2016年10月16日日曜日

島原・長崎研修旅行

 今年度8回目の学生記事をお届けします。文化学科二年生の土井良祥子さんが、小笠原ゼミの研修旅行について報告してくれました。


島原・長崎研修旅行

LC15台 土井良祥子

 文化学科2年土井良祥子です。私の所属する小笠原ゼミは前期にはキリスト教の聖典の一つである『創世記』について、ディスカッションをメインにゼミを行ってきました。今回のゼミ合宿では、隠れ切支丹弾圧の歴史のある長崎県島原市、および、教会群やキリスト教関連遺産で有名な長崎市を訪れました。その研修の模様をお伝えします。

 夏季休業終了間際の9月12日月曜日の朝、小雨の降る中、まず島原市の島原城へ向けて出発しました。島原城には切支丹関連の資料館が併設されており、多くのキリスト教関連品の展示があります。海外からの伝来品のほか、日本刀のキリシタン鍔や東洋人らしい顔立ちのマリア像など、日本独自の品も収蔵されています。広く公に布教されていた時代から厳しい弾圧の時代への歴史の変化なども展示品から窺えました。今回事前学習として、遠藤周作の『沈黙』を通読していた私たちには、特にキリスト教弾圧期の資料が強く印象に残りました。同作中に「彼等(切支丹)流に屈折された神」という表現があります。それがどういった存在であったのか、またキリスト教の神とどのように異なるのか。展示されている品々はこれらの問いを読み解くよい手がかりとなりました。

 続いて、島原の湧水を利用した四明荘という庭園へと向かいます。庭園内の池にせり出すように建てられた和室からは松や楓の美しい庭が見え、湧水の流れる音が心地よく響いていました。ゼミの課題や議論をここですると捗りそうという声もちらほら。季節ごとにまた違った美しさがあるそうです。紅葉の季節にもう一度伺いたいお庭でした。

 美味しい料理と島原の湯に癒されたところで、翌日には長崎市内へと移動。その道中、『沈黙』の一節を取り上げて議論になりました。「あの人は沈黙していたのではなかった」とはどういう意味なのか。私たちが導き出した答えは、弾圧期において、神はなんの救いも与えず沈黙していたのではないということです。主人公のロドリゴや切支丹がその救いに気づいていなかったのだ。踏絵を「踏みなさい」という神の声、「基督は、彼らのために、転んだだろう」というフェレイラの言葉。これらから私たちは神の大きな力による救済だけでなく、切支丹と共に苦しみを背負う神とその神による救済もあるのではないかという示唆が前述の一節には描かれているのだと結論付けました。後者の神の存在は私たちの目に新しいものとして映りました。『創世記』の中で描かれている神とは異なるものです。


 さて、長崎市内はゼミ生の多くが以前にも修学旅行で一度訪れており、今回で二度目の訪問となりました。キリスト教関連遺産の一つである、大浦天主堂を拝観した際に、以前とはその印象がかなり違っていました。キリスト教に関してほんの少し知識があるだけで注目する点や感じ取るものがこんなにも変化するのかと驚きました。話をしてみると、みんな同じように感じている様子。ただステンドグラスの美しさやその場の雰囲気を感じるだけで終わっていた頃とは全くの別ものでした。大学で学ぶことの面白さの一つとして、世界が広がることがあります。今回の研修ではそのことを改めて体感しました。天主堂内には絵画やマリア像など、新約聖書の福音書に関するものが多数あります。ゼミでは後期には福音書を授業のテーマとします。この授業を終えて再度この長崎の地を訪れると更に新たな発見があることでしょう。知らないことを学ぶ楽しさを実感したゼミ合宿となりました。



担当教員による補足、あるいは失われた時を求めて


 上記、「事前学習として、遠藤周作の『沈黙』を通読していた私たち」とあります。私から確かに、合宿前に(或いは、遅くとも宿への到着までに)『沈黙』を通読しておくように、と指示。しかし、合宿前に読み終えたゼミ生は皆無。初日の午前、島原へ向かうジャンボ・タクシーの車内で皆、急いで文庫本に目を走らせていたものの、結局、通読できた人は少なかったような……? 文庫本を開いたまま、早々と眠りの世界へ赴いたゼミ生もいたように記憶していますが、何かの錯覚だったのかもしれません。

 二日目、島原から長崎市へ向かう貸切バスの中で、『沈黙』に関するディスカッションを行いました。課題は「『沈黙』の結末、「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」(p.295)とはどのような意味か。説明せよ」というもの。「あの人」とはイエス・キリストのことです。迫害されて苦しむキリスト者たちを、なぜ神は救ってくれないのか、なぜ神は沈黙しているのか。この問いに対して『沈黙』は「沈黙していたのではなかった」という「答え」を出すわけですが、その意味について議論。

 前日の深夜、白熱する人狼ゲームを通して、信じることよりは疑うことを学んでしまったゼミ生たちが、寝不足の頭で、しかし信仰の在り方について議論する言葉に耳を傾けつつ、私もまた幾らか微睡みながら、車窓から長崎の景色を眺めていたのでした。

2016年10月14日金曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

次回のLC哲学カフェ、とりあえず企画のみ、決定しました。

 【映画de哲学】
 「君の名は。」で哲学する

 日時・場所 未定

今回は新企画、「映画de哲学」。

まず、皆で映画館へ行き、「君の名は。」を鑑賞。その後、近くのカフェに場所を移し、今観たばかりの映画について議論します。

映画の代金、及びカフェの飲食代は各自で。

参加希望者は、その旨、小笠原までメールで御連絡下さい。アドレスは教員紹介の冊子に記載されています。

日時は未定。参加希望者と相談の上で決めますが、全員の希望に対応できるとは限りませんので、その点は予め御了承下さい。

2016年10月4日火曜日

注意の仕組み(佐藤基治先生)

「教員記事」をお届けします。2016年9回目は心理学の佐藤基治先生です。



注意の仕組み    
     佐藤基治(心理学


 大学で心理学の教員をやっていると、いろいろなところから講演の依頼があります。私は「心理学」が専門で、その中でも「交通」を研究のテーマのひとつにしているので、事故や安全に関連した話を依頼されます

 各都道府県には交通安全協会というものがあります。運転免許の交付や更新の時に、最近の事故の傾向に関する講習を受けますが、その講習を実施しているのが交通安全協会です。また、5台以上の自動車を業務に使用している事業所は「安全運転管理者」という担当者を選任し、管理者は年に一度「安全運転管理者講習」を受けることが義務づけられており、協会はその講習も実施しています。

 この講習で90分ほどの講演を私がおこなうのですが、その内容の一部を文字にしてみました。就職して職場の「安全運転管理者」となり、「講習」を受けに行ったと想像しながら読んでください。なお、授業ではないので、一部、あいまいな部分がありますが、大学生の皆さんは、疑問を感じたら自分で調べ直して下さい。



『注意の仕組み—交通事故防止のために』

1. はじめに

こんにちは、福岡大学の佐藤です。大学では心理学を教えています。心理学を教えているというと「じゃぁ、私の心の中はお見通しですか?」と問い返されますが、残念ながら、あなたの「こころ」はわかりません。同様に「わたし自身のこころ」もわかりません。では何を教えているかというと、右の図の「水平方向の線分は本当にまっすぐだろうか?」左下の図(1)の「どのスイカが大きいだろうか?」とか図(2)の「どのカップヌードルが大きいだろう?」といった問題を考えています。この話はまたいつかどこかでします。


交通事故による死者数は1年間におよそ4千人です。1970年には年間16,765人でしたから、ずいぶんと改善されましたが、それでも、毎年4千人の方が命を落とされるのは大変なことです。また、近年の特徴として、高齢者の交通事故死者数が増加し、2014年には2,193人の高齢者が交通事故でなくなっています。天寿を全うしようとする時期にいきなり激痛とともに、終末を迎えさせられるというのはどう考えても納得できないと思います。

 今日は自動車の運転場面を念頭に、「注意」に関する心理学の知識を紹介します。これが、交通事故を1件でも減らす手助けになればと考えています。


2.注意とはなにか

 「注意がどのようなものかは誰もが知っている」(James,1890)。今から100年以上も前の有名な心理学者の言葉です。ところが、長い月日が過ぎた現代でも注意研究は盛んにおこなわれています。つまり、100年を経てもいまだに「注意」は十分に明確にはされていないということです。例えば、「手を挙げてください」といえばだれもが同じように行動しますが、「注意してください」といった時には隣の人と同じことをしているとは限りません。

 それでも、「注意」に関してある程度の共通認識はあります。「注意」とは「気を付けること、用心すること」と辞書にはあります。心理学の辞書には「処理すべき情報を選択し、それ以外のものを制御する心的機能」、「情報の存在に気づく、情報を選択する、情報の一側面に集中する」とあります。

 私たちの周囲には情報があふれており、目や耳などを通して絶えず取り入れています。ところが、情報を全部取り込んでいたら対処できません。むしろ余計なことを無視した方がうまくやれます。そこで、必要な情報と、その余計な情報を見極めるのが注意ではないかと考えられています。これでも不十分な定義かもしれませんが、とりあえずはこう考えながら「注意」を考えてみます。


3.「注意」を向ける能力の限界

 どんなふうに「注意」は働いているのでしょうか。例えば、目で物を見る能力、つまり、視力を考えてみます。「視力」というと「目の構造、あるいは能力」を思い浮かべると思いますが、実は、「脳」の能力も関係しています。
注意を向ける能力の限界(1)

 右の図で中央の「+」を見つめたままで、右側の線の数を数えてください。次に左側の線を数えてください。右側の線の数を数えることは可能であるのに、左側では数えられません。これは、一般に視力と考えられているものは、「網膜上の解像度」だけではなく、「脳がモノのどのくらい細かい部分にまで注意を向けられるかに依存している」ことを示しています。

注意を向ける能力の限界(2)
同様に右の図で中心の「+」を見つめたままで周辺の「●」に「注意
」してください。外側の「●」に「注意」を向けることは難しいです。離れたところに注意を持っていくことが困難を伴うことを実感できましたか。因みに上半分の点の数は、下半分より少なくなっています。実は視野の中の下の方が注意を向ける能力がわずかに優れていることが明らかにされています。空には注意すべきものはそう多くはないが、地上には多いのかもしれません。自動車のメータ類が下の方にあるのはこのような「注意」の特性が理由でもあります。


4.物体の追跡

 「注意」の特性の一つに持続性があります。注意は瞬間的なものと思いがちですが、実際にはある時間の間、注意を継続させる必要がある場合が多いように思われます。運転の場面では、例えば、「先行する自動車を追視する」、「自転車や歩行者の動きを捉える」などがあります。歩行者や対向車を一瞥して、注意の仕事が完了するわけではありません。衝突を避ける方に対象が動いているのか、このままでは衝突するのか、自分の動きと対象の動きから次の行動を決定する必要があります。 

 上の図の中の8つの青く丸い図形のうち、4つが数回点滅します。その後すべての「〇」がいろいろな方向に動きます。目を動かさずに、点滅した4つの「〇」を追いかけてください(※ここでは動きません)。意外に簡単です。左の図上では図形の中に白い3本の柱を挿入しました。この柱の後ろ側を「〇」が通過するときには、見えなくなります。先ほどと同じことをします(※ここでは動きません)。ちょっと難しくはなりますが、まだ大丈夫です。最後に、左の図下では柱を背景と区別できなくし、同じことをします。つまり、ランダムに動く「〇」が突然消失したり、出現したりします(※ここでは動きません)。追跡はほぼ不可能になります。

 これらの状況で使われている何かを「注意」と考えると、「注意」を向けないとこれらの課題を遂行できないこと、対象の数が増加すると「注意」が不足しそうなこと、「遮蔽」などで簡単に妨害されるという「注意の脆弱性」があり、さらにそれが状況により異なることなどがあきらかになってきます。「運転中にメールをしていると事故を起こす」、「たくさんの自動車や歩行者がいると疲れる」、「Aピラーで歩行者を見失う」などといった現実の交通場面への適用は皆さんにお任せします。

 このほかにも「運動誘発盲」「注意の瞬き」「変化の見落とし」「不注意による見落とし」など、自動車の運転と関連した興味深い現象がいくつかあるのですが、それはまた別の機会に紹介いたします。


5.まとめ

 「注意」という能力は未だに十分に解明されていないこと、情報を選択する素晴らしい能力であること、しかしながらいくつもの「弱点」を持つものだということを説明しました。

 今日の話の背景にある自動車の運転時は人間にとって特殊な状況です。世界で最も速く走れる人は、100メートル約10秒、時速約36㎞です。その運動能力にふさわしい「注意」の能力しか持っていない私たちが、時速50キロで走るものを運転しているのですから、「注意」の能力を超えた無理な運動をしており、これが事故の原因の一つだと考えられています。研究者、行政機関、安全運転管理者の皆さんのなすべきことは、「注意」の仕組みを明確にし、その限界を広くアナウンスし、個々の運転者に注意の特性を実感する機会を設けることだということになります。

最後に宿題です。
ア)走行速度が大きくなると危険である理由を「注意」の文脈で考えてください。
イ)わき見運転や、酒気帯び運転が禁止されている理由を「注意」の文脈で考えてください。



□佐藤先生のブログ記事

□佐藤先生の授業紹介

2016年10月1日土曜日

LC哲学カフェ開催

9月26日月曜日の夕方、A605教室で久しぶりにLC哲学カフェが開催されました。参加者は学生諸氏が6名に教員が2名、さらに卒業生とそのご家族も加わり、計10名。

今回のテーマは「最も幸せな人生とはどのようなものか?」。今までの「マンガde哲学」では毎回、一つのマンガ作品を素材として取り上げてきましたが、今回は趣向を変えて、一つの問いをテーマに。そしてこの問いは、先日のLCガイダンスゼミナールで課題として出された問いでもあります。

ガイダンスゼミで配られた資料を改めて眺めつつ、ゼミの発表ではこんな意見が出た、あんな意見も出た、と思い返すことから、徐々に話が始まりました。

ゼミの発表では「最も幸せな人生に永遠の命は不要」という意見が多かったが、本当にそうなのか。永遠に生きてあらゆる快楽を味わい続けることができるならばそれで良いし、それが最も幸せな人生ではないか。老いた状態でいつまでも死ねないのが苦痛? では、もし永遠に若いままならば。周囲が皆死んでいくのに独りで生き続けるのは苦痛? もし10人だけ、自分と一緒に永遠に生きる人を選べるならば。

結局、生きている現状に不満があるので、その不幸から逃れるために死を望む? 幸福ならば、永遠に生きても良い? 逆に、不幸がないと後ろめたい? 「ずっと幸福で最後だけ不幸な人生と、ずっと不幸で最後だけ幸福な人生とどちらが良いか」と問われ、参加者の中で意見が分かれる場面も。

苦しみが何もない状態は退屈? いや、退屈は必ずしも不幸ではない。ボーっとしているのも幸せ。いや、ダラダラ過ごしていると「人間の底辺」にいるように感じてしまう。しかし、それは駄目なことなのか。「勤勉は善い」という価値観にとらわれすぎ? そもそも「最も幸せな人生」=「最も善い人生」と言えるのかどうか。

幸福が少ない方が、希少価値がある。苦労した後でこそ幸せを感じる?

幸福と不幸は人によって感じ方が違うし、同じ人でも小学生のときと、大学生になった今とでは幸福の感じ方が違う。ともすれば、何も知らないことが一番幸福なのかもしれない。あるお店のアイスクリームしか知らなかったときは、そのアイスで最高の幸福を感じていたが、別の高価なアイスの味を知ってしまった今、あのときの幸福は失われてしまった……。いやむしろ、美味しいアイスを知らないでいることの方が不幸では、との指摘も。

色々なことをすべて自分の思い通りに選べる人生が、最も幸せな人生? 自分の欲望を満たした結果、誰かを傷つけてしまった場合は? それでも幸せ?

幸福と他者の関係。幸福とは自分の精神的な状態のことで、すなわち「幸福を感じる」=「幸福である」と言える? あるいは、他者の視点も必要? 何が幸福なのか、自分独りで決めることはできない? 最高の幸福を感じさせてくれるような機械があったとして、その機械にずっとつながれ続けていたいと思うかどうか。「私は幸福を感じていた」という偽の記憶を植えつけられた人は、幸福だったと言えるのかどうか。

人を幸せにして幸せを感じることもあるはず。しかし「恋人が幸せだから自分も幸せ」は嘘? 結局、自己満足や錯覚。では「子供が幸せだから自分も幸せ」は? 子孫繁栄のための本能。最終的にはすべて自分のため? では「卒論生が幸せだから指導教員も幸せ」は?

その他、死は幸福なのか不幸なのか、神は幸福なのか、教育で幸福を教えることはできるのか、等々が問われ、また、自分が他人からどう思われているのか考えないのが幸せ、冷静さと幸福は対立する、努力から幸福が生まれる、努力や健康は国が押しつけてきた価値観でしかない、等々の意見が出て、当然のように特に結論は得られないまま、6時のチャイムと共に終了。その後、大学近くの某居酒屋に場所を移し、さらに夜遅くまで議論は続いた、との噂も……。

久しぶりの開催だったためか、あるいはテーマのためか、次々と意見が飛び出したわけではなかったものの、皆でじっくり悩みながら、まるで暗闇の中、手探りで何かを見つけ出そうとするかのように少しずつ論点を挙げていく、という、緩やかで心地好い時間となりました。

とはいえ、この形式での開催にはややマンネリ化の気配も。教室にばかり閉じこもっていないで、次回はいよいよ学外へ……? 詳細についてはこのブログで告知しますので、ぜひ一度、気軽に御参加下さい。