「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は,哲学・宗教学の小笠原史樹先生です。
映画館へ行くこと、目的を持たないこと
小笠原史樹(哲学・宗教学)
中洲大洋映画劇場が、来年(2024年)3月末で取り壊される、という。公式ホームページによれば「建物の老朽化」が理由らしく、仕方ないことなのかもしれないにせよ、やはり惜しい。これで近隣から映画館が無くなってしまう、とも感じる。もちろんKBCシネマもあれば、キノシネマもある。ユナイテッド・シネマもTOHOシネマズも、T・ジョイもある。それでも、昭和21年の開館以来しばらく、きっと劇場は満員で、立ち見のお客さんで溢れ返っていたはずの往年、往時の雰囲気を漂わせる映画館は、近隣では他に残っていない。残念で、寂しくて、哀しい。
通常の映画だけでなく、海外の演劇、オペラなどの録画も上映してくれているし、私自身はまだ観たことがないが、歌舞伎の録画も上映されている。また、同じく未見ながら、「タイタンライブ」というお笑いライブの生中継もある。福岡市の文化の確かな一端を、この映画館は担っていた、と思う。ちなみに、今年(2023年)中洲大洋で観た作品の中では、特に「イニシェリン島の精霊(The Banshees of Inisherin)」が印象的だった。
とはいえ、そもそも映画はほとんど観ない、という人も多いだろうし、映画はネット配信で観るので映画館へはあまり行かない、という人も少なくないだろう。確かに、効率的ではない。ネットならば好きな時間に、好きな場所で観られる。にもかかわらず、わざわざ決められた時間に決められた場所へ行き、見知らぬ人々と共に黙って長時間、薄暗い室内に半ば閉じこめられ、可能な限り音を立てず、人工的な光で照らされた平面を凝視して座り続ける……と書くと、ホラーの一場面のようですらある。
効率を求めること自体は、決して悪いことではない。明確な目的を定め、その目的を達成するために必要なもの(必要に見えるもの)以外はできるだけ切り捨て、労力を省く。より早く、より多く、より簡単に。良いことなのだろう。映画を早送りで観る、という方法も、本の速読と似たようなもの、と考えるならば、自分がその方法を使うかどうかはともかく、頭ごなしに否定すべきではない気もする。
翻って、非効率的であるにもかかわらず、わざわざ何のために映画館へ行くのか、という問いに対しては、「何のために?」の答えになるような目的のないことが、映画館へ行く「目的」である、と答えてみたくなる。
ヘルマン・ヘッセの小説、『シッダールタ』の結末近くで、川の渡し守となった主人公シッダールタが修行僧に、次のように話す場面がある。
「さぐり求めると」とシッダールタは言った。「その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。おん僧よ、おん身はたぶん実際さぐり求める人であろう。おん身は目標を求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから」(ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』、高橋健二訳、新潮文庫、2012年(改版)、177-178頁)
わざわざ何のために映画館へ行くのか。映画を観るため、と言って間違いではないだろうし、映画館のスクリーンや音響設備に理由を求めることもできるだろうが、このような説明でちゃんとした答えになっているのかどうか、違和感も覚える。そもそも、ある行為について「何のために?」と問うことは、つまりその行為を、何らかの目的のための手段と見なす、ということに等しい。このとき往々にして、その行為が持つ多様な側面の内、目的を達成するために役立つ部分だけが重視されて、役に立たない残りの部分は軽視され、切り捨てられる。しかし、映画館へ行くことの醍醐味は、むしろこの、目的を問うことで切り捨てられてしまう部分にこそあるのだろう、とも予感される。
また、目的のための手段と見なすとは、すなわちその行為を、他の手段によって置き換えられるもの、代替可能なものと見なす、ということでもある。同じ目的を達成できるならば、他の手段でも構わない。役立つが故に価値を持つものは、役に立たなくなった時点で、あるいは、より役立つものが登場した時点で、直ちに価値を失う。効率的であるが故に価値を持つものは、より効率的なものが現れた時点で不要になる。
だから、「何のために?」の答えになるような目的のないことが、映画館へ行く「目的」である、と答えてみたくなる。ヘッセの『シッダールタ』を援用して「映画館に行くとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」と気取り、その代替不可能性、かけがえのなさを表現してみたくなる。目的を問うのを止めることによって、切り捨てられてしまっていた部分も自然に、容易く回復され、見出されるだろう。慌ただしく「何のために?」と目的を問い続け、効率性を求め続けるような日々の生活から離れて、しばらく日常の外部に身を置き、目的や効率性を考慮せずに「目の前にあるいろいろなもの」を見る。映画館へ行く、というのはそのような、目的を持たない行為に他ならない……。
……もちろん、映画作品も様々。締切間近の仕事を一時的に放置し、「何のために?」と問うことなく意気揚々と映画館へ急いで、約二時間後、映画を観終わって頭を抱え、否応なく「わざわざ何のために映画館へ来たのか?」と自問せざるを得ない類の作品に出会ってしまうことも、時にはある、かもしれない……が、それもまた一興。絶望感と共にどうしようもなく笑いがこみあげてきて、この作品のこと、この体験のことを嬉々として誰かに話したくなる、そんな感覚が味わえるのも、おそらくネット配信では得られない、映画館ならではの楽しみである。