2016年4月30日土曜日

福岡・京都・中国(藤村健一先生)

「教員記事」をお届けします。2016年度 第2回目は、この4月に赴任された地理学の藤村健一先生です。


福岡・京都・中国

藤村 健一(地理学)

 この4月に文化学科に着任した藤村です。はじめに、熊本地震の被災地域の皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

 私の専門は地理学で、とくに宗教地理学・文化地理学を中心に研究しています。新入生の皆さんにはすでに対面式の席でご挨拶をしましたが、文化学科でも2年生以上ならまだ全然面識がない人も多いと思います。よろしくお願いいたします。

 出身は大阪ですが、この3月までの2年間、中国・上海の学校に勤めていました。その前に居たのは京都です。京都の大学を出て、そのまま京都で仕事をしていたので、これまで一番長く住んでいたのは京都ということになります。九州に住むのは初めてです。

 京都に住んでいると言うと、よく他所の人から「いい所にお住まいですね」などと羨ましがられましたが、実際のところ、あまり住み心地の良い場所だとは思いません。そう考える人は京都にも案外いるようで、その一人である建築史・文化史家の井上章一さんが昨年、『京都ぎらい』(朝日新書)という本を出されました。

 この本では、京都人の嫌味なところがたくさん書かれており、読んでいて胸をすく思いがしました(本ブログの読者に京都人のかたがいらしたらごめんなさい)。具体的な内容については本書をお読みいただくとして、地理学をやっている人間として興味をひかれたのは、京都人の「中華思想」の強さに関するくだりです。

 たとえば、京都の中心部である「洛中」の人は、嵯峨(さが)や山科(やましな)など、京都市街の周縁部である「洛外」の人たちをさげすむ。また、洛外の人たちも、亀岡や城陽といった、より「田舎」な周辺地域を見下す。こういう態度を、井上さんは京都人の「中華思想」(または「中華意識」)と呼んでいます。「天皇家はほんの百数十年間、東京に立ち寄っているだけで、本来の都はいまだ京都にある」というようなことをうそぶく京都人もときどきいますが、こうした考え方もまた「中華思想」の一環だと言えそうです。

 「中華思想」とは、「自己民族の文化地帯を世界の中心と考え、周辺諸民族を野蛮未開の非人間的地帯とすること」と定義されます。これは古代文明社会にしばしばみられた考え方ですが、最も顕著だったのは文字通り中国で、20世紀初期まで強い社会的影響力を持ったとされています(『新編東洋史辞典』東京創元社、1980年、555ページ)。しかし、中華文明の周縁部にも文明化の波が及ぶなかで、やがて朝鮮や日本の王朝も(本家中華文明に劣等感を抱きつつ)中華思想を取り入れ、自分たちの都を国土(世界)の中心と考えるようになりました。

 中世日本でみられた中華思想的な空間認識については、地理学者の応地利明さんが図式化しています(下図)。
【中世日本の浄穢的空間編成と異域】応地利明「認識空間としての「日本」」『岩波講座天皇と王権を考える8』岩波書店、2002年所収、75ページ

 これによれば、世界で最も浄性・徳性が高い(清らかで開けた)場所は、都である京都、なかでも天皇が居住する洛中であり、そこが日本(世界)の中心でした。そこからの距離に反比例して浄性・徳性が下がり、穢(きたな)く野蛮な場所になっていく、と考えられていたようです。

 井上さんの言う、現代京都人の「中華思想」も、おそらくこれと同じ性質のものではないかと思います。洛中に住む京都人は「洛外」をさげすみ、さらにその外側にある西国・東国などの諸地域を、京都からの距離に応じて見下す、という構図です。平安時代にも、すでにこうした考え方があったのかもしれません。そう考えれば、九州の大宰府に左遷された菅原道真が深く嘆いた理由も分かります。

 九州は、上図では「西国」にあたりますが、さらにその西には、中華思想の本家本元の中国があります。応地さんも指摘するように、中世の都人も(天皇に服さない)別種の一大文明国家である中国の存在は認識していました。この中国に通じるルート上にある西国の、瀬戸内沿岸部や九州北部は、東国と比べて優位にあると認識されていたようです(塚本学『地方文人』教育社歴史新書、1977年、29ページ)。

 一方、都や西国と比べ劣位に置かれた東国にも、中世には文明が伝播・拡散し、未熟ながらも都に対して自己主張ができるまでに発展します(関幸彦・臼井勝美「日本史教育上の新しい視点」『歴史教育と歴史学』山川出版社、1991年所収、92~93ページ)。それでも東国の人々は、長らく都に対して劣等感を抱いていましたが、やがて徳川幕府の下で江戸が発展するにつれてこうした劣等感も薄れ、18世紀末に至って、江戸の人々はついにこれをおおむね克服するに至った、と指摘されています(塚本前掲書33~35ページ)。

 現在では、東京の人々が京都に対して劣等感を抱くことはほとんどありません。逆に東京一極集中の影響もあって、京都の経済的・文化的中心性は低下しています。仏教宗派が本山機能を、京都から東京へと移す動きがあるとも聞きます。ただし井上さんも指摘するように、何かにつけて京都のことをもてはやす人たちが、東京のマスメディアの世界には大勢います。京料理にせよ伝統芸能にせよ大学にせよ、そうした東京の人たちのおかげで持ちこたえている部分がかなりあると感じます。

 「西国」のほうは現在どうでしょうか。最近、昨年の国勢調査結果の速報値が発表されました。それによれば、福岡市の人口は2010年の前回調査時には政令市のなかで7番目でしたが、今回調査ではその時よりも約7.5万人増加して約154万人となり、神戸市・京都市を抜いて5番目に躍り出たということです。京都市は今回調査では147万人あまりでほぼ横ばいですが、順位を下げて8番目となりました。「福岡市は起業しやすい環境づくりやIT(情報技術)関連などの企業誘致で、九州の若年層の働く場となっている」(「政令市人口、関西伸びず」日経新聞近畿版2016年2月23日朝刊)と指摘されています。

 今や福岡市は、人口・人口密度ともに京都市よりも上位に位置しており、より都会であるといえそうです。住み心地もよく、転勤族からも人気の街だといわれています。京都から福岡に転勤になっても、かつての道真のように嘆いたりする人はもういないのではないでしょうか。

 ところで、上述のとおり中国はかつて京都人も一目おかざるをえない世界有数の文明地域でしたが、現在はどうでしょうか。中華文明は古代から現代まで連綿と続いてきた、世界に稀な文明であると指摘されています(寺田隆信『物語 中国の歴史』中公新書、1997年、287~291ページ)。このことからすれば、現代の中国も輝ける文明地域であるということになりますが…。

 私の滞在経験からいって、現在の中国にはテーブルマナーがまるっきりみられません。マナーが悪い人が多いというよりも、むしろマナーそのものがほとんど存在しないらしいのです。町中や地下鉄車内で喧嘩している人もよく見かけます。社会学者ノルベルト・エリアスの古典的名著『文明化の過程』(上・下、赤井慧爾ほか訳、法政大学出版局、1977~1978年)によれば、文明化とともに人々のマナーは向上し、礼儀正しくなるはずなのですが…。中華文明はやはりどこかの時点で衰退してしまったのでしょうか?それともエリアスが間違っているのか?そもそも「文明」って何なんでしょうか?うーん…。

 どうやら袋小路に入り込んでしまったようなので、今日のところはこの辺で終わりたいと思います。

上海某所の男子トイレの張り紙。どういう意味か分かりますか?

2016年4月13日水曜日

平成28年度 新入生指導懇談会(対面式)

 4月6日(水)、文化学科新入生と学科教員の対面式が行われました。

 今年度の新入生は転部生を含めてちょうど100名。全員が揃いました。

 本多康生先生による司会進行のもと、学科主任の平兮元章先生から歓迎の辞が述べられ、続いて教員紹介が行われました。その後、新入生ひとりひとりが自己紹介をしました。「友達になってください」アピールに始まり、好きな音楽や得意なこと、一発ギャグまで飛び出して、大変賑やかで楽しい1時間半でした。

 これからの4年間が実り多いものとなることを期待しています。

2016年4月9日土曜日

平成28年度 LCガイダンスゼミナールのお知らせ

来週4月16日土曜日に中央図書館で、新入生を対象とするLCガイダンスゼミナールが開催されます。プログラム等の詳細については、下記のチラシを御参照下さい。

このゼミナールは文化学科の新入生に、自分たちがこれからの4年間、「文化学科で何を、いかに学ぶか」を実際に体感してもらうための催しです。

今回のテーマは「文化学科で考える『しあわせ』」。このテーマについて、最初に二人の先生方が異なる角度から講義をします。その後、先生方から出された課題に、新入生がグループに分かれて取り組みます。最後に、各グループの成果を発表してもらい、参加者全員で議論します。

なお、終了後には新入生歓迎会が行われます。


当日は、必ず学生証と筆記用具を持参して下さい。

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2016年4月7日木曜日

『愛・性・家族の哲学』が出版されました(宮野真生子先生)

「教員記事」をお届けします。2016年度 第1回目は哲学の宮野真生子先生です。


『愛・性・家族の哲学』が出版されました

宮野 真生子(哲学

 4月になりましたね。新しい学期がはじまるのに合わせて、私が編集にあたった本が出版されるので、その宣伝(!?)やら、その本を通して伝えたかったことを少し書こうと思います。

 本のタイトルは、『愛・性・家族の哲学』と言います。京都の出版社であるナカニシヤ出版さんから出るこの本は、私が九州産業大の藤田尚志先生と長く続けてきた大学を横断した「恋愛・結婚合同ゼミ」の成果です。このゼミはもともと、西洋における結婚概念の哲学的検討をおこなっていた藤田さんが、近代日本の恋愛論研究をしていた私を誘ってはじまったもので、じつは声をかけられた当初、私としては一度藤田さんのところにお話をしに行くつもりで引き受けたのが、気がつけば4年・・・。ゼミではタイトル通り、「恋愛」や「結婚」あるいは「性」について、福大や九産大、佐賀大の学生さんやOB・OGのみなさんと勉強してきました(決して「恋愛」「結婚」を賛美し推奨するゼミではありません、あしからず)。

 私も藤田さんも哲学の教員ですから、このゼミで最も大切なのは、物事を根底から見つめてみること、ゼロベースで「なんでそもそもそうなってるの?」と問い直すことです。「恋愛」なんて「するものじゃなくて、落ちるもの」と言われるように、「恋愛」を問い直すと聞くと、いったい何を問うのだろうと疑問に思う人もいるかもしれません。では、恋愛は勝手に「落ちてしまう」もの、人間の「本能」なんでしょうか。だとしたら、犬や猫も恋をするのでしょうか。つがいを作るのだから、犬や猫も恋をすると言える・・・のだとしたら、その恋は「生殖」のためのもの。でも、私たちの「恋」は「生殖」と直結しているようには思えないですよね。だって、言うじゃないですか、「カラダよりココロが大事!」って。あるいは「カラダ目当て」というセリフが非難に聞こえるのだとしたら、そこには明らかに「カラダ」が下等で「ココロ」が上等という価値観が隠れていますよね。でも、どうして「ココロ」の方が上等なのでしょう。こうした問いを解決するには、一度、徹底的に自分たちの「恋」や「愛」をめぐる「当たり前」を疑ってみる必要があります。


 たとえば、多くの人にとって、「結婚」というのは「恋愛」の先に結ばれるもの、というイメージがあるかもしれません。結婚は愛のあかし、なんて言葉もありますね。でも、どうして恋をして愛しあったら、結婚するのでしょう。だって、恋をした相手が20年、30年一緒に暮らしていく生活の相手として必ずしもふさわしいわけじゃないかもしれないですよ。むしろ、大好きな人にはいつも良いところを見せていたい、素敵な自分でいたい、恋をすると私たちはそう願うはずです。でも、結婚という生活はむしろ、見せたくないような自分、ぼろぼろの自分を大好きな人に見せてしまうことになってしまう。こんな自分見て欲しくない、そう思うような自分を見せてしまう、それが結婚というふうにも言えるかもしれません。


 私にとって、結婚や家族というものは長年の謎でした(おそらく今でも謎です)。家族というのは、私にとって遠くから眺めているものというのがもっともしっくりきます。一人っ子だった私は、子どもの頃食事を済ませるといつも、おもちゃの入った箱のなかに入り、そこから大人たちがお酒を飲み、話をしながらゆっくり食事をとっているのを眺めていました。別に冷たくされていたわけではないですよ。それくらいがちょうどよかったのです。大人になった今では、たくさんの子どもをもつ友人の家に時々行き、賑やかなその家族を眺めながらピザを食べたり、お酒を飲んだりしています。そうやって、目の前に積み重なる生活の時間を見ながら、いつも思ってしまうのです。「では、家族というのは何なのだろうか」と。血が繋がっていれば、一緒に暮らせば、財産を共有していれば、家族なんでしょうか。あるいは、そうした条件が家族のもつ一種独特な親密さ(「家族なんだから助け合うのが当然」「家族なんだから何でも言って」)を呼び起こすでしょうか。けれど、その親密さは時々私をとても息苦しくさせるものです。だからいつも、家族を外から眺めてばかりいました(そして今もそうです)。


 でも、そんな私も、パートナーのいる生き方を選びました(子どもはいませんし、もつつもりもありませんが)。他人と生きる人生を選んだとき、はじめに混乱した(そしてまだ若干混乱している)のが「家族になる」ということの意味でした。あのときの混乱した気分を江國香織が寸分違わずに言葉にしてくれています。


「いま思うと、私はなにもかもに疑心暗鬼になっていた。もともと疑い深い性質なのだ。それに加えて結婚というのはあらゆる恋人から根拠を奪うので、どうしたって疑心暗鬼にならざるを得ないのだった。たとえば一緒に暮らす前ならば、夫が会いにきてくれるととても嬉しかった。会いにくるということは、私に会いたいのだなとわかったから。でもいざ一緒に住みはじめると、夫は毎日ここに帰ってくる。私に会いたくなくても帰ってくるのだ。そのことが腑に落ちなかった。ばかばかしいと思われるだろうけれど、どうしても腑に落ちなかった。」
         (江國香織『いくつもの週末』、集英社文庫、2001年、109−110頁)


 恋人同士には「愛」がある、とされています。では、家族には何があるのでしょう。この家に帰ってくるのは、ここしか帰るところがないからで、「愛」ゆえでないかもしれません。「結婚」して「家族」になったら、一緒に住むことになっているから、だから帰ってくる?だとしたら、それは何て束縛なのでしょう!私は「家族」という名でパートナーを縛っているかもしれないことに戸惑い、怯えました。心から怯え、当初、しばしばパニック状態に陥り、「もうやめる」と何度も言いました。いったい、家族って何なの。こんな私の不安を笑う人もいるかもしれません。「家族」ってのはそういうもんだ。そこしか帰るところがないから、それは自分の「家」なのだし、そこに戻ってくることで人びとは「家族」になるんだよ。恋人はともに暮らすことで「夫婦」になっていくんですよ、と。でも、とあの頃の私が問いかけます。その「なる」とか「なっていく」という変化をもたらすものは何なの、その変化を私はどう考えたらいいの、と。(『家族—共に生きる形とは?』、ナカニシヤ出版 より一部引用改編)

ジュンク堂福岡店フェアリーフレット
子どもじみた問いだ、と一笑に付されるかもしれません。けれど、こういう素朴な問いを手放さないことが哲学の出発点(「当たり前を疑う!」)のはずだ、と自分を奮い立たせて出来たのが、今回の『愛・性・家族の哲学』という論集です。福大の生協やジュンク堂の福岡店にもすでに並んでいます。よろしければ、ぱらぱらっとでも手にとってめくってみてください。また、ジュンク堂福岡店ではこの本の刊行に合わせて選書フェアも開催中ですので、立ち寄ってみてください。
ジュンク堂福岡店3階フェア棚