「教員記事」をお届けします。2016年度第6回目は、小笠原史樹先生です。
歌詞の中の神々
最近まで中州の大洋映画劇場で、クリスチャン映画を3作品連続で公開する、というイベントが開催されていた。この場合の「クリスチャン映画」とは単に「キリスト教をテーマにした映画」ではなく、「キリスト教の信仰の立場から作られた映画」のこと。上映されたのは「復活」(Risen)、「天国からの奇跡」(Miracles from Heaven)、「祈りのちから」(War Room)。私はクリスチャンではないものの、仕事と趣味を兼ねて3作品とも観に行き、相応に楽しんだ。
「復活」が古代のエルサレム等を舞台にしているのに対し、残り2作品の舞台は現代アメリカ。「天国からの奇跡」の冒頭、教会の壇上で会衆を前に、バンドが演奏している場面が出てくる。軽快なポップスのメロディに乗せて“Lord, I’m longing for your ways/I’m waiting for the day”(主よ、あなたの道を切望しています。その日を待っています)とか、歌っている。「祈りのちから」のエンドロールで流れるのも、同様のキリスト教的な曲。“I am a warrior on my knees”(私はひざまずいた戦士)、“Even though our enemy roars like a lion, the Lion of Judah is on our side”(敵が獅子のように吠えても、私たちにはユダ族の獅子が付いている)。
「ユダ族の獅子」はイエス・キリストを指している。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(『ヨハネの黙示録』5章5節、新共同訳)。
どうやら「クリスチャン・ロック」というジャンルがあるらしい、と知ったのは、昨年、やはり中州の映画館で観た「神は死んだのか」(God’s not Dead)がきっかけだった。作中、ニュースボーイズという実在のバンドが登場して歌う。“My God’s not dead/He’s surely alive/He’s living on the inside/Roaring like a lion”(私の神は死んでいない。彼は確かに生きている。心の中にいて、獅子のように吠えている)。キリスト教とロックは対立している、とばかり思っていたので、この映画を観たときは驚いた。
1970年、ジョン・レノンは“God”という曲を発表している。“God is a concept by which we measure our pain”(神なんて、僕らの痛みを測るための概念でしかない)、“I don’t believe in Bible(…)I don’t believe in Jesus(…)I just believe in me, Yoko and me, and that’s reality”(聖書なんて信じない(…)イエスなんて信じない(…)僕は僕だけを信じる、ヨーコと僕だけを。確かなのはそれだけ)。
1976年にはセックス・ピストルズが“I am an anti-Christ”(俺は反キリスト)と声を張り上げ、2000年にはマリリン・マンソンが“I’m not a slave to a god that doesn’t exist”(俺は神の奴隷じゃない、神なんて存在しない)と叫んだ。ブラック・サバス(黒い安息日)やジューダス・プリースト(裏切り者の司祭)に至っては、そのバンド名からして反キリスト教的である。
しかし気づけば、既に1990年代から、インペリテリがキリスト教的な歌詞の曲を発表してもいた。1994年のアルバムのタイトルは“Answer to the Master”(主に答えよ)。ジャケットも、ミヒャエル・パッハーの「聖ヴォルフガングと悪魔」というキリスト教の絵画。さらに1996年のアルバム、一曲目の出だしは次の通り。“Father forgive them, they know not what they do”。ほとんどそのまま、新約聖書からの引用である。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(『ルカ福音書』23章34節、新共同訳)。実はブラック・サバスにも、キリスト教的な曲がある(“After Forever”、1971年)。
邦楽の歌詞でも案外、神への言及は多く見られる。YUIの「How Crazy」、「Oh 神様 ちょっと不公平だって思うよ」。チャットモンチーの「世界が終わる夜に」、「わたしが神様だったら こんな世界は作らなかった/愛という名のお守りは 結局からっぽだったんだ」。どちらも2007年。
1974年、荒井由実の「やさしさに包まれたなら」、「小さい頃は神さまがいて/不思議に夢をかなえてくれた」。1997年、川本真琴の「1/2」、「唇と唇 瞳と瞳と 手と手/神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる」。広瀬香美の「ロマンスの神様」や植村花菜の「トイレの神様」、最近ではハナエの「神様はじめました」(鈴木ジュリエッタのマンガ『神様はじめました』に由来)や椎名林檎の「神様、仏様」、等々。
今一番気になっているのは、RADWIMPSの幾つかの曲。「おしゃかしゃま」、「もしもこの僕が神様ならば 全てを決めてもいいなら/7日間で世界を作るような 真似はきっと僕はしないだろう」。「狭心症」、「そりゃ 色々忙しいとは思うけど/主よ雲の上で何をボケっと突っ立ってるのさ/子のオイタ叱るのが務めなんでしょ/勇気を持って 拳を出して/好きなようにやっちゃって」。「五月の蝿」には直接「神」という言葉は出てこないが、次の歌詞が印象的。「激動の果てにやっとたどり着いた/僕にもできた絶対的な存在/こうやって人は生きてゆくんでしょ?/生まれて初めての宗教が君です」。そして「実況中継」では、神様と仏様が喧嘩になる――。
しばしば日本は「無宗教」と言われるが、誰かが「神様」と歌って、その言葉を聴いて多くの人が自然に理解する程度の、漠然とした「神」の概念は共有されているはず。これらの歌詞を集めて分析してみたり、洋楽と比べてみたりすることで、現代日本における「神」の在り方が見えてくるかもしれない。勿論、音楽だけでなく映画や小説、マンガやアニメ、ゲーム等も格好の研究対象になるだろう。ごくごく身近なところに、いくらでも学問のネタは転がっている。
というわけで、もし万が一、私が研究室でジューダス・プリーストを聴きながら『夏目友人帳』を読んでいたとしても、決して怠けているわけではないのである……おそらく。
□小笠原先生のブログ記事