2022年9月21日水曜日

日本神話にまつわる小話:ヤマタノヲロチは怪物なのか

  「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、宗教学の岸根 敏幸先生です


日本神話にまつわる小話:ヤマタノヲロチは怪物なのか

岸根 敏幸
 
 ヤマタノヲロチ(八俣遠呂知、八俣遠呂智、八岐大蛇)を知らない日本人はそう多くないでしょう。日本神話に直接触れたことのない人でも、その名前と特異な姿について、ある程度は知っているのです。では、ヤマタノヲロチという存在は何なのでしょうか。「想像上の怪物」という答えがすぐに返ってきそうです。日本神話の記述によれば、ヤマタノヲロチに八つの頭と八つの尾があり、大きさは谷と山を各々八つ分合わせたほどとされています。そんな生物は地球上のどこにも存在していませんし、恐竜が活躍していた時代でも該当するような生物はいなかったでしょう。


 特撮の映画や番組には、このヤマタノヲロチをモデルにしたと思われる怪獣が登場しています。まず思い浮かぶのは、ゴジラシリーズに登場するキングギドラ(各々龍の頭をもつ三つの首、大きな両翼、二つの尾という姿)、「ウルトラマンガイア」に登場するミズノエノリュウ(本体の龍に、各々龍の頭をもつ八つの尾という姿)といったところでしょう。ただし、キングギドラについては、翼があるので、世界各地で想像されている巨龍などの影響があるかもしれません。全長・体重については、キングギドラが100メートル、3万トン、ミズノエノリュウが111メートル、11万トンと設定されていますが、谷と山を各々八つ分合わせたヤマタノヲロチの方がそれらをはるかに凌駕していると言えるでしょう。

 特撮の場合は怪獣の出現ということでよいのですが、ここであえて問題にしたいのは、日本神話に登場するヤマタノヲロチを単に怪物(あるいは、魔物、妖怪と言い換えても構いませんが)として捉えてよいのかという点です。私はこの点を常々疑問に感じていました。はっきり言うならば、ヤマタノヲロチは神以外の何ものでもないと考えているのです。

 日本書紀神話の一つの伝承(第八段の第二の一書)には、スサノヲがヤマタノヲロチに対して、「汝は是、可畏(かしこ)き神なり」と語りかけている記述がありますので、ヤマタノヲロチを神として捉えることは決して荒唐無稽ではないのです。それにもかかわらず、ヤマタノヲロチを神として捉えようとする試みは、私の知るかぎり、ほとんど見当たらないのです。なお、まだ実際に確認したわけではありませんが、宮崎県日南市にヤマタノヲロチを龍神として祭っている神社(祇園神社、創建は大正時代)があるようです。

 新潮社が出している古事記刊本(西宮一民校注)に「神名の釈義」という付録がついています。これは『古事記』に登場する神をすべて網羅し(同一の神で複数の神名をもっている場合、神名ごとに立項しています)、神名の意味やその神に関わる様々な情報を記している、研究上とても有益なものです。

 この「神名の釈義」でヤマタノヲロチがどう扱われているかと言うと、掲載されていないのです。それは「ヤマタノヲロチ」という名称が「神名」とは見なされていないことを端的に表していますが、ヤマタノヲロチにそれ以外の名称はなく、「神名の釈義」で言及されることがないのですから、結局、「ヤマタノヲロチ」と呼ばれている存在が神として捉えられていないことは明らかなのです。

 オホクニヌシに適切な助言をしたヒキガエルは「タニグク」と呼ばれていますが、その名称も同じように掲載されていません。おそらく神ではなく、単なる生物としてのヒキガエルとして捉えられている可能性があります。しかし、このタニグクは神話上の世界に役割を担う形で登場し、神と会話している存在なので、単なる生物とは言い切れないでしょう。

 これに対して、ヤマタノヲロチの場合、一般的に神として捉えられることはありませんし、そうかといって、その特異な姿から、単なる生物としての大蛇というわけでもありません。したがって、神や生物という枠組みから外れてしまった謎の怪物として捉えられているのではないかと推測されるのです。

 しかし、ヤマタノヲロチが神であるかどうかを、現代の私たちの感覚から判断するわけにはいきません。その是非については、あくまでも日本神話の記述に基づいて考える必要があるでしょう。その点で注目されるのは「ヤマタノヲロチ」という名称です。「ヤマタノ」は「八つに分岐した」という意味でよいとして、問題は「ヲロチ」の方です。

 後にヤマタノヲロチの尾から「草那芸之大刀」(草那芸剣、草薙剣)と呼ばれる特別な刀剣が出てきて、ヤマタノヲロチの中心が尾にあったと示されているので、「ヲ」は尾のことであるとわかります。「ロ」については従来、接尾語か助詞かで意見が分かれていますが、「名詞の下につき語調を整え、親愛の意を添える」(『時代別国語大辞典 上代編』)と説明されるような接尾語の用法では、「ヲロ」の説明として、どうもしっくりいきません。山の尾根に作った田を意味する「ヲロタ」(この場合の「ヲ」は峰のことです)という表現もありますので、「ロ」については、「連体助詞『の』と同じ意をあらわす」(『岩波古語辞典』)という説明の方がよさそうです。

 「チ」は霊的な力をもった存在を表す語として知られているものです。日本神話にはノヅチ、カグツチ、タケミカヅチ(「タケ」+「ミ」+「イカヅチ」)、シホツチなどのように、「チ」という語を名称の末尾に伴う神が多く登場しています。これらの存在がすべて神として扱われているのに、「ヲロチ」だけをそれと区別して考えるというのは不自然ではないかと思うのです。

 ただし、この点については、同じように霊的な力をもった存在であっても、人間が理想とする真善美の対極にあるような忌避すべき存在は神とは言えず、怪物として捉えるべきであるという反論が出てくるかもしれません。しかし、そのような反論の是非も、単なる一般論としてではなく、やはり日本神話の記述に基づいて考える必要があるでしょう。

 日本神話にはアマノサグメという神が登場します。アマノサグメは高天原から遣わされたナキメの伝言を意図的に捻じ曲げて、アマノワカヒコを唆(そそのか)した神なのです。いわば、真の対極にある偽に関わる存在と言えるでしょう。また、日本神話にはヤソマガツヒという神が登場します。イザナキが黄泉つ国から持ち帰ったケガレを神として表象したもので、地上の世界で人草を苦しめる様々な災いを引き起こす神なのです。いわば、善の対極にある悪に関わる存在と言えるでしょう。さらに、日本神話では、イザナミの亡骸に八柱のイカヅチがいたと述べています。これは、イザナミの亡骸に雷の神がいたという荒唐無稽な内容を表すものではありません。「イカヅチ」は「雷神」(または「雷公」)と漢字表記されていますが、「イカ」というのは本来、良い意味、悪い意味のどちらにせよ、畏怖の念を起こさせるものを表わしているのです。ここでは、イザナミの亡骸が腐敗し、おぞましい状態になっていることを描写するための神なのです。いわば、美の対極にある醜に関わる存在と言えるでしょう。

 その他にも、アマテラスが天の石屋に籠もったことで世界に太陽の光が届かなくなった時や、スサノヲが哭き続けたことで大量の水が費やされ、地上の世界が干上がった時に、「悪神の声」「万の神の声」に満ちてしまったという記述が古事記神話に見られます。現代の私たちの感覚からすると、そういう存在は神というよりは、魑魅魍魎の類と言ってしまいかねないものですが、あくまでも神として捉えられているのです。

 これらの事例からもわかるように、日本神話に登場する神は、真善美だけでなく、その対極にあるようなものさえも内に含んでいる存在と言えるのです。したがって、同じく「チ」という語を伴う存在であるのに、ヤマタノヲロチだけを神とは異なった怪物として捉えることには無理がありますし、そもそも、日本神話のどこを見ても、怪物などという捉え方はありえないのです。

 ヤマタノヲロチの頭や尾が八つに分岐している形状は、本流から支流へと枝分かれする川を想起させますが、それは普段見られるような、穏やかな川ではないでしょう。古事記神話ではヤマタノヲロチが毎年決まった時期にやって来ると述べられています。このことは日本で台風が到来する時期を念頭に置いている可能性があります。ヤマタノヲロチの形状は、大雨が降ることで川が氾濫し、大量の水が土砂を押し流しながら、ものすごい勢いで様々な方向に突き進んでいく事態を表していると考えられるのです。

 言うまでもなく、人間にとって川は自然の中でも特に深く関わる存在と言えるでしょう。農耕をおこなう段階に達した人間にとって、大地を肥沃にし、農業用水として用いられる川は不可欠だったのです。世界を代表する文明の大半は川を中心に展開しています。また、物資の運搬でも川はなくてはならないものです。日本の場合では、京都や大坂(大阪)の物流を支えてきた淀川や、江戸を当時、人口世界一と推定される大都市へと変貌させた水路の整備などが想起されるでしょう。

 しかし、川は人間に恵みを与えてくれるだけの存在ではありません。その強大な力が災害を引き起こし、人間を苦しめることもあるのです。自然災害を天罰であると述べる人が時々いますが、それには全く同意しかねます。宗教を信仰する立場を措くならば、結局のところ、善悪とは人間が考え出した価値基準に他なりません。したがって、自然に善悪の区別など元々ないのです。自然そのものに神の存在を重ね合わせようとしていた古代の日本人にとって、神は必ずしも善なる存在とは捉えられていなかったのです。神には、穏やかな働きをする「和魂」(にぎみたま)と、それとは逆に、荒々しい働きをする「荒魂」(あらみたま)という二面性があると言われています。これはまさに、人間に恵みを与えてくれる一方で、人間を苦しめることもある自然の二面性と符合していると言えるでしょう。もっとも、その二面性というのは、人間側が自分たちの都合で想定しているだけの幻影にすぎない気もするのですが。

 現代の日本において、神という存在を意識する機会はそう多くないかもしれませんが、そもそも「神」という観念自体が変容してしまった可能性があります。かつて仏教とともに伝播したインドの神を、帝釈天、梵天、大黒天などのように、「天」という語を付して、日本の神とは区別していたことや、キリスト教宣教師が日本の神を、自分たちが信仰する神とは全く異なるものと認識し、自分たちの神を「天主」と呼んで、区別していたことが忘却されてしまい、今やあらゆる宗教の信仰対象が「神」と呼ばれるようになっているのです。現代の日本人にとって「神」とは、もはやそれが何であるのか掴(つか)み難いほどに、錯綜した状態にあると言ってもよいでしょう。

 それはさておき、ヤマタノヲロチは一般的にも、そして、専門家からさえも、怪物として捉えられています。しかし、古代日本の神というのは、人間が考え出した善悪という価値基準を超越した存在なのであり、自然のもつ強大な力を体現するヤマタノヲロチこそ、それに最もふさわしい存在ではないかと言えるのです。したがって、ヤマタノヲロチを神としないで、一体、何が神となりうるのかとすら、私には思えるのです(ただし、別格と言うべきアマテラスは除いておきます)。

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