2016年1月13日水曜日

くしゃくしゃになった時間(平井靖史先生)

「教員記事」をお届けします。2015年度第15回は、哲学の平井靖史先生です。


くしゃくしゃになった時間

平井靖史(哲学)


 わあ、今夜の月は格別に綺麗!と思ってスマホやデジカメを取り出して写真を撮って、ガッカリした経験はありませんか。どこに映ってるのかも分からないくらい小さな光の斑点。ほんとうは、こんなに大きくて月のクレーターもこんなにしっかり見えるのに。カメラの性能も年々向上してるけれど、人間の目の解像度にはまだまだ及ばないんだなあ、なんて嘆いたり。

 ではそんなに立派なはずの僕たちの目の解像度って、一体どれくらいなのでしょうか。驚かないで下さいね、たった120万画素なんです[1]。10年近く前に登場した初代のiPhone 3Gがすでに200万画素だったことを考えると(今から見ればお粗末な画質です)、にわかには信じがたいですよね。ちなみに最新のiPhone6Sは1200万画素だとか。

 さらに、その120万画素のほとんどは、腕を伸ばして立てた親指の先ほどの面積に集中していて、残りはまばらにしか配置されていないのです。でも、いつ目を開いても、視野全体を美麗な映像が埋め尽くしていますよね?月くらいのサイズだけ高密度の描き込みがなされていて、あとは雑なベタ塗り、なんてことにはなってませんよね。これは何を意味しているのでしょう?導かれる答えは、——僕たちの視覚には、「相当な加工が施されている」ってことですね。では、何によって?記憶によって、しかありません。

 つまり、「今見たり聞いたりしているもの」(これを「知覚」と言います)をつくりあげているもののうち、実際に「今の外界」からくみ取った情報はわずかでしかなく、残りは「過去に見たり聞いたりしたもの」(記憶)で補っている、ということです。


 みなさん、記憶ってものは、以前にあったことを「思い出す」時にしか使わないと思っていたかも知れませんが、上のような意味での「記憶」なら、実は何も思い出しているつもりもない、日常の全時間にわたって、フル活用しているわけです。ビックリですね。少し言い換えると、僕たちが現在だと思っているものは、ほとんど過去だってことですよね。

 時間は、みなさんが普通に考えているように、直線上に綺麗に並んでいるものではないのかも知れない。そんなことが見えてきます。僕の専門は、「時間の哲学」です。目や脳の仕組みについては、心理学・生理学でも扱われる内容です。でも、そうした事実から、「時間」というものの構造が、おもったより複雑で、そんな複雑な構造が、どのようにして生まれ、どのように機能しているのか、というのを考えることは、実は、ぼくたちの心の存在や、生命、倫理、など深い広がりを持った思想的な課題でもあるのです。


 さきほどの話は、月の光が目に入ってからの画像処理の話ですが、その手前でも、面白いことが起きてます。実は、月から僕たちの網膜に光が届くまで、1秒ちょっとかかるんです。つまり、僕たちが見てる月は、1秒遅れの、「過去の月」なわけです。太陽はいつも8分前の太陽です。同じように、北極星は430年前、スピカは250年前、ベテルギウスは640年前に、その星を出発した光たちです。宇宙の虚空をはるばるそんなに長い旅をして、やっと今僕の目の中に飛び込んだ光の粒子どもよ。夜空を見上げると、それらてんでバラバラな過去たちが、一面に繰り広げられます。そんなばらばらな時間の奥行きを、今、ぼくたちは「同時に」みて、うつくしいと思っているのですね。そんなでこぼこで、まちまちで、くしゃくしゃに折り畳まれた時空の構造を、僕たちは流れ去る今として経験してる。不思議やなあ。

 相対性理論については、また今度機会があれば。

[1]眼から脳に繋がる視神経の数(『ギャノング生理学23版』参照)。網膜上の視細胞の数ははるかにたくさんある。(2021/01/16追記、100万を120万に修正)

※写真はすべて平井によるもの。

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