2021年12月17日金曜日

フィールドワークでの不思議な体験

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、文化人類学・民俗学の中村亮先生です。


 タンザニアのキルワ島という小島で足掛け20年間、文化人類学のフィールドワークをしている。その間にいろいろな経験をした。嬉しかったり、腹が立ったり、怖かったりなど。マラリアで死にかけたこともあったが、今ではどれも「思い出」である。しかし一つだけ、いまだにきちんと消化できない、とても不思議な出来事があった。それについて書こうと思う。

2021年12月7日火曜日

中国古代における「記憶」とは?――石に刻み、体に刻み、心に刻む

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学の中村未来先生です。


 昨年度より、「記憶と社会に関する思想的研究」というテーマで、哲学・倫理学領域の先生方との研究会に参加しています。「記憶」というテーマは、中国古代では、あまり取り上げられることのなかったテーマのように思われますが、今回、古典を読み直すことで、新たな気づきがありましたので、ここに少し紹介したいと思います。

 儒家の祖と言われる孔子の言行録『論語』には、次のような言葉が見えます。(注1)

・子曰く、黙してこれを識(しる)し、学びて厭(いと)わず、人に誨(おし)えて倦(う)まず。何か我に有らんや。(老先生の教え。〔理解したことを〕黙って心に刻んで記憶し、学んで厭きるということがなく、人に教えて倦むこともない。それらは、〔他人と異なり〕この私において問題はない。〔これ以外、私に何があるだろうか。〕)(『論語』述而篇)
・子曰く、蓋(けだ)し知らずして之を作る者有らん。我は是れ無きなり。多く聞きて其の善き者を択びて之に従う。多く見て之を識(しる)すは、知るの次なり。(老先生の教え。思うに、〔その問題について〕本当に理解することなくして、新説を作り出す者がいる。しかし、私はそういうことはしない。まず可能なかぎり多くを学んで、その内のこれぞというもの・ことを選び取り、それに従う。〔作り出したりしない。また、〕可能なかぎり多く資料に当たり、それらを記憶するというのは、理解する(知る)ことの前段階なのである。)(『論語』述而篇)