「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、 哲学・宗教学の小笠原史樹先生です。
ゴールポストと梟の神様、そしてザシキワラシ
小笠原史樹(哲学・宗教学)
スポーツ観戦の習慣は全くないのだけれど、ほぼ唯一の例外として、四年に一度、サッカーのワールドカップだけは楽しみにしている。このブログ記事を書いている時点で(2022年12月10日)、すでに準々決勝、最初の二試合が終わり、次は残り二試合。何の知識も経験もない素人の目で画面を眺めているだけではあるものの、十分に堪能しており、そのため授業の準備が進まず、今、かなり追いつめられている……。
それはともかく、試合の実況や解説などで時々「ゴールポストに嫌われた」という表現を聞くことがあり、言葉遣いとして面白い、と思う。正確に定義できる自信はないが、「シュートしたボールがゴールポストに当たり、ゴールの外側に弾かれてしまうこと」という程度の意味だろうか。まるでゴールポストがその選手を、あるいはシュートやボールを好いたり嫌ったりしているかのようで、人間以外の視点が入りこんでくるのが面白いし、「選手がシュートを外した、ミスした」という言い方より、しっくりくる。
きっと、シュートがゴールに入るかどうかは、シュートを打った選手の行動だけで決まるわけではない。そこには他にも様々な、無数の要因・条件が関わっているのだろうし、そのような複雑な出来事の責任を、一人の選手だけに負わせるのはフェアではない、という気がする。ゴールポストの「好き嫌い」に理由を求める方が適切、と感じる。