『愛・性・家族の哲学』が出版されました
宮野 真生子(哲学)
4月になりましたね。新しい学期がはじまるのに合わせて、私が編集にあたった本が出版されるので、その宣伝(!?)やら、その本を通して伝えたかったことを少し書こうと思います。
本のタイトルは、『愛・性・家族の哲学』と言います。京都の出版社であるナカニシヤ出版さんから出るこの本は、私が九州産業大の藤田尚志先生と長く続けてきた大学を横断した「恋愛・結婚合同ゼミ」の成果です。このゼミはもともと、西洋における結婚概念の哲学的検討をおこなっていた藤田さんが、近代日本の恋愛論研究をしていた私を誘ってはじまったもので、じつは声をかけられた当初、私としては一度藤田さんのところにお話をしに行くつもりで引き受けたのが、気がつけば4年・・・。ゼミではタイトル通り、「恋愛」や「結婚」あるいは「性」について、福大や九産大、佐賀大の学生さんやOB・OGのみなさんと勉強してきました(決して「恋愛」「結婚」を賛美し推奨するゼミではありません、あしからず)。
私も藤田さんも哲学の教員ですから、このゼミで最も大切なのは、物事を根底から見つめてみること、ゼロベースで「なんでそもそもそうなってるの?」と問い直すことです。「恋愛」なんて「するものじゃなくて、落ちるもの」と言われるように、「恋愛」を問い直すと聞くと、いったい何を問うのだろうと疑問に思う人もいるかもしれません。では、恋愛は勝手に「落ちてしまう」もの、人間の「本能」なんでしょうか。だとしたら、犬や猫も恋をするのでしょうか。つがいを作るのだから、犬や猫も恋をすると言える・・・のだとしたら、その恋は「生殖」のためのもの。でも、私たちの「恋」は「生殖」と直結しているようには思えないですよね。だって、言うじゃないですか、「カラダよりココロが大事!」って。あるいは「カラダ目当て」というセリフが非難に聞こえるのだとしたら、そこには明らかに「カラダ」が下等で「ココロ」が上等という価値観が隠れていますよね。でも、どうして「ココロ」の方が上等なのでしょう。こうした問いを解決するには、一度、徹底的に自分たちの「恋」や「愛」をめぐる「当たり前」を疑ってみる必要があります。
私も藤田さんも哲学の教員ですから、このゼミで最も大切なのは、物事を根底から見つめてみること、ゼロベースで「なんでそもそもそうなってるの?」と問い直すことです。「恋愛」なんて「するものじゃなくて、落ちるもの」と言われるように、「恋愛」を問い直すと聞くと、いったい何を問うのだろうと疑問に思う人もいるかもしれません。では、恋愛は勝手に「落ちてしまう」もの、人間の「本能」なんでしょうか。だとしたら、犬や猫も恋をするのでしょうか。つがいを作るのだから、犬や猫も恋をすると言える・・・のだとしたら、その恋は「生殖」のためのもの。でも、私たちの「恋」は「生殖」と直結しているようには思えないですよね。だって、言うじゃないですか、「カラダよりココロが大事!」って。あるいは「カラダ目当て」というセリフが非難に聞こえるのだとしたら、そこには明らかに「カラダ」が下等で「ココロ」が上等という価値観が隠れていますよね。でも、どうして「ココロ」の方が上等なのでしょう。こうした問いを解決するには、一度、徹底的に自分たちの「恋」や「愛」をめぐる「当たり前」を疑ってみる必要があります。
たとえば、多くの人にとって、「結婚」というのは「恋愛」の先に結ばれるもの、というイメージがあるかもしれません。結婚は愛のあかし、なんて言葉もありますね。でも、どうして恋をして愛しあったら、結婚するのでしょう。だって、恋をした相手が20年、30年一緒に暮らしていく生活の相手として必ずしもふさわしいわけじゃないかもしれないですよ。むしろ、大好きな人にはいつも良いところを見せていたい、素敵な自分でいたい、恋をすると私たちはそう願うはずです。でも、結婚という生活はむしろ、見せたくないような自分、ぼろぼろの自分を大好きな人に見せてしまうことになってしまう。こんな自分見て欲しくない、そう思うような自分を見せてしまう、それが結婚というふうにも言えるかもしれません。
私にとって、結婚や家族というものは長年の謎でした(おそらく今でも謎です)。家族というのは、私にとって遠くから眺めているものというのがもっともしっくりきます。一人っ子だった私は、子どもの頃食事を済ませるといつも、おもちゃの入った箱のなかに入り、そこから大人たちがお酒を飲み、話をしながらゆっくり食事をとっているのを眺めていました。別に冷たくされていたわけではないですよ。それくらいがちょうどよかったのです。大人になった今では、たくさんの子どもをもつ友人の家に時々行き、賑やかなその家族を眺めながらピザを食べたり、お酒を飲んだりしています。そうやって、目の前に積み重なる生活の時間を見ながら、いつも思ってしまうのです。「では、家族というのは何なのだろうか」と。血が繋がっていれば、一緒に暮らせば、財産を共有していれば、家族なんでしょうか。あるいは、そうした条件が家族のもつ一種独特な親密さ(「家族なんだから助け合うのが当然」「家族なんだから何でも言って」)を呼び起こすでしょうか。けれど、その親密さは時々私をとても息苦しくさせるものです。だからいつも、家族を外から眺めてばかりいました(そして今もそうです)。
でも、そんな私も、パートナーのいる生き方を選びました(子どもはいませんし、もつつもりもありませんが)。他人と生きる人生を選んだとき、はじめに混乱した(そしてまだ若干混乱している)のが「家族になる」ということの意味でした。あのときの混乱した気分を江國香織が寸分違わずに言葉にしてくれています。
「いま思うと、私はなにもかもに疑心暗鬼になっていた。もともと疑い深い性質なのだ。それに加えて結婚というのはあらゆる恋人から根拠を奪うので、どうしたって疑心暗鬼にならざるを得ないのだった。たとえば一緒に暮らす前ならば、夫が会いにきてくれるととても嬉しかった。会いにくるということは、私に会いたいのだなとわかったから。でもいざ一緒に住みはじめると、夫は毎日ここに帰ってくる。私に会いたくなくても帰ってくるのだ。そのことが腑に落ちなかった。ばかばかしいと思われるだろうけれど、どうしても腑に落ちなかった。」
私にとって、結婚や家族というものは長年の謎でした(おそらく今でも謎です)。家族というのは、私にとって遠くから眺めているものというのがもっともしっくりきます。一人っ子だった私は、子どもの頃食事を済ませるといつも、おもちゃの入った箱のなかに入り、そこから大人たちがお酒を飲み、話をしながらゆっくり食事をとっているのを眺めていました。別に冷たくされていたわけではないですよ。それくらいがちょうどよかったのです。大人になった今では、たくさんの子どもをもつ友人の家に時々行き、賑やかなその家族を眺めながらピザを食べたり、お酒を飲んだりしています。そうやって、目の前に積み重なる生活の時間を見ながら、いつも思ってしまうのです。「では、家族というのは何なのだろうか」と。血が繋がっていれば、一緒に暮らせば、財産を共有していれば、家族なんでしょうか。あるいは、そうした条件が家族のもつ一種独特な親密さ(「家族なんだから助け合うのが当然」「家族なんだから何でも言って」)を呼び起こすでしょうか。けれど、その親密さは時々私をとても息苦しくさせるものです。だからいつも、家族を外から眺めてばかりいました(そして今もそうです)。
でも、そんな私も、パートナーのいる生き方を選びました(子どもはいませんし、もつつもりもありませんが)。他人と生きる人生を選んだとき、はじめに混乱した(そしてまだ若干混乱している)のが「家族になる」ということの意味でした。あのときの混乱した気分を江國香織が寸分違わずに言葉にしてくれています。
「いま思うと、私はなにもかもに疑心暗鬼になっていた。もともと疑い深い性質なのだ。それに加えて結婚というのはあらゆる恋人から根拠を奪うので、どうしたって疑心暗鬼にならざるを得ないのだった。たとえば一緒に暮らす前ならば、夫が会いにきてくれるととても嬉しかった。会いにくるということは、私に会いたいのだなとわかったから。でもいざ一緒に住みはじめると、夫は毎日ここに帰ってくる。私に会いたくなくても帰ってくるのだ。そのことが腑に落ちなかった。ばかばかしいと思われるだろうけれど、どうしても腑に落ちなかった。」
(江國香織『いくつもの週末』、集英社文庫、2001年、109−110頁)
恋人同士には「愛」がある、とされています。では、家族には何があるのでしょう。この家に帰ってくるのは、ここしか帰るところがないからで、「愛」ゆえでないかもしれません。「結婚」して「家族」になったら、一緒に住むことになっているから、だから帰ってくる?だとしたら、それは何て束縛なのでしょう!私は「家族」という名でパートナーを縛っているかもしれないことに戸惑い、怯えました。心から怯え、当初、しばしばパニック状態に陥り、「もうやめる」と何度も言いました。いったい、家族って何なの。こんな私の不安を笑う人もいるかもしれません。「家族」ってのはそういうもんだ。そこしか帰るところがないから、それは自分の「家」なのだし、そこに戻ってくることで人びとは「家族」になるんだよ。恋人はともに暮らすことで「夫婦」になっていくんですよ、と。でも、とあの頃の私が問いかけます。その「なる」とか「なっていく」という変化をもたらすものは何なの、その変化を私はどう考えたらいいの、と。(『家族—共に生きる形とは?』、ナカニシヤ出版 より一部引用改編)
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