2015年6月30日火曜日

第八回「マンガde哲学」開催


6月27日土曜日の夕方、今月の哲学カフェが開催されました。今回は初めての試みとして、学生さんが進行役を。参加者は学生諸氏が六名、教員が一名。途中から卒業生の姿も。

題材は、昨年話題になった『聲の形』。ただし単行本ではなく、雑誌に掲載された読み切り版。

取り上げられたのは、小学校の合唱コンクールの場面。耳の聞こえない西宮硝子。彼女は右手で隣の子の手に触れ、「手で音程を調整してもらっているんです」。そう説明する女性教員が審査員たちに「平等な審査をお願いします」と依頼。この「平等な審査」とはどのようなことか。彼女は審査員に何を求めているのか。

硝子は合唱コンクールに出るべきか、それでも出るべきではないか、という問題提起から議論がスタート。とにかくクラス全員が参加することを優先するならば、もちろん彼女も出るべき。しかしコンクールでの入賞を目指すならば、彼女は出るべきでない。実際、合唱コンクール後の黒板には「西宮のオカゲで入賞逃したよ!」との言葉が。

そもそもなぜ彼女は合唱コンクールに出ることになったのか。本人が「歌えるようになりたい」と望んだから? 確かに硝子の気持ちも大切。しかし、もっとクラスで話し合っておくべきだったのではないか。勝手に大人たちで決めてしまっているのが悪い。この女性教員の善意? しかしそれは単なるエゴや一般論でしかなく、本当に硝子のことを考えているわけではない……?

ところで、この「平等な審査」とは? 硝子の耳が不自由であることを考慮せず、他のクラスと同じように審査すること? 或いは、特別扱いして評価を甘くすること?

平等とは、どんな場合でも同じ扱いをする/同じ扱いをされること? しかし平等を求めている時点で、そもそも平等ではないことが前提。例えば、その人の外見次第で扱われ方は変わる。一人一人の能力にも差がある。

耳の聞こえない生徒が一人いるせいで授業の進度が遅れ、他のクラスと平等でなくなる。ならば、その学校全体で同じスピードにそろえる? その場合、他の学校と平等でなくなる。やはり硝子は特別支援学級に入るべき……?

平等が必ずしも良いこととは限らない? それとも、良い平等と悪い平等がある? スタートラインをそろえて競争させるような平等、結果として誰でも同じものが与えられるような平等。しかし皆、求めるものはバラバラ、価値観も様々。

話題は学級や学校の在り方、教育の在り方の問題から、さらに政府の在り方の問題まで。時に参加者が深く考えこむこともあれば、誰かの発言で一転、場が笑いに包まれることも。やがて六時のチャイムが鳴り響き、時間切れで終了となりました。

学生さんが進行役を務める初めての回でしたが、おそらく今までで一番活発な議論の交わされた、濃厚な回になりました。むしろ教員の邪魔さ加減が確認されて、反省すること頻り。今後も多くの学生さんに進行役を務めてもらえれば、と。

さて次回は7月11日土曜日、同じ時間帯に。かつて一世を風靡したあのマンガで、古典的なあの問題を。

試験勉強の息抜きに、ぜひ哲学カフェへ。

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