2020年12月20日日曜日

コロナ禍と忘年会

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学・倫理学の林誓雄先生です。


 忘年会のシーズンである(書き出しが、毎年同じような気が…)。しかし、ご存知の通り、コロナ禍のため、我々国民は旅行自粛や会食自粛の日々を送っている。その一方、国民の模範となるべき(?)某首相は、少なからぬ人数での会食を行う日々を過ごしているようだ。もちろん、国民として、自身の自由を犠牲にして他者に迷惑や危害を及ぼすのを避け、他者の、そして自身および自身の大切な人たちの命を守る行動を取ることは、至極当然のことであり、それこそ倫理的にも妥当なことだと思われることだろう。倫理学者児玉聡は、コロナ禍における社会による個人の(行動の)自由の制限について、それが次のように正当化されると主張している。

あなたが確実に別の人に感染症をうつすというわけではないが、あなたを含め、あなたと似たような状況にある人口集団が自由に行動したならば、一定数の人が感染症にかかって重症ないし死ぬリスクがあるから、あなたには協力をしてほしい。自発的に協力できないならば、人々の健康や生命を守るためにあなたの協力を強制的に求めることも正当化されうる。(児玉[2020])

このように、人々の健康や生命を守るために、「生存」という価値を理由・根拠として、哲学的・倫理学的な見地から、個々人の「飲み会に行く自由」の制限が正当化され、そしてひたすら「忘年会を開催する自由」という価値が、「生存」の価値によって制限される状況が続いている。

2020年12月7日月曜日

アフリカの河童

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、文化人類学の中村亮先生です。


 4歳の息子が「妖怪」にはまっている。アニメの「妖怪ウォッチ」や「ゲゲゲの鬼太郎」がきっかけであろう。家の本棚にあった『妖怪ひみつ大百科』(村上健司、2015年)を見つけ出して、ページがボロボロになるまで読んでいる。そんな姿は、妖怪に憑かれているかのようだ。

 私も昔から妖怪に興味があった。今の息子と同じくらいの歳に河童を見たことがあるからだ(正確には池から勢いよく出てきた何かに驚き、すぐに逃げ出したのでその姿は見ていないが…)。そこで、より専門的な『日本妖怪大全』(水木しげる、2014年)を息子に買い与えたところ、妖怪好きに拍車がかかり、暇さえあればページをめくっている(図1)。4歳児には難しい漢字があるので読み聞かせるうちに、私もあらためて妖怪の面白さに魅せられてしまった。

 

図1.一反木綿の手ぬぐいを頭に巻いて妖怪勉強中の息子

2020年11月11日水曜日

天の色は何色?-漢和辞典を読む:「玄」字について-

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、中国哲学の中村未来先生です。



『角川新字源(改訂新版)』(研究室備品)

 難読漢字で知られる「玄人」。「素人」の対義語として、読みと意味とをそのまま暗記している方が多いのではないかと思います。ただし、「玄」字が使用された別の熟語「玄米」とその対義語「白米」とを考えた時、「玄」という文字の意味がなんとなく理解できるのではないでしょうか。そう、「玄」には「黒」という意味があるのです。漢和辞典を開けば(注1)、「玄鳥=つばめ」「玄魚(あるいは玄針)=オタマジャクシ」「玄的=付けぼくろ」と、黒色にまつわる様々なものが「玄」字で表現されていることに気付きます。

 ところで、皆さんは天(空)と言えば何色だと思いますか?五経の1つである『易経(周易)』坤・文言伝には、「天は玄(くろ)にして、地は黄なり」と天の色も「玄(黒)」だと記述されています。私たちは、天(空)の色と言われるとすぐに「青空」や「夕焼け空」を連想してしまいがちですが、古代の人々はより混沌とした複雑な天の様子を「玄」字で表現したのかもしれません。

2020年9月15日火曜日

「悲心の器」と「悲の器」

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、宗教学の岸根敏幸先生です。


 私は文化学科の専門科目で「宗教文化論」(旧カリキュラムでは「アジア宗教文化論Ⅰ」)の授業を担当しており、その授業で扱っているテーマの一つとして「仏教における業と輪廻」というものがあります。このテーマで中心になっているのは地獄です。地獄というものが、様々な宗教で語られている通りに存在していると思っている人は、(私を含めて)そう多くはいないでしょうが、それでも、地獄について考えることには、生きるということの本質につながるものがあるのではないかと、強く惹かれるのです。それについては授業でも多少話していますし、機会があれば、ある程度まとまった文章を書いてみたいとも思っています。

 それはともかくとして、授業でこの地獄を説明する際に典拠としているのが、平安時代中期に活躍した源信の著書『往生要集』です。この書は、極楽浄土への往生について、様々な仏典の記述を渉猟して、要点をまとめているのですが、注目されるのは、冒頭から、これでもかと言わんばかりに、地獄のおぞましさを延々と描き出している点です。端的に言えば、地獄をはじめとする六道輪廻がこんなにもひどい場所なのであるから、できるだけ早く立ち去って、極楽浄土に往生しなさい、という論理なのですが、地獄のおぞましさについて、微に入り細に入り、執拗(しつよう)なまでに描き出そうとする異常さに圧倒されるのです。

2020年9月8日火曜日

おじさんの十字架

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、社会学の開田奈穂美先生です。


こんにちは、2020年4月に着任した開田奈穂美です。私は大学入学以降の15年ほど東京で暮らしていましたが、元々出身は長崎県長崎市(旧外海地区)です。今回は自己紹介も兼ねて、私の実家で起こったちょっとした出来事について書いてみたいと思います。

私の実家がある長崎市の旧外海地区は、長崎市の中心部から車で一時間ほどかかる場所にあります。旧外海地区の一部の集落は、2018年7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連施設」として世界遺産に登録されました。世界遺産に登録された集落からは外れていますが、私が住んでいた集落にも、多様な宗教的バックグラウンドを持つ人たちが暮らしています。まず、キリスト教が禁止されていた時代から「隠れキリシタン」として密かに信仰を持ち続け、今でも独自の信仰を守っている人たち。そして明治に禁教の時代が終わって以降、キリスト教徒として教会に通っている人たち。そして隠れキリシタンやキリスト教徒を先祖に持ちながら、現在では仏教徒としてお寺の檀家になっている人たちです。

2020年9月2日水曜日

古代哲学における「意志の弱さ」(模擬講義)

  今回は哲学の岩田直也先生による模擬講義の映像をご紹介します。残念ながら2020年のオープンキャンパスは中止になってしまいましたが、福岡大学でどんな講義が行われているのか、ちょっと覗いてみましょう。

2020年8月26日水曜日

オンライン・オープンキャンパス

 今年、残念ながら中止になった 福岡大学オープンキャンパス2020。その代わりには足りないかもしれませんが、人文学部文化学科のHPを探検してください。HPにこれだけの内容を持つ学科は他にはあまりありません。
きっと文化学科の魅力に気づくはずです!

探 検1 どんなひとが文化学科に向いている?

 Q1.文化について幅広く学びたいですか?  YESNO
 Q2.社会のあり方・あるべき姿に関心がありますか?  YESNO
 Q3.人の心のメカニズムについて考えたいですか?  YESNO
 Q4.人の生きる意味を考えたいですか?  YESNO
 Q5.ものごとをいろいろな角度から考えることが楽しいですか?  YESNO


探 検2 文化学科でどのようなことを学ぶ?

 そもそも文化学科って? と思っているあなたはこちらへ。
 文化学科には大きく分けて7つの領域があります。それぞれの中身を知りたいあなたはこちらへ。

哲学・倫理学    宗教学     芸術学・美術史
社会学       心理学     地理学      文化人類学・民俗学

 文化学科ではどんな授業を受けられるの?と思っているあなたは、哲学の岩田直也先生による模擬授業の動画もぜひご覧ください。


2019年度提出の卒業論文題目一覧

  2019年度(令和元年度)提出の卒業論文題目一覧をお届けします。末尾に卒業論文関係の記事も載せていますので、そちらもぜひご覧下さい。



2019年度(令和元年度)提出の卒業論文題目一覧

関口浩喜 教授(現代英米哲学)
・クワインの「翻訳の不確定性」に関する一考察
・他者ー二人の哲学者と「他者問題」を手がかりにー

平井靖史 教授(近現代フランス哲学)
・アンドロイドは人間に恋をすることができるのか

林誓雄 准教授(近現代哲学・倫理学)
・管理社会の是非


宗教学
岸根敏幸 教授(日本の神話と宗教、仏教、インド哲学)
・イザナギより生まれ出づる神

小笠原史樹 准教授(西洋の宗教、宗教哲学、中世ヨーロッパ哲学)
・神話における友情論
・悪女考
・なぜ彼らは「一つになる」愛を求めたのか


芸術学・美術史
植野健造 教授(日本の美術)
・日本美術にみる生老病死
・日本美術に表現された猫たち
・VR表現の可能性
・能楽の世界
・東山魁夷についてー風景表現における立ち位置ー
・大正浪漫について

落合桃子 講師 (西洋近現代美術史、ドイツ美術)
・モネの風景画について


心理学
一言英文 准教授(感情心理学、比較文化心理学)
・他者コンパッションと協調的幸福感の相関関係の検討
・上半身の動作による魅力の要因
・テンポの操作が心理的なストレスに与える影響


文化人類学・民俗学
髙岡弘幸 教授 (民俗学・文化人類学)
・「妖怪」という「イメージ」ーその定型化と変容ー
・美しい水の国のミネラルウォーター〜飲料水の普及を中心として〜


宮岡真央子 教授(文化人類学)
・食生活改善推進員と郷土料理
・漫画に描かれた終末の日


藤村健一 准教授 (文化地理学)
・福岡市都心部の発展過程




卒業論文関係の記事
2019年度卒業論文報告会に参加して(学生記事)

2020年8月16日日曜日

スペイン風邪とムンク

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、美術史の落合桃子先生です。



 今から100年ほど前、インフルエンザが世界中で猛威を振るいました。スペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)とよばれています。植野先生浦上先生のブログ記事にもあるように、1918年3月から翌年、翌々年にかけて、アメリカからヨーロッパ、アフリカ、アジア、そして日本にも広がり、多くの人々の命を奪いました。

 《叫び》で知られるノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク(1863-1944)は1919年、56歳になる年に、スペイン風邪になった自分の姿を描いています。
 
ムンク《スペイン風邪にかかった自画像》1919年、油彩・カンヴァス、150 x 131 cm、オスロ国立美術館
ムンク《スペイン風邪にかかった自画像》1919年、油彩・カンヴァス、150 x 131 cm、オスロ国立美術館

2020年8月3日月曜日

中世ヨーロッパにおける健康、あるいは医師としてのイエス・キリスト

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、宗教学の小笠原史樹先生です。


昨年9月、九州産業大学で開催された某シンポジウムで登壇した際、「中世ヨーロッパにおける健康」について質問されて何も思いつかず、「今後の課題にさせて下さい」と答えた。「今後の課題にさせて下さい」とは、つまり「わかりません、ごめんなさい、許して下さい」という意味である……いや、このまま何もせずにいると、そのような意味になってしまう……。

もし今、改めてこの質問に応答しようと試みるならば、何が話せるだろう? 付け焼き刃に西洋史関連の本を紐解きつつ、知ったかぶりをして、例えば、次のように話してみることができるかもしれない。

2020年7月27日月曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ:人生に目標は必要か?

次回のLC哲学カフェ、オンラインでの開催が決定しました。詳細は下記の通りです。

 【LC哲学カフェ】
 人生に目標は必要か?――フリーランスの先輩と考える

 日時 8月2日(日)11:00-12:30
 場所 オンライン(Webex使用)
 ゲスト 野里のどかさん(フリーランス、ライター、LC12台卒業生)

今回は、ゲストにLC卒業生の野里のどかさんをお迎えし、「人生に目標は必要か?」というテーマについて考えてみます。


前期は遠隔授業が続いたため、おそらく、学生さんが授業外で集まる機会はなかなか無かったはず。今回の哲学カフェ開催には、LCの学生さんに、授業外で何となく集まれる場所を提供する、という意図もあります。特に、未だ大学に慣れないだろう新入生の皆さんには、この機会に、ぜひ色々なご意見やご質問を聞かせてもらえれば、と思います。

2020年7月6日月曜日

パンデミックと美術

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、西洋美術の浦上雅司先生です。

 現在、Covid19の世界的流行(パンデミック)は続いており、福岡大学でも少なくとも前期の授業は全て遠隔授業で行われることに決まっています。

 インフルエンザを中心としてパンデミックは歴史の中でしばしば起こっており、最近では2009年の新型インフルエンザもパンデミックと指定されています。これに限らず、1918年から20年にかけて猛威を振るった、いわゆるスペイン風邪など、歴史の中でパンデミックは度々起こっています。

 高校の世界史の教科書にも出てくるように、西洋史で一番有名なのは1348年の「黒死病」大流行でしょうが、ペストの流行はその後も繰り返し起こりました。

2020年6月25日木曜日

疫病で夭折(ようせつ)した画家たちのこと

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、芸術学・美術史の植野健造先生です。

日本美術史、博物館学担当教員の植野です。

三重県立美術館 2020年1月17日撮影
ことし2020年1月17日(金)津市にある三重県立美術館を訪問しました。「関根正二展」を観覧するためです。同展のサブタイトルには「生誕120年・没後100年」、チラシのコピーには「カンヴァスに留められた、永遠の青春。」とある。関根正二(1899-1919)は20歳で亡くなった、日本近代美術史にとって忘れることのできない天才的な洋画家です。芸術家を顕彰する回顧展覧会は生誕、没後それぞれ10年、30年、50年、100年など十年単位で企画されることが多い。2000年代に雪舟の没後500年展や伊藤若冲の没後200年展が開催されましたが、現代でもその芸術が広く受容され、さらに再評価されてゆくことの現れであったとみることができるでしょう。それはともかく「関根正二展」は、思い返すと1999年にも全国数か所で開催され、その時は愛知県美術館で観覧したことを思い出しました。今回の生誕120年・没後100年展は、2019年9月14日~11月10日福島県立美術館立ち上がりで2019年11月23日~2020年1月19日三重県立美術館、その後2020年2月1日~3月22日神奈川県立美術館での巡回開催で、私が三重会場を訪問したのは会期終了2日前のこと、神奈川会場で観覧する予定をたてていたらコロナウィルスの影響で見ることができたかどうか不明です。

2020年6月15日月曜日

西洋古代哲学を志したきっかけ

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学の岩田直也先生です。

こんにちは、2020年4月に着任した岩田直也です。これまで自分が必死に取り組んできた西洋古代哲学を、これからも研究し教育することができ、とても幸せに思っています。今回は、ではそもそも何故、私が西洋古代哲学を志すようになったのか、そのきっかけについて簡単にお話してみようかと思います。

昔から哲学書やその他の文学作品を読んでいたのかというと、全くそのようなことはありませんでした。小・中学校時代は、水泳選手として、学校が終わるとスイミングスクールに通って練習する毎日でした。しかし、中学時代にB’zの大ファンになったことがきっかけで、徐々にロックギターにのめりこむようになりました。高校生の時には、もう水泳は辞めてしまい、地元の友達とバンド活動を行うなど、音楽を中心に生活が回っていました。そんな感じで高校では成績がかなり悪かったのですが、大学に行かないという道を選択するほどの決心と勇気もなかったので、一年浪人して勉強に集中し(ギターの弦を切って!)ひとまず無事に入学することができました。入学後はさっそくギターを再開し、専門学校にジャズやクラシックを学びに行くなどさらに音楽に傾倒し、将来はこの道で食べていけたらなぁ、などと甘い考えを抱いていました。

2020年6月4日木曜日

地域の違いを楽しむ

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、地理学の伊藤千尋先生です。


はじめまして。今年度着任した伊藤千尋です。専門は地理学・アフリカ地域研究です。
福岡に来る前は、広島の大学で働いていました。今回は、私が福岡に住み始めて驚いたことを軸にしながら、地域性について考えてみたいと思います。


福岡に住み始めて、とにかく目に入るようになったものがあります。それはイチゴです。
私は特別にイチゴが好きなわけではありませんが、季節になるとそれなりに目に入ってきます。しかし、個人的には「イチゴはたまに買う高級品」という位置づけにあったため、「買う」という選択肢までにはなかなか至りませんでした。それが福岡に来て間もない4−5月、イチゴはどこに行っても大量に陳列され、1パック198円〜という価格で売られているではありませんか。産地に近い直売所などに行けば、さらに大量のイチゴが安売りされており、今がイチゴのシーズンなのだと感じずにはいられませんでした。箱買いしている人びとを横目に見ていると、なぜか「私も買わなければ!」という気になってしまうから不思議です。

2020年5月2日土曜日

「絹の道」と異文化の接触・西安―いつだって世界はつながっている(異文化の接触地帯7)―

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、地理学の磯田則彦先生です。

 こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。

 まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフサイクルの重要なステージで移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」以前から、そのようなことが気になってしまいます。

2020年4月18日土曜日

開田奈穂美 講師




□開田奈穂美先生のブログ記事
私がワクチンを接種する理由
路上観察会の報告

□開田奈穂美先生の授業紹介


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□研究室 : 文系センター棟8階 802号室

□専門分野 : 環境社会学  (→社会学って?)

□現在の研究テーマ:諫早湾干拓事業に関連して、大規模な公共事業によって自然環境が改変した地域において、住民が自分たちの生活環境をどう捉えているのか、インタビューやアンケート調査を手掛かりに明らかにする研究をしています。

□教育研究活動:地域の自然環境が大幅に変わってしまったときに地域住民がどう対応していくのか、イノシシや野鳥などの野生動物とどう付き合うのかといったローカルな問題から、地球環境問題に代表されるグローバルな問題まで、自然環境に関することを社会学の観点から研究・教育しています。 

□担当科目(2021年度):社会学AB、リスク社会論、マスコミュニケーション論、情報処理入門、情報処理実習など

□提供できる模擬講義
「環境の社会学」
「水はどこから来るのか、どこに行くのか」


□受験生へのメッセージ:
 自分の身の回りの出来事やニュースを見ていて、何かがおかしいと感じることはありませんか?その疑問を大事にしてください。文化学科ではその疑問を言葉にして、必要なデータを取り、他の人に説得的に論じられるようになるお手伝いをします。

□卒業論文について
 私の専門分野は上記の通りですが、卒業論文のテーマは特に限定しません。インタビュー、社会統計、参与観察など、様々なデータを取得し、それを読み解いていきながら、自分の関心のあるテーマについて説得的に論じられるように指導をしていきたいと思います。



2020年4月8日水曜日

新入生web履修登録ガイダンスの資料配布

文化学科2020年度新入生各位

 福岡大学人文学部文化学科へのご入学,おめでとうございます。
入学して早々,新型コロナウィルス感染拡大のために,
新年度の行事や授業が中止・延期となっており,福岡県でも
緊急事態宣言が出されるなど,大変な状況となっております。
そうした厳しい状況ではありますが,1日でも早く,みなさんと
授業などでお目にかかれる日が来ますことを,学科教員一同,
心から願っております。

 さて,その授業を聴講し,単位を取得してもらうために,
まずは「履修登録」をしてもらう必要がありますが,そのガイダンスが
感染拡大防止のために,中止となりました。
その都合,対面式のガイダンスの代わりに,みなさんが履修登録を
するにあたって,学科として気をつけておいて欲しいこと・注意事項を
まとめた資料を作成しましたので,配布いたします。
下記のリンク先からファイルにアクセスしてもらい,
4月13日(制限登録科目のみ),15日,16日の履修登録日に備えてください。

https://fukuoka-u.box.com/s/3d3ycgn1iakgq2oo530hrtiivs1tk018

https://fukuoka-u.box.com/s/0xiwipkfaj1ngqwupvsdii4f1urfx67j

https://fukuoka-u.box.com/s/ml1meezqbelepfcxy1yp2hdagq9qnoi9

資料は全部で3つあり,すべてpdfファイルとなっています。

[1]2020-Web履修登録ガイダンス.pdf
[2]web履修登録2020 Timetable.pdf
[3]2020基礎演習割り振り表.pdf

基本的には [1] を見ながら,[2]と[3]を,補足資料として使ってください。
ファイルが開けない・見られないなど,何か問題がありましたら
このメールに返信する形で,お問い合わせください。
(あるいは seiyuh[アットマーク]fukuoka-u.ac.jp にまで,メールを送ってください。)
なお,問い合わせの際には,念のため,文化学科新入生であることと,
名前・学籍番号を,お知らせください。

国難とも言うべき厳しい状況が今後も続きますが,まずはご自身と,そして
ご家族やご友人の健康を第一に,決して無理はせずに,日々を過ごして
もらいますことを,心よりお願いいたします。

2020年4月8日
文化学科教務連絡委員:林誓雄/縄田健悟

2020年3月26日木曜日

落語の魅力

LC18台 鳥巣はるか

皆さんこんにちは。福岡大学人文学部文化学科二回生の鳥巣はるかです。

突然ですが、皆さんは落語を聞いたことがありますか? きっと多くの人が聞いたことがないと言うでしょう。理由としては、「古くさい」「難しそう」というイメージが強いせいだと思います。実際私もこの福岡大学の落語研究会に入るまではそう思っていましたが、聞いてみるととても面白く、奥深いものだと知ることができました。そこで今回は、皆さんに落語の魅力を伝えていこうと思います。

魅力の前に落語って何?

落語とは、扇子と手ぬぐいを主に使い、一人の演者が何人もの登場人物を演じ分けながら物語を展開させていく、日本の伝統的な話芸です。噺にオチがあることから落語といわれています。また昔の関東地方で演じられていた、江戸の言葉を使う江戸落語と、関西方面で演じられていた、昔の関西弁を使う上方落語という二種類に分かれています。同じ噺でも地域性が出ていて少し違うものになっていたり、江戸落語は粋、聞かせるという特徴があり、上方落語は派手、華やかという特徴があります。

魅力① 扇子と手ぬぐいがあればどこでもできる
落語は基本大道具やものに頼る事が少なく、演者一人が手ぬぐいと扇子を使い、身振り手振りだけで噺を演じます。そのため、大がかりな装置を用意する必要がなく、手ぬぐいと扇子があれば、どこでも落語を披露することができる、身近な芸能となっています。


愛用のセンスと手ぬぐい

魅力② 様々な噺がある
落語には様々な噺があります。例えば、面白おかしく笑える滑稽噺や、泣ける、聞かせるということに特化した人情噺、幽霊やお化けが出てくる怪談噺、お客さんからお題を三つもらい、演者がその場で噺を作る三題噺、色っぽい艶噺などがあります。また、既に述べた江戸落語に上方落語、昔から人々に伝わってきた古典落語や、明治以降に作られた、比較的新しい新作落語というように種類もたくさんあります。そしてオチにも様々な種類があり、考えオチという一瞬考えてからニヤリとさせられるもの(例、短命)、逆さオチという物事や立場が入れ替わるもの(例、初天神)、仕草落ちという仕草が落ちになっているもの(例、始末の極意)、地口落ちといわれるダジャレがオチになっているもの(例、孝行糖)、仕込み落ちという前もってオチの伏線を仕込んでおくもの、途端落ちという最後の一言で結末のつくもの、ぶっつけ落ちという意味の取り違えがオチになるもの、間抜け落ちという間の抜けたことがオチとなるもの、見立て落ちという意表を突いたものに見立てるものなどの種類があります。

このように落語の形式、噺、落ちにもたくさんの種類があるためいろいろな噺を聞いて楽しむことができます。また、前座噺という落語家の中でも下の身分の前座がやるような噺はわかりやすく面白いものが多いので、初心者の方にもおすすめです。(例、つる、饅頭怖い、寿限無、子ほめ、牛ほめなど)

魅力③ 演じる人によって、同じ噺でも全然違うものとなる
落語は演者一人ですべてを演じるため、非常にその演者の個性が出ます。同じ噺でも、江戸弁を使うのと上方弁とでは雰囲気が違ったものとなるうえ、その演者自身のキャラクターによって、まったく雰囲気が違うものとなります。たとえば、普段明るい人が滑稽噺をすることで楽しくお客さんを笑わせたり、普段はおとなしい人が聞かせて泣かせる人情噺をするのも、いいのですが、あえて普段明るい人が人情噺をすることで、人情噺特有の重い雰囲気が少し払しょくされて聞きやすいものとなったり、普段はおとなしい人が滑稽噺をすることで、その演者のおとなしそうな雰囲気とのギャップで面白いものになったりします。このように、同じ噺でも演者によって、雰囲気がぜんぜん違うものとなるため、その演者の個性を楽しみながら噺を聞くことができます。



福大落研の寄席で落語を披露したとき


以上、落語の魅力について取り上げましたが、実際最近は落語ブームというように、落語を題材にした昭和元禄落語心中という漫画がドラマ化されたり、策伝大賞という学生落語の全国大会が行われていて、決勝戦はNHKで放送されていたりと、とても盛んなものとなっています。落語は親しみやすい文化となっているので、ぜひ落語を聞きに寄席に行ってみたり、日本の伝統文化に触れてみてはいかがでしょうか? そして福岡大学に入学した暁には、福大落研の寄席に来ていただければ幸いです。



策伝大賞の様子


福大落研の写真

2020年3月25日水曜日

ディズニー映画からみる海外の妖怪文化


LC17台 粟田来実

こんにちは。人文学部文化学科3年の粟田です。
私は、昨年受講していた林ゼミのレポート課題で、「日本の妖怪文化浸透の過程について」という題材で日本の妖怪文化の考察をしました。

人気アニメーション・ゲームの「ポケットモンスター」や「妖怪ウォッチ」、映画でいえば「千と千尋の神隠し」や「バケモノの子」などの作品を通じて、近年、妖怪という存在は非常に親しみやすいものになったと思います。日本で受け入れられやすい妖怪像の特徴は、より可愛らしくキャッチ―なイメージものが多いですよね。

では、海外の妖怪文化はどうでしょうか…?
今回は、海外の有名長編アニメーション作品であるディズニー映画を用いて、海外で受け入れられている妖怪像を自分なりに考察してみようと思います。

日本で妖怪というと、妖(あやかし)や物の怪、幽霊など混同してしまいがちですが、海外では化け物や怪物の類をモンスターといい、幽霊の類をゴーストと呼んでいますので、日本のようの曖昧さは回避しているように感じます。

1つ目の作品「モンスターズ・インク」(2001
この作品は題名にあるように、モンスターたちが主役の映画です。この映画に出てくるモンスターは、冒頭では子供を怖がらせる存在として描かれています。ですが、後々には、子供を笑顔にする存在に変わります。なお、この映画が作られた背景には、様々な映画やゲームなどの影響で、モンスターを怖がらない子供が増えたことがあるのでしょう?

2つ目の作品「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」(1993
この作品は、ハロウィンタウンに住まうゴーストたちが主役の作品です。こちらもゴーストたちは人間に悪戯をしたり、怖がらせることが大好きであるというふうに描かれています。

日本は物や動物に霊魂が宿るアニミズムの概念がありますよね。海外にはこのアニミズムがほとんどありません。海外のホラー映画を見ても出てくるのは、ゾンビであったり、幼い少女の霊だったりと、主に死んだ人間が蘇るか怨霊になって現れるものが多いイメージが強いです。

しかし、この「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」に出てくるキャラクターを見てみると、骸骨あたまの主人公、ジャックはかかしであったり、ヒロインのサリーは死体から作られた人形であったり、ジャックのペット、ゼロは幽霊犬であることから、海外にアニミズム的文化が全くないとは一概に言えないということがわかりますね。

どちらの作品も、日本と同じで、人間を怖がらせる存在として、モンスターやゴーストを描いているのがわかります。ですが、日本の妖怪は時に幸をもたらすものであったり、付喪神と称して尊い存在として扱われたりもします。海外では、妖怪イコール神とは、とても結びつかない考えでしょう。

そして日本と海外の妖怪の違いの大きなポイントは、人間に直接的に危害を加えるかどうかだと思います。海外では、モンスターやゴーストは直接的に人間を襲うから怖いというイメージを与えているのではないでしょうか。その反面、モンスターは実は繊細な心を持っているという裏設定をつけ、一方的に嫌われ者扱いのような「泣いた赤鬼」的要素を加えて親しみやすいものにしている感じがしますね。とはいえ、結末はモンスターやゴーストはいいやつ!なので、結局は日本も海外も妖怪の存在自体を受け入れている姿勢は同じようですね。

今回取り上げた2つは、ディズニー映画のごく一部の作品なので、ホラー要素の含まれる作品はまだあるかもしれません。また、ディズニー映画はアメリカのものなので、他の国のホラーアニメーション作品からも読み取れるものはあるのではないかと思いました。

文化学科に入るまでは、自分の好きな映画を文化的な視点で見たことがなかったので、いつもとは違った面から一つの作品を見てみるのもいいなと感じました。そういうことに気付けるのも、この学科の面白さだと思います。

2020年3月4日水曜日

令和2年度文化学演習の所属希望調査について(再掲)



《重要》令和2年度 文化学演習所属希望調査について

(2020年3月13日 更新)

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新型コロナウィルスの影響により,レポート提出ボックスに希望調査票を投函することによる調査を中止する可能性があるとしていましたが、現時点で大学側からこの件に関連する指示はでておりませんので、例年通り、レポート提出ボックスに希望票を投函する形で、希望調査を行います。
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◆令和2年度 新2年生(LC19台)・再履修者各位
 令和2年度の文化学演習Ⅰ、文化学演習Ⅱの所属希望について、下記の要領で提出してください。

◆令和2年度 新3年生(LC18台)・新4年生(LC17台)・再履修者各位
 令和2年度の文化学演習ⅢⅣ、文化学演習ⅤⅥの所属希望について、下記の要領で提出してください。

  1. 演習Ⅰ・Ⅱ(LC19台および再履修者)については、配布された「演習所属希望調査票」を前期と後期で各1枚提出してください(再履修を除くと、各自2枚提出)。
  2. 演習Ⅲ-Ⅳ、Ⅴ-Ⅵ(LC18台・LC17台)については、配布された「演習所属希望調査票」を前・後期通じて合計1枚提出してください(再履修を除くと、各自1枚提出)。ただし、再履修の場合は1科目(半期)ごとに1枚提出してください。
  3. 提出先は文系センター棟低層棟1階のレポート提出ボックスです(下記案内図参照)。
  4. 提出期間は 令和2年3月16日(月)~18日(水) 12:00  <厳守> です。提出がない場合や期限に遅れた場合は、教務・入試連絡委員が所属を決定します。 ※何らかの事情で上記の期間中に提出できない場合は、事前に教務・入試連絡委員(藤村・林)へ相談してください。
  5. 決定した演習の所属は、3月21日(土)までにFUポータルと人文学部掲示板で発表します。
  6. 演習所属に関する問い合わせは、教務・入試連絡委員(藤村・林)まで。

※注意事項
  1. 演習ⅢとⅣ、ⅤとⅥは前期と後期で同一教員の演習に所属することになります。
  2. 演習の所属は原則として本人の希望に基づいて決定します。ただし、希望人数が定員を超える場合は、本年度の成績に基づいて調整します。
  3. 各演習の内容については、3月上旬以降にFUポータルでシラバスを閲覧することができます。『文化学科 教員紹介』も参考にしてください。
  4. 登録制限科目を履修する場合、所属する演習の開講曜日・時限と重複しないように注意してください。
  5. 再履修が必要な場合、必要な用紙を別途用意し、「再履修」欄に必要事項を記入して提出してください。
  6. 「演習所属希望調査票」が手元にない場合は下記リンク先からダウンロードしてください。3月には、FUポータルからもダウンロードできるようにする予定です。ダウンロードした用紙は、配布したものと色が違う場合がありますが構いません。


2020年2月25日火曜日

植野ゼミと長崎ゼミ旅行

LC17台 黒山愛莉

 みなさんこんにちは。人文学部文化学科3年の黒山愛莉です。この記事では、私の所属する植野ゼミと、6月8日(土)に行われたゼミ旅行について、紹介していきたいと思います。

 日本において「美術」という言葉は、いつ作られたか知っていますか? 実は1872(明治5)年になって初めて作られた言葉です。また、通史としての日本美術史も、明治になって初めて岡倉天心によって講じられました。中学校の社会科や高校の日本史の授業などで、お雇い外国人のフェノロサや岡倉天心の名前は聞いたことがあると思います。

 植野ゼミでは、岡倉天心著『日本美術史』(平凡社、2001)をテキストとして用い、芸術・美術史に対する理解を深めています。この本は、岡倉天心が1890(明治23)年から1892(明治25)年にかけて東京美術学校(現在の東京藝術大学)で行った「日本美術史」の講義を、当時の学生が筆記したノートを基に、編集されました。私たちはまず、『日本美術史』に関する関連論文を講読するなど、背景を理解するための作業を進めています。

 また、植野ゼミではプレゼン発表も行います。今学期は、植野先生が先陣を切り発表をされました。先生は、いくつかのロックバンドのライブを見に行くのが趣味で、そのバンドがHPやTwitterに掲載する、ライブ終了後の集合写真に、自分の姿が写り込んでいる画像を収集されているそうです。その画像の蓄積を紹介する、「アーティストのウェブ画像に写り込むプロジェクト Found in Artist’s Events」というタイトルで報告をされました。

 学生が発表したテーマとしては、「デザインからみる御朱印」「万華鏡」「能楽」「スーパー戦隊における色」「辰野金吾と東京駅」など多種多様です。それぞれが好きなテーマに関するプレゼン発表を行い、次に受講者が質問や疑問、意見や感想を出し合い、活発な授業が展開されています。

 

過去に、「ロゴマークとは?」というテーマで発表をされた先輩がいらっしゃいました。その際に制作されたロゴマークは、現在も、植野ゼミで大切に受け継がれています。

植野ゼミのポリシー
1. 打てど、響かず…。2. 笛吹けど、踊らず…。
 3. しかし、時には…、○○もおだてりゃ、木に登る。
 さあ、心おきなく、登りましょう。」

今年も、4年生の方が新しい作品を制作されました。色違いの植野先生です。本当にそっくりです。



芸術系のゼミでは合同で前期と後期に1回ずつゼミ研修が行われています。前期は6月8日(土)に、浦上ゼミと合同で長崎市にゼミ研修に行きました。

 前日はもしかしたら雨が降るかもしれないと不安でした。しかし、当日は曇りで晴天ではありませんでしたが、暑すぎず寒すぎずちょうど過ごしやすい気候でした。朝9時に福岡大学から長崎市に出発し、途中の大村湾パーキングエリア(恋人の聖地で有名)で休憩をとった後、お昼前に長崎市に到着しました。

 まず、はじめに大浦天主堂とその関連施設である旧羅典神学校と旧長崎大司教館を訪れました。学芸員の方に大浦天主堂の成り立ちや、その歴史について詳しくご説明をしていただき、キリスト教の伝来や禁教、信徒発見、キリシタン摘発(崩れ)などについて学ぶことができました。

 研修前のゼミでは、映像資料を鑑賞し、和洋折衷の大浦天主堂の建築特徴であるリブ・ヴォ―ルト天井などについて予習を行っており、私は、実際に見るのをとても楽しみにしていました。創建当時は黒地に白い格子の壁でしたが、現在は増改築がなされ、白い漆喰の壁になっており、天主堂の規模も大きくなっていました。
 また、ちょうど正午を知らせる鐘が鳴る場に居合わせることができ、貴重な体験をすることができました。




 お昼は角煮まんやカステラ、大浦天主堂のステンドグラスを表現したプリンを購入し、食べ歩きをしました。また、グラバー通りからの長崎の景色も堪能しました。



次に長崎県美術館を訪れ、開催中の企画展「奇蹟の芸術都市バルセロナ展」とコレクション展「荒木十畝(あらき じっぽ)展」を、それぞれの担当学芸員の方に説明していただきました。

 私は、バルセロナにはオリンピックとサッカーのイメージしかありませんでした。そのため、カタルーニャ独立運動が大きな問題となっているカタルーニャ州の州都であることや、ガウディ、ピカソ、ミロ、ダリ等々の巨匠を生んだ芸術都市であることを知りませんでした。

 ちなみに、私は猫が大好きで、展示を見る前にミュージアムショップに寄った際に、猫をモチーフにしたグッズが大量に販売されていたので、何の作品とどんな関係があるのだろうかと、わくわくしていました。実際には、パリ・モンマルトルの文芸キャバレー「黒い猫」(1881-1897年)に倣って、バルセロナにカタルーニャの画家ラモン・カザス(1866-1932年)やサンティアゴ・ルシニョール(1861-1931年)らによって開かれたカフェ・レストラン「四匹の猫」(1897-1903年)との関連でした。この「四匹の猫」では、展覧会や影絵、芝居、人形劇などが催され、芸術雑誌も刊行されました。ピカソが初めて個展を開いたのも「四匹の猫」であり、カタルーニャの芸術の発展に重要な役割を果たしたことが分かりました。

 企画展の展示方法も、いくつもの工夫がなされていました。バルセロナの街を上から見た大きな写真が入り口の壁一面に貼ってあり、展示の途中にも関係する写真が壁一面にありました。このことによって、想像力を高める空間的効果があるそうです。さらに、彫刻に照明を当てる際には、前面だけでなく、後面にも当てることによって、シルエットで彫刻をさらに魅力的に見せる方法、絵画を展示する際の適切な高さなどの展示方法、防火装置を目立たなくする方法、壁の素材、作品のセキュリティの厳しさなど、学芸員の方に多くのことを教えていただきました。
 


 次に、日本画家の荒木十畝(1872-1944年)について説明をしていただきましたが、私は荒木十畝だけでなく、名前が知られているらしい師匠の荒木寛畝(あらき かんぽ、1831-1915年)の名前すら知りませんでした。勉強不足を感じながらも、説明を聞きました。
 十畝は現在の長崎県大村市に生まれ、花鳥画で知られる荒木寛畝に入門し、近代日本画壇の重要な人物だそうです。十畝は旧派に属しながらも、守旧斬新主義ともいうべき立場をとり、伝統的な画法を基礎としながら、新たな表現を模索しました。学芸員の方によると、十畝の画風の変化には、①寛畝ゆずりの作風、②寛畝死後の琳派的な表現、③幽玄な世界観、という3つのポイントがあるそうです。

十畝は、大村の在郷軍人会の求めに応じて《松鷹図》(昭和3年)を製作したり、昭和10年代から勇壮な猛禽類による男性的な花鳥画を中心に描きだしたことから、戦前・戦中のナショナリズムの影響を強く受けています。このように、作品から製作者の思想や生き様、生きた時代背景を読み取る視点を持つことの大切さも学ぶことができました。

 16時に長崎を出発、18時頃には福岡大学に無事到着し、その後解散しました。ちなみに、後期のゼミ研修は、今のところ大分県か熊本県の予定らしいです。
 
 現在の植野ゼミは、4年生が持ち上がりの学年だったこともあり、連続して履修している方が多いため、先生との信頼関係がとても深く築かれているなと感じます。3・4年生のゼミは1年を通して一緒に学ぶので、4年生の素晴らしいところを見習いつつ、様々な技や知識を盗んでいけたらいいなと思います。また、既に述べたように、芸術系のゼミでは合同で前期と後期に1回ずつゼミ研修も行われていますので、履修選択の際の参考にしていただければいいかなと思います。

2020年2月21日金曜日

オトナと大人



「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、近現代哲学・倫理学の林誓雄先生です。



先輩、上司、学長、理事長、社長、大臣、王様、大統領
役職として高位な人間が、理不尽な要求をつきつけてきたとき
立場が上である人間が、不当な手段で集めた、偽の証拠などから
何らの整合性・正当性もない処分・措置を押し付けてきたとき
それに、唯々諾々と従うことをよしとする人間が、
それに、従うことこそ自分たちのなすべきことだ、と考える人間が
この世の中には、いる。

目的・結論がまずありきで、それに沿うものであるならば
どれほど悪質な手段を使おうとも、どれほど卑劣な手を使おうとも
どれほどの人間に迷惑をかけ、数多くの人間を傷つけようとも
目的達成のために、まったく論理的でない議論を組み立てて
権威を振りかざし、「決定権は自分たちにあるのだから従え」の一辺倒で
不当な要求を飲ませて、しかし、それに伴って引き起こされる害悪については
まったく責任を取らない人間が、この世の中には、いる。

他方で、どれほど自分よりも年上だからといって
どれほど自分よりも立場が上だからといって
どれほど自分よりも世間では偉いとされているからといって
理事長であれ、大臣であれ、大統領であれ
誰が何を言おうとも、そこに論理的な正当性がない限り
正当な手段であつめた正当な証拠に基づいた結論でない限り
不当な要求に従うことを断固拒否し、ただひたすら、論理に基づく議論を求め
正義を貫き通そうとする人間が、この世の中には、いる。

「天に唾する」という言葉がある。どういう意味だろうか。
天に向かって唾を吐くと、重力によりその唾が自分に返ってくる。
転じて、何らかの意味で自分よりも上のものに口答えする、
文句をいう、反論する、抗議をすると、それをやった自分が
最後は痛い目に合うという意味だ、と思っている人がいるかもしれないが
実はそれは間違いのようだ。
正しい意味は、「人に害を与えようとして、かえって自分が損をする」
からやめておく方がよい、という教訓のようだ。
正しい意味で捉えると、確かに教訓として、真っ当なものであることがわかる。

一方、前者の間違った意味で捉える場合、教訓としては
「だから、天には逆らわない方がいい。おかみの言ったことには従うべきだ。」
というものが、導き出されるのかもしれない。
そして、その教訓に従って、上に平服し、上を忖度することこそ
自分たち下々のものはやるべきなのだ、と考えられることがあるようだ。
それはシステムとしてそもそも成り立つのか、格差や差別を生まないのか
その結果、公平・平等は確保されるのか、そのために傷つく人はいないのか
そういったことをまったく考えずに、と言うより、何もものを考えずに、
上からの命令に従い続けることがよいと、考えられることがあるようだ。
そういう人間のことを、世間では「オトナ」と言うらしい。
「オトナなんだから、もう決まったことには従おうよ」というように
「オトナ」であることが、さも良いことであるように、言われることが、ある。
ただ、そういう人は、決して「自分が決めたことだから」とは言わない。
自分では何も責任を取らず、権威や権力にのみ頼って、権威や権力のみを使って、
論理的に話をしない。
自分で証拠を集めないし、集めるときも、不正な手段で、上で決まったことに
合わせるような証拠しか集めない。そして、力づくで言うのである。「上に従え」と。
そのような人間のことを、「オトナ」というのだそうだ...「オトナ」と呼ぶのだそうだ...

他方で、哲学において、あるいは倫理学において、「大人」とは、
自分の頭で物事を判断し、自分で決定し、そして何より
自分で責任を取る人間のことを言う。
「人間」であるからには、自分の頭を使って、自分で物事を考えられるようになってこそ
「大人」と呼ばれるわけであって、上の言うことを、ただ聞いているのは
ただの「子供」あるいは、「奴隷」と言われることに、なる。
もちろん、世間には「子供」のままの、あるいは「奴隷」に過ぎないオトナが
もしかすると沢山いるのかもしれない。
自分で物事を調査して、自分で論理的に考えて、そして自分で決断をする
ということをしないオトナ・できないオトナが、数多くいるのかもしれない。
ただ、数多くいるから、それでよい、ということには、ならない。
むしろ、われわれは「子供」のままでいてはならず、そして「奴隷」のまま
人生を終えることを、可能な限り回避すべきなのだと、哲学者ならば、言うであろう。
われわれは「大人」になるべきだと、そう言うであろう。

パスカルは『パンセ』の中で、正義と力について、次のように述べている。
 正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に 力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。
 このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。
(パスカル『パンセ』298)

パスカルの言葉は、私にとっては警句であるように受け止められる。
人は一般に、強いものを正しいとし、それでよいと、しがちであるからこそ
むしろ、それに抗わねばならないのだ、と。
ただ、なかなかそれは、難しいのかもしれない。これまで、正義が力に勝てていないからこそ
上述の「オトナ」になりなよ、とよくよく言われているのであろう。

私は、それでもなんとか、抗いたい。その方法を、見つけたい。
それが一体、いつになるのかは、わからないけれども
見つけることを目指さねばならないと思う。
論理が、正義が勝たねば、いけないはずだからである。
そうでなければ、「人間」とは言えないからである。

〔参考資料〕
パスカル『パンセ』前田陽一、由木康 訳、中公文庫、2018年
古川雄嗣『大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す』東洋経済新報社、2018年

2020年2月19日水曜日

真実の終わりと集合知/集合愚

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、文化地理学の藤村健一先生です。




1. 真実の終わりとフェイクニュース・フェイク科学・フェイク歴史

 昨年読んで面白かった本に、アメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(原題はThe Death of Truth)がある。それによれば現在、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアをとおして、フェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史などの様々な嘘が世界中に溢れている。その結果、「事実が軽んじられ、感情が理性に取って代わり、言語が侵食されることで、真実の価値そのものが低下」している(1)

この現状を体現するのがアメリカのトランプ大統領である。「トランプの虚言癖はあまりに極端であるため、報道各社が事実関係を調べる校閲者をチーム単位で雇うだけでなく、彼が発した嘘や侮辱、違反した規範の長いリストを作成するという手段に訴えるほどである。」(2)

こうした現象が起きる背景には、ソーシャルメディアが台頭するよりも前から学術界に存在する、相対主義やポストモダニズムがあるというのがカクタニの見立てである。

「相対主義の影響力は1960年代に文化戦争の幕が開いて以降、高まりつつあった。当時それは、西洋中心的、ブルジョア的、男性支配的な思想のバイアスを暴くことに熱心な新左翼と、普遍的な真実を否定するポストモダニズムの真理を唱える学者に採用された。あるのは小さな個人的な真実、つまりその時々の文化的・社会的背景によって形成された認識に過ぎないというのだ。その後、相対主義的な主張は右派のポピュリストに乗っ取られた。」(3)

「乗っ取られ」る過程について、カクタニは別の箇所でもう少し詳しく述べている。

「皮肉なのは、右派ポピュリストによるポストモダン的議論の流用、その客観的実在の哲学的否認の採用だ。〔中略〕トランプが、デリダやボードリヤール、リオタールの作品を読破したことがないのは明らかだ。〔中略〕しかし、思想家たちの理論は、俗物化された産物として大衆文化に浸み出し、大統領の擁護者に乗っ取られてしまった。彼らは、その相対主義的な主張を、大統領の嘘を弁明するために用いようと欲したのだ。右派はそれを、進化論に異議を唱えるため、気候変動の現実を否定するため、もう一つの事実を売り込むために使った。」(4)

「真実は民主主義の基盤である」と考えるカクタニは、本書のなかで、フェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史など様々な嘘の作り手だけでなく、「乗っ取られた」側の相対主義やポストモダニズムの論者も厳しく批判している。

カクタニによれば、ポストモダニズムとは広義には「人間の知覚から独立して存在する客観的実在を否定し、認識が、階級、人種、ジェンダー等のプリズムによってフィルタリングされている」という考え方である(5)。ポストモダニズムの論理では、「科学理論は社会的に構築された」ものであり、「中立的・普遍的な真実であるとは断言できない」。こうした論理は、「圧倒的多数の科学者が同意した見解の受け入れを拒む今日の気候変動否定論者や反ワクチン主義者に道を開いた。」(6)

そして、「明らかに信用できない説の信憑性を高めようとする―あるいは、ホロコースト修正主義者たちの場合に及んでは歴史を数章分も塗り潰そうとする―人々が、すべての真実にバイアスがかかっているというポストモダン的な主張を転用するようになった。〔中略〕脱構築主義的な歴史観は、〔中略〕「どんな事実も、どんな出来事も、歴史のどんな場面も、確固たる意味や内容を持たない。いかなる真実も書き換えられる。究極的な歴史的リアリティなど存在しない」という知的環境を助長しかねない」とカクタニは指摘する(7)

「脱構築主義は、すべてのテクストが不安定で還元不可能なまでに複雑であり、読者や観察者によってますます可変の意味が付与されると仮定した。あるテクストについて生じ得る矛盾や多義性に焦点を絞る〔中略〕ことで、極端な相対主義を広めた。それが意味することは究極に虚無的だった。何だって、どんな意味でもあり得るのだ。〔中略〕明白な、あるいは常識的な解釈などない。〔中略〕つまり、真実というものなど存在しないのだ。」(8)

 このように、現代世界にみられる「真実の終わり」が、20世紀後期に学術界で流行したポストモダニズムによって準備されていたのは否定しがたい(直接的な証拠は無いにせよ、状況証拠は十分にある)。


2. 歴史修正主義と集合知

 だがもちろん、ポストモダニズムの論者たちの手でフェイクニュースやフェイク科学、フェイク歴史が作りだされているのではない。カクタニは『真実の終わり』のなかで、フェイクニュースの作り手として、トランプ大統領やその取り巻き、彼を支持する右派ニュースサイト、ロシアの「トロール製造工場」(ロシア政府がネット世論を操作するために設けたとされる組織)をしばしば挙げて非難している。彼らの行為により「民衆が、扇動と政治的操作を受け入れやすくな」っていると言うのだ(9)

 ただ、カクタニが示唆するように、一般市民が常に操作されるだけの受け身の存在であるとは思えない。現代日本の歴史修正主義を例に考えてみよう。歴史修正主義とは、歴史学的な手法を採らず、恣意的な観点から歴史を修正しようとする立場のことである10

1990年代、従軍慰安婦や南京事件などに関する歴史修正主義的な言説が盛んになった。社会学者の倉橋耕平は、こうした言説は歴史を科学ではなく物語として論じる傾向があると指摘する。これにより、歴史の認定をめぐる実証性・客観性は問題でなくなり、歴史はそれを語る主体の価値観によって変わるものになる11

倉橋は、90年代の歴史修正主義的言説が、従来の歴史学の通説に対抗する形で、学術誌・学術書以外の商業的な出版物で展開され、これらの読者を巻き込む「参加型文化」のなかで「集合知」として発展していったと述べている。出版物を中心に展開されたこれらの言説は、やがてネットメディアによって世間に広がっていく12。そして、2005年頃には「ネット右翼」が出現する。これは、90年代の参加型文化が継続・発展した結果として生まれた13

 ジャーナリストの安田浩一は、歴史修正主義に関する倉橋との対談のなかで、インターネットの情報には「あいだに人が介在しない」という大きな問題があると指摘している。ネットの場合、思いつきで書いた裏づけのない原稿であっても、簡単にアップすることができ、そうした検証不可能な情報を鵜呑みにする人がSNSなどで拡散してしまう。「つまり、デマがネットを通じて広がっていく。」14

 安田はこのように指摘する一方で、かつては自身を含む多くの人々がインターネットの可能性に大きな期待を寄せていたと述べている。「興味深いのは、立ち位置を問わず多くの人が、ウィンドウズ95の登場に大きな期待を寄せていたことです。大手メディアが隠している情報や、社会の裏側でささやかれているような言説が、ネットによって表に出るのではないか、と思っていたのですね。〔中略〕僕はネットの進化をポジティブに受けとめていた。ウィンドウズ95が発売された当時の僕は、ネットが現在のようなものになるとはまったく思っていませんでした。」15


3. 集合知とWeb 2.0・民主主義2.0

 安田が指摘するように、かつてインターネットの進化や普及によってより良い社会が生まれるという期待が広く存在した。このような期待感は、今から10年ほど前まで持続していた。梅田望夫の『ウェブ進化論』(2006年)と東浩紀の『一般意志2.0』(2011年)からは、当時のこうした期待感がよく伝わってくる。

『ウェブ進化論』の著者紹介によれば、梅田は「はてなブックマーク」(はてぶ)を運営する(株)はてなの取締役にして、シリコンバレーに在住する「IT分野の知的リーダー」である。梅田は本書のなかで、Googleの登場により、インターネットでの懸案だった「玉石混交問題」を解決する道筋がみえてくるとの期待を示した。「ネット上の玉石混交問題さえ解決されれば、在野のトップクラスが情報を公開し、レベルの高い参加者がネット上で語り合った結果まとまってくる情報のほうが、権威サイドが用意する専門家(大学教授、新聞記者、評論家など)によって届けられる情報よりも質が高い」と彼は予想している16

梅田は、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』(原題はWisdom of Crowds)に基づいて「群衆の叡智」の可能性を評価し、「不特定多数の参加イコール衆愚だと考えて思考停止に陥る」ことを戒める17。そして、今後のIT産業にはWeb 2.0、すなわち「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発姿勢」が求められると述べた18。さらに梅田は、従来のエリートと大衆の間に、ブロガーからなる「総表現社会参加者層」(総人口の10分の1程度)が新たに形成され、彼らを中心とした「総表現社会」が到来することを予言した19

東は『動物化するポストモダン』などの著書で知られる哲学者である。東はスロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』や梅田の『ウェブ進化論』、ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』などを引用しつつ、彼らの主張をさらに発展させる形で『一般意志2.0』を著した。本書では、「群衆の叡智」に相当する「集合知」がキーワードとして用いられる。

「みんなで集まって考えると、ひとりでは生み出せなかったようなうまい回答が出てくることがしばしばある。それが集合知だ」。東は「三人寄れば文殊の知恵」という諺を引きながら、情報技術の革新の結果、我々は三人どころか「三千人、三万人の他者とモニタ越しに関心を共有し、同じ話題を追いかけて意見を集約することができるようになった」ので、「集合知の思想はいまや、まったく異なる規模、異なる可能性のもとで再検討する必要がでてきている」と指摘する20

東は、梅田の「総表現社会」を「総記録社会」と言い換えた。総記録社会では、人々の呟きや行動に関する情報が蓄積されて、巨大なデータベースが構築されている。東はこれを、ルソーの『社会契約論』における「一般意志」概念の現代版、すなわち「一般意志2.0」とみなした21

東は、現代社会では「熟議」や「公共圏」の理想が成立困難であると指摘し、代わりに「熟議らしきもの」・「公共圏らしきもの」を成立させる方法を考えた22。現代では「大きな公共」が壊れ、政策課題ごとに専門家や当事者が集まっては「小さな公共」を立ち上げて議論を深めるよりほかない。しかし専門家や当事者の議論はしばしば暴走する。そこで一般意志を可視化し、「暴走する熟議を、匿名の大衆の呟きで制限する」とよい23

例えば、全省庁の審議会や委員会の模様を例外なく中継する。人々がその中継画像を見てUstreamやニコニコ動画にコメントを打ち込むと、その呟きが政策審議の行方に影響を及ぼす。「ひきこもりたちの集合知を活かした新しい公共の場。熟議とデータベース、小さな公共と一般意志が補いあう社会という本書の理想は、ひとつにはそのような制度設計を目指している。」24

代議制民主主義には、「熟議はあるがデータベースがない」25。しかし、「総記録社会の台頭と一般意志2.0の出現は、わたしたちをまったく新しい民主主義のかたちへと導く」。「選良と大衆、人間と動物、熟議とデータベース、間接民主主義と無意識民主主義のその独特の組み合わせ」を東は「民主主義2.0」と呼んでいる26。「もしかりに以上の提案がポピュリズムの強化のように見えたとしても、その流れはもはや押しとどめられない、ならば最初から制度化し政策決定に組み込んだほうがよいのではないか」というのが東の考えである27


4. Web 2.0と集合愚

このように、梅田や東はポピュリズム批判に対抗して、ウェブ上の「群衆の叡智」や「集合知」を正当に評価し、これを役立てることでより良い社会が実現すると考えた。一方、『一般意志2.0』の2年前に、これと正反対の主張を展開したのが中川淳一郎である。ニュースサイトの編集者で自称「IT小作農」の中川は、自著『ウェブはバカと暇人のもの』(2009年)のなかで、ネットの運営当事者の立場から、Web 2.0や集合知に強い違和感を表明する。

中川は「梅田氏の話は「頭の良い人」にまつわる話」だと述べ、「私は本書で「普通の人」「バカ」にまつわる話をする」と宣言する。彼はインターネットによって従来発信の機会のなかった人が発信できるようになったことを評価しつつも、「むしろ、凡庸な人が凡庸なネタを外に吐き出しまくるせいで本当に良いものが見えにくくなること」や「バカが発言ツールを手に入れて大暴れしたり、犯罪予告をするようなリスクにこそ目を向けるべきである」と主張する28

中川は言う。「そもそも、ネットの世界は気持ち悪すぎる」29。ネットは「暇人」による「異端なことをしたり、バカな発言をした人物」への「いじめ行為」や所属組織への「「電凸」(=電話突撃=電話で関係者に直撃=単なるチクり≒業務妨害)」30、「一般人のどうでもいい日常」(昼ごはんに何を食べただの、ネイルサロンに行っただの、観たテレビ番組の感想だったり、総理大臣への文句だったり)に関する情報で溢れている31。真偽不明な情報をもとに名誉毀損の書き込みをする「バカ」もいる。また、ネットニュースは紙媒体と比べて、些細なことでクレームが寄せられる傾向にあり、そのためにライターが意欲を失ってしまうことも少なくない32

 本書は、実証的データや技術的知見に基づく学術文献でもなければ、高邁な理想を語った思想書でもない。基本的には、ネット上でおきたB級事件を多数紹介する本である。しかし、中川がニュースサイトの編集経験で得た次の指摘は大いに傾聴に値する。

・「Web 2.0というものが、少なくとも頭の良い人ではなく、普通の人を相手にしている場合は、たいして意味がない〔中略〕。相手が暇つぶしの道具としてインターネットを使っている「普通の人」か「バカ」の場合、双方向性は運営当事者にとっては無駄である。」33
・ニュースサイトの「コメント欄のコメント数が増えると質は低下してくる。」34
・「人が多く集まれば集まるほどヘンな人が含まれていたり、その場を乱そうとする人が出る。単にストレスを吐き出したい人も出てくる。」35

 中川は、ネット掲示板の誤情報を鵜呑みにしてヒアルロン酸を自ら注射し後遺症を負った女性の話や、いわゆる「田代祭」36の騒動を例示し、これらを「集合愚」と呼んでいる。結局、「ネットの声に頼るとバカな声ばかり集まる」のだ37


5. 民主主義2.0と「表現の不自由展・その後」

 中川は『ウェブはバカと暇人のもの』刊行から10年が経過した昨年、自著を梅田の『ウェブ進化論』とあらためて比較し「多分私が述べたことの方が理解されるだろう。ウェブはやっぱりバカと暇人のものだった」と述べている38。確かに中川が指摘するとおり、集合愚が集合知を上回っているのがインターネットの現状である。梅田や東も、後にインターネットについての認識を改めている。

梅田は『ウェブ進化論』から2年後の2008年、自身のTwitterで「はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる」と呟き、これが“炎上”してしまう。彼はこの頃には「Webについて語ることは少なく」なっていた。翌年のインタビューでは「今のネット空間について〔中略〕残念に思っている」と述べ、『ウェブはバカと暇人のもの』についても「そう言われればそういう切り分け方はあるんだろうなと思った」と一定の評価をしている。英語圏では「総表現社会参加者層」のような層が分厚く存在し、彼らがリーダーシップを発揮しているのに対し、「今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合」と彼は指摘する39

 2013年には、情報学者の西垣通が『集合知とは何か』を著した。この中で西垣は、梅田や東が依拠したスロッウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』を厳しく批判している。ペイジの『「多様な意見」はなぜ正しいのか』については「この指摘は、ルソーの社会契約論などの議論を、安易にネット集合知に結びつけることに対する痛烈な警告といえる」と評し、東が同書を誤読して引用したことを示唆している40。西垣は「今や、地球上の無数のコンピュータ群をインターネットで結び、あらゆる知識を高速検索することが可能になったのだから、〔中略〕その延長上に集合知が自動発生すると勘違いしている連中さえ少なくない」と批判している41

『一般意志2.0』は2015年に文庫化されたが、その「文庫版あとがき」のなかで東は、自説の有効性を強調しつつ、本書で「民主主義2.0」という言葉を用いたことが誤解を招いたと「反省」している。「ぼくの考える「一般意志2.0」または「民主主義2.0」は、〔中略〕欲望(一般意志)と政治(統治)のあいだの闘争のアリーナを意味する言葉なのである。ぼくは、大衆の「民意」がそのまま政治を動かし始めたら、世界はヘイトと暴力ばかりになると確信している。」42しかしそもそも、「小さな公共と一般意志が補いあう社会」の実現が「本書の理想」ではなかったか?仮にそれが「ポピュリズムの強化」のように見えたとしても。

昨年83日、東が企画アドバイザーを務める国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止が決まった。慰安婦を連想させる少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品の展示などが問題視され、事務局や愛知県庁へ電話・FAXなどで抗議が殺到した。その際、応対する職員に激高したり、脅迫やテロ予告を行ったりする者もおり、職員が疲弊してしまったのが中止の理由である43

その背景として、SNSで作品に対する誤解を含む批判が拡散され、「来場していない人たちから強い拒否反応と抗議を受けた」44ことや、「電凸」のマニュアルがネット上で共有され、これに基づく執拗な抗議が相次いだこと45があった。穏当な抗議ならまだしも、激高や脅迫、テロ予告などについては「バカ」としか言いようがない。

東は同月14日、自身のTwitterで企画アドバイザーの辞任を発表した。そこにはこのように記されていた。

「ぼくの観察するかぎり、今回「表現の不自由展」が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、政治家による圧力や一部テロリストによる脅迫にあるのではなく(それもたしかに存在しましたが)、天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。」「それら抗議は検閲とはとりあえずべつの問題です。日本人は天皇を用いた表現にセンシティブすぎる、それはダメだと「議論」することはできますが、トリエンナーレはその日本人の税金で運営され、彼らを主要な対象としたお祭りでもあります。芸術監督として顧客の感情に配慮するのは当然の義務です。」46

 この文面からは、「一般意志」、あるいは「バカ」や「集合愚」に対する「闘争」の意思を感じとることはできない。あいちトリエンナーレ2019芸術監督の津田大介は、この企画展が大衆からのクレームという「下からの検閲」を受けたと指摘するが47、「民主主義2.0」の思想はこうした「検閲」には全く無力である。

 さらに東は10月に、「思うところあって」個人のTwitterアカウントを削除してしまった。彼はその告知文48のなかで「ツイッターにはほとほと疲れました。」「インターネットは僕たちの生活の可能性を広げましたが、同時にすごく不自由にもしました。」「いいかえれば、いまのSNSはまったくオルタナティブメディアではなくなっている。〔中略〕おそろしく画一的で同調圧力の強いメディアになっている。そんなところを主戦場にするのは、もう違うな、という気分もありました」と述べている。彼はもはや「一般意志2.0」と対話することを諦めてしまったのだろうか?


6. 「民主主義3.0」?

今回の展示中止事件の背景には、慰安婦問題に関する歴史修正主義の存在が指摘されている。例えば、82日に展示会場を視察した河村たかし名古屋市長は、慰安婦問題について「事実でないという説も強い」と発言し、少女像の撤去を求めた4985日には、慰安婦の強制連行は「事実と違う」と述べている50。これらの発言は事実と異なる歴史修正主義の言説であり、電凸を後押ししたと批判されている51。哲学者の西谷修は、こうした歴史修正主義の言説が、情報「民主化」のSNSの時代に「ポスト・トゥルース」状況の出現とともに「自由」を獲得したと指摘する52

この事件は、現代社会の「真実の終わり」や「集合愚」を象徴する出来事である。今後も我々は「真実の終わり」や「集合愚」に悩まされることが続きそうだが、一方で楽観的な見方もある。先月の日本経済新聞朝刊に「プラトンと「民主主義3.0」」というコラムが掲載された。このなかで政治部次長の桃井裕理は次のよう主張している。

「市民参加や熟議の政治には時間とコストがかかる。直接民主主義から間接民主主義に移行した歴史に逆行するようにもみえる。だが今や人工知能や量子コンピューターも実現する時代だ。技術の力で時間とコストを節約しつつ民意を広く映し出す「民主主義3.0」の模索も可能ではないか。
 紀元前4世紀、プラトンは民主主義を厳しく批判した。民主制は必ず衆愚政治に陥り、過度の自由に疲れた民衆は独裁者を連れてくるという。今、世界はプラトンの予言そのものだ。
 だが21世紀を生きる人々が紀元前の予言を覆せないわけがない。20年代を流れを変えた時代とするためにまずは議論から始めよう。そしてまだ分断の前で踏みとどまれている日本には世界を変えるイノベーション発信地となる資格がある。」53

 このコラムは「民主主義2.0」には言及していない。だが「民主主義3.0」を語る前に、まずは「民主主義2.0」について十分に検証してもらいたいものだ。もし「民主主義2.0」の欠陥も人工知能や量子コンピューターでどうにかなると考えているならば、何とも能天気な話である。


(1)ミチコ・カクタニ著、岡崎玲子訳『真実の終わり』集英社、2019年(原著2018年)、8頁。
(2)『真実の終わり』77頁。
(3)『真実の終わり』12頁。
(4)『真実の終わり』3536頁。
(5)『真実の終わり』37頁。
(6)『真実の終わり』4142頁。
(7)『真実の終わり』43頁。
(8)『真実の終わり』44頁。
(9)『真実の終わり』8頁。
10)安田浩一・倉橋耕平『歪む社会歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う』論創社、2019年、17頁。
11)倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー―90年代保守言説のメディア文化』青弓社、2018年、4748頁。
12)『歪む社会』3845頁。
13)『歪む社会』183頁。
14)『歪む社会』185頁。
15)『歪む社会』同184185
16)梅田望夫『ウェブ進化論本当の大衆化はこれから始まる』ちくま新書、2006年、16頁。
17)『ウェブ進化論』同205206頁。
18)『ウェブ進化論』120頁。
19)『ウェブ進化論』148150頁。
20)東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』講談社、2011年、2931頁。
21)『一般意志2.08389頁。
22)『一般意志2.0119120頁。
23)『一般意志2.0157158頁。
24)『一般意志2.0176177頁。
25)『一般意志2.0175頁。
26)『一般意志2.0198頁。
27)『一般意志2.0183頁。
28)中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの現場からのネット敗北宣言』光文社新書、2009年、1819頁。
29)『ウェブはバカと暇人のもの』11頁。
30)『ウェブはバカと暇人のもの』3134頁、5862頁。
31)『ウェブはバカと暇人のもの』6467頁。
32)『ウェブはバカと暇人のもの』8290頁。
33)『ウェブはバカと暇人のもの』92頁。
34)『ウェブはバカと暇人のもの』97頁。
35)『ウェブはバカと暇人のもの』240頁。
36)「2ちゃんねる」ユーザーらが、米『Time』誌の「Person of the Year」のネット投票でタレントの田代まさしを1位にするため、自動投票ツール(通称「田代砲」)を開発して大量投票した出来事。
37)『ウェブはバカと暇人のもの』108117頁。
38)中川淳一郎「ウェブは「バカと暇人と格差社会勝者のもの」になった」『BLOGOS20191018日付(202016日閲覧)。
https://blogos.com/outline/411349/
39)岡田有花「日本のWebは「残念」梅田望夫さんに聞く(前編)」『ITmedia NEWS200961日付(202016日閲覧)。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html
40)西垣通『集合知とは何か』中公新書、2013年、2142頁。
41)『集合知とは何か』77頁。
42)東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』講談社文庫、2015年、332頁。
43)黄澈・前川浩之「表現の不自由展 中止」『朝日新聞』201984日付朝刊。千葉恵理子・上田真由美「抗議・脅迫 エスカレート」同上。
44)あいちトリエンナーレのあり方検討委員会『「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書』20191218日付、12頁(2020214日閲覧)。
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/267118_926147_misc.pdf
45)「「電凸」を考えませんか?」『NHK NEWS WEB2019814日(2020214日閲覧)。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/enjyou/expression/articles/expression_20190814-02.html
46)現在、このTweetは後述の理由により閲覧できないが、次の記事で全文を読むことができる。神庭亮介「東浩紀があいちトリエンナーレのアドバイザー辞任へ」『BuzzFeed News2019814日付(2020210日閲覧)。
https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/azuma
47)津田大介「論壇時評」『朝日新聞』2020130日付朝刊。
48)「ゲンロン」(東が創業した企業)の公式Twitter20191026日に告知された(2020210日閲覧)。
https://twitter.com/genroninfo/status/1188028210551775233 
49)山田泰生・野村阿悠子「名古屋市長「慰安婦像撤去を」」『毎日新聞』201983日付朝刊
50)名古屋市「令和元年85日 市長定例記者会見」2019828日更新(2020217日閲覧)
http://www.city.nagoya.jp/mayor/page/0000118997.html
51)吉井理記「「慰安婦問題はデマ」というデマを考える 中央大名誉教授 吉見義明さん」『毎日新聞』2019913日付夕刊。岡本有佳「<表現の不自由展・その後>中止事件当事者として記録する二七〇日の断章」岡本有佳・アライ=ヒロユキ編『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件表現の不自由と日本』岩波書店、2019年、3032頁。
52)西谷修「日々実践されている歴史修正何が展示を中止させたか」『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』226頁。
53)桃井裕理「プラトンと「民主主義3.0」」日本経済新聞2020112日付朝刊。