2018年9月24日月曜日

VR 時代の友情論(小林信行先生)

平成30年度第8回目の「教員記事」をお届けします。哲学の小林信行先生です。科学の進歩により、SNSやVRの技術が発達し、それに伴い、それらの技術を日々利用する人間どうしの関係にも変化が見られる現代の「友情」について、古代の哲学者プラトンの友情論を手がかりに興味深く考察されています。



VR 時代の友情論

     小林信行(哲学

 似たもの同士が友となるのか、正反対の性格のもの同士が友となるのかという古典的な問いがある。前者は比較的理解しやすい主張であり、現実の友人関係を見てみても分かるように、どんなに個性的な人たちの関係のようであってもやはりどこか似たもの同士という印象を受けてしまうことが多い。そうすると後者の主張はきわめて特殊なものなのだろうか。とは言え、よく考えてみると、まったく似ていないもの同士の方が互いに欠けたものを補い合うようにして強い友情関係をもつことも多く、むしろ似たもの同士の場合は相手のあり方が少しでも変わってしまって自分から離れたりすると(あるいは自分が思っているような友人像からずれてしまうと)憎みさえするような一時的で表面的な関係ではないかと言いたくなるときもある。

 このように両論の可能性に気づいて最初の問いに答えられなくなるとき、ひとは友情関係には両方のタイプが混在しているだけだと納得してしまいがちである。だが、安易な納得は探究心の芽を摘んでしまう。最初の問いの前提となる <友情とは何であるか> というもっと重要な問いを忘れさせてしまうからである。そしてたとえば LINE でやりとりしている人は本当に友と呼べるのだろうか、FB 上で知り合っているだけの人を信じて結婚にいたることは軽率すぎるのだろうか、といった今風の問いにぶつかったときに改めて頭を悩ませているとしたら、「ボーッと生きているだけ」という誹りをあえて受けざるをえなくなるのでないか。人間は生きていく上でさまざまな問題に遭遇し、それに対してさまざまな見解や信念を形成している。それはただの思い込みに過ぎないものであったとして、本人としてはそれが脆いものであることにあまり目を向けたがらない。しかも友情や愛情という重要な人間関係について安直な信念でお茶を濁しているだけでは、失うものの大きさに気づく機会も見逃してしまう。



 さて友情や愛情の重要性・必要性などは個人的なことであり、人それぞれの問題だと見限る人もいるだろうが、それもやはり狭隘な世間知の一つではないだろうか。たしかにそれらが個人的事情に大きく依存することは否定できないにしても、そこにどのような人間関係が成立しているかに目を向ける学問は存在し、それなりの成果もあげて世間知の蒙昧に光を当てている。たとえばプラトンは人間を善き人と悪しき人に分けてしまい、そこに善き人同士、悪しき人同士、善き人と悪しき人の三組の人間関係を考える。そして友情関係がどの組で成立するかと問う。そのようなまったく形式的な分類と組み合わせに対する抵抗感は別にしても、大抵の答えは、そんなこと一概には答えられない、どの組み合わせもありだ、というものだろうか。どんな人間関係にもさまざまな個人的事情があると考えられるからだ。しかしプラトンは、善き者と悪しき者、そして悪しき者同士、の間では友情関係はありえないのではないかとたたみかける。前者は相反するもの同士でありそこには友好よりも敵対関係があるし、後者は悪しき者同士であるが故に親しむよりも相手を憎み傷つけるのではないか、というのである。そして善き者同士にこそ友情は可能となるのではないかという議論を展開する。あまりに建前ばかりの議論で簡単について行けるものはでないが、LINE や FB 上での友情関係を議論する場合の倫理的側面に言及しているという点では重要である。というのも、ひとは人間的な善さという点で友情関係を結ぶのではないかという示唆を与えているからである。実際に会ったこともないような人にネット上だけで友情や恋心を抱くとしたら、それは相手の善さを見出すからであり、単に気が合うというだけではないのかも知れない。もちろんそれはただの幻想ということもあるだろう。とくに一方通行的な想いはストーカーと紙一重でありうる。しかし逆に、だからこそ友情や愛情は人間として社会的に生きるための貴重な入り口を提供してくれていると考えられるとも言える。閉ざされた空間の中でモニターとにらめっこしている孤独な魂も、他者に善さを認めることで自らの閉塞状況から脱して他者と関わりをもってゆく機会を手に入れることもありうるかもしれない。

□小林先生のブログ記事

2018年9月17日月曜日

平成30年度卒業論文相談会開催のお知らせ




卒業論文相談会開催のお知らせ
(LC16台/3年生対象)



 10月上旬の「卒業論文指導願」提出に向けて、3年生を対象に卒業論文相談会を開催します。

 会場には文化学科の全教員が集合し、その場で個々の教員に、卒業論文について個別に相談することができます。卒業論文を書くかどうか迷っている人も、ぜひ参加してみて下さい。


 日時 2018年9月28日(金)16:30-18:00
 場所 文系センター棟15階 第5会議室

※当日は『2018年度版 福岡大学人文学部文化学科 教員紹介』を持参して下さい。

 なお、この相談会に参加しなくても、卒論の指導を受けることは可能です。

 卒業論文を書くために必要な手続きについては、『2018年度版 福岡大学人文学部文化学科 教員紹介』の25-31頁「卒業論文を書くために――卒業論文をめぐるQ&A」を参照して下さい。
 
 卒業論文関連の最近のブログ記事はこちら。

  平成29年度提出の卒業論文題目一覧
  平成29年度卒業論文発表会のお知らせ
    平成29年度卒業論文相談会が開催されました

教務入試連絡委員 本多康生・宮野真生子

2018年9月10日月曜日

映画から考える――おすすめ映画10選(小笠原史樹先生)

平成30年度第7回目の「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、中世哲学・宗教哲学の小笠原史樹先生です。ご担当の授業に関連する映画を10本、ご紹介いただきました。



映画から考える――おすすめ映画10選

小笠原史樹(宗教学

講義形式の授業として、共通教育科目の「宗教学A・B」、専門教育科目の「中世ヨーロッパ哲学」、「宗教哲学入門」、「応用倫理学」を担当しているが、授業の主な資料は文献で、どうしても議論が抽象的になってしまいがちなこともあり、より具体的なイメージを参加者に持ってもらうためにも、関連する映画作品をできるだけ紹介するようにしている。映画を観ることで、今まで全く無関心だったはずのことが急に頭の中を占め、考えてもみなかったことについて考えさせられる――そんな体験をしてもらえれば、という期待もある。もちろん、単に娯楽として楽しんでもらえるだけでも構わない。

古典的な名画から最新のハリウッド映画まで、紹介する作品は多岐にわたるが、何度も繰り返し名前をあげるものもある。「別の授業でも紹介したので、繰り返しになる人もいるかもしれませんが……」と前置きしてから話し始めて、しかし話している途中に、実はその授業でも紹介済みだったことを思い出して、けれども途中で止めるわけにもいかず、赤面しながら早口で話し続ける、ということもあったりする。同じ話を聴かされるのは学生さんにとっても退屈だろうし、時間を節約するためにも、予め「授業に関連する映画リスト」のようなものを用意して配布できれば良い、とは思っている。「『文化学科の学生必見の映画100選』というリストを作りたい!」とか、ゼミ生に話したこともあったような気がするが、結局、何もしていない……。

というわけで、100選には遠く及ばないものの、授業で紹介する頻度の高いものを中心に、とりあえず下記、10作品。


1.「ジーザス・クライスト=スーパースター」(1973年)

イエスが処刑されるまでの約一週間を描いたロック・ミュージカル。元々は楽曲のみがレコードで発表され、その後に舞台化、そして映画化された、という流れらしい。イエスに関する映画は多く、最近のものとしては「サン・オブ・ゴッド」(2014年)「復活」(2016年)などがあるが、やはりこの作品が抜群に面白い。

死を前にしたイエスの苛立ちや苦悶、イエスを裏切るユダの葛藤、イエスに対するカイアファやピラトの恐れや戸惑いなどが、魅力的な音楽(イエスやユダの異様な歌唱力に圧倒される)と共に印象深く描かれていく。比較的オーソドックスなイエス像が示されている「サン・オブ・ゴッド」と見比べてみると、イエスをめぐって一体何が問題になっているのか、少しずつわかってくるはず。

2.「刑事ジョン・ブック 目撃者」(1985年)

原題は“Witness”。ハリソン・フォード主演。彼の演じる刑事が、ある事件を目撃したアーミッシュの少年を保護。犯人からの追跡を逃れて、少年の母親と共にアーミッシュの村へ、というストーリー展開。サスペンス映画としても十分に楽しめるが、アーミッシュの生活様式や思想が描かれている点が、授業との関連では重要。

アーミッシュはキリスト教の一派。主にアメリカのオハイオ州、ペンシルベニア州、インディアナ州、カナダのオンタリオ州などに居住しており、現代の文明と一線を画した伝統的な農耕・牧畜生活で知られる。電化製品を持たない、馬車で移動する、等々。この作品の中でも、アーミッシュの村に潜んでいる主人公たちを見つけ出そうとする犯人が、電話を使って捜索するように指示したところ、「アーミッシュは電話を持っていません」と聞いて驚く、という場面があったりする。

授業ではしばしば、アーミッシュの信仰として暴力や復讐が禁じられていることを取り上げるが、映画でもこの点が一つの重要なテーマになっている。2006年にアーミッシュの学校で起こった銃撃事件では、その直後のアーミッシュの人々の行動が話題になった。関連する本として、下記。

 ドナルド・B・クレイビル、他『アーミッシュの赦し なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか』、青木玲訳、亜紀書房、2008年

3.「薔薇の名前」(1986年)

ウンベルト・エーコの小説の映画化。中世ヨーロッパ、ある修道院を訪れたバスカヴィルのウィリアム(バスカヴィル!)と従者が、そこで次々と起こる事件の謎に挑む。ウィリアムを演じるのはショーン・コネリー。一つ一つの場面が当時の文化やイメージにあふれていて、中世キリスト教の世界観を堪能できる。「笑うことは罪か?」、「イエスは笑ったのか?」という問答など、思想的に興味深い箇所も多数。

同じく中世ヨーロッパを扱った作品としては、アッシジのフランチェスコという聖人を描いた「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972年)があり、授業でもよく紹介している。「薔薇の名前」に漂う薄暗い雰囲気と、「ブラザー・サン シスター・ムーン」の開放的な自然描写を比較してみると、なかなか面白い。作品ごとに中世の印象が変わるはず。

4.「マルコムX」(1992年)

アメリカの活動家マルコムX(1925-1965)の伝記映画。キリスト教の平和主義に関連してキング牧師を扱う際には、一緒にマルコムXにも言及することが多い。キング牧師については幾らか知識があっても、同じときに同じ分野で活躍したマルコムXについては、名前すら聞いたことがない、という学生さんも少なくないようなので、彼について知る第一歩としてこの映画を紹介。単に知識が得られるだけでなく、映画としても傑作。マルコムX役のデンゼル・ワシントンの存在感が素晴らしく、圧巻。

非暴力のキング牧師に対し、暴力的で攻撃的なマルコムX、と二人が対比されることもあるが、この映画を観ると、マルコムXの生涯はそのような単純化になじまない、と感じられる。

5.「サイン」(2002年)

「シックス・センス」で有名なナイト・シャマラン監督のミステリ。妻の死をきっかけに牧師を辞めた主人公を、メル・ギブソンが演じている。弟や子供たちと暮らす彼の周囲で不思議なことが起こり始め、畑にミステリーサークルが出現したり、飼い犬が暴れ出したり……。ネタバレを避けるために詳しくは書かないが、この作品で表現されている「ある思想」が、授業との関連で興味深い。同様の思想は同じ監督の「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006年)にも見られるものの、作品としての完成度は「サイン」の方が高い、と思う。

最近のクリスチャン映画「神は死んだのか」(2014年)にも、「サイン」に似た思想を見出すことができるが、似ていながらかなり印象が異なる。両方観て、比較してみると面白いはず。おそらくポイントの一つは、排他的かどうか。


6.「キングダム・オブ・ヘブン」(2005年)

授業で十字軍を取り上げるときには、かなりの頻度でこの作品を紹介している。中世のエルサレムをめぐる戦争を題材にしており、「エイリアン」、「ブレードランナー」、「グラディエーター」などで有名なリドリー・スコットが監督。キリスト教側の人々だけではなく、イスラーム側の英雄サラディンも登場する。十字軍入門としてはもちろん、「キリスト教は平和的で、イスラームは暴力的」という一般的なイメージについて検討する材料としても有益。

7.「ルワンダの涙」(2005年)

原題は“Shooting Dogs”。1994年にアフリカのルワンダで起こった虐殺をテーマにした作品。ルワンダ虐殺を扱った映画としては「ホテル・ルワンダ」(2004年)の方が有名かもしれないが、私としてはこの作品を推したい。今年度の応用倫理学で戦争について議論したときに、他国への武力介入の問題との関連でルワンダのケースを挙げ、この作品にも言及した。元のタイトルの「犬を撃つ」は、その論点に関わっている。

ジョン・ハート演じる神父も重要。自分や周囲の人々の命が危険にさらされている状態での、神父の振舞いが印象に残る。

8.「ミュンヘン」(2005年)

パレスチナ問題などに関連して、繰り返し紹介している作品。ミュンヘンでのオリンピックで起きたテロ事件(1972年)と、そのテロに対するイスラエル諜報部の報復が描かれている。監督はスティーヴン・スピルバーグ。ミュンヘンのテロ事件などについて全く知らない、という学生さんにはぜひすすめたい作品ではあるものの、暴力表現が多いので強くはすすめにくい。終わりの見えない復讐の連鎖について、そのような暴力表現を通して否応なく考えさせられる。また、この作品に関して政治的にどのような評価があるのか、調べてみるのも勉強になるはず。

報復部隊を率いる主人公が、ある夜、身分を隠してパレスチナ人と話す場面が印象的。主人公が尋ねる、「アラブ人には他にもたくさんの土地があるじゃないか。本当にオリーブの木が恋しいのか? あの何もない土地を取り戻したいと心から思うのか? それが本当に子供たちのためになるのか?」。パレスチナ人は「それが望みだ(It absolutely is)。100年かかるかもしれないが、われわれが勝つ」と答える――。

9.「ダウト~あるカトリック学校で~」(2008年)

原題はシンプルに“Doubt”。戯曲が原作らしい。カトリック学校を舞台に、ある疑いをめぐって物語が展開していく。修道女役のメリル・ストリープ、神父役のフィリップ・シーモア・ホフマンの演技対決として観ても面白い。同様の事件を扱った最近の作品としては「スポットライト 世紀のスクープ」(2015年)がある。

宗教哲学の授業などで「信じる/疑う」というテーマを取り上げることがあり、この映画はそのような問題について考える助けになる。同じテーマについて考えさせられる作品として、SF映画の「コンタクト」(1997年)や、おそらくホラー映画に分類される「エミリー・ローズ」(2005年)もおすすめ。前者は地球外生命との「コンタクト」をめぐる物語で、後者は、悪魔祓いで亡くなった少女に関する裁判の話。ただし、後者にはホラー表現があるので、苦手な人は避けた方が無難。

10.「神々と男たち」(2010年)

1996年、アルジェリアで実際に起こった事件に基づく作品。アルジェリアの修道院を舞台に、内戦で治安の悪化した状況下、このまま留まるか帰国するかの決断を迫られる修道士たちの葛藤などが描かれる。修道院で行われる日常的な儀式、修道士たちの議論、周囲の住民たちと修道士たちの交流、徐々に迫る危険、等々。観終わった後に深い余韻の残る傑作。

授業では時々、ある修道士が『クルアーン』を引用しながらイスラームの武装組織と対話しようとする、という場面を話題にする。武装組織の側を必ずしも一面的に描いていない点にも注目。


これからの授業で上記の作品を紹介するときには、タイトルだけを挙げて、「詳しくは文化学科のブログ記事を参照して下さい」と言って済ませることができる。節約された時間を使って、授業に関連するマンガ作品を紹介することもできるだろう……しかし、やはり同じ作品を何度も紹介することになってしまうかもしれず、いずれ「マンガから考える――おすすめマンガ10選」というブログ記事を書くべきなのかもしれない。「『文化学科の学生必読のマンガ100選』を作りたい!」と、ゼミ生に話したこともあったような……?

有言実行を期し、まずは大学近辺の某レンタル店に赴いて、DVDやマンガをレンタルすることから始める。5歳のある女の子(チコちゃんではない。念のため)の言い方を借りるならば、「こいつは、いそがしくなってきやがった」――。

※上記の写真は記事の内容とあまり関係ないが、何となく。珍しく雪の降った日に、キャンパス内を撮影したもの。一枚目は2013年、二枚目は2016年、三枚目は2017年、どれも1月に撮影。

小笠原先生のブログ記事
真昼の悪魔
スマホと空と攻殻機動隊
歌詞の中の神々
木曜日のラグナロク

2018年9月4日火曜日

第2回・第3回 LCシネマ文化学が開催されました

先の記事と同様、すっかり報告が遅くなってしまいましたが、第2回目と第3回目のLCシネマ文化学が開催されました。

第2回目は6月16日土曜日。参加者は学生さんが8名に教員1名。中洲の大洋映画劇場で下記を鑑賞しました。

 マクベス(英国ロイヤル・オペラ・ハウス)(外部サイト)

シェイクスピアの戯曲を原作とする、ヴェルディ作曲のオペラ。録画ではあるものの、オペラを観るのは初めて、という参加者がほとんどの中、独特の荘厳な雰囲気を堪能。ただし、やはり幾らかハードルは高かったようで、午前10時から休憩を挟んで午後1時半頃までの長丁場、しばしば襲いかかる眠気に必死で抗ったり、時に屈してみたり……。

終了後は某喫茶店で昼食をとりつつ、映画に関連してトーク。マクベス夫人の心理描写や魔女たちの描かれ方、予言はなぜ成就したのか、原作『マクベス』との違いなどに関する話の他、オペラという形式の特徴、演劇とオペラの違い、芸術が持っている「退屈さ」、等々が話題となりました。

第3回目は8月6日月曜日の午前。参加者は学生さんが5名に教員1名。天神北のKBCシネマで、下記のドキュメンタリを鑑賞。

 ゲッペルスと私(外部サイト)

作品は、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの元秘書、ブルンヒルデ・ポムゼルのインタビュー映像を中心に、その合間に当時の様々な映像資料が挿入される、という構成。原題は“A German Life”。この作品に関する事前の宣伝などから、悪や罪の問題に関する激論が交わされるのかと思いきや、ポムゼルの語りはどこまでも淡々としており、また内容的にも、必ずしもナチスの話がメインではない、と感じられました。

終了後の某喫茶店でのトークでも、ある種の「拍子抜け」で意見が一致。「『ゲッペルスと私』ではなく『私』というタイトルの方が適切」などの感想も聞かれつつ、歴史的な出来事に深く関わったはずの彼女の発言が、にもかかわらず個人的なものであることの「問題」などを検討。その他、100歳を越えたポムゼルの顔のアップを多用する映像表現や、ドキュメンタリという表現の特徴について。

第1回目の作品が通常の「物語」だったのに対し、第2回目はオペラ、第3回目はドキュメンタリで、あまり馴染みのない形式に戸惑う部分も多かったかもしれませんが、それはそれで貴重な経験。ただし、このままではどんどん参加人数が減っていく一方、という恐れもあるため、次回はより一般的な作品を……?

長い夏休みも終わり、来週末からは後期がスタート。LCシネマ文化学も再開する予定です。参加希望者は随時募集中ですので、小笠原までメールでご連絡下さい。

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第3回・第4回 LCアーベントが開催されました

すっかり報告が遅くなってしまいましたが、6月と7月、第3回目と第4回目のLCアーベントが開催されました。

まずは6月12日、第3回目として、文化人類学がご専門の宮岡真央子先生にご発表いただきました。提題のタイトルは「〈牡丹社事件〉の記憶と交渉――台湾先住民の視点から」。参加者は、学生さんと教員を合わせて十数名。

今回の提題での〈牡丹社事件〉とは、1871年に琉球民が台湾南部恒春半島に漂着し、その内54名が台湾の先住民パイワンによって殺害されたとされる事件と、1874年に西郷従道軍が恒春半島へ軍事侵攻して占領した事件のこと。この事件の記憶はどのように共有化(commemorate)されてきたのか。

提題の前半では、五種類の記憶の共有化(commemoration)が紹介されました。①西郷従道や明治政府による、1871年の事件で殺害された54名の墓の改修など。②台湾総督府による墓の清掃・改修や、新たな記念碑の建立など。③琉球人遭難事件に関する記憶の共有化。琉球人の救助に関わった現地漢人による祭祀。遭難者の同郷人による、救助者や遭難者の詳細に関する調査や、遭難者の氏名を刻んだ墓碑の設置など。④国民党政権下での、記念碑の碑題の書き換えなど。⑤台湾民主化以降の、石碑周辺の整備や公園化など。

これら五つのコメモレイションはそれぞれ、①西郷軍の武力侵攻と占領の正当性、②台湾総督府の台湾統治の正当性、③遭難した琉球人の慰霊と、救助・保護に関わった漢人への感謝、④抗日経験、等々を共有化しようとしたものであり、⑤は日本をめぐる記憶を再評価しようとするもの。ところが、それらの記憶の場において、パイワンの人々の記憶は顧みられてこなかった。

近年、パイワンの人々による牡丹社事件の再解釈が始まっている。事件に関するパイワンの伝承が収集され始め、学術的にも、パイワンの視点から牡丹社事件を論じた論文が発表された。先住民のイメージや琉球人殺害の理由、戦争の勝敗などに関して、従来とは異なる見方が示されている。牡丹社事件に関する国際的な学術シンポジウムも開催され、関連の研究も活発になっている。

沖縄・宮古との交流も試みられており、2005年には牡丹郷の21人が沖縄本島と宮古島を訪問。2007年、「愛と和平」記念碑が2基制作され、1基は宮古島市に贈呈された。その記念碑贈呈式では牡丹社事件の演劇が上映され、そのラストでは、琉球人とパイワンの魂が天国で和解する場面が描かれる。

2014年には、牡丹社事件紀念公園が開園。公園に設置された説明板の文章の最後は、国家や多数派住民への、パイワンから見た牡丹社事件のコメモレイションの呼びかけになっている。パイワンの人々による事件の再解釈や公園の整備などは、歴史について語る場を獲得し、そのような歴史語りにおける主体性を回復するための実践である、と考えられる――。

提題に関する質疑応答では、生物学的条件の異なる集団間でのコメモレイションはどのように可能なのか、コメモレイションそのものの多様性や文化差をどう考えるのか、記憶を共有する範囲の問題、記憶を喚起するメディアとしての「もの」の必要性、人間の語る物語の数と幸せの関係、伝承のツールとしての文字・音声・絵画、そもそも歴史の「真実」を捉えることはできるのか、等々、活発な議論が交わされました。

続いて7月2日、第4回目として、犯罪心理学がご専門の大上渉先生から、「国家の安全を脅かす犯罪――テロリズム・スパイ活動の心理学」というタイトルでご発表いただきました。参加者は、学生さんが十数名、教員が5名。

国家の安全を脅かす犯罪としては、テロ、スパイ、秘密工作活動などが挙げられるが、日本の犯罪心理学では、そのような犯罪はほとんど取り上げられてこなかった。しかし、海外では研究が進んでおり、心理学がテロ対策などに寄与する、とも言われている。例えば、心理学に基づいてテロの前兆を察知したり、テロ組織の犯行パターンを把握したり、協力者の候補を評価したりすることができる。

テロ対策としては、事前の防止と事後の捜査がある。日本では事後捜査に重点が置かれており、従来は、現場鑑識や科学捜査、思想的背景の分析などが行われてきた。爆破事件の現場に散乱していた破片から犯行車両のナンバーを復元する、起爆装置に使われた腕時計を特定する、爆弾製造マニュアルの記述と論文に共通する思想を探す、犯行声明文の言い回しから犯人を特定する、等々。

これら二つの方法の他に、もう一つ、犯行パターンの解析が役立つのではないか。テロ組織は独自の戦術に固執する、と指摘されている。攻撃の目標や方法は組織の中で決定され、攻撃方法の学習や武器の供給も組織内で行われるし、一度成功した攻撃方法が繰り返される。テロ組織の犯行には規則性やルールがあり、犯行パターンの分析によって犯行組織を推定できる。

新聞記事からテロ事件に関するデータを集め、データベースを作成。発生時間、場所、方法、目的などを入力し、そのデータをSPSSという統計ソフトで分析。攻撃対象との近さや、攻撃対象が無差別か特定されているかなどによって、犯行が特徴づけられる。このデータに基づいて、各テロ組織の犯行パターンを統計的に示すことが可能。

しかし、既存のテロ・グループとの関係が薄いホームグロウン・テロリスト(イスラム諸国から欧米諸国に移民した2世・3世のテロリスト)や、ローン・ウルフ(一匹狼)型のテロリストの場合、この分析はうまくいかないかもしれない。ローン・ウルフ型の場合は組織的な背景がなく、動機も様々。日本では宗教・人種の激しい対立がないため、想定できない犯行動機のローン・ウルフ型テロが発生している。事前の防止が難しい。

以上が前半。犯罪心理学の扱う「犯罪」の範囲、思想の内容と行動に関係があるのかどうか、犯罪研究と犯罪心理学の違い、テロリストの育った環境に共通性はあるのか、等々に関する質疑応答を挟み、後半へ。

後半は、スパイ研究の話題。諜報活動の中で一番心理学と関係が深いのは、人から機密情報を入手する活動(HUMINT)。情報提供者「エージェント」を獲得するときには、社会心理学の説得テクニックが使われている。心理的な抵抗が少ない依頼から始める、些細な依頼を承諾させることで以降の行動を拘束する、報酬を与えることで負い目を感じさせる、飲食しながら依頼して説得効果を高める。

どのような人物が情報提供者になるのか。情報提供者の職業と諜報機関の役割を分類の基準とし、諜報事件のデータを新聞記事や警察庁の資料などから収集して、統計的に分析。情報提供者は自衛官型、自営業型、メーカー社員型、国家公務員型の四つに類型化できる、という結論が得られた――。

質疑応答では、SPSSを用いた研究の仕方、犯罪心理学は個人と社会のどちらを対象にしているのか、想定できない犯行動機のテロは海外では少ないのか、日本のテロ組織の現状、等々に関して議論されました。

※以上はあくまでも小笠原の理解に基づく要約。細かい言葉遣いなど、実際の発表と異なる部分もあります。

というわけで、今年度からスタートしたLCアーベントですが、何とか前期に4回、開催することができました。ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。

後期も、できれば3回か4回程度の開催を予定しています。詳細についてはこのブログ上で告知しますので、ぜひ気軽にご参加下さい。

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2018年8月31日金曜日

平成30年度 卒業論文中間報告書の提出について

平成30年度 卒業論文中間報告書の提出について
(LC15台以上/4年生対象)

卒業論文を提出する予定の4年生は、指導教員と相談の上、下記の期間中に中間報告書を提出してください。

 提出期間 9月21日(金)から9月28日(金)16:30まで
 提出場所 文系センター低層棟1階 レポートBOX

中間報告書の分量や形式は、指導教員の指示に従ってください。

教務・入試連絡委員 宮野真生子・本多康生

国生みの失敗について思うこと(岸根敏幸先生)

 平成30年度第6回目の「教員記事」をお届けします。宗教学の岸根敏幸先生です。ご専門の一つである「古事記神話」における「国生みの失敗」の理由を、生物学的な知見を踏まえた上で、大変興味深く分析されています。



国生みの失敗について思うこと

   
     岸根敏幸(宗教学

 『古事記』に記されている神話(以下では「古事記神話」)には、イザナキとイザナミが結婚して、子どもという形で国を生もうとするものの、手順を誤ったために、失敗に終わってしまったという話が出てきます。その手順の誤りとは、「あなにやし、えをとこを」(ああ、なんと素敵な男性であることよ)と、女性の方が先に愛情表現をしてしまったというものです。

 大半の解説書がこのことを男尊女卑的な発想に基づいているという説明で片づけてしまうのですが、私はそのような説明に対して違和感をもっていて、古事記神話の記述で、なぜ女性が先に愛情表現をすることがいけないとされているのか、ずっと気になっていました。そして、男尊女卑的な発想とは違う、古事記神話独特の発想というものがあると思うようになったのです。

 それについては、古事記神話を扱っている「アジアの思想Ⅰ」の授業でも何度か話していますし、発表した論文(「古事記神話と言霊信仰(後編) ― 他者に幸禍をもたらす発言、および、「言挙げ」 ―」『福岡大学人文論叢』第49巻・第3号、平成29年12月)でも、論題とは直接関係しないものの、注記で多少言及したことがありますが、教員記事という場を利用して、改めて述べたいと思います。

 私が違和感をもった理由の一つは、男尊女卑的な発想が古事記神話の実際の記述にそぐわないと思うからです。古事記神話全体を眺めてみますと、活躍したり、印象に強く残ったりする女神がたくさん登場しています。人草を呪い、黄泉の国の主になったイザナミ、荒ぶるスサノヲに立ち向かって、その結果、天の石屋に籠るが、最終的には八百万の神を従えて、高天原の統治者として君臨するアマテラス、天の石屋からアマテラスを連れ出すために踊りを披露したり、サルタビコの正体を明らかにしたりしたアマノウズメ、オホナムヂを助けて、一人前の男性に仕立て上げたスセリビメ、自らの潔白を示そうとして決死の出産に臨んだコノハナノサクヤビメなどです。古事記神話で描かれる女神たちは、男尊女卑的な発想とはおよそ懸け離れた力強い存在と言えるのです。

 なお、『古事記』の編者である太安万侶に、記憶している伝承を語り聞かせた稗田阿礼という人物が実は女性であったのではないかという可能性が指摘されています(西郷信綱著『古事記研究』など)。古事記神話でアマノウズメの活躍が顕著な形で描かれているのも、稗田阿礼が、アマノウズメを祖とし、代々、祭祀のために女性を巫女として宮中に送り続けてきた猿女君(さるめのきみ)という氏族の出身であったからではないかと言われているのです。

 さらに別の理由も挙げられます。古事記神話に見られる発想の仕方は、実際の経験に基づいた具象的なものであると思うのです。たとえば、国、海、川、木、山などといった私たちを取り巻く世界の生成についても、特別な発想というものは見られません。人間を含めた大半の生き物において、オスとメスが結ばれることで子どもが生まれるという実際の経験に基づき、世界の生成も一対の男女神の結婚と結びつけて捉えているのです。また、死に関わる世界である黄泉の国も、私たちの住む世界と別次元な世界というわけではなく、亡くなった人を葬った墓地(あるいは、それ以前におこなうモガリの場)という実際の場所を引きずっていて、黄泉の国は実はこの地上世界に存在するものと考えられているのです。これらの例に示されているように、古事記神話に見られる発想の仕方は具象的なものであると言ってよいのです。

 それに対して、男尊女卑という発想は決して実際の経験から自然に出てくるものとは思われません。子どもが日常で最も接する親は大抵、母親であり、その存在はあまりにも大きいでしょう。また、兄弟姉妹がいれば、小さい時から、男女の違いを意識することなく、深く接することになるでしょう。そのような生活の中から男尊女卑的な発想が出てくるとは考えにくいです。そういう発想は、実際の経験から距離を置いたところで、何らかの観念的な思考から出てくるもののように思われるからです。

 これらの理由から、女性が先に愛情表現をすることがなぜいけないのかという問題を、男尊女卑的な発想と結びつけて理解することに違和感をもっているのですが、それでは、古事記神話に見られる発想の仕方を具象的なものであると捉えた上で、この問題をどう考えたらよいのでしょうか。

 それに関連して、以前お世話になった先生の言葉が思い返されます。それは、人間を理解するには、人間以外の生き物について理解する必要があるというものです。私たちは「人間とは何か」という問いをよく立てようとしますが、その問いを立てる際に、人間のおこなっていることの大半が他の生き物でもおこなわれていて、私たちが思っているほど、人間と他の生き物との間に違いがあるわけではないということを十分に考慮しているでしょうか。人間がもっているとされる理性に過度な期待をいだくことは、実際から懸け離れた空虚な人間像を追い求めることになりはしないでしょうか。

 話がちょっと広がり過ぎましたが、要するに女性が先に愛情表現をすることがなぜいけないのかという問題を、人間を含めた生き物全体の行動形態から考えてみたいのです。その際に最適と言える教材があります。それはNHKで長年放送されている「ダーウィンが来た!」という番組です。毎回の放送では特定の生き物に焦点をあてて、その生態を様々な観点から考察するという形で進行していきます。

 ただ見ているだけでも、とてもためになる番組ですが、そのなかで取り扱われている重要なテーマがあります。それは「恋の季節」という表現のもとで、オスとメスが結ばれ、子どもを生むというものです。その形態は生き物によって様々ですが、そこには共通する点があるように思われます。それは、オスの方からメスに積極的にアピールし、メスはアピールしてきたオスたちを十分吟味して、パートナーを選ぶという点です。子どもを生むのはメスなのですから、オスは自らの子孫を残すため、メスから選ばれるのに必死になりますが、メスもまた、厳しい環境を生き抜いていけるような強い子どもを生むため、それにふさわしいオスを必死に選ぼうとするのです。

 生き物の世界ではオスが求婚し、メスがそれを受け入れるかどうか決めるのであって、要するに両者が結ばれるかどうかの最終的な決定権をメスが握っているということが分かるのです。人間の場合、そう単純ではないかもしれませんが、それでも、女性から男性にプロポーズすることを、俗に「逆プロポーズ」と言う場合があります。それは、そういうことは本来、男性の方からすべきなのであるという発想が前提になっているからでしょう。

 人間を含めた生き物におけるオスとメスのこのような結びつきを、古代の日本人も当然知っていたことでしょう。具象的に発想する人たちは、オスがメスに愛情表現をし、それをメスが受けいれるかどうか決めるという、生き物の本来的な在り方によって両性は結ばれ、その結果、新たな生命が誕生する、と考えていたのでしょう。したがって、女性が先に愛情表現をして、結婚の最終的な決定権を男性に委ねてしまうことは、その本来的な在り方に反するものとなり、その結果として、新たな生命の誕生である国生みに失敗してしまったのではないでしょうか。このように考えるならば、古事記神話の実際の記述にはそぐわないような男尊女卑的な発想に与する必要はないと思われるのです。

 なお、このエッセイを記すにあたって、お断りしておきたい点が二つあります。一つは、同様に女性が先に愛情表現をしたことを問題視する『日本書紀』の神話については、このエッセイで話したことが通用しないかもしれないということ、つまり、『日本書紀』の神話では男尊女卑的な発想からそういう話が出ている可能性があり、別に検討が必要になるということです。そして、もう一つは、現代において性の区別はデリケートな問題になっており、「男らしく」とか「女らしく」ということは不用意には言えなくなっているということです。当然、愛情表現が男性から女性になされるべきであるという言説自体、かなり危ないものと言えるでしょう。このエッセイではあくまでも、古事記神話という古代の日本人の感性に基づいて生み出されたものについて思うところを述べたのです。