2015年12月27日日曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

新年第一回目の哲学カフェ、日程等が決まりました。下記の通りです。
次回は、学生さんが進行役を務めます。

  【マンガde哲学】
  〔タイトル未定〕

  日時 1月6日(水) 16:30-18:00
  場所 A613教室

  参考文献 沖田×華『ニトロちゃん――みんなと違う、発達障害の私』、光文社知恵の森文庫、2013年、16-19頁

飲み物は各自で用意して下さい。
参加者の自己紹介は行いません。また、無理に発言しなくても構いません。
途中入室、途中退室も自由です。
なお、終了後の懇親会等は予定していません。悪しからず。

第11回「マンガde哲学」開催

今月9日水曜日、LC哲学カフェが開催されました。報告を怠っている内に、気づけば年末……。

さて、参加者は学生諸氏が6名、教員が3名。今回の素材は、岡崎京子の『ヘルタースケルター』。主人公のりりこが「忘れられるって死んでるのと同じよね」と涙を流す一方、ライバルの吉川こずえは「5年たったら/きっとあたしのことなんてみんな忘れてる/むしろそのことのほうがたのしみです」と語る。この違いを確認するところから、議論がスタート。

忘れられるのと死んでいるのは同じかどうか。つまり、誰にも覚えられていないのは、死んでいるのと同じ? 逆に、物理的に死んでも本当に死んだわけではなく、某マンガでも述べられているように、人が死ぬのは「人に忘れられた時さ」……?

自分が死んでも誰かに覚えていてほしい? いや、むしろ忘れられたい、という意見もあれば、死んだ後は忘れられても構わないが、生きている間は覚えていてほしい、という意見も。良いことも悪いことも覚えておいてほしいのか、良いことだけを覚えていてほしいのかについても様々で、さらに、自分は忘れられたくないと思っても、生き残る人に「忘れないで」とは言わない、との発言も。

他人が自分を忘れる場合と、自分が自分を忘れる場合との違い。記憶と想起の区別。存在とは何か、消滅とは何か。テレビから消えるアイドルたち、大学から消える大学生たち……。同窓会の通知、寿命、謎の手紙、神、整形、等々に話が広がっていく中、時間切れで終了。

さて、次回は年明け早々、1月6日水曜日に開催の予定です。新しい一年、LC哲学カフェでも色々と、新しい試みを。このブログでの告知記事を御参照の上、ぜひ御参加下さい。

2015年12月8日火曜日

「かわいい」考(髙下保幸先生)

 「教員記事」をお届けします。2015度第13回は心理学の髙下保幸先生です。



 「かわいい」考


 髙下 保幸(心理学)

  今の世の中、いろんな「かわいい」に溢れているようである。企業は自社の製品・サービスの営業の先端に「かわいい」キャラクターを動員する。地方に行けば、おそらく千単位にのぼる「ご当地ゆるキャラ」なる着ぐるみが地産地消や地元観光のPRに務めている(なかには、「かわいい」というよりも気味の悪いゆるキャラもみられるが)。テレビの画面やステージに目を向ければ、AKBなどのアイドル・グループは主要なメンバーとして「かわいい」系を取りそろえている。こうした特に若年層における「かわいい」志向は、街に出てみれば明らかである。すれ違う若い女性は、大きく丸く見開いた目、赤いチークに膨らんだ(ように見える)頬、紅を小さめに丸くさした(ぽってり)唇のメークを誇らしげに見せつけている(最近流行りのメークとして、特に濃い真っ赤なチークが目につく。過ぎたるは及ばざるがごとしで、「かわいい」よりも違和感、あるいはおかしみを感じるようにも思われる)。
「かわいい」女性(「かわいい」化粧)
  この「かわいい」と感じさせる要因は何かを考えてみる。

1.「かわいい」は赤ちゃん――「かわいい」の原型「幼児図式」
  このわれわれをして「かわいい」と気持ちにさせるものの原型と言えば、赤ちゃんがあげられよう。
 
  赤ん坊とは、見ているだけで「かわいらしい」、抱き上げてみたいという気持ちやほほえみが思わず生じてくる存在である。

  オーストリアの比較行動学の祖であるコンラート・ローレンツ(Lorentz, 1943)によると、人間に限らず動物の赤ん坊は、共通した刺激特性である「幼児図式(幼体図式)Kindchenschema」という「サイン(信号)刺激」を形態としてもっており、これはおそらく人類普遍的に、われわれに「いつくしみ」の感情、すなわち「かわいい」という気持ちや養育行動という「固定した反応」を生じさせるものであるとしている。
 
  その幼児図式なるものの細かい特徴があげられている。

・顔面に相対して大きな脳頭蓋  
・高くはり出した額(でこ)
・顔面の下部に位置する顔全体に相対して大きな目

  人間は誕生時にはすでに大きな脳と眼を備えているといわれる。成長とともに後頭部と顔の全体、特に顔の下半分が大きくなる。

・丸くふくらんだ頬
・丸い感じの体つき

  赤ちゃんの体脂肪は、誕生時の12%から、最初のかわいい盛りの時期である1歳頃に30%ピークに達して以降減少する。まるまるとした体型は体への衝撃を和らげるのに、また頬の内側についた脂肪(赤ちゃんほっぺ)は授乳の際に乳首に吸い付きやすいという役割があるとも言われる。

・小さな口と小さな鼻
・丸いあごの輪郭

  まだ歯も生えそろわず、固形物も咀嚼しないことから、あごの骨や筋肉が成長しておらず、口は小さく丸く(おちょぼ口)、あごが細く丸い輪郭をしている(えらが張っていない)。

・身体にくらべて大きな頭(頭でっかち)
・ぎこちない動き

  赤ん坊は成長とともに、寝返り、這う、立つ、歩むという具合に活動する存在ともなる。体つきも2頭身半から4、5頭身ほどに成長するとはいえ、歩く足取りはおぼつかなく、よちよち歩きである。
 
  われわれは赤ちゃんのこうした行動(「アーアー」といった発語も含む)に成人の行動の原型をみるときに「かわいい」と感じると言われる(正高信男 京都大学霊長類研究所教授の提言)。
 
  また成人のように歩けないよちよち歩きの乳幼児のいわば拙い振る舞いに、成人の行動とのズレ(ユーモアの説明理論で言う「不調和」)を感じたときに、「おもしろ・おかしい」かつ「かわいい」存在ともなるように思われる。


幼児図式
(Lorenz, 1943の図版を改案)
着衣のボーヤ
裸のボーヤ  (1歳男児)
                                       
2. 「かわいい」顔実作品にみる「幼児図式」の効果
  特に顔にみられる「幼児図式」的形態の各要素が「かわいい」感じをもたらす効果について、「2010年度心理学A」の受講学生に下記の要領で実作を試みてもらった作品を手がかりに検討する。

  学生の「かわいい」顔の実作品には、一目で「かわいい」と思わせるものから、お世辞にも「かわいい」とは言いがたいものまで多彩であった。

  その「かわいい」と「かわいくない」を分けるポイントを分析してみた。
 
(1)目の大きさ
  「幼児図式」の特徴としてあげられているように、目は顔全体に相対して必ずしも大きくある必要はない。目が顔の下半分に位置する、また両眼の間隔が広ければ、目が小さくてもかわいいこともある(図①)。
 
  目が顔に相対して大きすぎると、エイリアンにみえてむしろ気味が悪くなる(図②)。

(2)目の位置
  目は顔面の真ん中より下に位置すべきである(図③は顔の真ん中より上に位置する)。目が顔の真ん中より下に位置することは、顔の下半分が上半分よりも短い(小さい)ことにもつながる。

(3)目の間隔
  目の顔全体に対する大きさとの絡みもあるが(目を大きくすると相対に両眼の間隔が短くなる)、両眼の間隔は広いほどかわいいようである(図④⑤)。
(4)目の光り
  目の中のわずかな部分に白く光が入ると、目が生き生きとして、若々しく、幼くみえるようである(図⑥⑦)。
 
  ただし光が大きすぎると異様にみえる(図⑧)。

(5)口の大きさ
  おちょぼ口のように小さくあるべきである(図⑨)。頬のふくらみにつながる描き方も有効である(図⑩)。
 
  口角を上げる(微笑む)描き方は、「かわいく」見えるのとは別途の「好ましい」印象をもたらすようである(図⑪)。

(6)上顔と下顔の大きさ
  下顔よりも上顔が大きく、上下に長くあるべきであるが、その大きさのバランスは微妙である(図⑫⑬)。
 と言っても、極端に下顔が小さいと奇妙である(図⑭)。

(7)赤ちゃんほっぺ
  チーク(頬紅)のように描くやり方(図⑮⑯)よりも線描の方(図⑰)が効果的である。

  以上の分析をまとめてみると、「幼児図式」の中核的な特徴とは、「上顔に比べて小さな下顔」、そして「左右が離れ、下顔に配置された眼」と言える。描画力がまずくても、そのポイントを押さえれば、なんとか「かわいい」顔ができあがるようである。
「かわいくない」顔と「かわいい」顔

(追記)
  子どもの愛玩用人形のなかには、「幼児図式」の中核的な特徴には当てはまらない、すなわち両眼がひっついて顔の中心に配置された「かわいい」キャラクターもみられる。
 非「幼児図式」的「かわいい」

  よって、何が「かわいい」かに関しては、なかなかに一概に言えないものでもある。という未熟な、「かわいくない」結論でこの稿を終える。
                 
 (以上の稿は、「文化学特講Ⅱ」の授業配付資料に基づく)

参考・引用文献
Lorenz, K 1943 Die angeborenen Formen möglicher Erfahrung. Zeitschrift für Tierpsychologie, 5, 235-409.
正高信男 1997 笑いと人間 青木 保ほか編 岩波講座 文化人類学 第1巻 新たな人間の発見 第3章 pp.93-95.
山口真美 2003 赤ちゃんは顔を読む 紀伊國屋書店 第5章 赤ちゃんの顔はなぜかわいい? PP.129-148.

2015年11月30日月曜日

平成28年度文化学演習の所属希望について(連絡)

文化学科学生各位

文化学演習の所属希望について下記の要領で提出して下さい。

1. 提出物

平成28年度 新2年生(LC15台)
 ・文化学演習ⅠとⅡのそれぞれについて「演習所属希望調査票」を提出して下さい(各自2枚提出)。

平成28年度 新3・4年生(LC14台、LC13台以前)
 ・文化学演習Ⅲ-Ⅳ・Ⅴ-Ⅵについて「演習所属希望調査票」を提出して下さい(各自1枚提出)。

文化学演習 未修得者(LC14台以前)
 ・未修得の文化学演習について「演習所属希望調査票」を提出して下さい。
 ・提出の際は「再履修」の欄に必要事項を記入して下さい


2.提出先  文系センター棟1階のレポート提出ボックス(下記地図を参照してください)
       演習ごとに該当するそれぞれのボックスに提出して下さい


3.提出期間 平成28年3月15日(火)~17日(木) 16:50   <厳守>


4.決定した所属の発表 3月19日(土)9:00までに 人文学部掲示板ならびにFUポータル

5.用紙が手元にない場合は、FUポータルかこのページからダウンロードして下さい(画像を右クリックし「リンク先を別名保存」)。

6.演習所属に関する問い合わせは、文化学科の教務・入試連絡委員 大上か宮野・小笠原まで


①新2年生(または③未修得者)
①新2年生(または③未修得者)


②新3・4年生(または③未修得者)


2015年11月27日金曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

来月初旬の哲学カフェ、詳細が決まりました。下記の通りです。

  【マンガde哲学】
  忘れられるって死んでるのと同じ?――『ヘルタースケルター』で哲学する

  日時 12月9日(水) 16:30-18:00
  場所 A613教室

  参考文献 岡崎京子『ヘルタースケルター』、祥伝社、2003年、236-239、275-276頁


四年生にとっては卒論締切間近の、緊張感あふれる時期……。しかし、論文で切羽詰まったとき程、一旦机から離れて、誰かと会話することが必要だったりします。ぜひ、奮って御参加下さい。

飲み物は各自で用意して下さい。
参加者の自己紹介は行いません。また、無理に発言しなくても構いません。
途中入室、途中退室も自由です。
なお、終了後の懇親会等は予定していません。悪しからず。

2015年11月25日水曜日

3年生の日隈美有希さん「福岡大学第26回懸賞論文」受賞

  福岡大学学生部企画の第26回懸賞論文(課題「現代を生きる」)において、文化学科3年生の日隈美有希さんが佳作を受賞し、1125()に授賞式が行われました。


 
  日隈さんご本人から論文の題目と要旨、受賞の言葉をご寄稿いただきましたので、紹介いたします。

論文題目 「福岡を考える~観光のグローバル化と地域大学」

論文要旨
  年々日本への外国人旅行者数は増加し、観光の国際化が進んでいる。我々が生活する福岡も例外ではない。福岡を訪れる外国人旅行客の実態は、アジア圏からの外国人旅行客が圧倒的に多く、しかも初めて訪れる人が大きな割合を占めている。また、福岡を訪れる彼らの多くが買い物を優先させていると推測された。
  これらのことから、本論文では国際都市福岡の観光の課題として①福岡の伝統や文化、歴史の発信と②リピーターの獲得の二つを挙げた。圧倒的多数の外国人旅行客があげる訪問目的である「買い物」に加え、それ以外での福岡の滞在時間の増加とリピーター獲得によって、さらなる経済効果が見込まれるだろう。
  そこで本論文ではこれら二つの課題解決に向けて、地域を同じくする大学に可能な地域貢献活動について考察し、提案した。この活動によって、大学による地域貢献が実現するだけでなく、地域に根ざした人材育成とグローバル人材の育成に繋がると考えられる。


 
日隈さん
受賞の言葉
  今回、佳作に選ばれたことを嬉しく思うとともに、ご指導してくださった林先生に心から感謝申し上げます。
 

  これまで論文を書いたことがなく、卒論を書く前に論文を書いてみようと思ったのが今回の懸賞論文への応募のきっかけでした。このくらいの論文簡単に書けるでしょ、と軽い気持ちだったのですが、本格的にテーマを決め始めた段階でその考えは打ち砕かれました。なかなかテーマが決まらないことに焦りを感じ、それから文字数がなかなか埋まらないことに焦りを感じ、何回も挫折しそうに。ですが、林先生が熱心にご指導してくださったおかげで挫折することなく、提出日ぎりぎりでなんとか提出することができました。提出したあとの達成感と解放感はなんともいえない嬉しさです。
 

  こんなぎりぎりの提出でしたから内容はとても良いものとは言えず、もっと時間をかけていれば!と反省を始めるとキリがないのですが、せっかく今回このような経験ができたのですから、卒論を書く際に活かせたらと思っています。来年も募集があると思いますので、特に卒論を書こうと考えている方、ぜひ応募してみてはいかがでしょうか。

2015年11月24日火曜日

文化学科フォーラム講演会のお知らせ

以下の要領で文化学科フォーラム講演会を開催します。今回は、2年前に卒業されたばかりの柴田千尋さんによる講演です。みなさんふるってご参加下さい!


日時:12月19日(土)13時30分~15時30分
場所:2号館地下1階会議室1
講演者:柴田千尋さん (LC09台、2013年3月卒業生、株式会社マイナビ九州支社勤務)
講演題目:文化学科での学び、仕事のやりがい


2015年11月13日金曜日

第十回「マンガde哲学」開催

先週4日水曜日、約四ヶ月ぶりに哲学カフェが開催されました。「マンガde哲学」の記念すべき第十回は、満を持して士郎正宗の『攻殻機動隊』が題材。参加者は学生諸氏が約十名に、教員が二名。

作品の舞台は、電脳化と義体化の技術が高度に発達した未来世界。「私時々「自分はもう死んじゃってて、今の私は義体と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか?」って思う事あるわ」と話す主人公に、友人が「でもちゃんと脳ミソとかついてるし、人間扱いされてるしィ」。

「脳ミソ、自分で見たわけじゃないのに? 周囲の状況でそうだと判断してるにすぎないのに? ある日突然メーカーが来てさ、「不良品の回収ですぅ」とか言って分解回収されて、残ったのが脳細胞2~3コだったらどうする?」「人間であるために最低限必要な部品ってそんなに少なくないわよね……大脳機能も結構化学反応やメカで代用できるけど……」

青ざめた顔で「へへへへへぇ……」と笑い合う二人を尻目に、ロボット(戦車?)のフチコマ曰く、「そんなに人間と同質なロボットが創れたら、そりゃロボットじゃなく人間なんだよね!」。

さて、人間とロボットの違いとは何か、という問いから議論がスタート。人間は突拍子もないことをするが、ロボットはしない? いや、プログラム次第でロボットも突拍子もないことができる。人間は無駄なことをするが、ロボットはしない? いや、プログラム次第でロボットも無駄なことができるはず。

記憶を美化するか否か? 何かを忘れることができるかどうか? それらもやはりプログラム次第。ならば、その点に違いが? つまり、ロボットはプログラムに従って行動するが、人間は自分の意志で行動する。要するに、意志の有無が両者の違い? しかし人間も、教育というプログラムによって行動が決定されている……?

感情の有無、生殖機能の有無、人格や人権の有無、責任能力の有無。成長するかしないか、新しいものを創造できるか否か。個性があるかないか、奇抜な発想ができるかどうか、皆に好かれていないものを好きになることができるかどうか。或いは、単に材料の問題。有機物か無機物か、天然か人工か。或いは、単に扱い方の問題。人間として扱うなら人間で、ロボットして扱うならロボット……?

人間らしさは死や老いにあり、だからアンチエイジングや不老不死は人間性を薄める、とか、ロボットが人を殺したら誰が罰せられるのか、とか、美醜の判断基準が江戸時代に戻ることはあり得るのか、とか、ロボットも愛を感じられるのか、とか、さらには孔雀やライオンやカマキリ、偶然性、遺伝子操作と整形、等々の言葉が飛び交う中、そもそも意志とは何か、という問題が提起され、そして映画「her」の話が出た辺りで時間切れとなりました。

というわけで、後期の哲学カフェが漸く始動。次回は来月、おそらく上旬に開催される予定です。心地好い冷気の漂う季節、ぜひ温かい飲み物と軽い哲学談義を。

2015年11月1日日曜日

夢の21世紀からの報告(関口浩喜先生)

 「教員記事」をお届けします。2015年度第12回は、哲学の関口浩喜先生です。現代社会への風刺に富んだショートショートを寄稿してくださいました。1972年から2015年にやってきた「ぼく」には、「夢の21世紀」はどのような世界に映ったのでしょうか。



  夢の21世紀からの報告

関口浩喜(哲学)

  先生、こちらに着いて三日目の朝を迎えました。少し遅くなりましたが、最初の報告をします。
  でも、報告すべきことが多すぎて、いったいどこから始めたらよいのか、わかりません。

  そうそう、先生は、ぼくが出かけるまえに「今から四十年以上も先の未来だから、お札だってデザインが変わっているかもしれない。そのときは、銀行に行って未来のお札とかえてもらいなさい」とおっしゃいましたね。その通りでした。ほんとうに先生は変なところにまで気が回る方ですね。

  最初に入ったデパートで買い物をするひとたちがお金を支払うところを観察して、いまぼくたちが使っているお札とは違うことに気づきました。あとで手にとってみてわかったのですが、千円札の肖像画は、伊藤博文ではなく、野口英世に変わっています。それにだいぶ青っぽいお札です。一万円札からは聖徳太子が消えていて、福沢諭吉がかわりにいました。少し小さめですが、でも、いまの一万円札と色やデザインは似ています。五百円札はありません。かわりに五百円玉があります。

  それで、先生のアドバイスに従って銀行に行ったのですが、ちょっと変なことがありました。ぼくは「昔のお札なのですが、いまのお札と換えてください」と窓口で頼みました。すると窓口のおねえさんは、ぼくが手渡した紙幣を受けとって金額を確かめると「ぜんぶ千円札に換えても大丈夫ですか」とたずねるのです。ぼくが思わず「ぜんぶ千円札に換えると、何か危険なのですか」と聞き返すと、相手は困った顔をして「全部千円札に交換してもよろしかったですか」と言いなおしました。まだ交換してくれていないのに、なぜ「よろしかった」と過去形で言うのか、これもよくわからないままに、怪しまれてはいけないと思い、「いえ、一万円札と千円札と半々にしてください」と頼みました。新しい紙幣をぼくに手渡すとき、そのおねえさんが「新しい紙幣になります」と言ったので、未来では目の前で古い紙幣が新しい紙幣に変化するのかと思い、しばらくその場で新しい紙幣に変化するのをわくわくしながら待っていました。すると、おねえさんがもう一度「新しい紙幣になります」と、今度は少し不機嫌そうに言ったので、「どれくらいで新しい紙幣になるのですか」と丁寧に穏やかにたずねると、「えっ」と言ったまま、気味の悪そうな顔をしてこちらを睨み黙りこんでしまいました。何か失敗をしたらしいと気づき、あわてて紙幣の束をつかんで銀行を出ましたが、いまだに何がいけなかったのか、わかりません。

  ところで、先生はぼくがこちらに来るまえに「今から四十年以上も経てばインフレが相当進んでいるだろうから、今の二十万円なんて、もしかしたら子供の小遣い程度になっているかもしれないよ」と笑いながらおっしゃいましたね。でもそれほどのことはありませんでした。二十万円は、未来でも大金です。

  できる限り順序だてて書きます。
  ぼくが着いたのは、当初予想していた東京ではなく、福岡でした。あとでわかったのですが、福岡の天神という、繁華街でした。ということは、ぼくは21世紀には福岡で暮らしているということです。日付は、これは新聞で確認したのですが、2015年の10月18日でした。日曜日です。元号を見ると、昭和はとっくに終わっていました。予想していたことではありましたが、軽いショックを受けました。新しい元号は「平成」です。なんだか、ずいぶんと雅(みやび)な元号ですね。平成27年でした。
着いた時刻は正午を少し過ぎたころです。

  ねえ、先生、驚いたことに、空は真っ青に澄んでいましたよ。街を行くひとは誰も防毒マスクなんてしていません。(そのかわりに、小さな長方形の箱のようなもの持っていて、みんなそれを眺めながら歩いています。この箱の正体については、現在、調査中です。)公害がこのままひどくなれば、21世紀のひとたちはみな、防毒マスクを付けなければ外出できなくなるだろうなんて予測がよく出ていますが、まったく違いました。最初こそ恐る恐る呼吸をしていたのですが、変な臭いもしないので、すぐにふつうに息をしました。むしろ、いま(つまり、1972年)の方がよほど空気が汚れています。

  あと、人々の服装もそれほど変わっていません。少なくとも、宇宙服みたいな銀色に輝く服を着ているひとなんて一人もいません。頭からアンテナを出しているひともいません。全体的に、何というか、ゆったりした感じの、あるいはだらしのない服装をしているな、という印象です。ちょっと驚いたのは、シャツの裾(すそ)をズボン(きのう知ったのですが、21世紀のひとたちは「ズボン」と言わずに、「パンツ」と言います)から出して歩いているひとが多いことでした。中年の立派な紳士がそんな格好で歩いていたので、よほど「シャツの裾が出ていますよ」と注意してあげようと思いましたが、思いとどまってよかった。だって、みんなそうしているのですから。

  それから、先生、エアカーなんてどこにも走っていませんよ。自動車は相かわらず、タイヤで走っています。考えてみれば、自動車一台を浮かすほどの空気を車体から出したら、周囲のひとたちはいい迷惑ですよね。まったく空想はどこまで行っても空想です。

  また、車はすべて電気自動車に変わっているのかと思いましたが、ほとんどの車は相かわらずガソリンで走っているようです。たしか、石油は20世紀の終わりにはなくなっているはずでしたよね。新しく大油田でも見つかったのかなあ。それと、ぼくたちの時代の自動車と比べると、21世紀の自動車は、全体的に丸っこくて小型になった感じがします。
飛行機も、コンコルドみたいな大型超音速旅客機が空を飛びまわっているはずでしたが、しばらく空を眺めていても、そんな飛行機は一機も飛んでいませんでした。見かけた飛行機の機体は、いまとあまり変わらず、むしろ小さくなっているようにさえ見えました。でも、機体の色はとても鮮やかで、青や赤い機体の飛行機も飛んでいました。
 
  駅に行って、驚いたことがあったので、これも報告しておきます。西鉄電車の薬院という駅に行ったのですが、まず、改札口に駅員がいないのです。鋏をテンポよくあやつって切符に切れ目を入れてくれるあの駅員がいません。どうなっているかというと、吸い込み口のようなところに切符を入れると、それと同時に閂(かんぬき)のような扉がぱっと開き、改札口を通れるようになるのです。そして、吸い込み口の反対側から切符が出てくるので、それをつまんで受けとって、駅に入るというしくみです。この間、わずか一秒もかからない早わざです。そのしくみがわかるまで、ずいぶんと時間がかかりました。何十人ものひとが改札口に通るのをじっと観察していました。たぶん、ぼくは怪しげな人物に見えたことでしょう。それにね、先生、21世紀では、そもそも切符が必要ないようなのです。多くのひとは改札口の手前で定期入れのようなものを出し、それを吸い込み口の近くにある、特定の場所にかざします。するとピッという音がして、例の扉が開くのです。

  でも、ぼくたちの時代でも自動扉はあるわけですから、これはそれほど驚かなくてもよいのかもしれません。ぼくがほんとうに驚いたのは、駅のホームにあがってしばらくしてからでした。
 
  最初ホームにあがったとき、見なれている国鉄の駅のホームとはどこか違うなという感じがしました。でも、どこが違うのか、はっきりわかりません。というのも、駅の造りも今の時代とそれほど変わっていませんから。ホームに入ってくる電車も、見なれた国電と違うのは当然ですが、流線型の電車ではまったくなく、ごくふつうの電車だったり、小田急のロマンスカーのような電車だったりで、これも驚きませんでした。むしろ、ほとんど変わっていないことに驚いたほどです。それに電車の運転士さんも車掌さんもたしかに人間でしたよ。ロボットではありませんでした。
 
  さて、いったい何が違うのか、それを突き止めようと思い、電車を数台やり過ごして、ホームを観察しました。しばらくして、ようやくわかりました。タバコの吸殻がまったくないことでした。ぼくがふだん使う国電の駅のホームでは、サラリーマンのひとたちがタバコを吸って、その吸殻をホームや線路に平気な顔で当たり前のように投げ捨てます。ところが、21世紀の駅のホームには、そして線路には、タバコの吸殻が一本も捨てられていないのです。とても綺麗で清潔です。そのことに気づいてあたりを見回すと、ホームには結構な数のひとがいるというのに、タバコを吸っているひとが一人もいません。
 
  先生、先生のような愛煙家にとっては、21世紀は困るかもしれませんが、でもとても清潔ですよ。あの綺麗ですがすがしいホームを見てしまったら、20世紀の汚いホームにもどる気にはなれません。あと、にわかには信じられないでしょうけど、21世紀の喫茶店ではタバコが吸えないのです。何を馬鹿な、とおっしゃるかもしれませんが、ウソではありません。ほんとうです。ぼくはある喫茶店に入ったのですが、その店は禁煙でした。
 
  それで思い出しました。その喫茶店に入ったときは、困りました。注文の仕方がわからなかったのです。店に入って、空いている席に座ったのですが、いくら待っても店員が注文をとりに来てくれません。この店の店員は何をしているのだろうと思い、いらいらしかけたころ、ようやく気づきました。最近、銀座にハンバーガーを食べさせる店ができましたね。先生は、そこにいらしたことがありますか。あの店では、店員が注文をとりにくるのではなく、客が自分で店員に注文するというしくみです。あれと同じだったのです。そんなしくみの喫茶店があるとは思いもよりませんでした。
 
  さて、自分で注文する段になって、またもや、そしてもっと困りました。あ、ちなみに店員がロボットだったいう話ではありませんからね。21世紀になると、ロボットが人間の代わりにいろいろなことをしてくれるという話がよくありますが、ぼくが見た限り、ロボットは一台もいませんでした。
 
  何に困ったのかというと、メニューがさっぱりわからなかったことです。20世紀の喫茶店では、注文は「ホット」とか「コーヒー」とか言えばそれで済みますよね。でも、先生、21世紀の喫茶店は手ごわいのです。先生はわかりますか。「ソイラテ」、「カフェラテ」、「キャラメルマキアート」、「マンゴーパッションティーフラペチーノ」、果ては「フルーツ-オン-トップ-ヨーグルト フラペチーノwithクラッシュナッツ」などなど、メニューを見ているだけで頭に血がのぼり、目の前がクラクラして、脂汗がでてきました。たしか店頭には「coffee」と書いてあったから、間違いなく喫茶店のはずなのに、コーヒーがないじゃないかと不審に思いながらも、必死に目を走らせると、ようやく「ドリップコーヒー」という文字が見つかりました。そこで「ドリップコーヒーをください」と頼んでほっとする間もなく、新たな試練がぼくを襲いました。

  店員は、にこやかな笑みを浮かべながら「サイズはどうなさいますか」とぼくに聞くのです。先生、コーヒーにサイズがあるなんて信じられますか。いままでの人生のなかで、喫茶店でコーヒーのサイズを聞かれた経験がおありですか。ぼくはかすれた声で「サイズ?」と聞き返すのが精一杯でした。でも、試練はまだ続きます。店員は愛想よく「はい、ショート、トール、グランデ、ベンティのどれになさいますか」と聞くのです。もう何が何だかわからなくなり「お任せします」と言ったら、店員は困った顔をしました。ぼくはとっさに「一番売れているのはどれですか」と聞きました。これは我ながらなかなかの策だったと思います。店員は少し考えてから「トールサイズです」と言ったので、それをくださいと言って、ようやく試練が終わりました。

  こんなことを報告していたら切りがありませんね。でも、これでもぼくが先生にお伝えしたいことのほんの一部なのです。これ以外にも、21世紀の電話番号はやたらに長いとか、21世紀の傘は透明のビニール製だとか、あいさつの言葉は「こんにちは」でも「こんばんは」でも「さようなら」でもなくすべて「お疲れさまです」だとか、伝えたいことがたくさんあります。そして、変わったことがたくさんある一方で、20世紀と同じく、夜の街には先生の大好きな赤提灯の店もちゃんとありますし、ヨッパライもいます。猫も21世紀になってもあいかわらずかわいくて、優雅です。じつは、昨夜、とある駐車場で一匹の黒猫と知り合いになりました。

  また報告しますね、先生。

2015年10月23日金曜日

英彦山の信仰と民俗(白川琢磨先生)

  「教員記事」をお届けします。2015年度第11回は、文化人類学の白川琢磨先生です。福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町とにまたがる英彦山。その信仰についてです


英彦山の信仰と民俗


 古代から現代まで連綿と続く英彦山信仰を一挙に解き明かすことは難しい。大きく二分するとすれば、古代・中世・近世までの第一局面と、近代・現代の第二局面ということになる。明治初期の「神仏分離」が画期となる。これによって、神仏習合の典型ともいえる「彦山信仰」から仏教的要素が剥奪され、組織の中核であった山伏(修験者)が一斉に山を去ったのである。民俗部門では、山内や山麓に残された民俗(祭りや伝承)から、彼らの足跡を探り、民間レベルでの彦山信仰の基本構造を抽出しようと試みた。彦山信仰の中心を「中世」に置くとすれば、その原型にあたるのが、ヒコ/ヒメ/ミコの象徴的対立である。彦山の入口にあたる深倉峡には、男岩(男根石)と女陰岩(姥ガ懐という名の岩窟)があるが、陰陽石と呼ぶには巨大な自然遺跡で、その奥に位置する般若窟(玉屋窟)でその結実である「ミコ」が産まれたとの伝承にも繋がるのかもしれない。やがて、仏教(密教)との習合でこの三元対立は、南(俗躰)岳/イザナギ/釈迦:中(女躰)岳/イザナミ/観音:北(法躰)岳/アメノオシホミミ/阿弥陀の彦山の基本的三元構造となっていく。この三元を「結んだ」結果に相当するのが、玉屋窟における法蓮の「如意宝珠」感得伝承である。山麓の祭りの中に「オホシ様」とか「ミホシ」、あるいは「ミト」と呼ばれる藁苞が出現し、神聖視されているが、如意宝珠が民間に転化したものと解釈できる。
冷酒・燗酒の三献後、逆に重なる盃(北坂本神社)
平成24年11月5日

 神仏習合時代の神祭の基本型は、宇佐六郷山で認められる「二季五節供」であり、彦山でも同一型が確認される。二季とは、旧暦の二月と十一月の祭であり、各々、播種と収穫(税の収取)に関わる律令時代に淵源する重要な祭である。彦山では、前者が本山での「松会」であり、後者が里での「霜月卯の祭」である。五節供とは、一月七日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日であり、彦山周辺を含む北部九州一帯では、第一節供(一月七日)と第五節供(九月九日)が重視され、根強く存続してきた。特に、後者は「おくんち」の呼称で知られ、収穫祭と同等視されているが、本来の収穫祭は霜月祭である。「神家(じんが)」と呼ばれる特定の家だけが参加する宮座制の祭も目立つが、それは神家というのが「徴税の単位」であったことの名残である。おくんちや霜月祭は「神家祭」であることが多いが、彦山周辺では、祭の要素として、「大飯」や「大餅」、そして「大酒」の特徴が際立っている。「神は、印度の仏が日本の衆生を救うために形を変えて現れた」とする「本地垂迹説」は、神仏習合の後期の段階で、それ以前は、神は人と同じく、性別や寿命をもつ輪廻転生を余儀なくされる「六道」世界の一段階であった。修験の修行形式は、この六道に対応する行法を地獄=業秤、餓鬼=穀断、畜生=水絶、修羅=相撲、人=懺悔、天(神)=延年と位置づけた。第一節供、修正会が「人」としての懺悔、即ち悔過を主題するのに対し、六道の最終段階に該当する延年は、神祭であり、芸能だけでなく、験力の誇示として、飯や酒の過食や過飲が競われたのではないだろうか。

2015年10月20日火曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

LC哲学カフェ、長く中断してしまいましたが、今度こそ再開します。
お誘い合わせの上、ぜひ気軽にのぞいてみて下さい。

詳細は下記の通り。

  【マンガde哲学】
  人間であるために最低限必要な部品?――『攻殻機動隊』で哲学する

  日時 11月4日(水) 16:30-18:00
  場所 A607教室

  参考文献 士郎正宗『攻殻機動隊』、講談社、1991年、104頁


飲み物は各自で用意して下さい。
参加者の自己紹介は行いません。また、無理に発言しなくても構いません。
途中入室、途中退室も自由です。
なお、終了後の懇親会等は予定していません。悪しからず。

関連記事 LC哲学カフェって何?スマホと空と攻殻機動隊

2015年10月15日木曜日

LC哲学カフェ開催延期のお知らせ

今月28日に開催される予定だったLC哲学カフェですが、諸事情により急遽、開催延期となりました。

参加を予定されていた方々には、本当に申し訳ない限り。来月こそは必ず再開しますので、引き続き、このブログでの告知をお待ち下さい。


なお、開催延期に伴い、以前の告知記事は削除しました。

2015年10月3日土曜日

東日本復興支援プロジェクト報告(佐藤基治先生)

 「教員記事」をお届けします。本年度第十回は、心理学の佐藤基治先生が、福岡大学の「東日本復興支援プロジェクト」の報告をしてくださいました。毎年行われている同プロジェクトの活動は、現地の方々からも高く評価されています。


東日本復興支援プロジェクト報告

佐藤基治(心理学)

  8月下旬に実施された福岡大学の「東日本復興支援プロジェクト」へ参加した。45名の福岡大学生が3班に分かれ活動し、そのうちの1つのグループに同行した。文化学科の学生諸君の中には、この企画を知らなかった人も多いようなので、ここに活動の様子を記して、なにかを考える手掛かりにしてもらいたいと思う。
 
図1
  福岡大学は東日本災害ボランティア福岡大学派遣隊という名称で2011年夏の第1次から2014年の第4次まで、合計約300人のボランティアを派遣してきた(詳しくは大学のホームページの記事参照)。今年度からは名称が「東日本復興支援プロジェクト」に変更された。それは、地震から4年が経過し、さまざまな人々や組織の活動が、「東日本大震災に対するボランティア活動」から、「東日本復興への支援」へと内容が変化しつつあることに対応している。地震による被害が、人口減少、高齢化や産業の空洞化といった全国の地域社会が抱える問題を顕著化させたので、単なる原状回復ではなく、復興を契機にこれらの課題を解決し、「新しい東北」を創造したいと復興庁が唱えているからである。このような考え方の基礎となる実際の東日本地域の状況を自分の目で確かめるのも今回の活動の目的の一つである。

  8月18日午前中に、学生と教職員計50名が福岡空港に集合し、仙台空港に向けて出発した(写真1)。仙台空港から貸し切りバスで高速道路を約2時間走行すると南三陸町に到着する。最初に防災対策庁舎で線香をあげ、被災者の冥福を祈るとともに、ボランティア活動の無事を祈念した。昨年の活動の際には防災対策庁舎が更地に文字通り「孤立」していた(写真2、3)が、現在は周囲の区画に高さ10メートルほどの盛り土がなされており、防災対策庁舎は盛り土の山々に埋もれたように存在する。この辺りは津波で大きな被害を受けた場所で、「復興」が進む中で、防災対策庁舎を「忘れないでほしい」という思いと「忘れさせてほしい」という思いの間で、現地の人々は未だに揺れ動いている。
図2
図3

  19日は南三陸町の雑草で覆われた避難路の清掃をした。これは「椿道プロジェクト」という津波の際の避難路に、塩害に強い椿の木を植えて道標にしようとする活動の一環である。椿の木の成長のためには下草を抜く必要があり、それは人の手で地道にやっていくのであるが、ところがそのような軽作業に従事する人手がないのである。ボランティア活動といえば、大震災直後には体力を必要とする作業もあり、強靭な体力を持つ人が過酷な環境の下で限界まで活動するというイメージだが、現在では寧ろ軽い作業に従事するボランティアが必要とされているようだ。重機を使った復興作業が進む一方で、たくさんの人手が必要な作業は中々捗らない。派遣隊の一部、15人で3時間ほど働くと歩きやすい径になるのにである(写真4,5)。
図4
図5

  20日は南三陸ボランティアセンターの紹介で漁業作業に派遣された。作業はホタテ養殖の漁具の手入れであったが、より重要な活動は漁師の視点からの津波の体験、「復興」事業への感想の聞き取りであったように思う。「津『波』っていうから、白い波がしらのあるのを想像するかもしれないけど、『引き波』でいったん数百メートルほど沖まで海がなくなったかと思うと、『押し波』でビルのような灰色の壁が押し寄せてきた。」。ニュースなどでは復旧した道路や鉄道だけが報道され、放置された部分を目にすることは少ないが、道路沿いにはいまだに打ち上げられた漁船やグニャグニャのガードレールが放置されており、未開通の線路は雑草に埋もれてしまっている(写真6)。

図6
  21日の活動は気仙沼市の小学校で、夏休み中の学童保育の手伝いであった。普段は20人ほどの低学年の小学生を2,3人の教員で担当しているが、15人の大学生がサポートすると、ほぼ1対1での対応が可能となり、児童には好評の様子であった。

 22日、23日は石巻に移動した。海岸沿いの津波の跡を高台の日和山から見渡すことができる(写真7)。震災前は住宅などが立ち並ぶ街だったのが、一面の更地のままである。海岸沿いは大規模な公園になることが決定したが、どこまでを公園にするかという新たな問題が生じている。22日は石巻市のボランティア団体の案内で海岸部を見学し、その後、防災に関するワークショップを体験した。東日本大震災で得た教訓を生かした「防災・減災」、「自然災害への備えと対応」が主要なテーマであった。23日は石巻専修大学のボランティア団体とのワークショップを行った。「復興から地域の問題を解決する」がテーマであり、「震災の風化を防ぐ」「被災地の問題を「知ること」は、地域問題の解決を考えること」と考え、「自分が、いま、すぐ、できる「行動」を考える。一人ひとりの小さな行動が、防災や地域問題の解決へとつながることを考えてみた。

図7
  こうして約1週間の活動は終了した。ここでは現地の様子を簡単に報告したが、この企画では事前研修と事後研修も行われた。事前研修では、活動の目的、日程や場所を含めた活動内容の決定、活動に必要な物資の準備などを参加学生自らが行った。事後研修では、東日本の状況を自分自身が確実に把握するために、次年度のメンバーに引き継ぐために、家族・友人・知人に伝達するために、年末までに報告書を作成する予定である。
 
 震災直後の、多くの人がボランティア活動に参加するときには、それはそれで人手が必要な時期であり有用なのだが、4年の歳月が過ぎた今、もっと地味な形での人手、息の長い活動が必要なようだ。震災直後には何となく気を削がれて、参加できなかった人も、こっそりと東日本の復興支援に参加してはどうだろう。新聞やテレビではわからない東日本の現状、復興の様子、人々の暮らしを直接目にするのは、「文化の多角的総合的理解」を目指す文化学科の学生にとって、有意義だと思う。今後は11月25日に学内で報告会を開催し、来年4月には次期の参加者募集の予定である。

2015年9月28日月曜日

講演会のお知らせ(平井靖史先生)

 今週の金曜日10月2日、福岡市天神のアクロス福岡にて、当学科の教員である平井靖史先生による講演会が開催されます。
 山口大学時間学研究所主催の「時間学アフタヌーンセミナー in 福岡」という企画の一貫で、ご自身の専門である「時間の哲学」についてお話をされます。対象は市民一般で、入場無料(予約不要)ですので、ふるってご来場下さい。


日時:2015年10月2日(金)、14:00〜16:00
場所:アクロス福岡 円形ホール(福岡市中央区天神一丁目1−1)
対象者:市民一般
題目:こころは過去で出来ている——現代時間論から見る心の哲学
講師:平井靖史(福岡大学人文学部文化学科教授)
主催:山口大学時間学研究所
共催:公益財団法人 山口大学講演財団、日本時間学会
後援:福岡市教育委員会
問い合わせ:山口大学時間学研究所 tel 083-933-5848

詳細は以下のチラシをご覧下さい。


2015年9月24日木曜日

平成27年 卒業論文相談会が開催されました

 9月18日に3年生を対象にした卒業論文相談会を開催いたしました。この合同説明会では、卒業論文のテーマや方向性をある程度固めた、あるいは書くことに迷っている3年生たちが、文化学科の教員と個別に相談することができます。今年も例年同様多くの3年生が参加し盛況でした。約一年後、どんな個性豊かな卒業論文たちが仕上がってくるのでしょう、いまから楽しみですね。

2015年9月21日月曜日

宮野ゼミ合宿記(LC12 井上拓海くん)

 今年度10回目の学生記事をお届けします。現4年生の井上拓海くんが、今月初旬に山口県で行われた宮野ゼミ合宿の報告を寄せてくれました。


宮野ゼミ合宿記


  9月のある雨のよく降る朝、宮野ゼミの学生と先生を乗せたバスは九州を出て本州に向かいます。山口市内に向かうのです。九州を出て、ちょうど下関市に着いたころには雨は上がっていました。

 下関についたころにはもう正午でしたから、お腹を空かせた宮野ゼミ一行は唐戸市場の定食屋に向かいます。僕たちは山口名物ふぐの定食など、おいしい海鮮料理を食べたり、宮野先生においしいアイスやコーヒーをご馳走になったり、午後の哲学の勉強会に備えてエネルギーを蓄えました。
西田旧宅にて

 午後になり、僕たちは下関市から山口市内へと移動しました。勉強会は近代日本の哲学者である西田幾多郎が住んでいた家で行いました。僕は昨年、宮野先生の「日本の思想」という受講し、西田の哲学に深い感銘を受けていましたので、その講義の中で扱われた哲学者の西田幾多郎の家に入れるというだけで心躍る気持ちでした。

 西田幾多郎の家、そこは予想通り古い家でした。狭い玄関、古い急な階段、古い座敷、古い書物….。西田幾多郎の幽霊でも出てきそうな…。まぁとにかく雰囲気は十分です。この合宿に向けてゼミ生は西田幾多郎著の「善の研究」の1つの章を読んで、1枚のレポートにわかったこと、わからなかったことをまとめて来ました。この勉強会では西田幾多郎が「善の研究」の第二章の言わんとすることをみんなで話し合いながら理解する、ということでした。勉強会が始まると、ゼミ生は西田幾多郎の真似をして丸メガネをかけてテキストを片手に、あーでもない、こうでもないと議論をしました。不思議なことに、ゼミ生や先生と議論をすることによって、1人で「善の研究」を読んでいた時よりも、西田幾多郎の思想をよく理解できました。そして知的興奮を味わいました。あっという間に3時間が経ちました。みんなと哲学についていろいろと考えたり、議論をするのはとても楽しかったです。哲学をする前と後では少し世界が違って見える体験をこの日もできたような気がします。

 話は少しズレますが、僕が大学に入って、哲学に出会えたことは人生の快事だと思っています。固い価値観が壊され、世界がまるで違って見え、心が震える。以前よりも少しだけ生きやすくなる。呼吸がしやすくなる。こんなにも世界は広いんだと。
 
 哲学勉強会が終わり、宮野ゼミ一行は宿泊先に向かいます。あとはもう遊びです(笑)宮野ゼミは遊びと勉強のメリハリがしっかりとしているので(笑)
 
 夜になると、旅館で、温かい温泉に入り、おいしい食事を食べ、宴会場で旅館の名物女将が毎日上演する女将劇場をみんなで観に行ったりしました(僕は女将に連れられ舞台に上がって踊りました、大盛況?でした)夜が深くなってくるとくだらない話や、お年頃の学生の恋の話等で盛り上がりながらゼミ生や先生と飲むお酒はとても美味しかったです。

 翌日は、山口観光です。中原中也記念館、秋芳洞、秋吉台に行き、精一杯遊びました。最後は歩いて本州から九州へ帰ります。歩くと言っても関門海峡の海底トンネルを歩いて九州に入るだけです(笑)
秋芳洞にて

LC12台 井上拓海

2015年9月17日木曜日

I like Music or I love Music ?(小林信行先生)

「教員記事」をお届けします。本年度第九回は古代哲学の小林信行先生です。



  I like Music or I love Music ?         

 新学期に新しいゼミのメンバーが顔合わせをする時、互いに簡単な自己紹介をすることがあると思う。あたりさわりのない紹介の一つに、私の趣味は音楽を聴くことです、というものがある。たしかにキャンパスでも街角でもイヤホンをつけたまま歩いている人は多い。もちろん音楽だけではなく、語学の勉強だとか、ラジオ放送の場合もあるだろうが、やはり音楽が一般的だろう。だからこそ音楽好きを自称することは、自分を主張するときよりも人々に紛れて自分を隠すことに向いている。

photo by y. hirai
では自己主張的な音楽好きとはどのような人たちだろうか。かれらはいったいどんな聴き方をしているのだろうか。自分でも移動の際に何回かイヤホンをつけて音楽を聴いてみたことがある。しかし、どうも聴いた気がしない。何よりも、危なくて仕方ない。何かにぶつかりそうになったり、地下鉄を乗り過ごしそうになったり。イヤホンにしろヘッドホンにしろ、周囲から隔絶された状態が作り出されているのでつい音楽に集中してしまい、今ここが何処なのか、そもそも自分が何をしていたのかさえ忘れてしまう。そうかといって、周囲に注意しながら聴いていると、実際には音楽なんて断片的な雑音に近くなってしまい、仕舞いには音が聞こえてくること自体が煩わしくなる。だから自分は音楽好きなのだと自覚している。

 今となってはずいぶん昔の話だが、ソニーが携帯プレーヤーを世界的にヒットさせたとき、猿がイヤホンをつけて音楽に陶然と聴き入っているようなコマーシャルがTVで流れていた(YouTubeに動画あり)。あっ、自分もこの猿といっしょだ、といささか複雑な気持ちになったが、音楽好きに人間も動物もないと主張しているようなCMに感心させられた。また、ある学生が家では毎日スピーカーに頭を突っ込んでいますという話をしたときにも、またCD店で買い物をして “No Music, No Life.” とプリントされたシールをおまけにもらったときにも、それなりに感心したことがある。つまり何を言いたいかといえば、音楽を聴いていることがその時は生のすべてであり、また後から考えれば生の一部となるような時間をもつことのできる人間は音楽好きと言えるのではないか、ということなのだ(ただし猿に人生はないだろうが)。

 他方でBGMを好む人たちもいる。なんとなく音楽を流している場合もあるだろうし、何か仕事をしながら流している場合もあるだろう。それは環境の一部となった音楽(聴覚)であり、そこでの気温や湿度(触覚)や光(視覚)などと一体になってかれらに心地よい状態を作り出しているように思われる。おそらくその環境が何となくぼんやりさせてくれたりあるいは仕事に専念させてくれるから音楽も要素の一つとして加えられているのであろうが、もしそうだとすれば音楽は生そのものではなく、調味料の一種のようになっているのではないか。もちろん、調味料でも重要なものは重要だという言い方も可能であるし、調味料ひとつで料理がすっかり変わってしまうこともあるだろう。しかしBGMの場合、その環境下でなされる仕事の方にその人の生があるのではないだろうか。哲学的には、環境的なものは生の副原因であると見なされうる。


 音楽についてこんな面倒なことを考えるよりも、もっと気楽に音を楽しめばいいのではないか、という声も聞こえてきそうだ。しかし音楽にかぎらず、誰にでもつきまとう好みや愛好はどこかでその人をかたち作っているわけあり、そのよう好みや愛好に自分がどのようにかかわっているかを振り返るだけでも、思いがけない自己発見につながるように思われる。就活の時期が来てあわてて自分さがしに奔走しないためにも、日頃から自分が何を好きなのか、何故好きなのかを気にしてみてはどうだろうか。その答えもそれとのかかわり方も、自分自身で見つける以外にない点が重要なのだけれど。


2015年9月7日月曜日

最近の研究について(岸根敏幸先生)

「教員記事」をお届けします。本年度第八回は神話学・宗教学の岸根敏幸先生です。



  わたしが担当する今回の教員記事では、最近、取り組んでいる研究について紹介したいと思います。それは『古事記』と『日本書紀』の神話を比較研究するというものです。

 一般に「日本神話」と言いますと、『古事記』や『日本書紀』の最初の部分にある神話(以下では、それぞれを「古事記神話」「日本書紀神話」と呼びます)をイメージする人が多いと思いますが、そのほかにも、地域の伝承を記している『風土記』、特定の氏族の伝承を記している『古語拾遺』『出雲国造神賀詞』、神に対して奏上する文章である「祝詞」、さらに日本各地にある神社創建の由来を記している「御由緒」などにも神話的な記述が含まれている場合があります。その意味で、日本神話は実に多様であると言えるでしょう。

 とは言うものの、天(あめ)と地(つち)が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでを、壮大なスケールで描いている点で、古事記神話と日本書紀神話が他の神話を圧倒していることは疑いようのない事実であり、この二つの神話が「記紀神話」と総称されて、日本神話を代表するものとして位置づけられてきたわけです。

 しかし、この古事記神話と日本書紀神話ですが、それぞれの記述を比較してみると、実に多くの違いが見られます。そのことに触れるまえに、まず日本書紀神話に見られる特異な構成について話しておく必要があります。

 日本書紀神話は二本立てになっていて、編纂者が正式に認める神話(以下では、これを「本文神話」と呼びます)と、それ以外の神話(以下では、これを「別伝神話」と呼びます)から成り立っています。そして、日本書紀神話を構成する全11段のそれぞれで、本文神話のあとに別伝神話が付随するという形をとっているのです。なお、各段にある別伝神話が一つとは限りません。たとえば第五段には実に11種類もの別伝神話が付随しています。分量的に見ても、別伝神話は日本書紀神話全体の75パーセントも占めているのです(漢字の数から概算)。本文神話と別伝神話は基本的に内容が異なっており(同じであれば、わざわざ別伝神話として記載する必要はないですから)、また、別伝神話どうしでも様々な違いが見られます。

 日本書紀神話はなぜこのような構成になっているのでしょうか。その編纂作業は、総裁である舎人親王(天武天皇の皇子)と当時の学者たちが、様々なルートを通じて収集した神話を取捨選択するという形でおこなったと推測されますが、なんらかの理由によって――たとえば学者的な良心とか、特定の神を記録から抹消してしまうことに対する罪悪感、あるいは、祟りへの恐れとか――、正式には採用しなかった神話にもそれ相応の価値を認め、保持しようとする意図がはたらいたという可能性も考えられるでしょう。

 このような事情があるので、日本書紀神話の特色について厳密に考えようとする場合、編纂者が正式に認めている本文神話だけを対象にしなければなりません。たとえ日本書紀神話のなかに含まれていても、別伝神話は編纂者が正式に認めている神話ではないのです。それを混ぜ合わせて捉えようとすると、日本書紀神話を編纂した人たちの意図を見誤ることになるでしょう。この点に関して一例をあげるならば、死に関わる黄泉つ国という世界は別伝神話に出てくるだけで、本文神話にはまったく登場しません。つまり、『日本書紀』の編纂者は黄泉つ国を正式には認めなかったのです。したがって、「『日本書紀』の神話に登場する黄泉つ国」というような表現には十分注意する必要があるでしょう。

 さて、元に戻って、古事記神話と日本書紀神話――特に本文神話――を比較してみますと、前述のように、天と地が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでという神話全体の進行はほぼ同じなのですが、記述の全般にわたって様々な違いが見られます。大本が同じなのだから、そのような違いは枝葉末節の問題であると思うかもしれませんが、その違いのなかには、たとえば「高天原」という天上の世界をどう位置づけるか(日本書紀神話は高天原という世界を正式には認めていないと指摘する先行研究もあります)、アマテラスとタカミムスヒのどちらを皇祖神(天皇家の先祖神)と位置づけるか、スサノヲという神をどのように捉えるか、オホナムヂと出雲神話をどのように位置づけるかなどのように、日本神話の根幹に関わるような違いも見られるのです。

 わたしはこの二つの神話を、似てはいるが、まったく別の独立した神話として捉えるべきであると考えています。その点から見ますと、前述した「記紀神話」のように、古事記神話と日本書紀神話の記述を混ぜ合わせるような捉え方では、古事記神話と日本書紀神話の違いを矮小化してしまい、それぞれの神話の特色を見失わせてしまう危険性があるでしょう。さらに、そのような捉え方をするかぎり、一見、同じように見える二つの神話が、おそらくそれほど離れてはいない時期に相次いで成立し、そのあとも併存し続けているという謎は永久に解明されないでしょう。

 ということで、数年ほど前から、古事記神話と日本書紀本文神話の記述を徹底的に比較して、一致する点や異なる点を調べ、それらをもとに、それぞれの神話のもつ特色を明らかにしてゆくという研究を行っています。その研究成果は来年に一冊の書物としてまとめる予定です。

 最後に一言。わたしは元々、日本神話の研究者ではなかったのですが、いつの間にか日本神話の面白さに取りつかれて、今日に至っています。講義、ゼミ、卒論指導などを通じて、その面白さを伝えることができればと思っています。

2015年9月2日水曜日

おいでよ!文化学科☆ その二(LC12 小倉望未さん)

小倉望未さんによるオープンキャンパスの記事、続きです。



以下、私がされた質問とそれに対しての私の答えを幾つか載せておきますので、今回オープンキャンパスに来られなかった方も参考にしていただけたらと思います。

また、文化学科に対しての質問等ありましたら、お気軽にこの記事のコメント欄にお寄せください。誠心誠意お返事を書かせていただきますので!単純な感想コメントもお待ちしています!

.文化学科はなにをするんですか?

.これはとても厄介な質問です。入学してからの4年間でその答えを探してください!と言いたい程厄介ですが、それではあまりに無責任なので、あくまで私の考えをお伝えします。

文化学科の特色は「幅広いことを学べる」ことです。文化学科には様々な分野の先生方がいらっしゃいます。心理学、社会学、美術史、人類学、哲学……その中でも更に細かく分かれているのです。

なので、文化学科に特に向いているのは、様々なことに興味を持てて、物事を色んな面から見たいと思ってる方かなと思います。まだ自分の将来の方向性が決まっていないので、様々なことが学べるこの学科で夢を見つけたいと入学する人も多いです。また、教員免許や学芸員の資格を取得できる課程を選択することも可能なので、学校や博物館で働きたいと思っている人にもお勧めです。哲学などの学問をするのは教育現場で働いていく上でとても貴重な経験になるかと思います。

文化学科では、たくさんの選択肢が用意されていますので、それをしっかりと自分のものにしていって欲しいと思います。選択肢が多いことは、一見可能性に満ち溢れているようにも思えますが、何も選べなかった、となる危険性も孕んでいます。文化学科は、人生の取捨選択を学ぶ場であるとも言えるかもしれませんね。

.大学では語学が勉強したいのですが……。

.そのように考えられている方はきっと福岡大学の人文学部が第一志望なのではないかと思います。人文学部には英語学科、フランス語学科、ドイツ語学科、東アジア言語学科と、語学・外国の文化を専門とした学科が多数あります。そちらに目を向けられている方にも是非とも文化学科も選択肢として考えていただきたいです。

文化学科では入学してからの2年間、英語と第二外国語(フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語)が必修となっています。なので、語学を学ぶ機会は十分確保されています。

一年生の英語は既にクラスが割り振られていますが、二年生に上がる前にテストを受け、その後は、TOEICコースや英会話コースなどに分かれて英語を学習することになります。また、三年生以降は必修ではない英語のプログラムが設けられているので、語学を続けたければそちらを選択することがベストです。短期留学を視野に入れたプログラムとなっていますので、より実用的な英語学習ができるかと思います。

また、福岡大学では昼休みの時間、曜日ごとに違った語学で留学生と交流を図るスペースが設けられていたり、留学生との英語合宿が夏休みに企画されたりと、語学を学べるイベントが多数行われているので、そういったものも有効に活用していただければと思います。

単に、語学を専門的に学ぶよりも、自分の興味のある学問について、世界中の人と議論を交わしたいと願っての学習の方が、より実りあるものになるのではないでしょうか。文化学科の先輩で、哲学を学ばれ、第二外国語でフランス語を選択していたことから、一年間、ベルギーの大学の哲学科に留学をされた方もいらっしゃいます。文化学科で語学を学ぶことは十分に可能なので、是非その方法について検討していただければと思います。

.将来メディア関係に進みたい!

.そのように将来の方向性が確定されている方には、文化学科はネタの宝庫かもしれません。

文化学科の講義の中には、メディアに関するものもあります。メディア関係の仕事に就いている卒業生の方や、目指している在学生も沢山います。

映像を作成しているサークルがあるので、そこでまず趣味として作品作りを始めるのも良いかもしれません。また、福岡のテレビ局・新聞社・映像制作会社がアルバイトの求人を行っていることもあるので、自分の興味のあるものには常にアンテナを張っておきましょう。やはり、就職活動のときに、経験として語れるのはとても有利だと思います。また、福岡大学では春と夏にインターンシップの募集を行っています。大学からの推薦で新聞社や映像制作会社へのインターンシップも出来ますので、積極的な参加をお勧めします。

小倉望未