「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、地理学の
藤村健一先生です。
福岡城下町・博多の景観変化
藤村健一(地理学)
昨年の9月と10月に、「城南市民カレッジ歴史講座」の一環として、福岡市城南区の別府公民館にて、地元福岡市の歴史地理に関する市民講座を行いました。今回のブログでは、この講座内容の一部をご紹介します。
1.歴史地理学とは何か
最初に、「歴史地理学」という分野について講義を行いました。
歴史地理学はその名の通り、地理学と歴史学にまたがる分野です。地理学とは、ようするに地表面上の空間に関する学問です。一方、歴史学は人類の過去、すなわち時間に関する学問です。ですので歴史地理学は、空間と時間を共に考察しようとします。
空間と時間を共に考察するために、次の(1)~(3)の手順を踏みます(図1)。
(1) ある地域の過去の一時期における景観・風景・統計値を復元(復原)する。
(2) 同様の復元作業を、他の時期に関しても行う。
(3) 復元された景観・風景・統計値を比較し、それらの歴史的変化の過程を考察する。
図1 歴史地理学の方法(藤村作成)
ただし、各時代の地域の景観等を示す史料がいつも都合よく見つかるとは限りません。見つからない場合、次善の策として、研究対象とする時代に最も近い時代の史料を用いて、その時代の景観を推定する間接的方法を採ります(表1)。たとえば、近世の日本には地形図は存在しませんでした。そこで当時の地形を、明治期に作られた旧版地形図(仮製地形図など)を通して推定することがあります。
(桑原公徳『歴史景観の復原』古今書院、1992年)
2.福岡城下町・博多の景観変化を示す地図
講座では、江戸期の絵図と近現代の地形図を使って、19世紀初頭・19世紀末・21世紀初頭の福岡城下町・博多の市街地を比較する作業を行いました。
作業を始める前に、「絵図」と「地形図」について説明します。
近世以前の地図は通例「絵図」と呼ばれます。絵画は日本画のような表現をとっていますが、地図記号のような一定のパターンが見られます。しかし、測量結果に基づいて作られた近代以降の地図とは異なり、方位・縮尺がいいかげんです(作成者が強調したいところが大きく詳細に描かれる傾向にあります)。
そのため、絵図を用いて過去の景観を知るためには、近代以降の地図と比較し、絵図のどの部分が現実のどの地域を表現しているのかを確認する作業(現地比定)が必要です。
「地形図」とは、地表の起伏を等高線で、主な建物や植生、土地利用の分布を地図記号で記した一般図です。近代国家が自国の国土を掌握するために、国土の全域を統一された規格により作成します。日本では現在、国土交通省の付属機関である国土地理院が作成しています。1945年までは、陸軍の参謀本部の陸地測量部が作成していました。
今回は次の①~③の絵図・地形図を使用します(講座では参加者にコピーを配布しました)。
①「福岡城下町・博多・近隣古図」1812(文化9)年写
本図は九州大学附属図書館がweb上で公開しています。
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/exhibition/1523931_annotation 上記リンクの絵図画像をクリックすると、絵図の全体像が表示されます。絵図には建物名や居住者名、町名などが書き込まれています。全体像では図中の文字が小さすぎて読めませんが、マウスで拡大すると読むことができます。
なお本図に関しては、『古地図の中の福岡・博多―1800年頃の町並み』(宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編、海鳥社、2005年)に詳しい解説があります。
② 陸地測量部発行 正式2万分の1地形図「福岡」「博多」「箱崎」〔いずれも明治33(1900)年測図〕
https://fukuoka-u.box.com/s/zmyircf83gr3zfhiku9biake9k5qnil5 福岡市を対象とした近代的測量による地図(地形図)としては最古で、江戸後期~幕末の様子をある程度とどめていると思われます。市街地や集落の箇所は、黒色や斜線で示されています。
これらは『正式二万分一地形図集成』(地図資料編纂会編、柏書房、2001年)に収載されています。原図は福岡県立図書館のふくおか資料室で見ることができます。
③ 国土地理院発行 5万分の1地形図「福岡」〔平成17(2005)年要部修正〕
現代の地形図です。②図・③図は同じ縮尺になるように拡大・縮小しています。
https://fukuoka-u.box.com/s/777lu55dv75ad4h473nvxy5eu7l6yay9 3.福岡城下町・博多の景観変化の分析作業
それではいよいよ、福岡城下町・博多を対象として、絵図(①)と旧版地形図(②)の比較による現地比定、ならびに新旧地形図(②・③)の比較を行います。講座の参加者の皆さんには、下記の作業を実際に行っていただきました。
<作業ア>
まず①図の全体像を眺めてみてください。左側に福岡城と城下町が、右側に博多の町が描かれているのが分かります。両者の間に中洲と那珂川があります。
福岡城下町の部分には武家屋敷の所有者名、博多の部分には各町名などが書かれています。こうした文字が書き込まれている範囲が、おおむね当時の市街地の領域であったと思われます。そこで、19世紀初頭の福岡・博多市街地のおおまかな範囲を推定し、当時の市街地の外縁を②図に色ペンで記入してください。
※一般に絵図の縁辺部では縮尺を度外視して省略表現を用いることが多く、①図では城南部(福岡城の南側のエリア)の表現に歪みが生じています。そのため、城南部はどこまでが市街地だったか(福岡城下町の南限はどこか)がはっきりしません。とりあえず腰だめで書いてみてください。
<作業イ> ①・②図には紺屋町堀(中堀)、肥前堀(佐賀堀)、薬院川(三光橋~林毛橋)が描かれています(図2)。しかし③図にはこれらはみあたりません。そこで、③図にかつての紺屋町堀、肥前堀、薬院川の位置を色ペンで記入してください。
図2 ①図における紺屋町堀・肥前堀・薬院川の位置
<作業ウ> ①・②図の海岸線はほとんど同位置と思われますが、③図には埋立地が描かれており海岸線は①・②図と大きく異なります。そこで、②図の海岸線(おおまかなもので構いません)を③図に色ペンで記入してください。
<作業エ> 作業アで②図に引いた線をみながら、文化年間の福岡・博多市街地の外縁を③図に色ペンで記入してください。
<作業オ> ②図には西鉄天神大牟田線が描かれていません。また、博多駅の位置も現在と違っており、鹿児島本線も一部区間で現在と異なる位置にあります。そこで、西鉄天神大牟田線の路線と駅、鹿児島本線の路線(現在と異なる区間のみ)と現在の博多駅の位置を、それぞれ②図に色ペンで記入してください。
※埼玉大学の谷謙二教授が運営する「今昔マップon the web」(
http://ktgis.net/kjmapw/)では、過去の2万5千分の1地形図を閲覧し、現在の地図と比較することができます。これを参考にすると、作業オは比較的簡単にできます。
まずは作業ア~オを一通りやってみてください。一連の作業が終わったら②・③図の解答例をお見せします。
4.作業結果(解答例)の紹介
<②図の解答例>
https://fukuoka-u.box.com/s/pmvfcpg645d67z5dq3qc7inv00wuixg1 図の赤枠が、江戸後期(19世紀初頭)の福岡城下町・博多の市街地の推定範囲です。福岡城下町は博多湾沿いを東西にのびており、西端が西新・藤崎の付近、東端は那珂川河岸、南端が現在の桜坂・谷の付近です。今泉・警固の付近は寺町になっており、ここも城下町の端にあたります。
博多の町は博多湾と那珂川・御笠川に囲まれたエリアにありました。東端は御供所町・祇園町の付近です。この付近も寺町になっています。
②図には初代博多駅が描かれています。博多駅は、当時の市街地縁辺であった祇園町に接する町はずれにありました。
①図の江戸後期から1世紀近くが過ぎた明治33年(1900年)になっても、市街地の範囲があまり変わっておらず、周囲の都市化が進んでいないことが分かります。福岡城下町に関しては、江戸後期よりもむしろ市街地の範囲が縮小しているようです。
たとえば福岡城の北西にあたる荒戸(現在、福岡大学附属若葉高校があります)や唐人町の付近には、桑畑の地図記号が描かれています。『古地図の中の福岡・博多』によれば、江戸期の荒戸町は中・上級藩士の屋敷地であり、広い敷地を持つ武家屋敷が並んでいました。しかし明治初期の廃藩置県の後、仕官先を失った居住者が退去するなどしてこの一帯は荒廃し、農地になったようです。
当時の日本では生糸が主な輸出品であったため、蚕のえさとなる桑の栽培が各地で盛んでした。桑の栽培は水田稲作よりも容易に始めることができたので、空き地になった旧武家屋敷地に桑畑が成立したと思われます。
余談ですが、同様に明治維新後に旧武家地が農地・空き地などとなり、城下町の市街地が縮小する現象が全国各地でみられたようです。現在、山口県の萩城下町では、かつての武家地のエリアで夏みかんが栽培されていますが、これも明治期に空き地になっていた旧武家屋敷の跡地利用策として始まったものです(「萩の夏みかん」萩市役所ウェブサイト
https://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/45/518.html)。
東京でも、山の手の旧大名・旗本屋敷地が明治維新後に荒廃したため、困った明治政府がこうした土地に茶や桑の栽培を奨励しました。これを「桑茶政策」と言います(東京都編・発行『都史紀要13 明治初年の武家地処理問題』1965年)。明治前期の地形図によれば、麻布・青山など当時の山の手縁辺部には桑畑・茶畑や雑木林が広がっていました。
なお、福岡城の東側の天神・大名エリアも江戸期は武家屋敷地でしたが、こちらは明治になっても農地化した様子はうかがえません。天神に県庁や市役所が置かれ、この付近が福岡の都心を形成するようになったことが関係していると思われます。
市街地の道路は、江戸期とあまり変わっていないようです。天神地区と大名地区は、その境界にあたる天神西通りを挟んで街路パターンが異なっており、東西方向に直進で通り抜けることができません。このような、突き当りの多い食い違いのある街路パターンは城下町に典型的に見られるものです。
図には、青線で現在の西鉄とJR鹿児島本線を示しました。博多駅は1963年に現在の位置に移転しましたが、この場所は明治期には水田が広がる農業地域だったことが分かります。西鉄天神大牟田線はまだ開通していません。この沿線も当時、天神付近のほかは市街地化が進んでいませんでした。
<③図の解答例>
https://fukuoka-u.box.com/s/xkcl5p1mnq4l1998xad51yoq8ft9kt9e この図にも、赤枠で江戸後期の市街地の推定範囲を示しました。現在の福岡市街はかつての城下町や博多の範囲をはるかに超えて拡大しており、かつて農地と化していた荒戸などの旧武家地にも田畑の地図記号はもはや見られません。
現在、一般に「博多」と言えば博多駅周辺を指すことが多いのですが、このエリアは江戸期の博多の中心地から1km程度離れた所になります。
この図で赤く塗りつぶされた箇所は、かつて紺屋町堀・肥前堀・薬院川があった所です。薬院川は現在の国体道路の付近を流れていました。薬院川にかかっていた三光橋は、現在は国体道路の橋になっています。
紺屋町堀と肥前堀は1900年頃はまだ残っていますが、前者は大正期、後者は明治末期にそれぞれ埋め立てられました(『古地図の中の福岡・博多』)。この一帯は、西から順に福岡県福岡西総合庁舎、ハローワーク、稚加栄(料亭)、郵政アパート、歯科医師会館、岩田屋本館、ソラリアプラザ、福岡市役所を経て、天神中央公園に至るエリアです。すっかり市街地化しており、堀の名残はありません。ただ、公的機関の施設や広い土地を要する大規模施設が比較的多い印象です。これは、ここが埋立地だったことに起因するのかもしれません。
この図には青線で、江戸後期の海岸線の推定位置を記入しています。これを見ると、埋立地は道路が広く、街区パターンが旧市街地とは異なっているのが見て取れます。
長くなりましたので、今回のブログはこの辺でおしまいにします。講座では他にもさまざまな課題に取り組みましたが、これらについてはいずれ機会があればブログに記します。