2018年8月31日金曜日

国生みの失敗について思うこと(岸根敏幸先生)

 平成30年度第6回目の「教員記事」をお届けします。宗教学の岸根敏幸先生です。ご専門の一つである「古事記神話」における「国生みの失敗」の理由を、生物学的な知見を踏まえた上で、大変興味深く分析されています。



国生みの失敗について思うこと

   
     岸根敏幸(宗教学

 『古事記』に記されている神話(以下では「古事記神話」)には、イザナキとイザナミが結婚して、子どもという形で国を生もうとするものの、手順を誤ったために、失敗に終わってしまったという話が出てきます。その手順の誤りとは、「あなにやし、えをとこを」(ああ、なんと素敵な男性であることよ)と、女性の方が先に愛情表現をしてしまったというものです。

 大半の解説書がこのことを男尊女卑的な発想に基づいているという説明で片づけてしまうのですが、私はそのような説明に対して違和感をもっていて、古事記神話の記述で、なぜ女性が先に愛情表現をすることがいけないとされているのか、ずっと気になっていました。そして、男尊女卑的な発想とは違う、古事記神話独特の発想というものがあると思うようになったのです。

 それについては、古事記神話を扱っている「アジアの思想Ⅰ」の授業でも何度か話していますし、発表した論文(「古事記神話と言霊信仰(後編) ― 他者に幸禍をもたらす発言、および、「言挙げ」 ―」『福岡大学人文論叢』第49巻・第3号、平成29年12月)でも、論題とは直接関係しないものの、注記で多少言及したことがありますが、教員記事という場を利用して、改めて述べたいと思います。

 私が違和感をもった理由の一つは、男尊女卑的な発想が古事記神話の実際の記述にそぐわないと思うからです。古事記神話全体を眺めてみますと、活躍したり、印象に強く残ったりする女神がたくさん登場しています。人草を呪い、黄泉の国の主になったイザナミ、荒ぶるスサノヲに立ち向かって、その結果、天の石屋に籠るが、最終的には八百万の神を従えて、高天原の統治者として君臨するアマテラス、天の石屋からアマテラスを連れ出すために踊りを披露したり、サルタビコの正体を明らかにしたりしたアマノウズメ、オホナムヂを助けて、一人前の男性に仕立て上げたスセリビメ、自らの潔白を示そうとして決死の出産に臨んだコノハナノサクヤビメなどです。古事記神話で描かれる女神たちは、男尊女卑的な発想とはおよそ懸け離れた力強い存在と言えるのです。

 なお、『古事記』の編者である太安万侶に、記憶している伝承を語り聞かせた稗田阿礼という人物が実は女性であったのではないかという可能性が指摘されています(西郷信綱著『古事記研究』など)。古事記神話でアマノウズメの活躍が顕著な形で描かれているのも、稗田阿礼が、アマノウズメを祖とし、代々、祭祀のために女性を巫女として宮中に送り続けてきた猿女君(さるめのきみ)という氏族の出身であったからではないかと言われているのです。

 さらに別の理由も挙げられます。古事記神話に見られる発想の仕方は、実際の経験に基づいた具象的なものであると思うのです。たとえば、国、海、川、木、山などといった私たちを取り巻く世界の生成についても、特別な発想というものは見られません。人間を含めた大半の生き物において、オスとメスが結ばれることで子どもが生まれるという実際の経験に基づき、世界の生成も一対の男女神の結婚と結びつけて捉えているのです。また、死に関わる世界である黄泉の国も、私たちの住む世界と別次元な世界というわけではなく、亡くなった人を葬った墓地(あるいは、それ以前におこなうモガリの場)という実際の場所を引きずっていて、黄泉の国は実はこの地上世界に存在するものと考えられているのです。これらの例に示されているように、古事記神話に見られる発想の仕方は具象的なものであると言ってよいのです。

 それに対して、男尊女卑という発想は決して実際の経験から自然に出てくるものとは思われません。子どもが日常で最も接する親は大抵、母親であり、その存在はあまりにも大きいでしょう。また、兄弟姉妹がいれば、小さい時から、男女の違いを意識することなく、深く接することになるでしょう。そのような生活の中から男尊女卑的な発想が出てくるとは考えにくいです。そういう発想は、実際の経験から距離を置いたところで、何らかの観念的な思考から出てくるもののように思われるからです。

 これらの理由から、女性が先に愛情表現をすることがなぜいけないのかという問題を、男尊女卑的な発想と結びつけて理解することに違和感をもっているのですが、それでは、古事記神話に見られる発想の仕方を具象的なものであると捉えた上で、この問題をどう考えたらよいのでしょうか。

 それに関連して、以前お世話になった先生の言葉が思い返されます。それは、人間を理解するには、人間以外の生き物について理解する必要があるというものです。私たちは「人間とは何か」という問いをよく立てようとしますが、その問いを立てる際に、人間のおこなっていることの大半が他の生き物でもおこなわれていて、私たちが思っているほど、人間と他の生き物との間に違いがあるわけではないということを十分に考慮しているでしょうか。人間がもっているとされる理性に過度な期待をいだくことは、実際から懸け離れた空虚な人間像を追い求めることになりはしないでしょうか。

 話がちょっと広がり過ぎましたが、要するに女性が先に愛情表現をすることがなぜいけないのかという問題を、人間を含めた生き物全体の行動形態から考えてみたいのです。その際に最適と言える教材があります。それはNHKで長年放送されている「ダーウィンが来た!」という番組です。毎回の放送では特定の生き物に焦点をあてて、その生態を様々な観点から考察するという形で進行していきます。

 ただ見ているだけでも、とてもためになる番組ですが、そのなかで取り扱われている重要なテーマがあります。それは「恋の季節」という表現のもとで、オスとメスが結ばれ、子どもを生むというものです。その形態は生き物によって様々ですが、そこには共通する点があるように思われます。それは、オスの方からメスに積極的にアピールし、メスはアピールしてきたオスたちを十分吟味して、パートナーを選ぶという点です。子どもを生むのはメスなのですから、オスは自らの子孫を残すため、メスから選ばれるのに必死になりますが、メスもまた、厳しい環境を生き抜いていけるような強い子どもを生むため、それにふさわしいオスを必死に選ぼうとするのです。

 生き物の世界ではオスが求婚し、メスがそれを受け入れるかどうか決めるのであって、要するに両者が結ばれるかどうかの最終的な決定権をメスが握っているということが分かるのです。人間の場合、そう単純ではないかもしれませんが、それでも、女性から男性にプロポーズすることを、俗に「逆プロポーズ」と言う場合があります。それは、そういうことは本来、男性の方からすべきなのであるという発想が前提になっているからでしょう。

 人間を含めた生き物におけるオスとメスのこのような結びつきを、古代の日本人も当然知っていたことでしょう。具象的に発想する人たちは、オスがメスに愛情表現をし、それをメスが受けいれるかどうか決めるという、生き物の本来的な在り方によって両性は結ばれ、その結果、新たな生命が誕生する、と考えていたのでしょう。したがって、女性が先に愛情表現をして、結婚の最終的な決定権を男性に委ねてしまうことは、その本来的な在り方に反するものとなり、その結果として、新たな生命の誕生である国生みに失敗してしまったのではないでしょうか。このように考えるならば、古事記神話の実際の記述にはそぐわないような男尊女卑的な発想に与する必要はないと思われるのです。

 なお、このエッセイを記すにあたって、お断りしておきたい点が二つあります。一つは、同様に女性が先に愛情表現をしたことを問題視する『日本書紀』の神話については、このエッセイで話したことが通用しないかもしれないということ、つまり、『日本書紀』の神話では男尊女卑的な発想からそういう話が出ている可能性があり、別に検討が必要になるということです。そして、もう一つは、現代において性の区別はデリケートな問題になっており、「男らしく」とか「女らしく」ということは不用意には言えなくなっているということです。当然、愛情表現が男性から女性になされるべきであるという言説自体、かなり危ないものと言えるでしょう。このエッセイではあくまでも、古事記神話という古代の日本人の感性に基づいて生み出されたものについて思うところを述べたのです。

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