2015年11月30日月曜日

平成28年度文化学演習の所属希望について(連絡)

文化学科学生各位

文化学演習の所属希望について下記の要領で提出して下さい。

1. 提出物

平成28年度 新2年生(LC15台)
 ・文化学演習ⅠとⅡのそれぞれについて「演習所属希望調査票」を提出して下さい(各自2枚提出)。

平成28年度 新3・4年生(LC14台、LC13台以前)
 ・文化学演習Ⅲ-Ⅳ・Ⅴ-Ⅵについて「演習所属希望調査票」を提出して下さい(各自1枚提出)。

文化学演習 未修得者(LC14台以前)
 ・未修得の文化学演習について「演習所属希望調査票」を提出して下さい。
 ・提出の際は「再履修」の欄に必要事項を記入して下さい


2.提出先  文系センター棟1階のレポート提出ボックス(下記地図を参照してください)
       演習ごとに該当するそれぞれのボックスに提出して下さい


3.提出期間 平成28年3月15日(火)~17日(木) 16:50   <厳守>


4.決定した所属の発表 3月19日(土)9:00までに 人文学部掲示板ならびにFUポータル

5.用紙が手元にない場合は、FUポータルかこのページからダウンロードして下さい(画像を右クリックし「リンク先を別名保存」)。

6.演習所属に関する問い合わせは、文化学科の教務・入試連絡委員 大上か宮野・小笠原まで


①新2年生(または③未修得者)
①新2年生(または③未修得者)


②新3・4年生(または③未修得者)


2015年11月27日金曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

来月初旬の哲学カフェ、詳細が決まりました。下記の通りです。

  【マンガde哲学】
  忘れられるって死んでるのと同じ?――『ヘルタースケルター』で哲学する

  日時 12月9日(水) 16:30-18:00
  場所 A613教室

  参考文献 岡崎京子『ヘルタースケルター』、祥伝社、2003年、236-239、275-276頁


四年生にとっては卒論締切間近の、緊張感あふれる時期……。しかし、論文で切羽詰まったとき程、一旦机から離れて、誰かと会話することが必要だったりします。ぜひ、奮って御参加下さい。

飲み物は各自で用意して下さい。
参加者の自己紹介は行いません。また、無理に発言しなくても構いません。
途中入室、途中退室も自由です。
なお、終了後の懇親会等は予定していません。悪しからず。

2015年11月25日水曜日

3年生の日隈美有希さん「福岡大学第26回懸賞論文」受賞

  福岡大学学生部企画の第26回懸賞論文(課題「現代を生きる」)において、文化学科3年生の日隈美有希さんが佳作を受賞し、1125()に授賞式が行われました。


 
  日隈さんご本人から論文の題目と要旨、受賞の言葉をご寄稿いただきましたので、紹介いたします。

論文題目 「福岡を考える~観光のグローバル化と地域大学」

論文要旨
  年々日本への外国人旅行者数は増加し、観光の国際化が進んでいる。我々が生活する福岡も例外ではない。福岡を訪れる外国人旅行客の実態は、アジア圏からの外国人旅行客が圧倒的に多く、しかも初めて訪れる人が大きな割合を占めている。また、福岡を訪れる彼らの多くが買い物を優先させていると推測された。
  これらのことから、本論文では国際都市福岡の観光の課題として①福岡の伝統や文化、歴史の発信と②リピーターの獲得の二つを挙げた。圧倒的多数の外国人旅行客があげる訪問目的である「買い物」に加え、それ以外での福岡の滞在時間の増加とリピーター獲得によって、さらなる経済効果が見込まれるだろう。
  そこで本論文ではこれら二つの課題解決に向けて、地域を同じくする大学に可能な地域貢献活動について考察し、提案した。この活動によって、大学による地域貢献が実現するだけでなく、地域に根ざした人材育成とグローバル人材の育成に繋がると考えられる。


 
日隈さん
受賞の言葉
  今回、佳作に選ばれたことを嬉しく思うとともに、ご指導してくださった林先生に心から感謝申し上げます。
 

  これまで論文を書いたことがなく、卒論を書く前に論文を書いてみようと思ったのが今回の懸賞論文への応募のきっかけでした。このくらいの論文簡単に書けるでしょ、と軽い気持ちだったのですが、本格的にテーマを決め始めた段階でその考えは打ち砕かれました。なかなかテーマが決まらないことに焦りを感じ、それから文字数がなかなか埋まらないことに焦りを感じ、何回も挫折しそうに。ですが、林先生が熱心にご指導してくださったおかげで挫折することなく、提出日ぎりぎりでなんとか提出することができました。提出したあとの達成感と解放感はなんともいえない嬉しさです。
 

  こんなぎりぎりの提出でしたから内容はとても良いものとは言えず、もっと時間をかけていれば!と反省を始めるとキリがないのですが、せっかく今回このような経験ができたのですから、卒論を書く際に活かせたらと思っています。来年も募集があると思いますので、特に卒論を書こうと考えている方、ぜひ応募してみてはいかがでしょうか。

2015年11月24日火曜日

文化学科フォーラム講演会のお知らせ

以下の要領で文化学科フォーラム講演会を開催します。今回は、2年前に卒業されたばかりの柴田千尋さんによる講演です。みなさんふるってご参加下さい!


日時:12月19日(土)13時30分~15時30分
場所:2号館地下1階会議室1
講演者:柴田千尋さん (LC09台、2013年3月卒業生、株式会社マイナビ九州支社勤務)
講演題目:文化学科での学び、仕事のやりがい


2015年11月13日金曜日

第十回「マンガde哲学」開催

先週4日水曜日、約四ヶ月ぶりに哲学カフェが開催されました。「マンガde哲学」の記念すべき第十回は、満を持して士郎正宗の『攻殻機動隊』が題材。参加者は学生諸氏が約十名に、教員が二名。

作品の舞台は、電脳化と義体化の技術が高度に発達した未来世界。「私時々「自分はもう死んじゃってて、今の私は義体と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか?」って思う事あるわ」と話す主人公に、友人が「でもちゃんと脳ミソとかついてるし、人間扱いされてるしィ」。

「脳ミソ、自分で見たわけじゃないのに? 周囲の状況でそうだと判断してるにすぎないのに? ある日突然メーカーが来てさ、「不良品の回収ですぅ」とか言って分解回収されて、残ったのが脳細胞2~3コだったらどうする?」「人間であるために最低限必要な部品ってそんなに少なくないわよね……大脳機能も結構化学反応やメカで代用できるけど……」

青ざめた顔で「へへへへへぇ……」と笑い合う二人を尻目に、ロボット(戦車?)のフチコマ曰く、「そんなに人間と同質なロボットが創れたら、そりゃロボットじゃなく人間なんだよね!」。

さて、人間とロボットの違いとは何か、という問いから議論がスタート。人間は突拍子もないことをするが、ロボットはしない? いや、プログラム次第でロボットも突拍子もないことができる。人間は無駄なことをするが、ロボットはしない? いや、プログラム次第でロボットも無駄なことができるはず。

記憶を美化するか否か? 何かを忘れることができるかどうか? それらもやはりプログラム次第。ならば、その点に違いが? つまり、ロボットはプログラムに従って行動するが、人間は自分の意志で行動する。要するに、意志の有無が両者の違い? しかし人間も、教育というプログラムによって行動が決定されている……?

感情の有無、生殖機能の有無、人格や人権の有無、責任能力の有無。成長するかしないか、新しいものを創造できるか否か。個性があるかないか、奇抜な発想ができるかどうか、皆に好かれていないものを好きになることができるかどうか。或いは、単に材料の問題。有機物か無機物か、天然か人工か。或いは、単に扱い方の問題。人間として扱うなら人間で、ロボットして扱うならロボット……?

人間らしさは死や老いにあり、だからアンチエイジングや不老不死は人間性を薄める、とか、ロボットが人を殺したら誰が罰せられるのか、とか、美醜の判断基準が江戸時代に戻ることはあり得るのか、とか、ロボットも愛を感じられるのか、とか、さらには孔雀やライオンやカマキリ、偶然性、遺伝子操作と整形、等々の言葉が飛び交う中、そもそも意志とは何か、という問題が提起され、そして映画「her」の話が出た辺りで時間切れとなりました。

というわけで、後期の哲学カフェが漸く始動。次回は来月、おそらく上旬に開催される予定です。心地好い冷気の漂う季節、ぜひ温かい飲み物と軽い哲学談義を。

2015年11月1日日曜日

夢の21世紀からの報告(関口浩喜先生)

 「教員記事」をお届けします。2015年度第12回は、哲学の関口浩喜先生です。現代社会への風刺に富んだショートショートを寄稿してくださいました。1972年から2015年にやってきた「ぼく」には、「夢の21世紀」はどのような世界に映ったのでしょうか。



  夢の21世紀からの報告

関口浩喜(哲学)

  先生、こちらに着いて三日目の朝を迎えました。少し遅くなりましたが、最初の報告をします。
  でも、報告すべきことが多すぎて、いったいどこから始めたらよいのか、わかりません。

  そうそう、先生は、ぼくが出かけるまえに「今から四十年以上も先の未来だから、お札だってデザインが変わっているかもしれない。そのときは、銀行に行って未来のお札とかえてもらいなさい」とおっしゃいましたね。その通りでした。ほんとうに先生は変なところにまで気が回る方ですね。

  最初に入ったデパートで買い物をするひとたちがお金を支払うところを観察して、いまぼくたちが使っているお札とは違うことに気づきました。あとで手にとってみてわかったのですが、千円札の肖像画は、伊藤博文ではなく、野口英世に変わっています。それにだいぶ青っぽいお札です。一万円札からは聖徳太子が消えていて、福沢諭吉がかわりにいました。少し小さめですが、でも、いまの一万円札と色やデザインは似ています。五百円札はありません。かわりに五百円玉があります。

  それで、先生のアドバイスに従って銀行に行ったのですが、ちょっと変なことがありました。ぼくは「昔のお札なのですが、いまのお札と換えてください」と窓口で頼みました。すると窓口のおねえさんは、ぼくが手渡した紙幣を受けとって金額を確かめると「ぜんぶ千円札に換えても大丈夫ですか」とたずねるのです。ぼくが思わず「ぜんぶ千円札に換えると、何か危険なのですか」と聞き返すと、相手は困った顔をして「全部千円札に交換してもよろしかったですか」と言いなおしました。まだ交換してくれていないのに、なぜ「よろしかった」と過去形で言うのか、これもよくわからないままに、怪しまれてはいけないと思い、「いえ、一万円札と千円札と半々にしてください」と頼みました。新しい紙幣をぼくに手渡すとき、そのおねえさんが「新しい紙幣になります」と言ったので、未来では目の前で古い紙幣が新しい紙幣に変化するのかと思い、しばらくその場で新しい紙幣に変化するのをわくわくしながら待っていました。すると、おねえさんがもう一度「新しい紙幣になります」と、今度は少し不機嫌そうに言ったので、「どれくらいで新しい紙幣になるのですか」と丁寧に穏やかにたずねると、「えっ」と言ったまま、気味の悪そうな顔をしてこちらを睨み黙りこんでしまいました。何か失敗をしたらしいと気づき、あわてて紙幣の束をつかんで銀行を出ましたが、いまだに何がいけなかったのか、わかりません。

  ところで、先生はぼくがこちらに来るまえに「今から四十年以上も経てばインフレが相当進んでいるだろうから、今の二十万円なんて、もしかしたら子供の小遣い程度になっているかもしれないよ」と笑いながらおっしゃいましたね。でもそれほどのことはありませんでした。二十万円は、未来でも大金です。

  できる限り順序だてて書きます。
  ぼくが着いたのは、当初予想していた東京ではなく、福岡でした。あとでわかったのですが、福岡の天神という、繁華街でした。ということは、ぼくは21世紀には福岡で暮らしているということです。日付は、これは新聞で確認したのですが、2015年の10月18日でした。日曜日です。元号を見ると、昭和はとっくに終わっていました。予想していたことではありましたが、軽いショックを受けました。新しい元号は「平成」です。なんだか、ずいぶんと雅(みやび)な元号ですね。平成27年でした。
着いた時刻は正午を少し過ぎたころです。

  ねえ、先生、驚いたことに、空は真っ青に澄んでいましたよ。街を行くひとは誰も防毒マスクなんてしていません。(そのかわりに、小さな長方形の箱のようなもの持っていて、みんなそれを眺めながら歩いています。この箱の正体については、現在、調査中です。)公害がこのままひどくなれば、21世紀のひとたちはみな、防毒マスクを付けなければ外出できなくなるだろうなんて予測がよく出ていますが、まったく違いました。最初こそ恐る恐る呼吸をしていたのですが、変な臭いもしないので、すぐにふつうに息をしました。むしろ、いま(つまり、1972年)の方がよほど空気が汚れています。

  あと、人々の服装もそれほど変わっていません。少なくとも、宇宙服みたいな銀色に輝く服を着ているひとなんて一人もいません。頭からアンテナを出しているひともいません。全体的に、何というか、ゆったりした感じの、あるいはだらしのない服装をしているな、という印象です。ちょっと驚いたのは、シャツの裾(すそ)をズボン(きのう知ったのですが、21世紀のひとたちは「ズボン」と言わずに、「パンツ」と言います)から出して歩いているひとが多いことでした。中年の立派な紳士がそんな格好で歩いていたので、よほど「シャツの裾が出ていますよ」と注意してあげようと思いましたが、思いとどまってよかった。だって、みんなそうしているのですから。

  それから、先生、エアカーなんてどこにも走っていませんよ。自動車は相かわらず、タイヤで走っています。考えてみれば、自動車一台を浮かすほどの空気を車体から出したら、周囲のひとたちはいい迷惑ですよね。まったく空想はどこまで行っても空想です。

  また、車はすべて電気自動車に変わっているのかと思いましたが、ほとんどの車は相かわらずガソリンで走っているようです。たしか、石油は20世紀の終わりにはなくなっているはずでしたよね。新しく大油田でも見つかったのかなあ。それと、ぼくたちの時代の自動車と比べると、21世紀の自動車は、全体的に丸っこくて小型になった感じがします。
飛行機も、コンコルドみたいな大型超音速旅客機が空を飛びまわっているはずでしたが、しばらく空を眺めていても、そんな飛行機は一機も飛んでいませんでした。見かけた飛行機の機体は、いまとあまり変わらず、むしろ小さくなっているようにさえ見えました。でも、機体の色はとても鮮やかで、青や赤い機体の飛行機も飛んでいました。
 
  駅に行って、驚いたことがあったので、これも報告しておきます。西鉄電車の薬院という駅に行ったのですが、まず、改札口に駅員がいないのです。鋏をテンポよくあやつって切符に切れ目を入れてくれるあの駅員がいません。どうなっているかというと、吸い込み口のようなところに切符を入れると、それと同時に閂(かんぬき)のような扉がぱっと開き、改札口を通れるようになるのです。そして、吸い込み口の反対側から切符が出てくるので、それをつまんで受けとって、駅に入るというしくみです。この間、わずか一秒もかからない早わざです。そのしくみがわかるまで、ずいぶんと時間がかかりました。何十人ものひとが改札口に通るのをじっと観察していました。たぶん、ぼくは怪しげな人物に見えたことでしょう。それにね、先生、21世紀では、そもそも切符が必要ないようなのです。多くのひとは改札口の手前で定期入れのようなものを出し、それを吸い込み口の近くにある、特定の場所にかざします。するとピッという音がして、例の扉が開くのです。

  でも、ぼくたちの時代でも自動扉はあるわけですから、これはそれほど驚かなくてもよいのかもしれません。ぼくがほんとうに驚いたのは、駅のホームにあがってしばらくしてからでした。
 
  最初ホームにあがったとき、見なれている国鉄の駅のホームとはどこか違うなという感じがしました。でも、どこが違うのか、はっきりわかりません。というのも、駅の造りも今の時代とそれほど変わっていませんから。ホームに入ってくる電車も、見なれた国電と違うのは当然ですが、流線型の電車ではまったくなく、ごくふつうの電車だったり、小田急のロマンスカーのような電車だったりで、これも驚きませんでした。むしろ、ほとんど変わっていないことに驚いたほどです。それに電車の運転士さんも車掌さんもたしかに人間でしたよ。ロボットではありませんでした。
 
  さて、いったい何が違うのか、それを突き止めようと思い、電車を数台やり過ごして、ホームを観察しました。しばらくして、ようやくわかりました。タバコの吸殻がまったくないことでした。ぼくがふだん使う国電の駅のホームでは、サラリーマンのひとたちがタバコを吸って、その吸殻をホームや線路に平気な顔で当たり前のように投げ捨てます。ところが、21世紀の駅のホームには、そして線路には、タバコの吸殻が一本も捨てられていないのです。とても綺麗で清潔です。そのことに気づいてあたりを見回すと、ホームには結構な数のひとがいるというのに、タバコを吸っているひとが一人もいません。
 
  先生、先生のような愛煙家にとっては、21世紀は困るかもしれませんが、でもとても清潔ですよ。あの綺麗ですがすがしいホームを見てしまったら、20世紀の汚いホームにもどる気にはなれません。あと、にわかには信じられないでしょうけど、21世紀の喫茶店ではタバコが吸えないのです。何を馬鹿な、とおっしゃるかもしれませんが、ウソではありません。ほんとうです。ぼくはある喫茶店に入ったのですが、その店は禁煙でした。
 
  それで思い出しました。その喫茶店に入ったときは、困りました。注文の仕方がわからなかったのです。店に入って、空いている席に座ったのですが、いくら待っても店員が注文をとりに来てくれません。この店の店員は何をしているのだろうと思い、いらいらしかけたころ、ようやく気づきました。最近、銀座にハンバーガーを食べさせる店ができましたね。先生は、そこにいらしたことがありますか。あの店では、店員が注文をとりにくるのではなく、客が自分で店員に注文するというしくみです。あれと同じだったのです。そんなしくみの喫茶店があるとは思いもよりませんでした。
 
  さて、自分で注文する段になって、またもや、そしてもっと困りました。あ、ちなみに店員がロボットだったいう話ではありませんからね。21世紀になると、ロボットが人間の代わりにいろいろなことをしてくれるという話がよくありますが、ぼくが見た限り、ロボットは一台もいませんでした。
 
  何に困ったのかというと、メニューがさっぱりわからなかったことです。20世紀の喫茶店では、注文は「ホット」とか「コーヒー」とか言えばそれで済みますよね。でも、先生、21世紀の喫茶店は手ごわいのです。先生はわかりますか。「ソイラテ」、「カフェラテ」、「キャラメルマキアート」、「マンゴーパッションティーフラペチーノ」、果ては「フルーツ-オン-トップ-ヨーグルト フラペチーノwithクラッシュナッツ」などなど、メニューを見ているだけで頭に血がのぼり、目の前がクラクラして、脂汗がでてきました。たしか店頭には「coffee」と書いてあったから、間違いなく喫茶店のはずなのに、コーヒーがないじゃないかと不審に思いながらも、必死に目を走らせると、ようやく「ドリップコーヒー」という文字が見つかりました。そこで「ドリップコーヒーをください」と頼んでほっとする間もなく、新たな試練がぼくを襲いました。

  店員は、にこやかな笑みを浮かべながら「サイズはどうなさいますか」とぼくに聞くのです。先生、コーヒーにサイズがあるなんて信じられますか。いままでの人生のなかで、喫茶店でコーヒーのサイズを聞かれた経験がおありですか。ぼくはかすれた声で「サイズ?」と聞き返すのが精一杯でした。でも、試練はまだ続きます。店員は愛想よく「はい、ショート、トール、グランデ、ベンティのどれになさいますか」と聞くのです。もう何が何だかわからなくなり「お任せします」と言ったら、店員は困った顔をしました。ぼくはとっさに「一番売れているのはどれですか」と聞きました。これは我ながらなかなかの策だったと思います。店員は少し考えてから「トールサイズです」と言ったので、それをくださいと言って、ようやく試練が終わりました。

  こんなことを報告していたら切りがありませんね。でも、これでもぼくが先生にお伝えしたいことのほんの一部なのです。これ以外にも、21世紀の電話番号はやたらに長いとか、21世紀の傘は透明のビニール製だとか、あいさつの言葉は「こんにちは」でも「こんばんは」でも「さようなら」でもなくすべて「お疲れさまです」だとか、伝えたいことがたくさんあります。そして、変わったことがたくさんある一方で、20世紀と同じく、夜の街には先生の大好きな赤提灯の店もちゃんとありますし、ヨッパライもいます。猫も21世紀になってもあいかわらずかわいくて、優雅です。じつは、昨夜、とある駐車場で一匹の黒猫と知り合いになりました。

  また報告しますね、先生。