先日ご案内した「第三回マンガde哲学」のご報告をいただきました。以下に掲載いたします。
「マンガde哲学」開催
今月の哲学カフェ、「それは数字の8? それともちっちゃな雪だるま?――スヌーピーと哲学する」が、12月10日に開催されました。連日の寒さが幾らか和らいだ夕方、A609教室に学生諸氏が約二十名と、教員三名が参集。
配布されたのは、約四十年前に書かれた四コママンガが二つ。
「それは8かい、それとも、ちっちゃな雪だるま?」
「そうね、初めのは8で、次のふたつは雪だるま……」
「ごまかされたでしょ、どう?」
“8”は、数字の8なのか雪だるまなのか。冒頭、その図形の微妙な違いや書き方等、見かけに議論が集中。一筆で右上から書いたものは数字の8で、丸を二つ書いた場合には雪だるま? いや、これは数字でも雪だるまでもなく、実はチョウチョかもしれないし、サンマかもしれない。いやいや、冬に外で作る雪だるま。あれは雪だるまではなく、実は数字の8なのだ……。
数字の8かと思えば雪だるまで、雪だるまかと思えば数字の8。論点は徐々に、見かけから意図へ。結局、その図形を書いている人の意図によって決まる? しかし、もし子供が数字の8を書いているつもりで“7”と書いたら、それは8ではなく7だよ、と訂正するだろう。他方、雪だるまは定義がはっきりしていないので、訂正できない?
或いは、多数決で決まる? 皆で決めたルール? それとも、意図から独立な真理が? 今はわからなくても、どれが数字の8でどれが雪だるまなのか、いずれ絶対的な真理が発見される……?
途中、「何だか気持ち悪くなってきた」という感想も。なぜ数字の8はこの形なのか。
目の前のコーヒーを「コーヒー」と呼ぶ場合や、自分の痛みについて語る場合。それらのケースと、概念としての8を“8”で示す場合との違いは? もし「数字の反乱」が起こり、皆で数字の使い方を変えてしまった場合は? 自分の意図と他者の解釈とのズレ、事実と真実の違い、セクハラやいじめの話……。
なぜかギザギザに細長く配列された机を囲み、数字の8と雪だるまの違いを巡って話は延々と続き、後半では誰かが「どっちでもいい」と漏らしつつ、やがて6時を告げるチャイムの音が鳴り響いたのでした。
というわけで、今年の哲学カフェは終了。次回は年明け早々、一月七日に開催される予定です。満を持して、次回の進行役はあの人、そして遂にあのマンガが……! 未だ正月気分が残っているだろう一月初旬、新しい一年の始まりをぜひ哲学カフェで。
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