面白いものであるはずである。そうした「新しさ」「独創性」「面白さ」を備えたテーゼ・仮説・主張は,「これまで」に存在しないからこそ,新しいし独創的だし面白いと評価されるのである。だとしたら,「これまで」にしか依拠できない計算機・人工知能には,そういったものを理解・実装することなど,できはしないと考えられるのである。レポートや論文には,その筆者の「想い」が乗る。そしてその「想い」をしっかりと受け止めた上で,レポートや論文を吟味し評価を下すことができるのはやはり,同じ「想い」を持ち合わせた仲間であるところの人間だけである,そのように思われるのである。

 世間を騒がせている人工知能には,文章を手際よくまとめることができるそうである。そうやって要点のみを手早くおさえることが,そしてタイムパフォーマンスを極限まで追求することが,この現代を生きるために求められていることのようにも思える。そのような現代に生きるわれわれは,文章というものを,人間の紡ぎ出した言葉たちを,じっくりゆっくり読むということを,そして時間をかけてそれについて,あれやこれやと考え続けるということを,いつの間にかしなくなってしまっているのかも,しれない。しかし,そのままでは,他人の言うこと・書くことを,間違って受け取ってしまうことに,なりかねない。あるいは,論理的に文章を書いたり読んだり,できなくなるように思えるのだ。

 「論理」というと,人工知能や計算機と即座に結びつく,それこそ効率や処理の速さと深く関係しているものと思われがちである。だけれども,実は真逆であるのだと,私は考えている。論証において,何が「根拠」でどれが「主張」なのか。それを見極めることさえ,容易なことではないように思える。人間が,文章の意味や概念を丁寧に拾うことで,あるいは筆者の想いを大切に汲み上げることによって,ようやく見えてくるものが主張であり根拠なのだと思われるのである。それこそ,世界の側に客観的に存在し,だからこそ容易に人工知能に実装できるであろうと思われがちな原因と結果の関係ですら,なにをどう理解すれば捉えることができるのか,不明なままである(因果関係はまさに,いまだ決定的な答えが出ていない「哲学の難問」の一つである。一体何が,原因と結果の関係を決めているのだろう。だれか私に,教えてくれませんか?)。「因果関係」ですら,おそらくは人工知能への実装が難しいと思われるのに,いわんや「主張-根拠関係」など,その実装は夢のまた夢としか,思えないのである。

 ちなみに,今話題沸騰中の人工知能に,私の授業「論理学A」のテスト問題の一部を解かせてみたのだが,見事に不正解を連発したのは,個人的に大変興味深いところであった。件の人工知能4.0ver.は,「前件否定の誤謬」も捉えられないばかりか,適切な接続表現を選ぶ問題すら間違うことが多い,という顛末であった。もちろん,このブログを読んでいるみなさんは,(人工知能が間違えた)次の問題くらい,いとも容易く解けますよね? だって,みなさんは,論理的思考力を鍛えられた,人間のはず,ですもの?

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 問題 次の論証は演繹(100%正しく,一つの結論を導き出だしているもの)か,
    それとも,推測(他の結論も出てしまうもの)か。
   
    根拠:雨が降ったら,オープンキャンパスは中止だ。
    根拠:を。。。雨は降っていない。
    結論:なら,オープンキャンパスは中止じゃない! やーりー!

 解答        演繹 / 推測
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 人間が,論理的に,文章を読んだり書いたりするには,実はとてつもなく時間がかかるものである。あるいは,とてつもない時間をかけないと,論理的に文章を読んだり書いたりはできない。だから焦らずゆっくりと,文章を読み進めてみてほしい,急がずじっくりと,文章を書いてみてほしいと思うのである。もちろん世間は,効率や処理速度にこだわりがちだけれど,それをいったんこの夏くらいは脇において,好きな本を読むときには,あるいはレポートや論文を書くときくらいは,じっくりゆっくり時間をかけてみてほしい。

 というわけで(どういうわけで?),効率やら処理速度やらを求められることについては,それこそ人工知能や計算機に任せておいて,われわれ人間は,じっくりゆっくりと,ああでもないこうでもないと,ダラダラノロノロ考えることにするとしよう。われわれはきっともっと,ノロく遅く本を読んだり,じっくりゆっくりと何かについて考えたりしていてよいのである。だってわれわれ人間は,ほんとうにちっぽけで愚かでノロマな存在なのだから。ノロくて愚かでちっぽけだということを言い訳にして,この夏休みもゆっくりじっくり,アイスコーヒー片手に,本を読むことにするとしよう。ひどい暑さが続いている。ときには酷い夕立だってやってくる。そのような外に出るのは,とてつもなく億劫で面倒なので,長いあいだ,積ん読にしてほったらかしにしていた数多くの本たちに「ごめんなさい」と謝ったうえで,それらをじっくりゆっくり噛み締めながら,のんびりゆったり読むことにしよう。