「教員記事」をお届けします。第七回は中世哲学の小笠原史樹講師です。
真昼の悪魔
真昼のことである。
酷く蒸し暑い。研究室の中、窓とドアを開け放ってはいるものの、風が吹いてくれるわけでもない。仕事机の横では小さな卓上扇風機が騒音を発しつつ、生暖かい空気をひたすらかき回している。
文化学科ブログ用の原稿を書かなければ。しかし、何も思いつかない。
目の前のパソコン画面には、白紙の文書ファイルが映し出され続けている。身体が重く、眠い。何度も時計に目をやるが、針が完全に止まってしまっているように見える。夜までの時間が、まるで50時間も残っているかのように感じられる。
もうダメだ。気分転換に部屋を出て、散歩でもしよう。クーラーの効いた図書館で本でも眺めるか、古い映画のDVDでも観るか、或いは昼寝でも……。
不意に、気づく。
いくら何でも尋常な倦怠感ではない。誰かの仕業――何かの仕業に違いない。
慌てて室内を見渡す。
見れば、部屋の中央、来客用の黒いソファにアケディアが腰かけている。四世紀エジプトの砂漠で名を馳せた、怠惰の悪魔である。一応は人間らしき姿をしているが、定まらない。老人のようでもあれば少年のようでもあり、少女のようでもあれば老婆のようでもある。
彼――と呼んでおこう――は僕の視線に気づくとニコリと微笑み、ああ、どうぞおかまいなく、と言って頷いてみせた。
両手を高く上に伸ばし、大きなあくびをして、しかしまあ、と続ける。
しかしまあ、この暑いときに熱いお茶を飲むというのも、それはそれで一興でしょうなあ。
そう言ってアケディアはゴロリと寝転がり、狭いソファ上で器用に身体を丸め、僕を見上げてフフフと笑う。
僕は慌てて立ち上がり、部屋の片隅に置かれた電気ケトルの埃を払った。ドア近くの洗面台で水を汲み始めた僕に、背後からアケディアが、おかまいなく、おかまいなく、と声をかけてくる。
インスタント・コーヒーしかありませんよ?
致し方ないことです。
コーヒーの入ったマグカップを彼に差し出すと、アケディアはゆっくりと身を起してカップを受けとり、一口飲んでフウと息を吐いた。
ソファの傍に椅子を引いて座り、自分のカップにお湯を注ぎながら僕は、それを飲んだら帰って下さいね、と嘆息する。
帰る? どうしてまた?
原稿を書かなきゃいけないんです。
アケディアはわざとらしく顔を歪めて、おやめなさい、おやめなさい、と首を振った。
でも、締切が……。
締切が何です。そんなものが何です。
いや、締切は守らなきゃいけないので……。
さっきからその、なきゃいけない、がいけません。そんなものは今すぐ捨てておしまいなさい。
僕が、そういうわけにもいきませんよ、と呻くと彼はハハハと笑い、まあ、のんびりいきましょうと言って、さも美味しそうにコーヒーをすすった。
暑さで朦朧とした頭で僕も、まあ、のんびりいこう、と椅子に深く腰かけ直す。
昔は、真昼の悪魔、と呼ばれていたとか。
おお、懐かしいことを。
旧約聖書の『詩編』では次のように歌われている。
神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から
神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる
神のまことは大盾、小盾
夜、脅かすものをも/昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない
暗黒の中を行く疫病も/真昼に襲う病魔も(『詩編』91編3-6節、新共同訳)
あれはもう、三千年も前のことになりますかな。いやあ、月日の経つのは……。
その後は砂漠で、随分と修行者たちをいじめられた、とか。
いじめるだなんて、そんな。
アケディアは不満げに頬を膨らませて、私はそんな悪いことなんて何もしちゃあいませんと言い、悪いことなんて、悪いことなんて、と繰り返す。
そもそも悪魔だとか、死に値する罪だとか、頭となる罪だとか、呼ばれる筋合いはないのです。
だって現に今、僕の邪魔を……。
邪魔? 邪魔なんかしちゃあいません。
私はただ、とアケディアは一際大きく微笑み、何かをしなきゃいけないとか、こうでなきゃいけないとか、そういうことは止めにしましょう、と。
で、のんびりいきましょう、と。
のんびりですか。
コーヒーを一口飲み、僕もフウと息を吐いてみる。
……たまには、いいものですね。
たまにでなくとも、いいものです。
椅子の背もたれに深く身をあずけ、気だるく天井を眺めながら、でも、休んでばかりもいられませんよと言う僕に、アケディアが首を傾げて、どうしてまた、どうしてまた、と尋ねる。
だって、限られた人生ですから……。
ああ、そうやって……そうやって皆。
と、彼は突然コップを置き、静かに立ち上がった。
そうやって私を追い払おうとするんだから。
アケディアは悲しそうに僕を睨み、唇をとがらせて右手の拳を振り上げ、しかしすぐに手を下ろし、クルリと身を翻してドアへ向かう。
あれ? 帰るんですか?
そりゃあ、死の話をされたらねえ。
さらに口の中でブツブツと、だって死を想い出されちゃったら、時間を間延びさせることができなくなりますからねえ、反則ですよねえと呟く彼の背中に、でも僕は、と声をかける。
でも僕は、あなたのこと、本当は嫌いじゃないんですよ。
ちょうどドアを開けたばかりのアケディアは、そこで一旦動きを止め、肩ごしに振り返って、私はね、と言う。
私はね、回転寿司屋さんで売っているような、紙パックの安いお茶が好きです。
そしてフフフと笑い、まあ、夏は長いですからね、と言い残して部屋を出ていく。
後を追って廊下に飛び出してみたが、もう彼の姿はどこにもなかった。
肩を落として研究室に引き返すと、いくらか風が出てきたようで、窓から涼しい空気が入りこんでくる。
僕は仕事机に戻り、弛緩した視線で外を眺めた。
……ああ、そうだ。ここから歩いて二十分くらいの場所に、確か回転寿司屋がなかっただろうか。それとも、どこかの大きなスーパーへ? あれこれ考えているうちに、さっきまでの重苦しさが消散していく。
やがて僕はパソコンの画面に向かい、少しの間だけ目を閉じ、それからキーボードを叩き始めた。
「真昼のことである。
酷く蒸し暑い。研究室の中、窓とドアを開け放ってはいるものの、風が吹いてくれるわけでもない。……」
参考文献:
ウェンディ・ワッサースタイン『怠惰を手に入れる方法』(屋代通子訳)、築地書館、2009年。
小笠原史樹「アケディア試論」、『福岡大学人文論叢』第46-1号所収、2014年、23-55頁。
0 件のコメント:
コメントを投稿