「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、宗教学の岸根敏幸先生です。
古事記神話の記述によれば、イザナキは妻イザナミに会おうと黄泉国を訪ねたものの、変わり果てたその姿に驚き、そこから逃げ去ろうとしました。その際、ヨモツシコメなどといった魔物的な存在からの追撃を何とか振り切りましたが、最後に立ちはだかったのはイザナミ本人でした。そこで、「事戸を度す」ことになります。「事」は「別」に通じ、「戸(ど)」は「祝詞」の「と」と同様に、言葉のもつ特別な力(言霊)を念頭に置くものでしょう。つまり、「事戸を度す」とは、呪力を用いて、死者に二度と戻って来ないよう言い渡したのです。ただし、日本書紀神話の伝承の一つに「絶妻之誓」(この四文字で「ことど」と訓読します)という記述があるのを根拠に、イザナキがイザナミに離縁を言い渡したと捉える説もあります。
その時、二人の間で次のような会話が交わされました。
イザナミ:如此為(かくせ)ば、汝が国の人草、一日に千頭絞(くび)り殺さむ。
イザナキ:汝然為(なれしかせ)ば、吾、一日に千五百の産屋を立てむ。
このようなやりとりがあったため、「一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり」ということになったとされます。ここで示されている「千人」と「千五百人」の対決が今回のテーマです。
この「千人」「千五百人」は各々「ちたり」「ちいほたり」と訓読しておきます(「ち(の)ひと」「ちいほ(の)ひと」と訓読する説もあります)。「たり」という語は、人間を数える時、数に添えるもので、文法的には「助数詞」と呼ばれているものです。今でも使われる「ひとり」「ふたり」は、「ひとたり」「ふたたり」の音韻縮約形である可能性が考えられます。日本語ではこの助数詞が非常に発達していて、同じ対象を数えるにしても、その様態に応じて、助数詞を使い分けることがあります。例えば、生きている人間ならば、「一人」「二人」ですが、死んでしまえば、「一体」「二体」となり、骨になれば、「一柱」「二柱」となります。
イザナミが人草を一日に千人絞め殺すと脅したのに対して、イザナキが一日に千五百の産屋を立てようと応酬した点が気になるところです。単に損失を補うだけならば、千の産屋で済みそうです。イザナミに負けまいとして、わざと大きな数字を挙げたということも考えられますが、このやりとりは人間の生死に関わるものだけに、それとは別な意味で読み取ることもできると思います。それについて私が考えているのは次に示す二つの意味です。
一つ目は、人間は放っておけば、増えていくという意味です。一日に千人誕生させるならば、増えませんが、千五百人だと、どんどん増えていきます。古事記神話では人間のことを「(青)人草」と呼んでいますが、これは、人間が増えていく様子を生い茂る草に例えたものと考えられています。庭掃除の時にいつも痛感させられますが、草がもつ生命力の強さには驚くばかりです。「種」「種々」を各々、「くさ」「くさぐさ」と訓読するのも、おそらく草に由来するものでしょう(『時代別国語大辞典 上代編』を参照。ただし、草を意味する「くさ」と種を意味する「くさ」を別起源とする説もあります。『岩波古語辞典』を参照)。人間も草のように力強く増えていく存在として捉えられているのです。
この人草は国になくてはならない存在です。人草とは民のことなのであり、古来、民は「大御宝」と呼ばれることがありました。働いて税を納めてくれる大切な存在だからです。統治者がいくら威張ってみても、そもそも民なくして、国は成り立ちません。人草が増えていくというのは、国が豊かになっていくことと強く結びついているのです。イザナキは言葉のもつ特別な力によって、そうなるように言祝(ことほ)いだと捉えられるのです。
二つ目は、人間が死ぬ定めをもった存在であろうとも、死に屈することはないという意味です。一日に千人死んでも、千五百人誕生させるのですから、結局、生は死に打ち勝つことになります。たしかに個々の人間に目を向けるならば、死を免れることはできず、死は悲惨なもの、恐ろしいものと言えるでしょう。それでも、全体に目を向けるならば、人間そのものが滅亡してしまうわけではありません。人間はこれまでに、自然災害、疫病、戦争などの大きな危機に何度も直面してきました。現在もまさにコロナ禍という、人類史にも記録されるような大きな危機の真っただ中にあります。それでも、多くの困難を乗り越えて、人間はどうにか生き延びていくことでしょう。
なお、はかない命をもつ代表例としてカゲロウが挙げられます。幼虫の期間を含めるならば、数年生きるようですが、成虫になったカゲロウの寿命は長くても数日、短ければ、数時間とも言われています。成虫は栄養を補給する口が退化しており、もはや死ぬだけの存在と言ってもよいのです。では、地球に生きる生物の中で、彼らはもっとも非力で哀れな存在なのでしょうか。そうとも言えません。残り少ない命を本能的に受け入れ、何の迷いもなく、その命を未来につなげようとする力強さがあるからです。
二つ目の意味については、イザナキが言葉のもつ特別な力によって、「葦原中国」と呼ばれる地上の国に対して、悲惨で恐ろしい死に打ち勝ち、未来永劫に生を紡いで栄えていくように言祝いだと捉えられるのです。
しかし、私が「千人」と「千五百人」の対決から読み取ろうとしたこの二つの意味は、残念ながら、今後の日本人には当てはまらなくなるかもしれません。人間は放っておけば、増えていくと言いましたが、日本人の出生率(同じ期間の異なる世代の出生率を合計した期間合計特殊出生率)は数十年にわたって低水準のままで、令和2年では1.34です(厚生労働省の人口動態統計月報年計(概数)による)。数値が約2.07(医療水準の高い日本の場合)を下回ると、人口規模が縮小していくそうで、日本は深刻な人口減少に直面しているのです。
そして、日本の総人口は(便宜上、西暦で表記すると)2050年に1億人を割り、2110年にはそれが半減し、3000年になると、なんと1000人にまで減少すると予測されています(「全国人口の再生産に関する主要指標:2014年」、国立社会保障・人口問題研究所編『人口問題研究』71-4による。ただし、「全国人口の再生産に関する主要指標:2004年」では、3000年に29人、3300年に0人、すなわち、滅亡すると予測されていました)。1000人しかいないのであれば、もはや絶滅危惧種のような存在と言えるでしょう。これでは、生は死に打ち勝つなどとは言えなくなってしまいます。事態がなんとか好転して、そのような予測が大きく外れてくれることを願うばかりです。
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