「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、文化人類学・民俗学の中村亮先生です。
タンザニアのキルワ島という小島で足掛け20年間、文化人類学のフィールドワークをしている。その間にいろいろな経験をした。嬉しかったり、腹が立ったり、怖かったりなど。マラリアで死にかけたこともあったが、今ではどれも「思い出」である。しかし一つだけ、いまだにきちんと消化できない、とても不思議な出来事があった。それについて書こうと思う。
キルワ島は、人口1000人弱の小さな海村であるが、中世のインド洋交易時代には、東アフリカ沿岸部を支配した海洋イスラーム王国という輝かしい歴史をもつ。キルワ王国の王宮やモスクなどの石造建築物がたくさん残されており、それらはユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている。現在の島の生活は、マングローブとサンゴ礁の海を舞台に、半漁半農で営まれている。慎ましやかなイスラーム海村である。
そんなキルワ島で、人びとの信仰(精霊、祖霊、呪術など)について調べていた2003年頃のことである。島にある偉大な祖先(王族やイスラーム聖者など)の墓が、祖霊をつうじてアッラー(神)に願いを届ける「祈願所」であることを知った。さっそく、島の友人のMと、祈願所の調査にでかけた。Mは、五か所の祈願所の場所を知っていた。
写真1.キルワ王族の墓地、祈願所の一つでもある |
しかしその時、私は知らなかったのだが、祈願所には厳しい「ルール」があったのだ。例えば、訪問してよい曜日や、立ち入る際の呪文や服装、祈願する時の供物などのルールは、祈願所ごとにきちんと決まっている。村人といえども、気軽に足を踏み入れてよい場所ではないのである。そんなことを知らなかった私は、Mをせかして、五か所の祈願所を訪問し、墓の実測をしたり写真を撮ったりしてしまった。するとその夜、Mの家に「ワンガ」がやってきて、夜通し騒ぎたてたという。
ワンガとは、お化けとか妖怪といったものではなく、れっきとした人間(村人)である。噂では主に島の老人であるらしい。夜中に裸で村を徘徊し、ときおり集団で、人家の前で笛や太鼓で騒ぎたてて、家人を眠らせずに疲れさせるという、なんとも奇妙な存在だ。そんなワンガが、なぜMの家にやってきたかというと、それは、ルールを守らずに祈願所を訪問したからである(私の責任なのだが)。「村のルールを破ったから、ワンガが警告しにきたのに違ない」とMは言った。
その話に半信半疑であったが、すぐに祈願所のルールについて調べ、以降の調査では、きちんと訪問日を守ることにした。しかしある日、調査からの帰り道に、Mが「この近くに、タンザニア初代大統領のニエレレが祈願したシェヘ・ンデンボ墓地がある」と言った。そんな話を聞くと、すぐにでも行ってみたくなるのが文化人類学徒の性(さが)である。訪問可能な日でもないのに、「ちょっとくらい良いだろう」とシェヘ・ンデンボ墓地に立ち寄ってしまった。そしてその夜に、不思議な出来事がおきたのである。
いつものように、島の居候先で寝ていた。すると何かの音に目を覚ました。猫の鳴声である。どうやら私の部屋のすぐ近くで鳴いているようだ。時計を見ると夜中の2時過ぎ。「うるさいなぁ、発情期か?」と、とくに気にするでもなくもう一度寝ようとした。猫はニャーニャー鳴いている。すると別の方向からもう一匹が鳴きだした。さらにもう一匹、もう一匹と数が増えてゆく。猫が五匹くらいに増えたところで、「これはただ事ではない」と気づき完全に目を覚ました。
そもそも普段この島で、そんなに猫を見かけることはない。島中探せば五匹くらいの猫はいるだろうが、それが今日にかぎって、私の部屋の外に集まってニャーニャー鳴きたてるのはおかしい。これはワンガに違いない。ルールを破ってシェヘ・ンデンボ墓地に行ったのがばれたのだろう。しかし、猫の可能性も捨てきれない。カーテンをめくって確かめればいいのだが、どうしてもそれができない。もしも、暗闇で、裸の老人たちがニャーニャー鳴いていたとしたら...恐怖である!
写真2.キルワ島の居候先 |
「ワンガが人に危害を加えるという話は聞いたことがない。ただ夜中に騒ぐだけだ。猫バージョンのワンガの話も聞いたことがない。きっと本物の猫が発情して鳴いているだけだ。」そう自分に言い聞かせて寝てしまおうとするが、「やっぱりワンガかなぁ」「なんでばれたのかなぁ」「本当にワンガなら見てみたいなぁ、でも怖いなぁ」などと考えがめぐってしまう。しばらくの間、ベッドの上で悶々としていたが、いつの間にか眠ってしまった。
朝になって目が覚めた。猫の鳴声はやんでいる。部屋を出ると、居候先の主人が居間でお茶を飲んでいた。すぐに「夜に、猫の鳴声がうるさくなかった?」と聞いた。「全然気が付かなかった」と主人は言う。そこで、昨日シェヘ・ンデンボ墓地に行ったこと、夜に猫の鳴声で眠れなかったことなどを話した。すると主人は「ああ、それはワンガのしわざだな」とこともなげに言った。友人のMは、「リョウ(私)のところにもワンガがきたか。これでリョウも村人の一員だな!」と冗談交じりに言った。
キルワ島での調査3年目にして「村人の一員」と評価されたことは嬉しかったが、それが「悪さをして怒られた結果」というのはなんとも情けない話である。主人やMの言葉を信じる反面、いまだに、鳴声の正体は猫だったのではないか、という消化不良な思いである。しかしいずれにせよ、あの夜の出来事は、思い出すたびに、「自分の振る舞いは誰かに見られている」「村のルールを尊重しなければいけない」というフィールドワーカーとしての基本的な心構えを再確認させてくれる、不思議で貴重な体験であった(と納得しようとしている)。ちなみに、夜中に猫が鳴いたのは、あとにもさきにもあの日一度きりである。
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