2018年9月24日月曜日

VR 時代の友情論(小林信行先生)

平成30年度第8回目の「教員記事」をお届けします。哲学の小林信行先生です。科学の進歩により、SNSやVRの技術が発達し、それに伴い、それらの技術を日々利用する人間どうしの関係にも変化が見られる現代の「友情」について、古代の哲学者プラトンの友情論を手がかりに興味深く考察されています。



VR 時代の友情論

     小林信行(哲学

 似たもの同士が友となるのか、正反対の性格のもの同士が友となるのかという古典的な問いがある。前者は比較的理解しやすい主張であり、現実の友人関係を見てみても分かるように、どんなに個性的な人たちの関係のようであってもやはりどこか似たもの同士という印象を受けてしまうことが多い。そうすると後者の主張はきわめて特殊なものなのだろうか。とは言え、よく考えてみると、まったく似ていないもの同士の方が互いに欠けたものを補い合うようにして強い友情関係をもつことも多く、むしろ似たもの同士の場合は相手のあり方が少しでも変わってしまって自分から離れたりすると(あるいは自分が思っているような友人像からずれてしまうと)憎みさえするような一時的で表面的な関係ではないかと言いたくなるときもある。

 このように両論の可能性に気づいて最初の問いに答えられなくなるとき、ひとは友情関係には両方のタイプが混在しているだけだと納得してしまいがちである。だが、安易な納得は探究心の芽を摘んでしまう。最初の問いの前提となる <友情とは何であるか> というもっと重要な問いを忘れさせてしまうからである。そしてたとえば LINE でやりとりしている人は本当に友と呼べるのだろうか、FB 上で知り合っているだけの人を信じて結婚にいたることは軽率すぎるのだろうか、といった今風の問いにぶつかったときに改めて頭を悩ませているとしたら、「ボーッと生きているだけ」という誹りをあえて受けざるをえなくなるのでないか。人間は生きていく上でさまざまな問題に遭遇し、それに対してさまざまな見解や信念を形成している。それはただの思い込みに過ぎないものであったとして、本人としてはそれが脆いものであることにあまり目を向けたがらない。しかも友情や愛情という重要な人間関係について安直な信念でお茶を濁しているだけでは、失うものの大きさに気づく機会も見逃してしまう。



 さて友情や愛情の重要性・必要性などは個人的なことであり、人それぞれの問題だと見限る人もいるだろうが、それもやはり狭隘な世間知の一つではないだろうか。たしかにそれらが個人的事情に大きく依存することは否定できないにしても、そこにどのような人間関係が成立しているかに目を向ける学問は存在し、それなりの成果もあげて世間知の蒙昧に光を当てている。たとえばプラトンは人間を善き人と悪しき人に分けてしまい、そこに善き人同士、悪しき人同士、善き人と悪しき人の三組の人間関係を考える。そして友情関係がどの組で成立するかと問う。そのようなまったく形式的な分類と組み合わせに対する抵抗感は別にしても、大抵の答えは、そんなこと一概には答えられない、どの組み合わせもありだ、というものだろうか。どんな人間関係にもさまざまな個人的事情があると考えられるからだ。しかしプラトンは、善き者と悪しき者、そして悪しき者同士、の間では友情関係はありえないのではないかとたたみかける。前者は相反するもの同士でありそこには友好よりも敵対関係があるし、後者は悪しき者同士であるが故に親しむよりも相手を憎み傷つけるのではないか、というのである。そして善き者同士にこそ友情は可能となるのではないかという議論を展開する。あまりに建前ばかりの議論で簡単について行けるものはでないが、LINE や FB 上での友情関係を議論する場合の倫理的側面に言及しているという点では重要である。というのも、ひとは人間的な善さという点で友情関係を結ぶのではないかという示唆を与えているからである。実際に会ったこともないような人にネット上だけで友情や恋心を抱くとしたら、それは相手の善さを見出すからであり、単に気が合うというだけではないのかも知れない。もちろんそれはただの幻想ということもあるだろう。とくに一方通行的な想いはストーカーと紙一重でありうる。しかし逆に、だからこそ友情や愛情は人間として社会的に生きるための貴重な入り口を提供してくれていると考えられるとも言える。閉ざされた空間の中でモニターとにらめっこしている孤独な魂も、他者に善さを認めることで自らの閉塞状況から脱して他者と関わりをもってゆく機会を手に入れることもありうるかもしれない。

□小林先生のブログ記事

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