2020年2月25日火曜日

植野ゼミと長崎ゼミ旅行

LC17台 黒山愛莉

 みなさんこんにちは。人文学部文化学科3年の黒山愛莉です。この記事では、私の所属する植野ゼミと、6月8日(土)に行われたゼミ旅行について、紹介していきたいと思います。

 日本において「美術」という言葉は、いつ作られたか知っていますか? 実は1872(明治5)年になって初めて作られた言葉です。また、通史としての日本美術史も、明治になって初めて岡倉天心によって講じられました。中学校の社会科や高校の日本史の授業などで、お雇い外国人のフェノロサや岡倉天心の名前は聞いたことがあると思います。

 植野ゼミでは、岡倉天心著『日本美術史』(平凡社、2001)をテキストとして用い、芸術・美術史に対する理解を深めています。この本は、岡倉天心が1890(明治23)年から1892(明治25)年にかけて東京美術学校(現在の東京藝術大学)で行った「日本美術史」の講義を、当時の学生が筆記したノートを基に、編集されました。私たちはまず、『日本美術史』に関する関連論文を講読するなど、背景を理解するための作業を進めています。

 また、植野ゼミではプレゼン発表も行います。今学期は、植野先生が先陣を切り発表をされました。先生は、いくつかのロックバンドのライブを見に行くのが趣味で、そのバンドがHPやTwitterに掲載する、ライブ終了後の集合写真に、自分の姿が写り込んでいる画像を収集されているそうです。その画像の蓄積を紹介する、「アーティストのウェブ画像に写り込むプロジェクト Found in Artist’s Events」というタイトルで報告をされました。

 学生が発表したテーマとしては、「デザインからみる御朱印」「万華鏡」「能楽」「スーパー戦隊における色」「辰野金吾と東京駅」など多種多様です。それぞれが好きなテーマに関するプレゼン発表を行い、次に受講者が質問や疑問、意見や感想を出し合い、活発な授業が展開されています。

 

過去に、「ロゴマークとは?」というテーマで発表をされた先輩がいらっしゃいました。その際に制作されたロゴマークは、現在も、植野ゼミで大切に受け継がれています。

植野ゼミのポリシー
1. 打てど、響かず…。2. 笛吹けど、踊らず…。
 3. しかし、時には…、○○もおだてりゃ、木に登る。
 さあ、心おきなく、登りましょう。」

今年も、4年生の方が新しい作品を制作されました。色違いの植野先生です。本当にそっくりです。



芸術系のゼミでは合同で前期と後期に1回ずつゼミ研修が行われています。前期は6月8日(土)に、浦上ゼミと合同で長崎市にゼミ研修に行きました。

 前日はもしかしたら雨が降るかもしれないと不安でした。しかし、当日は曇りで晴天ではありませんでしたが、暑すぎず寒すぎずちょうど過ごしやすい気候でした。朝9時に福岡大学から長崎市に出発し、途中の大村湾パーキングエリア(恋人の聖地で有名)で休憩をとった後、お昼前に長崎市に到着しました。

 まず、はじめに大浦天主堂とその関連施設である旧羅典神学校と旧長崎大司教館を訪れました。学芸員の方に大浦天主堂の成り立ちや、その歴史について詳しくご説明をしていただき、キリスト教の伝来や禁教、信徒発見、キリシタン摘発(崩れ)などについて学ぶことができました。

 研修前のゼミでは、映像資料を鑑賞し、和洋折衷の大浦天主堂の建築特徴であるリブ・ヴォ―ルト天井などについて予習を行っており、私は、実際に見るのをとても楽しみにしていました。創建当時は黒地に白い格子の壁でしたが、現在は増改築がなされ、白い漆喰の壁になっており、天主堂の規模も大きくなっていました。
 また、ちょうど正午を知らせる鐘が鳴る場に居合わせることができ、貴重な体験をすることができました。




 お昼は角煮まんやカステラ、大浦天主堂のステンドグラスを表現したプリンを購入し、食べ歩きをしました。また、グラバー通りからの長崎の景色も堪能しました。



次に長崎県美術館を訪れ、開催中の企画展「奇蹟の芸術都市バルセロナ展」とコレクション展「荒木十畝(あらき じっぽ)展」を、それぞれの担当学芸員の方に説明していただきました。

 私は、バルセロナにはオリンピックとサッカーのイメージしかありませんでした。そのため、カタルーニャ独立運動が大きな問題となっているカタルーニャ州の州都であることや、ガウディ、ピカソ、ミロ、ダリ等々の巨匠を生んだ芸術都市であることを知りませんでした。

 ちなみに、私は猫が大好きで、展示を見る前にミュージアムショップに寄った際に、猫をモチーフにしたグッズが大量に販売されていたので、何の作品とどんな関係があるのだろうかと、わくわくしていました。実際には、パリ・モンマルトルの文芸キャバレー「黒い猫」(1881-1897年)に倣って、バルセロナにカタルーニャの画家ラモン・カザス(1866-1932年)やサンティアゴ・ルシニョール(1861-1931年)らによって開かれたカフェ・レストラン「四匹の猫」(1897-1903年)との関連でした。この「四匹の猫」では、展覧会や影絵、芝居、人形劇などが催され、芸術雑誌も刊行されました。ピカソが初めて個展を開いたのも「四匹の猫」であり、カタルーニャの芸術の発展に重要な役割を果たしたことが分かりました。

 企画展の展示方法も、いくつもの工夫がなされていました。バルセロナの街を上から見た大きな写真が入り口の壁一面に貼ってあり、展示の途中にも関係する写真が壁一面にありました。このことによって、想像力を高める空間的効果があるそうです。さらに、彫刻に照明を当てる際には、前面だけでなく、後面にも当てることによって、シルエットで彫刻をさらに魅力的に見せる方法、絵画を展示する際の適切な高さなどの展示方法、防火装置を目立たなくする方法、壁の素材、作品のセキュリティの厳しさなど、学芸員の方に多くのことを教えていただきました。
 


 次に、日本画家の荒木十畝(1872-1944年)について説明をしていただきましたが、私は荒木十畝だけでなく、名前が知られているらしい師匠の荒木寛畝(あらき かんぽ、1831-1915年)の名前すら知りませんでした。勉強不足を感じながらも、説明を聞きました。
 十畝は現在の長崎県大村市に生まれ、花鳥画で知られる荒木寛畝に入門し、近代日本画壇の重要な人物だそうです。十畝は旧派に属しながらも、守旧斬新主義ともいうべき立場をとり、伝統的な画法を基礎としながら、新たな表現を模索しました。学芸員の方によると、十畝の画風の変化には、①寛畝ゆずりの作風、②寛畝死後の琳派的な表現、③幽玄な世界観、という3つのポイントがあるそうです。

十畝は、大村の在郷軍人会の求めに応じて《松鷹図》(昭和3年)を製作したり、昭和10年代から勇壮な猛禽類による男性的な花鳥画を中心に描きだしたことから、戦前・戦中のナショナリズムの影響を強く受けています。このように、作品から製作者の思想や生き様、生きた時代背景を読み取る視点を持つことの大切さも学ぶことができました。

 16時に長崎を出発、18時頃には福岡大学に無事到着し、その後解散しました。ちなみに、後期のゼミ研修は、今のところ大分県か熊本県の予定らしいです。
 
 現在の植野ゼミは、4年生が持ち上がりの学年だったこともあり、連続して履修している方が多いため、先生との信頼関係がとても深く築かれているなと感じます。3・4年生のゼミは1年を通して一緒に学ぶので、4年生の素晴らしいところを見習いつつ、様々な技や知識を盗んでいけたらいいなと思います。また、既に述べたように、芸術系のゼミでは合同で前期と後期に1回ずつゼミ研修も行われていますので、履修選択の際の参考にしていただければいいかなと思います。

2020年2月21日金曜日

オトナと大人



「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、近現代哲学・倫理学の林誓雄先生です。



先輩、上司、学長、理事長、社長、大臣、王様、大統領
役職として高位な人間が、理不尽な要求をつきつけてきたとき
立場が上である人間が、不当な手段で集めた、偽の証拠などから
何らの整合性・正当性もない処分・措置を押し付けてきたとき
それに、唯々諾々と従うことをよしとする人間が、
それに、従うことこそ自分たちのなすべきことだ、と考える人間が
この世の中には、いる。

目的・結論がまずありきで、それに沿うものであるならば
どれほど悪質な手段を使おうとも、どれほど卑劣な手を使おうとも
どれほどの人間に迷惑をかけ、数多くの人間を傷つけようとも
目的達成のために、まったく論理的でない議論を組み立てて
権威を振りかざし、「決定権は自分たちにあるのだから従え」の一辺倒で
不当な要求を飲ませて、しかし、それに伴って引き起こされる害悪については
まったく責任を取らない人間が、この世の中には、いる。

他方で、どれほど自分よりも年上だからといって
どれほど自分よりも立場が上だからといって
どれほど自分よりも世間では偉いとされているからといって
理事長であれ、大臣であれ、大統領であれ
誰が何を言おうとも、そこに論理的な正当性がない限り
正当な手段であつめた正当な証拠に基づいた結論でない限り
不当な要求に従うことを断固拒否し、ただひたすら、論理に基づく議論を求め
正義を貫き通そうとする人間が、この世の中には、いる。

「天に唾する」という言葉がある。どういう意味だろうか。
天に向かって唾を吐くと、重力によりその唾が自分に返ってくる。
転じて、何らかの意味で自分よりも上のものに口答えする、
文句をいう、反論する、抗議をすると、それをやった自分が
最後は痛い目に合うという意味だ、と思っている人がいるかもしれないが
実はそれは間違いのようだ。
正しい意味は、「人に害を与えようとして、かえって自分が損をする」
からやめておく方がよい、という教訓のようだ。
正しい意味で捉えると、確かに教訓として、真っ当なものであることがわかる。

一方、前者の間違った意味で捉える場合、教訓としては
「だから、天には逆らわない方がいい。おかみの言ったことには従うべきだ。」
というものが、導き出されるのかもしれない。
そして、その教訓に従って、上に平服し、上を忖度することこそ
自分たち下々のものはやるべきなのだ、と考えられることがあるようだ。
それはシステムとしてそもそも成り立つのか、格差や差別を生まないのか
その結果、公平・平等は確保されるのか、そのために傷つく人はいないのか
そういったことをまったく考えずに、と言うより、何もものを考えずに、
上からの命令に従い続けることがよいと、考えられることがあるようだ。
そういう人間のことを、世間では「オトナ」と言うらしい。
「オトナなんだから、もう決まったことには従おうよ」というように
「オトナ」であることが、さも良いことであるように、言われることが、ある。
ただ、そういう人は、決して「自分が決めたことだから」とは言わない。
自分では何も責任を取らず、権威や権力にのみ頼って、権威や権力のみを使って、
論理的に話をしない。
自分で証拠を集めないし、集めるときも、不正な手段で、上で決まったことに
合わせるような証拠しか集めない。そして、力づくで言うのである。「上に従え」と。
そのような人間のことを、「オトナ」というのだそうだ...「オトナ」と呼ぶのだそうだ...

他方で、哲学において、あるいは倫理学において、「大人」とは、
自分の頭で物事を判断し、自分で決定し、そして何より
自分で責任を取る人間のことを言う。
「人間」であるからには、自分の頭を使って、自分で物事を考えられるようになってこそ
「大人」と呼ばれるわけであって、上の言うことを、ただ聞いているのは
ただの「子供」あるいは、「奴隷」と言われることに、なる。
もちろん、世間には「子供」のままの、あるいは「奴隷」に過ぎないオトナが
もしかすると沢山いるのかもしれない。
自分で物事を調査して、自分で論理的に考えて、そして自分で決断をする
ということをしないオトナ・できないオトナが、数多くいるのかもしれない。
ただ、数多くいるから、それでよい、ということには、ならない。
むしろ、われわれは「子供」のままでいてはならず、そして「奴隷」のまま
人生を終えることを、可能な限り回避すべきなのだと、哲学者ならば、言うであろう。
われわれは「大人」になるべきだと、そう言うであろう。

パスカルは『パンセ』の中で、正義と力について、次のように述べている。
 正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
 このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。
(パスカル『パンセ』298)

パスカルの言葉は、私にとっては警句であるように受け止められる。
人は一般に、強いものを正しいとし、それでよいと、しがちであるからこそ
むしろ、それに抗わねばならないのだ、と。
ただ、なかなかそれは、難しいのかもしれない。これまで、正義が力に勝てていないからこそ
上述の「オトナ」になりなよ、とよくよく言われているのであろう。

私は、それでもなんとか、抗いたい。その方法を、見つけたい。
それが一体、いつになるのかは、わからないけれども
見つけることを目指さねばならないと思う。
論理が、正義が勝たねば、いけないはずだからである。
そうでなければ、「人間」とは言えないからである。

〔参考資料〕
パスカル『パンセ』前田陽一、由木康 訳、中公文庫、2018年
古川雄嗣『大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す』東洋経済新報社、2018年

2020年2月19日水曜日

真実の終わりと集合知/集合愚

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、文化地理学の藤村健一先生です。




1. 真実の終わりとフェイクニュース・フェイク科学・フェイク歴史

 昨年読んで面白かった本に、アメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(原題はThe Death of Truth)がある。それによれば現在、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアをとおして、フェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史などの様々な嘘が世界中に溢れている。その結果、「事実が軽んじられ、感情が理性に取って代わり、言語が侵食されることで、真実の価値そのものが低下」している(1)

この現状を体現するのがアメリカのトランプ大統領である。「トランプの虚言癖はあまりに極端であるため、報道各社が事実関係を調べる校閲者をチーム単位で雇うだけでなく、彼が発した嘘や侮辱、違反した規範の長いリストを作成するという手段に訴えるほどである。」(2)

こうした現象が起きる背景には、ソーシャルメディアが台頭するよりも前から学術界に存在する、相対主義やポストモダニズムがあるというのがカクタニの見立てである。

「相対主義の影響力は1960年代に文化戦争の幕が開いて以降、高まりつつあった。当時それは、西洋中心的、ブルジョア的、男性支配的な思想のバイアスを暴くことに熱心な新左翼と、普遍的な真実を否定するポストモダニズムの真理を唱える学者に採用された。あるのは小さな個人的な真実、つまりその時々の文化的・社会的背景によって形成された認識に過ぎないというのだ。その後、相対主義的な主張は右派のポピュリストに乗っ取られた。」(3)

「乗っ取られ」る過程について、カクタニは別の箇所でもう少し詳しく述べている。

「皮肉なのは、右派ポピュリストによるポストモダン的議論の流用、その客観的実在の哲学的否認の採用だ。〔中略〕トランプが、デリダやボードリヤール、リオタールの作品を読破したことがないのは明らかだ。〔中略〕しかし、思想家たちの理論は、俗物化された産物として大衆文化に浸み出し、大統領の擁護者に乗っ取られてしまった。彼らは、その相対主義的な主張を、大統領の嘘を弁明するために用いようと欲したのだ。右派はそれを、進化論に異議を唱えるため、気候変動の現実を否定するため、もう一つの事実を売り込むために使った。」(4)

「真実は民主主義の基盤である」と考えるカクタニは、本書のなかで、フェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史など様々な嘘の作り手だけでなく、「乗っ取られた」側の相対主義やポストモダニズムの論者も厳しく批判している。

カクタニによれば、ポストモダニズムとは広義には「人間の知覚から独立して存在する客観的実在を否定し、認識が、階級、人種、ジェンダー等のプリズムによってフィルタリングされている」という考え方である(5)。ポストモダニズムの論理では、「科学理論は社会的に構築された」ものであり、「中立的・普遍的な真実であるとは断言できない」。こうした論理は、「圧倒的多数の科学者が同意した見解の受け入れを拒む今日の気候変動否定論者や反ワクチン主義者に道を開いた。」(6)

そして、「明らかに信用できない説の信憑性を高めようとする―あるいは、ホロコースト修正主義者たちの場合に及んでは歴史を数章分も塗り潰そうとする―人々が、すべての真実にバイアスがかかっているというポストモダン的な主張を転用するようになった。〔中略〕脱構築主義的な歴史観は、〔中略〕「どんな事実も、どんな出来事も、歴史のどんな場面も、確固たる意味や内容を持たない。いかなる真実も書き換えられる。究極的な歴史的リアリティなど存在しない」という知的環境を助長しかねない」とカクタニは指摘する(7)

「脱構築主義は、すべてのテクストが不安定で還元不可能なまでに複雑であり、読者や観察者によってますます可変の意味が付与されると仮定した。あるテクストについて生じ得る矛盾や多義性に焦点を絞る〔中略〕ことで、極端な相対主義を広めた。それが意味することは究極に虚無的だった。何だって、どんな意味でもあり得るのだ。〔中略〕明白な、あるいは常識的な解釈などない。〔中略〕つまり、真実というものなど存在しないのだ。」(8)

 このように、現代世界にみられる「真実の終わり」が、20世紀後期に学術界で流行したポストモダニズムによって準備されていたのは否定しがたい(直接的な証拠は無いにせよ、状況証拠は十分にある)。


2. 歴史修正主義と集合知

 だがもちろん、ポストモダニズムの論者たちの手でフェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史が作りだされているのではない。カクタニは『真実の終わり』のなかで、フェイクニュースの作り手として、トランプ大統領やその取り巻き、彼を支持する右派ニュースサイト、ロシアの「トロール製造工場」(ロシア政府がネット世論を操作するために設けたとされる組織)をしばしば挙げて非難している。彼らの行為により「民衆が、扇動と政治的操作を受け入れやすくな」っていると言うのだ(9)

 ただ、カクタニが示唆するように、一般市民が常に操作されるだけの受け身の存在であるとは思えない。現代日本の歴史修正主義を例に考えてみよう。歴史修正主義とは、歴史学的な手法を採らず、恣意的な観点から歴史を修正しようとする立場のことである10

1990年代、従軍慰安婦や南京事件などに関する歴史修正主義的な言説が盛んになった。社会学者の倉橋耕平は、こうした言説は歴史を科学ではなく物語として論じる傾向があると指摘する。これにより、歴史の認定をめぐる実証性・客観性は問題でなくなり、歴史はそれを語る主体の価値観によって変わるものになる11

倉橋は、90年代の歴史修正主義的言説が、従来の歴史学の通説に対抗する形で、学術誌・学術書以外の商業的な出版物で展開され、これらの読者を巻き込む「参加型文化」のなかで「集合知」として発展していったと述べている。出版物を中心に展開されたこれらの言説は、やがてネットメディアによって世間に広がっていく12。そして、2005年頃には「ネット右翼」が出現する。これは、90年代の参加型文化が継続・発展した結果として生まれた13

 ジャーナリストの安田浩一は、歴史修正主義に関する倉橋との対談のなかで、インターネットの情報には「あいだに人が介在しない」という大きな問題があると指摘している。ネットの場合、思いつきで書いた裏づけのない原稿であっても、簡単にアップすることができ、そうした検証不可能な情報を鵜呑みにする人がSNSなどで拡散してしまう。「つまり、デマがネットを通じて広がっていく。」14

 安田はこのように指摘する一方で、かつては自身を含む多くの人々がインターネットの可能性に大きな期待を寄せていたと述べている。「興味深いのは、立ち位置を問わず多くの人が、ウィンドウズ95の登場に大きな期待を寄せていたことです。大手メディアが隠している情報や、社会の裏側でささやかれているような言説が、ネットによって表に出るのではないか、と思っていたのですね。〔中略〕僕はネットの進化をポジティブに受けとめていた。ウィンドウズ95が発売された当時の僕は、ネットが現在のようなものになるとはまったく思っていませんでした。」15


3. 集合知とWeb 2.0・民主主義2.0

 安田が指摘するように、かつてインターネットの進化や普及によってより良い社会が生まれるという期待が広く存在した。このような期待感は、今から10年ほど前まで持続していた。梅田望夫の『ウェブ進化論』(2006年)と東浩紀の『一般意志2.0』(2011年)からは、当時のこうした期待感がよく伝わってくる。

『ウェブ進化論』の著者紹介によれば、梅田は「はてなブックマーク」(はてぶ)を運営する(株)はてなの取締役にして、シリコンバレーに在住する「IT分野の知的リーダー」である。梅田は本書のなかで、Googleの登場により、インターネットでの懸案だった「玉石混交問題」を解決する道筋がみえてくるとの期待を示した。「ネット上の玉石混交問題さえ解決されれば、在野のトップクラスが情報を公開し、レベルの高い参加者がネット上で語り合った結果まとまってくる情報のほうが、権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家など)によって届けられる情報よりも質が高い」と彼は予想している16

梅田は、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』(原題はWisdom of Crowds)に基づいて「群衆の叡智」の可能性を評価し、「不特定多数の参加イコール衆愚だと考えて思考停止に陥る」ことを戒める17。そして、今後のIT産業にはWeb 2.0、すなわち「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」が求められると述べた18。さらに梅田は、従来のエリートと大衆の間に、ブロガーからなる「総表現社会参加者層」(総人口の10分の1程度)が新たに形成され、彼らを中心とした「総表現社会」が到来することを予言した19

東は『動物化するポストモダン』などの著書で知られる哲学者である。東はスロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』や梅田の『ウェブ進化論』、ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』などを引用しつつ、彼らの主張をさらに発展させる形で『一般意志2.0』を著した。本書では、「群衆の叡智」に相当する「集合知」がキーワードとして用いられる。

「みんなで集まって考えると、ひとりでは生み出せなかったようなうまい回答が出てくることがしばしばある。それが集合知だ」。東は「三人寄れば文殊の知恵」という諺を引きながら、情報技術の革新の結果、我々は三人どころか「三千人、三万人の他者とモニタ越しに関心を共有し、同じ話題を追いかけて意見を集約することができるようになった」ので、「集合知の思想はいまや、まったく異なる規模、異なる可能性のもとで再検討する必要がでてきている」と指摘する20

東は、梅田の「総表現社会」を「総記録社会」と言い換えた。総記録社会では、人々の呟きや行動に関する情報が蓄積されて、巨大なデータベースが構築されている。東はこれを、ルソーの『社会契約論』における「一般意志」概念の現代版、すなわち「一般意志2.0」とみなした21

東は、現代社会では「熟議」や「公共圏」の理想が成立困難であると指摘し、代わりに「熟議らしきもの」・「公共圏らしきもの」を成立させる方法を考えた22。現代では「大きな公共」が壊れ、政策課題ごとに専門家や当事者が集まっては「小さな公共」を立ち上げて議論を深めるよりほかない。しかし専門家や当事者の議論はしばしば暴走する。そこで一般意志を可視化し、「暴走する熟議を、匿名の大衆の呟きで制限する」とよい23

例えば、全省庁の審議会や委員会の模様を例外なく中継する。人々がその中継画像を見てUstreamやニコニコ動画にコメントを打ち込むと、その呟きが政策審議の行方に影響を及ぼす。「ひきこもりたちの集合知を活かした新しい公共の場。熟議とデータベース、小さな公共と一般意志が補いあう社会という本書の理想は、ひとつにはそのような制度設計を目指している。」24

代議制民主主義には、「熟議はあるがデータベースがない」25。しかし、「総記録社会の台頭と一般意志2.0の出現は、わたしたちをまったく新しい民主主義のかたちへと導く」。「選良と大衆、人間と動物、熟議とデータベース、間接民主主義と無意識民主主義のその独特の組み合わせ」を東は「民主主義2.0」と呼んでいる26。「もしかりに以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策決定に組み込んだほうがよいのではないか」というのが東の考えである27


4. Web 2.0と集合愚

このように、梅田や東はポピュリズム批判に対抗して、ウェブ上の「群衆の叡智」や「集合知」を正当に評価し、これを役立てることでより良い社会が実現すると考えた。一方、『一般意志2.0』の2年前に、これと正反対の主張を展開したのが中川淳一郎である。ニュースサイトの編集者で自称「IT小作農」の中川は、自著『ウェブはバカと暇人のもの』(2009年)のなかで、ネットの運営当事者の立場から、Web 2.0や集合知に強い違和感を表明する。

中川は「梅田氏の話は「頭の良い人」にまつわる話」だと述べ、「私は本書で「普通の人」「バカ」にまつわる話をする」と宣言する。彼はインターネットによって従来発信の機会のなかった人が発信できるようになったことを評価しつつも、「むしろ、凡庸な人が凡庸なネタを外に吐き出しまくるせいで本当に良いものが見えにくくなること」や「バカが発言ツールを手に入れて大暴れしたり、犯罪予告をするようなリスクにこそ目を向けるべきである」と主張する28

中川は言う。「そもそも、ネットの世界は気持ち悪すぎる」29。ネットは「暇人」による「異端なことをしたり、バカな発言をした人物」への「いじめ行為」や所属組織への「「電凸」(=電話突撃=電話で関係者に直撃=単なるチクり≒業務妨害)」30、「一般人のどうでもいい日常」(昼ごはんに何を食べただの、ネイルサロンに行っただの、観たテレビ番組の感想だったり、総理大臣への文句だったり)に関する情報で溢れている31。真偽不明な情報をもとに名誉毀損の書き込みをする「バカ」もいる。また、ネットニュースは紙媒体と比べて、些細なことでクレームが寄せられる傾向にあり、そのためにライターが意欲を失ってしまうことも少なくない32

 本書は、実証的データや技術的知見に基づく学術文献でもなければ、高邁な理想を語った思想書でもない。基本的には、ネット上でおきたB級事件を多数紹介する本である。しかし、中川がニュースサイトの編集経験で得た次の指摘は大いに傾聴に値する。

・「Web 2.0というものが、少なくとも頭の良い人ではなく、普通の人を相手にしている場合は、たいして意味がない〔中略〕。相手が暇つぶしの道具としてインターネットを使っている「普通の人」か「バカ」の場合、双方向性は運営当事者にとっては無駄である。」33
・ニュースサイトの「コメント欄のコメント数が増えると質は低下してくる。」34
・「人が多く集まれば集まるほどヘンな人が含まれていたり、その場を乱そうとする人が出る。単にストレスを吐き出したい人も出てくる。」35

 中川は、ネット掲示板の誤情報を鵜呑みにしてヒアルロン酸を自ら注射し後遺症を負った女性の話や、いわゆる「田代祭」36の騒動を例示し、これらを「集合愚」と呼んでいる。結局、「ネットの声に頼るとバカな声ばかり集まる」のだ37


5. 民主主義2.0と「表現の不自由展・その後」

 中川は『ウェブはバカと暇人のもの』刊行から10年が経過した昨年、自著を梅田の『ウェブ進化論』とあらためて比較し「多分私が述べたことの方が理解されるだろう。ウェブはやっぱりバカと暇人のものだった」と述べている38。確かに中川が指摘するとおり、集合愚が集合知を上回っているのがインターネットの現状である。梅田や東も、後にインターネットについての認識を改めている。

梅田は『ウェブ進化論』から2年後の2008年、自身のTwitterで「はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる」と呟き、これが“炎上”してしまう。彼はこの頃には「Webについて語ることは少なく」なっていた。翌年のインタビューでは「今のネット空間について〔中略〕残念に思っている」と述べ、『ウェブはバカと暇人のもの』についても「そう言われればそういう切り分け方はあるんだろうなと思った」と一定の評価をしている。英語圏では「総表現社会参加者層」のような層が分厚く存在し、彼らがリーダーシップを発揮しているのに対し、「今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合」と彼は指摘する39

 2013年には、情報学者の西垣通が『集合知とは何か』を著した。この中で西垣は、梅田や東が依拠したスロッウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』を厳しく批判している。ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』については「この指摘は、ルソーの社会契約論などの議論を、安易にネット集合知に結びつけることに対する痛烈な警告といえる」と評し、東が同書を誤読して引用したことを示唆している40。西垣は「今や、地球上の無数のコンピュータ群をインターネットで結び、あらゆる知識を高速検索することが可能になったのだから、〔中略〕その延長上に集合知が自動発生すると勘違いしている連中さえ少なくない」と批判している41

『一般意志2.0』は2015年に文庫化されたが、その「文庫版あとがき」のなかで東は、自説の有効性を強調しつつ、本書で「民主主義2.0」という言葉を用いたことが誤解を招いたと「反省」している。「ぼくの考える「一般意志2.0」または「民主主義2.0」は、〔中略〕欲望(一般意志)と政治(統治)のあいだの闘争のアリーナを意味する言葉なのである。ぼくは、大衆の「民意」がそのまま政治を動かし始めたら、世界はヘイトと暴力ばかりになると確信している。」42しかしそもそも、「小さな公共と一般意志が補いあう社会」の実現が「本書の理想」ではなかったか?仮にそれが「ポピュリズムの強化」のように見えたとしても。

昨年83日、東が企画アドバイザーを務める国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止が決まった。慰安婦を連想させる少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品の展示などが問題視され、事務局や愛知県庁へ電話・FAXなどで抗議が殺到した。その際、応対する職員に激高したり、脅迫やテロ予告を行ったりする者もおり、職員が疲弊してしまったのが中止の理由である43

その背景として、SNSで作品に対する誤解を含む批判が拡散され、「来場していない人たちから強い拒否反応と抗議を受けた」44ことや、「電凸」のマニュアルがネット上で共有され、これに基づく執拗な抗議が相次いだこと45があった。穏当な抗議ならまだしも、激高や脅迫、テロ予告などについては「バカ」としか言いようがない。

東は同月14日、自身のTwitterで企画アドバイザーの辞任を発表した。そこにはこのように記されていた。

「ぼくの観察するかぎり、今回「表現の不自由展」が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、政治家による圧力や一部テロリストによる脅迫にあるのではなく(それもたしかに存在しましたが)、天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。」「それら抗議は検閲とはとりあえずべつの問題です。日本人は天皇を用いた表現にセンシティブすぎる、それはダメだと「議論」することはできますが、トリエンナーレはその日本人の税金で運営され、彼らを主要な対象としたお祭りでもあります。芸術監督として顧客の感情に配慮するのは当然の義務です。」46

 この文面からは、「一般意志」、あるいは「バカ」や「集合愚」に対する「闘争」の意思を感じとることはできない。あいちトリエンナーレ2019芸術監督の津田大介は、この企画展が大衆からのクレームという「下からの検閲」を受けたと指摘するが47、「民主主義2.0」の思想はこうした「検閲」には全く無力である。

 さらに東は10月に、「思うところあって」個人のTwitterアカウントを削除してしまった。彼はその告知文48のなかで「ツイッターにはほとほと疲れました。」「インターネットは僕たちの生活の可能性を広げましたが、同時にすごく不自由にもしました。」「いいかえれば、いまのSNSはまったくオルタナティブメディアではなくなっている。〔中略〕おそろしく画一的で同調圧力の強いメディアになっている。そんなところを主戦場にするのは、もう違うな、という気分もありました」と述べている。彼はもはや「一般意志2.0」と対話することを諦めてしまったのだろうか?


6. 「民主主義3.0」?

今回の展示中止事件の背景には、慰安婦問題に関する歴史修正主義の存在が指摘されている。例えば、82日に展示会場を視察した河村たかし名古屋市長は、慰安婦問題について「事実でないという説も強い」と発言し、少女像の撤去を求めた4985日には、慰安婦の強制連行は「事実と違う」と述べている50。これらの発言は事実と異なる歴史修正主義の言説であり、電凸を後押ししたと批判されている51。哲学者の西谷修は、こうした歴史修正主義の言説が、情報「民主化」のSNSの時代に「ポスト・トゥルース」状況の出現とともに「自由」を獲得したと指摘する52

この事件は、現代社会の「真実の終わり」や「集合愚」を象徴する出来事である。今後も我々は「真実の終わり」や「集合愚」に悩まされることが続きそうだが、一方で楽観的な見方もある。先月の日本経済新聞朝刊に「プラトンと「民主主義3.0」」というコラムが掲載された。このなかで政治部次長の桃井裕理は次のよう主張している。

「市民参加や熟議の政治には時間とコストがかかる。直接民主主義から間接民主主義に移行した歴史に逆行するようにもみえる。だが今や人工知能や量子コンピューターも実現する時代だ。技術の力で時間とコストを節約しつつ民意を広く映し出す「民主主義3.0」の模索も可能ではないか。
 紀元前4世紀、プラトンは民主主義を厳しく批判した。民主制は必ず衆愚政治に陥り、過度の自由に疲れた民衆は独裁者を連れてくるという。今、世界はプラトンの予言そのものだ。
 だが21世紀を生きる人々が紀元前の予言を覆せないわけがない。20年代を流れを変えた時代とするためにまずは議論から始めよう。そしてまだ分断の前で踏みとどまれている日本には世界を変えるイノベーション発信地となる資格がある。」53

 このコラムは「民主主義2.0」には言及していない。だが「民主主義3.0」を語る前に、まずは「民主主義2.0」について十分に検証してもらいたいものだ。もし「民主主義2.0」の欠陥も人工知能や量子コンピューターでどうにかなると考えているならば、何とも能天気な話である。


(1)ミチコ・カクタニ著、岡崎玲子訳『真実の終わり』集英社、2019年(原著2018年)、8頁。
(2)『真実の終わり』77頁。
(3)『真実の終わり』12頁。
(4)『真実の終わり』3536頁。
(5)『真実の終わり』37頁。
(6)『真実の終わり』4142頁。
(7)『真実の終わり』43頁。
(8)『真実の終わり』44頁。
(9)『真実の終わり』8頁。
10)安田浩一・倉橋耕平『歪む社会歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う』論創社、2019年、17頁。
11)倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー―90年代保守言説のメディア文化』青弓社、2018年、4748頁。
12)『歪む社会』3845頁。
13)『歪む社会』183頁。
14)『歪む社会』185頁。
15)『歪む社会』同184185
16)梅田望夫『ウェブ進化論本当の大衆化はこれから始まる』ちくま新書、2006年、16頁。
17)『ウェブ進化論』同205206頁。
18)『ウェブ進化論』120頁。
19)『ウェブ進化論』148150頁。
20)東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』講談社、2011年、2931頁。
21)『一般意志2.08389頁。
22)『一般意志2.0119120頁。
23)『一般意志2.0157158頁。
24)『一般意志2.0176177頁。
25)『一般意志2.0175頁。
26)『一般意志2.0198頁。
27)『一般意志2.0183頁。
28)中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの現場からのネット敗北宣言』光文社新書、2009年、1819頁。
29)『ウェブはバカと暇人のもの』11頁。
30)『ウェブはバカと暇人のもの』3134頁、5862頁。
31)『ウェブはバカと暇人のもの』6467頁。
32)『ウェブはバカと暇人のもの』8290頁。
33)『ウェブはバカと暇人のもの』92頁。
34)『ウェブはバカと暇人のもの』97頁。
35)『ウェブはバカと暇人のもの』240頁。
36)「2ちゃんねる」ユーザーらが、米『Time』誌の「Person of the Year」のネット投票でタレントの田代まさしを1位にするため、自動投票ツール(通称「田代砲」)を開発して大量投票した出来事。
37)『ウェブはバカと暇人のもの』108117頁。
38)中川淳一郎「ウェブは「バカと暇人と格差社会勝者のもの」になった」『BLOGOS20191018日付(202016日閲覧)。
https://blogos.com/outline/411349/
39)岡田有花「日本のWebは「残念」梅田望夫さんに聞く(前編)」『ITmedia NEWS200961日付(202016日閲覧)。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html
40)西垣通『集合知とは何か』中公新書、2013年、2142頁。
41)『集合知とは何か』77頁。
42)東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』講談社文庫、2015年、332頁。
43)黄澈・前川浩之「表現の不自由展 中止」『朝日新聞』201984日付朝刊。千葉恵理子・上田真由美「抗議・脅迫 エスカレート」同上。
44)あいちトリエンナーレのあり方検討委員会『「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書』20191218日付、12頁(2020214日閲覧)。
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/267118_926147_misc.pdf
45)「「電凸」を考えませんか?」『NHK NEWS WEB2019814日(2020214日閲覧)。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/enjyou/expression/articles/expression_20190814-02.html
46)現在、このTweetは後述の理由により閲覧できないが、次の記事で全文を読むことができる。神庭亮介「東浩紀があいちトリエンナーレのアドバイザー辞任へ」『BuzzFeed News2019814日付(2020210日閲覧)。
https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/azuma
47)津田大介「論壇時評」『朝日新聞』2020130日付朝刊。
48)「ゲンロン」(東が創業した企業)の公式Twitter20191026日に告知された(2020210日閲覧)。
https://twitter.com/genroninfo/status/1188028210551775233 
49)山田泰生・野村阿悠子「名古屋市長「慰安婦像撤去を」」『毎日新聞』201983日付朝刊
50)名古屋市「令和元年85日 市長定例記者会見」2019828日更新(2020217日閲覧)
http://www.city.nagoya.jp/mayor/page/0000118997.html
51)吉井理記「「慰安婦問題はデマ」というデマを考える 中央大名誉教授 吉見義明さん」『毎日新聞』2019913日付夕刊。岡本有佳「<表現の不自由展・その後>中止事件当事者として記録する二七〇日の断章」岡本有佳・アライ=ヒロユキ編『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件表現の不自由と日本』岩波書店、2019年、3032頁。
52)西谷修「日々実践されている歴史修正何が展示を中止させたか」『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』226頁。
53)桃井裕理「プラトンと「民主主義3.0」」日本経済新聞2020112日付朝刊。

2020年2月14日金曜日

大上ゼミ研究発表会

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、犯罪心理学の大上渉先生です。



文化学科心理学系教員の大上です。

犯罪心理学,認知心理学が専門です。

さて,私が担当した3年生・4年生の合同ゼミ「文化学演習」の最終回に,ゼミ生による研究発表会を開催しました。各自が研究概要をまとめた大判ポスター(A0判)の前で研究内容をプレゼンテーションしました(画像はその様子です)。



このゼミでは,文化学科の学生に対し,心理学の調査研究法や,統計ソフトの扱い方などを実践的に学び,習得してもらうことを目的としていました。前期・後期を通じ,メンバー各自がテーマを定め,仮説を形成し,質問紙法や実験法などによりデータを収集し,統計学的分析を行い,その結果を発表しました。



参考までに,ゼミ生の発表テーマは以下のとおりです。私が専門とする犯罪心理学関連は少ないのですが,心理・社会的に多彩なテーマに取り組みました。

「動物虐待犯人像分析」
「社会状況とヒット曲の関係」
「目つき、性別と信頼度」
「開口サイズによる対人知覚の印象実験」
「フィットネスクラブブーム到来!」
「人気観光地になるためには?」
「同調圧力は何故起こるのか」
「なぜディズニーは人気なのか」
「喫煙と性格の関連性」
「学力とスマホ利用状況」
「学力と家庭環境」
「好まれる性格の特徴」
「少子化を考える」


以上

2020年2月8日土曜日

えむえむのこと

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、近現代フランス哲学の平井靖史先生です。



 こんにちは。哲学担当の平井です。

 今回は「えむえむ」のことを書こうと思います。「えむえむ」というのは僕が2015年夏からやっている課外の勉強会の名前です。僕が専門にしているフランスの哲学者、アンリ・ベルクソンの主著『物質と記憶』を読み進めながら議論したり関連することを勉強したりする集まりです。書名がフランス語でMatière et mémoireと言い、その頭文字をとってMMです。ちなみに英語でもMatter and MemoryなのでMMです。

  歴代の参加者を見ると、人文学部文化学科に限らずいろいろです。発起人の一人は当時九州産業大学の学生でした。佐賀大学や社会人、福大の大学院生の参加者もいました。現在も、文化学科以外に工学部から二名、九州産業大学から一名、そして大学院進学希望の卒業生が参加してくれています。

 普段は週に一回、18時から20時まで二時間。基本的には一回ひと段落をめどに担当者がレジュメを用意して、いろんな分野の研究を参考にしながら、ホワイトボードや黒板を使って、概念を触りながら理解を作っていきます。

 『物質と記憶』は一言で言うと「心身問題を時間論で解く」という書物なのですが、生物進化の話、エナクティブな身体論、失語や失認などの病理学、イメージ投射による認知説、記憶の粒度可変モデル、汎質論、マルチスケールの時間論など、多くの論点が絡み合っているので、楽しく知識を広げながら世界と心の関係について思考の手探りを続けています。じっさい、みんなの頭を使っても頭が足りないこともしばしば(笑)。でも、うまくいくと議論全体の解像度が一気に上がるということが起きてテンションが上がります。ピザとります。

 夏休みや春休みには、特別編として集中入門的なコースを開いたり、テーマ別発表をしたり。フランスやイギリスの出張から戻ったら、お土産を囲んで研究発表の話を紹介したり。課外で行なっている自主的な勉強会なので、別に単位が出るわけでもないですが、それでも今まで途絶えることなく続いてくれているのは、参加者の皆さんの熱意の賜物です。

138億年前に起きたビッグバン。宇宙が冷えて、星ができて、地上に生命が生まれて幾年月。意識なんていうヘンテコなものは、なんでできたんですか。どんな時間の結び目に意識は芽生えたんですか。

こんなコアな哲学的課題の一部を、さまざまなバックグラウンドを持つメンバーと分かち合えることは、僕にとっても掛け替えのない財産です。いつもありがとう。



※写真はすべて平井によるもの。

2020年2月6日木曜日

2019年度卒業論文報告会に参加して

LC17台 栗山あかり

2020129日水曜日、私は初めて卒業論文発表会に参加しました。昨年までも興味は持ちながらも、敷居が高い気がして、なかなか一歩踏み出して参加してみることができませんでした。しかし、来年度、自分が書く時のためにも今年こそは参加しよう!と思い、参加しました。

発表は口頭発表が4(哲学・倫理学系1題、心理学系3)、ポスター発表が11(美術系7題、哲学・倫理学系2題、文化人類学系2題)ほどでした。このように、多様な分野の卒業論文ができるのも文化学科らしいと感じました。
前半の口頭発表では、普段自分が意識しないような点に焦点を当てて、研究を行っている方が多く、興味深いと感じました。また、会場からの質疑に対しても堂々と答える先輩方の姿や、積極的に質問をする同級生の姿には大きな刺激を受けました。堂々と質問に答えられるのはきっと今まで4年間、知識を積み上げてきたという自信やしっかり時間をかけて研究を行ってきた成果からだろうと感じました。また、発表する際には詳しい知識がない人に対していかに分かりやすく伝えられるかが重要になるのではないかと感じました。

また、後半のポスター発表では、それぞれのポスターの前に発表者が立って下さっていたため、小心者の私でも気軽に疑問点を聞くことが出来ました。また、発表に関することだけでなく、卒業論文の執筆の仕方やコツ、体験談についてもお話しいただくことができ、とても参考になるとともに、貴重な時間となりました。ポスター発表では口頭発表と違い、参加者全員に対して、研究について詳しく説明するわけではないため、いかに自分の研究内容をいかにわかりやすく1枚のポスターにまとめられるかが重要になるのではないかと感じました。

今回の卒業論文発表会でもっとも印象に残ったのが「食生活改善推進員と郷土料理」に関する研究です。この研究は、郷土料理はおふくろの味と結び付けられるのかという問題意識に基づいて行われた研究でした。ここでは食生活改善推進員について、現代の母親と食生活改善推進員の食に関するギャップ、食生活改善推進員の苦悩、郷土料理とふるさとの関係などについて述べたうえで、次の2点の結論を出していました。まず1点目が、郷土料理は「おふくろの味」ではなく、「外」に向けたブランド化された観光資源、残すべき文化資源への認識に変化したということ、そして2点目が食生活改善推進員は郷土料理を家庭料理に取り入れたい。現代の母親は簡単にできる料理を作りたいということです。
私はこの発表を聞いて、そもそも食生活改善推進員というものを知らなかったので、それを知ることが出来て良かったと思うとともに、郷土料理を住民に身近なものとして継承していくことの難しさを感じました。確かに郷土料理は観光資源、文化資源として残せていればいいのではないかという考えもあるかもしれませんが、私は郷土料理とはもともと、その地域で、そこの住民の生活に根差して生まれてきた料理であるのではないかと感じ、だからこそ、住民にとって身近なものとして継承していく必要があるのではないかと感じました。では、そのためには何ができるのか、この発表を聞いて考えさせられました。

今回、卒業論文報告会に参加して、先輩方の発表はまさに4年間の集大成なのではないかと感じました。1年後には私も先輩方のように堂々と自分の研究について発表できるようになっていたいと思いました。そのために、自信を持てるくらい知識をつけるのはもちろんのこと、計画的に研究を進め、悔いが残らないように残り1年を過ごしたいと思っています。

文化学科の卒業論文は非常に分野も多様であるため、足を運んでみることは自身の知見を広めることにもつながることになるのではないかと思います。発表を聞くことで、今まで興味がなかった分野に興味を持つきっかけになるかもしれません。私自身も今回参加するまでは敷居が高いと感じていましたが、決してそんなことはありませんでした。必ず発言を求められるということもありませんし、分からなかった点や興味を持った点に関しては発表者が分かりやすく、詳しく教えてくれます。
少しでも興味を持ったらぜひ、参加してみてください。



2020年2月4日火曜日

2019(令和元)年度卒業論文発表会に参加して

LC17台 黒山愛莉

 129日(水)に文化学科卒業論文発表会が開催され、昨年に引き続き今年も友達に連れられ参加してみることにしました。発表は第一部が口頭発表、第二部がポスター発表という流れでした。

 口頭発表では4人の先輩方が哲学・倫理学を1題、心理学を3題、それぞれ発表をされました。私は哲学・倫理学も心理学もあまり興味が無く、通常の授業でも履修を避けているため、内容が高度すぎてあまり理解することができませんでした。しかしながら、心理学の発表で「他者コンパッションと協調的幸福感の相関関係の検討」というものがあり、私はその調査の被験者となっていたため、最終的にどのような結果になったのか知ることができたので良かったです。

 他にも同じく心理学の発表で「上半身の動作による魅力の要因」というものがあり、美人な人は顔や体形が魅力的なだけでなく、動作も関係があるのではないかということを食事中の他者の開口サイズに対する印象からアプローチしたものでした。この発表では普段の食事中の動作やマナーで実践できるものを知ることができたので良かったなと思います。
 発表後は質疑応答の時間が設けられており、学生や先生方、発表者で盛んに論議がなされていました。特に発表者の4年生は論理立てた説明をされており、自分の論文に対する自信というものが伝わってきました。

 ポスター発表では、発表者がポスターの前におられ、自由に質問・意見交換をすることができました。特に印象に残っているのは芸術学・美術史の先生方のオススメだった「モネの風景画について」という発表です。
 モネの画風の変化には①初期の1860年代は描かれる人物が多く、またその表情もはっきりとしていること、②1970年代は人数の減少に加え、周りの風景と一体化し、パーツがぼやけ始めるということ、③1880年代は人物の減少と風景との一体化に加え、人物の指も5本ともはっきり描かれないような単純化がなされていること、という3つのポイントがあるそうです。これには1871年の父の死、1879年の妻の死の影響が大きく、モネは大切な人の死の悲しさから人物よりも風景を描くようになったそうです。また、《水連》に関することや、ジャポニスムの取り入れ方、描く際の目線の置き方、光と影の描き方、ルノワールとの関係性なども発表していただき、作品から製作者の思想や生き様、生きた時代背景を読み取る視点を持つことが大切であるということが分かりました。

 卒業論文は文化学科では必修ではありません。そのため、私も12年生の時は卒業論文に対して全く関心がありませんでした。しかし、このような発表会や先輩方とお話させていただく中で、テーマを見つけ文献を読んだり仮説を立てたりし、様々な実験や調査を通して結論を導き出すというところで、大学での4年間の学びの集大成だけでなく、自分自身に対して何らかの自信が持てるものとなるのではないかと思いました。また、卒業論文を書く書かないにかかわらず卒業論文発表会に参加することで、日々の学びや生活に役に立つ情報を知ることができるので、みなさんもぜひ来年度、参加してみて下さい。