2021年7月21日水曜日

西洋文学に見る誕生への呪詛と慨嘆

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学・宗教学の小笠原史樹先生です。


今年度、前期の共通教育科目「宗教学A」では、「悪魔と近現代の神話」というサブタイトルで、悪魔に関わる西洋近現代の文学作品を扱っている。相変わらずの自転車操業で授業準備を進めながら、16世紀のクリストファー・マーロー『フォースタス博士』から始めて、この記事を書いている今週(7月13日現在)は、ようやく19世紀後半、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』まで辿りついて、何とか終わりが見えてきた。

ところで、授業の準備をしていると、様々な作品の中に繰り返し「生まれてこなければよかった」という慨嘆が見られて、その度に軽い驚きを覚える。ありふれた表現ではあるのだろうし、大して驚くべきことではないのかもしれないが、それにしても多い。このような誕生への呪詛や慨嘆と、悪魔との間に何か関係があるのだろうか、と考えてみたくなる程に多く、とはいえ、特に関係なさそうな気もする。

例えば、マーロー『フォースタス博士』の結末、悪魔メフィストフィリスとの契約に従って、いよいよ地獄に堕ちる瞬間が迫っているときの、フォースタス博士の言葉。「おれをこの世に生み出した親たちに呪いあれ!/いや、フォースタス、自分を呪い、ルーシファーを呪え、/お前から天国の喜びを奪い去ったやつらだから。」(小田島雄志訳、255頁)

次に、ジョン・ミルトン『失楽園』から、神の命令に違反して罰を宣告された後の、アダムの独白。「おお、創造主よ、土塊から人間に造っていただきたいと、私が/あなたに頼んだことがあったでしょうか? 暗闇の世界から私を/導き出していただきたい、この楽しい園に住まわせて/いただきたいと、懇願したことが果してあったでしょうか?」(平井正穂訳、196頁)

「作者が未だ10代の頃に書き始めた作品で、1818年に出版され、上記、アダムの言葉の前半部分をエピグラフに掲げている小説は何か?」という問題は、クイズとして少し面白い。正解は、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』。フランケンシュタイン博士の造り出した怪物が博士の日記を読み、自分の造られ方などを知ったときの言葉。「命を受けた日よ、呪いあれ(Hateful day when I received life!)」「呪われし創造主よ! おまえすらも嫌悪に目を背けるようなひどい怪物を、なぜつくりあげたのだ?」(小林章夫訳、233-234頁)

続けて、ゲーテ『ファウスト』から、ファウスト博士(=フォースタス博士)に対する、悪魔メフィストフェレス(=メフィストフィリス)の言葉。「私は常に否定する霊です。/それも道理に叶っておりましょう、なぜなら、生れるということは、/消え失せるということなのですからね。/だから、何も生れてこない方がいいわけでしょう。」(第一部、高橋義孝訳、87頁)

ちなみに、ゲーテ『ファウスト』の冒頭、神とメフィストが対話する場面は、旧約聖書の『ヨブ記』1章と2章で、神とサタンが対話する場面に対応している。西洋文学から離れてしまうが、『ヨブ記』3章、財産も子供も失い、自分自身も重い病気にかかってしまったヨブの言葉。「私の生まれた日は消えうせよ。/男の子を身ごもったと告げられた夜も。/その日は闇となれ。/高みにおられる神が顧みず/光もその日を照らすな。」(聖書協会共同訳、3章3-4節)

聖書から、さらに二箇所。旧約聖書の『コヘレトの言葉』4章。「今なお生きている人たちよりも、すでに死んだ人たちを私はたたえる。いや、その両者よりも幸せなのは、まだ生まれていない人たちである。彼らは太陽の下で行われる悪事を見ないで済むのだから。」(4章2-3節)新約聖書の『マルコ福音書』から、イエスを裏切るイスカリオテのユダに関する、イエスの言葉。「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」(14章21節)なお、『ルカ福音書』22章3節などには、ユダの中にサタンが入った、という記述が見られる。

西洋文学に戻って、最後に、ジョージ・ゴードン・バイロン『カイン』から二箇所。まず、ルシファー(=ルーシファー)と会って話しているときの、カインの言葉。「ああ、いっそ私が初めから/ただ塵であったら!」(島田謹二訳、37頁)もう一箇所、ルシファーに連れられて、ハデス(死の国)に赴いたときのカインの言葉。「「死」に終る/生命を造り出したものよ、呪われてあれ!」(80頁)

単に並べて眺めているだけでも、ここから何か、さらに語れること、語るべきことがあるように思われて、しかし逆に、並べる以上のことはあまりできないのではないか、とも予感される。あえて何か指摘する、とすれば、誕生への呪詛や慨嘆は、必ずしも同じもの、同じ事柄に向けられているわけではない、という程度のことは言えるだろう。

フォースタス博士は、もし「天国の喜び」が奪われなければ、自分の誕生を呪わなかっただろうし、アダムも罪を犯す前、エデンでの幸福を享受していたときには、上記のような言葉を発しなかった。ヨブも、子供たちの家での祝宴に参加しているときには決して、「私の生まれた日は消えうせよ」とは言わなかっただろうし、またイエスは、ユダという特定の人物だけについて語っており、あらゆる人間の誕生を否定しているわけではない。

彼らの呪詛や慨嘆は、生きていく上での自分の選択や、自分に降りかかった不幸、あるいは他者の生き方に由来している、と、とりあえず考えられる。呪われ、否定されているのは、いわば「人生の内容」であり、誕生それ自体とは限らない。もし「人生の内容」が異なっていたならば、誕生が肯定されていた可能性は未だ残されており、むしろこのような呪詛や慨嘆は、異なる生き方、異なる人生への切望をこそ示している、とも感じられる。

他方、『ファウスト』のメフィストや、バイロンの描くカインが否定するのは、やがて消え失せるにもかかわらず生まれてくることであり、死で終わる生命である。カインの態度はやや微妙ではあるが、メフィストならば、たとえ幸福な人生だったとしても、それが「過ぎ去る」ことだけを理由に、その人生を全否定するだろう。実際、ファウストが「とまれ、お前はいかにも美しい」と口にして、おそらく幸福を感じつつ死んだのを見ながら、メフィストは「過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じではないか」と言う(第二部、421-422頁参照)。

『コヘレトの言葉』については判断に迷うため保留しておくとして、『フランケンシュタイン』の怪物には、カインと同じような、自分がこのような存在として造られてしまった、ということ自体への呪詛もあれば、自分の人生に確かにあり得たはずの幸福が失われてしまった、という、自分や他者の生き方に由来する絶望、不幸や不運に由来する絶望も見られる。

『フランケンシュタイン』結末での、怪物の言葉。「数年前、世界が与えるものが目前に現れ、夏の心地よい暑さを感じ、木の葉のざわめきや鳥のさえずりを耳にしたとき、それらが自分にとってはすべてと思えた。あの頃だったら、死ぬとなれば泣いただろう。だが今は死が唯一の慰めだ。罪に汚れ、激しい悔恨に苛まれる自分にとって、死以外のどこに慰めがあるというのだ?」(398-399頁)

「死ぬとなれば泣いただろう」と対をなすような、シェイクスピア『リア王』の言葉が想起される。「辛抱せねばならん。人はこの世に泣きながら生まれてきた(we came crying hither)。/なぜ空気を嗅いだとたんに人は喚き泣くのか/知っているか」「人は生まれると、この阿呆の大いなる舞台に出たと知って/泣くのだ。」(河合祥一郎訳、146頁)怪物の絶望が罪深い自分自身に向けられていて、「世界が与えるもの(the images which this world affords)」は否定されていないのに対し、リアの絶望は「阿呆の大いなる舞台」であるこの世界に向けられている。(もちろん、自然描写によって示される「世界」と、「阿呆(fools)」によって特徴づけられる「舞台」としての世界とを直ちに同一視することはできないが、この点には深入りしないでおく。)

今年度の「宗教学A」の授業で『リア王』は扱っていないが、三人の魔女が登場する『マクベス』は取り上げた。夫人の死を告げられたときの、マクベスの有名な言葉。「消えろ、消えろ、束の間の灯火!/人生は歩く影法師。哀れな役者だ、/出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、/そのあとは、ぱったり沙汰止み、音もない。」(河合祥一郎訳、140頁)

「舞台(stage)」や「哀れな役者(a poor player)」という表現を借りるならば、誕生への呪詛や慨嘆は、舞台の上で「哀れな役者」が上演中に言う「舞台に上がらなければよかった」という言葉のようなものとして理解できる。この言葉は、今日の自分の演技に関する後悔や自責でもあり得るだろうし、他の役者やスタッフへの抗議でもあり得るだろうし、配役や脚本、演出、舞台のセットや照明・音響への不満、時には観客への非難でもあり得るだろう。

このような「比喩」を手掛かりに、「生まれてこなければよかった」という慨嘆が何に向けられているのか、という点について細かく分析することもできるかもしれず、すでに現代哲学などの分野でそのような分析は行われているのだろうが、しかし今更ながら、慨嘆の言葉を論理的に分析することが適切なのか、とも疑われる。

呪詛や慨嘆の言葉について、その論理を捉えようとするのではなく、それらの言葉を、例えば「ああ!」という感嘆詞として受けとり、それ以上の論理的な分析は避ける、という態度もあり得る。何か考えるべきことがあるとしても、「生まれてこなければよかった」という言葉に関して考えるべきことが、その言葉の内にあるとは限らない。


参考文献(引用順):
クリストファー・マーロー「フォースタス博士」、小田島雄志訳、『エリザベス朝演劇集Ⅰ』所収、白水社、1995年
ミルトン『失楽園(下)』、平井正穂訳、岩波文庫、1981年
シェリー『フランケンシュタイン』、小林章夫訳、光文社古典新訳文庫、2010年
ゲーテ『ファウスト(一)』、高橋義孝訳、新潮文庫、1967年
『聖書』、聖書協会共同訳、日本聖書協会、2018年
バイロン『カイン』、島田謹二訳、岩波文庫、1960年
ゲーテ『ファウスト(二)』、高橋義孝訳、新潮文庫、1968年
シェイクスピア『新訳 リア王の悲劇』、河合祥一郎訳、角川文庫、2020年
シェイクスピア『新訳 マクベス』、河合祥一郎訳、角川文庫、2009年

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