先週4日水曜日、約四ヶ月ぶりに哲学カフェが開催されました。「マンガde哲学」の記念すべき第十回は、満を持して士郎正宗の『攻殻機動隊』が題材。参加者は学生諸氏が約十名に、教員が二名。
作品の舞台は、電脳化と義体化の技術が高度に発達した未来世界。「私時々「自分はもう死んじゃってて、今の私は義体と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか?」って思う事あるわ」と話す主人公に、友人が「でもちゃんと脳ミソとかついてるし、人間扱いされてるしィ」。
「脳ミソ、自分で見たわけじゃないのに? 周囲の状況でそうだと判断してるにすぎないのに? ある日突然メーカーが来てさ、「不良品の回収ですぅ」とか言って分解回収されて、残ったのが脳細胞2~3コだったらどうする?」「人間であるために最低限必要な部品ってそんなに少なくないわよね……大脳機能も結構化学反応やメカで代用できるけど……」
青ざめた顔で「へへへへへぇ……」と笑い合う二人を尻目に、ロボット(戦車?)のフチコマ曰く、「そんなに人間と同質なロボットが創れたら、そりゃロボットじゃなく人間なんだよね!」。
さて、人間とロボットの違いとは何か、という問いから議論がスタート。人間は突拍子もないことをするが、ロボットはしない? いや、プログラム次第でロボットも突拍子もないことができる。人間は無駄なことをするが、ロボットはしない? いや、プログラム次第でロボットも無駄なことができるはず。
記憶を美化するか否か? 何かを忘れることができるかどうか? それらもやはりプログラム次第。ならば、その点に違いが? つまり、ロボットはプログラムに従って行動するが、人間は自分の意志で行動する。要するに、意志の有無が両者の違い? しかし人間も、教育というプログラムによって行動が決定されている……?
感情の有無、生殖機能の有無、人格や人権の有無、責任能力の有無。成長するかしないか、新しいものを創造できるか否か。個性があるかないか、奇抜な発想ができるかどうか、皆に好かれていないものを好きになることができるかどうか。或いは、単に材料の問題。有機物か無機物か、天然か人工か。或いは、単に扱い方の問題。人間として扱うなら人間で、ロボットして扱うならロボット……?
人間らしさは死や老いにあり、だからアンチエイジングや不老不死は人間性を薄める、とか、ロボットが人を殺したら誰が罰せられるのか、とか、美醜の判断基準が江戸時代に戻ることはあり得るのか、とか、ロボットも愛を感じられるのか、とか、さらには孔雀やライオンやカマキリ、偶然性、遺伝子操作と整形、等々の言葉が飛び交う中、そもそも意志とは何か、という問題が提起され、そして映画「her」の話が出た辺りで時間切れとなりました。
というわけで、後期の哲学カフェが漸く始動。次回は来月、おそらく上旬に開催される予定です。心地好い冷気の漂う季節、ぜひ温かい飲み物と軽い哲学談義を。
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