2016年10月1日土曜日

LC哲学カフェ開催

9月26日月曜日の夕方、A605教室で久しぶりにLC哲学カフェが開催されました。参加者は学生諸氏が6名に教員が2名、さらに卒業生とそのご家族も加わり、計10名。

今回のテーマは「最も幸せな人生とはどのようなものか?」。今までの「マンガde哲学」では毎回、一つのマンガ作品を素材として取り上げてきましたが、今回は趣向を変えて、一つの問いをテーマに。そしてこの問いは、先日のLCガイダンスゼミナールで課題として出された問いでもあります。

ガイダンスゼミで配られた資料を改めて眺めつつ、ゼミの発表ではこんな意見が出た、あんな意見も出た、と思い返すことから、徐々に話が始まりました。

ゼミの発表では「最も幸せな人生に永遠の命は不要」という意見が多かったが、本当にそうなのか。永遠に生きてあらゆる快楽を味わい続けることができるならばそれで良いし、それが最も幸せな人生ではないか。老いた状態でいつまでも死ねないのが苦痛? では、もし永遠に若いままならば。周囲が皆死んでいくのに独りで生き続けるのは苦痛? もし10人だけ、自分と一緒に永遠に生きる人を選べるならば。

結局、生きている現状に不満があるので、その不幸から逃れるために死を望む? 幸福ならば、永遠に生きても良い? 逆に、不幸がないと後ろめたい? 「ずっと幸福で最後だけ不幸な人生と、ずっと不幸で最後だけ幸福な人生とどちらが良いか」と問われ、参加者の中で意見が分かれる場面も。

苦しみが何もない状態は退屈? いや、退屈は必ずしも不幸ではない。ボーっとしているのも幸せ。いや、ダラダラ過ごしていると「人間の底辺」にいるように感じてしまう。しかし、それは駄目なことなのか。「勤勉は善い」という価値観にとらわれすぎ? そもそも「最も幸せな人生」=「最も善い人生」と言えるのかどうか。

幸福が少ない方が、希少価値がある。苦労した後でこそ幸せを感じる?

幸福と不幸は人によって感じ方が違うし、同じ人でも小学生のときと、大学生になった今とでは幸福の感じ方が違う。ともすれば、何も知らないことが一番幸福なのかもしれない。あるお店のアイスクリームしか知らなかったときは、そのアイスで最高の幸福を感じていたが、別の高価なアイスの味を知ってしまった今、あのときの幸福は失われてしまった……。いやむしろ、美味しいアイスを知らないでいることの方が不幸では、との指摘も。

色々なことをすべて自分の思い通りに選べる人生が、最も幸せな人生? 自分の欲望を満たした結果、誰かを傷つけてしまった場合は? それでも幸せ?

幸福と他者の関係。幸福とは自分の精神的な状態のことで、すなわち「幸福を感じる」=「幸福である」と言える? あるいは、他者の視点も必要? 何が幸福なのか、自分独りで決めることはできない? 最高の幸福を感じさせてくれるような機械があったとして、その機械にずっとつながれ続けていたいと思うかどうか。「私は幸福を感じていた」という偽の記憶を植えつけられた人は、幸福だったと言えるのかどうか。

人を幸せにして幸せを感じることもあるはず。しかし「恋人が幸せだから自分も幸せ」は嘘? 結局、自己満足や錯覚。では「子供が幸せだから自分も幸せ」は? 子孫繁栄のための本能。最終的にはすべて自分のため? では「卒論生が幸せだから指導教員も幸せ」は?

その他、死は幸福なのか不幸なのか、神は幸福なのか、教育で幸福を教えることはできるのか、等々が問われ、また、自分が他人からどう思われているのか考えないのが幸せ、冷静さと幸福は対立する、努力から幸福が生まれる、努力や健康は国が押しつけてきた価値観でしかない、等々の意見が出て、当然のように特に結論は得られないまま、6時のチャイムと共に終了。その後、大学近くの某居酒屋に場所を移し、さらに夜遅くまで議論は続いた、との噂も……。

久しぶりの開催だったためか、あるいはテーマのためか、次々と意見が飛び出したわけではなかったものの、皆でじっくり悩みながら、まるで暗闇の中、手探りで何かを見つけ出そうとするかのように少しずつ論点を挙げていく、という、緩やかで心地好い時間となりました。

とはいえ、この形式での開催にはややマンネリ化の気配も。教室にばかり閉じこもっていないで、次回はいよいよ学外へ……? 詳細についてはこのブログで告知しますので、ぜひ一度、気軽に御参加下さい。

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