2020年5月2日土曜日

「絹の道」と異文化の接触・西安―いつだって世界はつながっている(異文化の接触地帯7)―

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、地理学の磯田則彦先生です。

 こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。

 まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフサイクルの重要なステージで移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」以前から、そのようなことが気になってしまいます。


 また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。

 次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行うなかで身近になってきた分野といえるかもしれません。過去6回、インナーモンゴリア・香港・回民・哈尔滨・广州についてご紹介してまいりましたが、今回は「絹の道」の東の起点である西安(シーアン)についてご紹介いたします。

黄河

 西安は中国・西北の陕西省の省会で、黄河を横切り渭河平原が開けてくる中央部にあります。言わずと知れた平城京(奈良)・平安京(京都)のモデルとなった都市です。歴史上、長安の名で知られています。日本史の授業で勉強したとおり、遣隋使や遣唐使が訪れた「憧れの都」であり、当時世界屈指の先進都市でした。市内の公園には、李白が阿倍仲麻呂(晁衡)のために詠んだ漢詩を刻んだ石碑が設置されており、往時を忍ぶことができます。中国「四大古都」のひとつに数えられるまさに歴史のある街です。「西の都」西安、「東の都」洛阳、「北の都」北京、「南の都」南京のなかでも、洛阳と並び「古都中の古都」というべき存在です。
石碑


 このような西安ですが、滞在中に地元の人から興味深い話を聞きました。地铁(地下鉄)の話です。現在、西安の人口は、郊外を含めて約1,000万人にもなります。文字どおり、中国を代表する大都市です。当然、大都市の交通ネットワークとして地下鉄が機能しています。現在では、計画中の路線も含めて十数路線あり、これくらいの人口規模の都市としては中国でも標準的なネットワークを備えるまでに至っていますが、筆者が訪れた数年前まではほんの一部の路線が部分開業しているに過ぎませんでした。その理由は、地下の掘削工事を始めるとすぐに歴史的遺構に遭遇してしまうからです。その場合、保存可能なものは保存し、不可能な場合は、計画路線自体を修正します。さすが、「古都中の古都」ですね。


兵馬俑
同市は、かつての城墙(城壁)に囲まれた「城内」を中心に「城外」、および広い郊外から成ります。城内には钟楼や鼓楼(鐘や太鼓で時を告げる楼)があり、悠久の時を受け継いでいます。賑やかな市内には多くの観光スポットやグルメスポットがあります。数ある名所・名物のなかでも地元の人々から愛されているのが城墙と羊肉泡馍・包子(大まかに言って“中華まんじゅう”?)・面(臊子面など多彩な麺類)などのいわゆるグルメです。城墙は四方十数キロにわたり保存、整備されており、何とその上を(道路のように)歩く(自転車に乗る)こともできます。夜になると、钟楼や鼓楼などとともに電飾、ライトアップされ幻想的な景観を造り出しています。西北小麦食文化圏の西安において、羊肉が用いられる贾三包子(ジャーサンバオズ)は、いわば異文化の融合の産物であり、城内にある回民街(ムスリム街)には老舗が建ち並び、常に多くの人々で賑わっています(観光客も非常に多い)。また郊外には、世界遺産である秦の始皇帝陵や兵马俑 (兵馬俑)、舍利子(お釈迦さまの遺骨の一部)が納められているという法门寺(西方に位置する宝鸡にある)などもあり、多くの外国人観光客を集める人気スポットになっています。
鐘鼓楼

 西安は西周や西汉(前漢)をはじめ、隋・唐など歴代王朝の都として君臨してきました。もちろん、華やかで安定した時代ばかりではありませんでした。戦乱や異民族との対立、気候変動(乾燥化)に見舞われ、一時期「東の都」へ遷都したこともありました。それでも、西安は中原の都としての確固たる地位を築き、今日に至っています。では、西安の強み(原動力)とは一体何であったのでしょうか?さまざまな答えのなかに、「外界(世界)とつながっていたこと」や「異文化を積極的に受け入れてきたこと」などがあげられます。その象徴が「丝绸之路(絹の道)」です。

 「シルクロード(Silk Road)」という呼称は、比較的最近のヨーロッパ世界からのものであるといわれています。それ程までに丝绸(絹)が関心を集めた(人心を惹きつけた)物品であったのでしょう。私たちが世界史の時間に勉強した「シルクロード」は、西安(「東の都」の時は洛阳)を東の起点として、地中海方面に続く数千キロの東西交易路として有名です。「绿洲之路(オアシスの道)」・「草原之路(草原の道)」・「海上丝绸之路(海の道)」と主要ルートに応じてそれぞれが名づけられています。紀元前の西汉の時代には、すでにこの道が機能していたといわれています。また、隋の時代には、「北道」・「中道」・「南道」(内陸の3つのルート)と呼ばれていたという報告もあります。中国の歴代王朝にとって、玉门关や阳关(現在の甘肃省北西部)の外側に広がる「西域」は、乾いた大地が広がり、高山が聳え立つ過酷な環境が待ち受ける、異民族が暮らすまさに未知の世界です。そこに赴く以上、命の保証はありません。それでも人々は古より西域を目指してきました。一方、西域からも多くの人々が长安にやってきました。

 もちろん、人馬駱駝や絹だけではありません。多くの文物がこの道を行き交いました。宗教や文化、経済的な価値をもつものも多数ありました。遣隋使や遣唐使が大陸の進んだ政治制度や文化を求めて长安を訪れたように、朝鮮半島や東南アジア、インド、イラン、西アジア、遠くは東ローマ帝国からも多くの人々がこの街を訪れました。仏典を求めて长安から北インドに向かった高僧もいました。「三蔵法師」こと、玄奘です。出発当時の唐は異民族に対して厳戒態勢を取っており、とりわけ、西域に向かうことは憚られました(いわば、「違法行為」)。玉门关付近を越え、烽火台をすり抜ける若い玄奘には、崇高な志と相応の覚悟があったことが容易に理解できます。また、中国で発明されたといわれている紙や火薬、羅針盤、印刷技術などもこの道を西へと進みました。西アジア(メソポタミア)原産といわれる小麦は、中央アジアを経て東に移動し、かの地に根付き、現在、西北や华北の食文化を特徴づけています。一方、イタリアンに欠かせないパスタの麵(製麺)は、実は東方から西方に渡っていった可能性があることが今世紀初頭に報告されました。私たちの生活は、互いの文化の接触の賜物、積み重ねのうえに成り立っているのです。

 現在の世界は、ともすれば、「内向き」といわざるを得ません。時代の流れが生み出したのでしょうか、移民・難民問題を背景に「自国第一主義」が声高に叫ばれるようになったかと思えば、程なくして新型のウイルスが猛威を振るい、国境を越えた人々の往来はすっかりと影をひそめるようになりました。でも、世界はつながっているのです。ずっとずっと昔からつながっていたのです。インターネットなど影も形も無い頃から、人々は生活の糧を得ようとする過程などを通じて異国に触れ、憧れ、見知らぬ土地との間を行き来してきました。常に命にかかわるような危険と背中合わせです。それでも、人々はまだ見ぬ世界に憧憬の念を抱き続けて生きてきたのです。まさに、「人間の本能、性(さが)」でしょうか。

 太古の昔から、人間は異文化との接触を求めてきたともいえます。もちろん、日本人も同様です。遣隋唐使とともに、阿倍仲麻呂などの留学生(るがくしょう)が长安に辿り着いた時、かれらは全身が震え、涙が止まらなかったことでしょう。そして、国子监太学(唐の最高学府)で学ぶとき、何を見、何を聞き、何を感じたのでしょうか?きっと向学心に燃え、満ち足りた心境であったと思われます。現在を生きる私たちも同じです。憧れの土地、人生を変えてくれる土地に辿り着いたとき、心の中に希望が湧きあがり、溢れてくることでしょう。その日を思い描いて、今を生き抜いていきましょう。「いつだって世界はつながっている」、このことを肯定できさえすれば、私たちにその日は必ず訪れます。


 大漠流沙天山远
 玉门葱岭度春风
 人心昔今向异域
 亘古日月亦同行

(西安感思 则彦)

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