2017年10月1日日曜日

主語と述語(小林信行先生)

 平成29年度第10回目の「教員記事」をお届けします。哲学の小林信行先生です。今回は、主語と述語をテーマとして、日本語、外国語を問わず難しくてわからない文章があるとき、主語となるものと述語となるものを明らかにすることで理解に近づけること、それどころか自分の生きている世界までも見えてくることをお話しいただいています。



主語と述語
   
     小林信行(哲学

 古典ギリシア語テキストの例題に「知識は魂の食べ物」という文がある。私はこれを「ことばはこころの養い」と解釈したい。ことばはわれわれの日常的な体験に勝るとも劣らない貴重な情報源である。子供の頃には理解できなかったことばが理解できるようになったとき、われわれはおとなのこころをもつようになる、つまりおとなになるわけだ。それが具体的にどのようなことなのかをここで少し特殊な形で説明し、ついでに語学(単に外国語ばかりではなく自分が幼少期から用いている言語もふくめて)の勧めをしてみたい。

 日本語であれ外国語であれ、相手が何を言っているのか理解できない、書かれていることが難しくて分からない、という経験は誰しももつのだが、何故それが難しいのか、理解できないのか、という問題に取り組むことは面倒なもので、つい敬遠しがちとなる。ましてや国語辞書や外国語辞書を引いても分からないとなると大抵のひとは音を上げてしまって他人に頼るか、最悪の場合はその努力すら放棄してしまうものだ。その状況を、ここではそのひとが物事を理解する自分流のフォーマットの限界に直面しているケースとして考えたい。簡単に言えば、それまではなんとなくやってこれたのに、そのやり方が通用しない状況に陥っていると考えてみたい。

Types
 そのときひとの直面する壁は困難の塊である。それを塊であるというのは、まだ分節化されていないという意味である。漠然とした塊に圧倒されて、それがどのような組成をもっているかに思いが及ばないのである。そのようなときまずはアリストテレスが『カテゴリー論』という論理学(そして合理性)の出発点となる書物の中で示してくれるヒントに従ってみることをすすめたい。問題となる塊(いまはなんらかの文章としておく)の主人公(その文の主題となるもの、つまり主語となるもの)とその記述(主語を説明するもの、つまり述語となるもの)を確認すること、これが問題の塊を分節化するための基本的フォーマットである。もしこのフォーマットがなければ、たとえばどこかに山があっても、それが美しいとか高いということさえわれわれには分からない。ただ自分がどこかへ行こうとするときにいつも行く手を阻むような抵抗勢力としてとどまるだけだろう。その山が高いのであれば克服もしよう、その山が美しいであれば愛しもしよう。そのときその山はわれわれの世界の中に入ってきているのだから。

 何語であれ、このように主語となるものと述語となるものを明らかにするだけでもずいぶん風通しがよくなるものだ。それどころか自分の生きている世界までも見えてくる。それほど主語と述語という考え方は重要であり、あとはほとんどその仕組みの組み立て方と周辺部の飾りなのだ。しかしこの基本フォーマットは習得・訓練の対象であり、簡単なのように見えて根気強い慣れが必要なのだ。というのも、主語と述語くらい簡単に分かると思えるが意外とその組み合わせがうまく理解できないことが多いからだ。人間はおとなになるにつれてその組み合わせ方に訓練を積んでいくものだ。基本的なフォーマットの中で多種多様な組み合わせがこの世界を作っていることをおとななら知っている。そしておとなはそれを食べてこころの養いとしている。単に語彙の豊富さだけがおとなのしるしではない。


□小林先生のブログ記事

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