2016年1月6日水曜日

「徳」と「幸福」(林誓雄先生)

 「教員記事」をお届けします。2015年度第14回は、本年度から赴任されました倫理学の林誓雄先生です。

「徳」と「幸福」

林 誓雄(哲学)

 歩行者用の信号が、青から赤へと変わる。それを見た私は、横断歩道の手前で、歩みを止める。仮に歩みを止めず、そのまま横断歩道を渡ってしまえば当然、車道を走る車にはねられることにもなりかねないし、そうでなくとも、車のドライバーにクラクションを鳴らされ、怒られることになるだろう。

 とはいえ、そうだから私は歩みを止めて、信号が青へと変わるのを待っているのではない。すなわち、自分が怪我をしたり死んでしまったりすることを恐れて、赤信号を渡らないのではない。たとえ車が一台も走っておらず、そのために、怪我をする恐れが一切ないのだとしても、それでも私は、赤信号の横断歩道を渡らない。

 それならば、自分の評判が落ちるから、私は赤信号の横断歩道を渡らないのだろうか。仮にまわりで私の行動を見ている人がいて、その人が福岡大学関係者であったがために、「あたし見ちゃったんだけどさー、林先生ってさー、赤信号の横断歩道、平気で渡っちゃうタイプなんだよー」「えーマジでー? そんなひとに "倫理" を教えてもらってもさー、なーんか説得力なくなーい?」などといった話が、SNSなどを通じて拡散し、その結果、私の(教員としての、「倫理学」を教授する者としての)評判が落ちることを恐れて、赤信号の横断歩道を渡らないのだろうか。否、仮にその場に誰も居合わせておらず、私のことを誰も(神さえも!)見ていないとしても、私は赤信号の横断歩道を渡らない。

 歩行者用の信号機が赤を示しているとき、私が横断歩道を渡らないのは、「赤信号の横断歩道とは、渡ってはいけないものだから」である。注意してほしいことだが、私は決められたことを守ることに固執する「規則崇拝」を、よしとしているわけではない。そうではなく、私は、取り決められたことをきちんと守る「忠実な人間」でありたいと思っている、「忠実さ」という徳を備えた「善き人」でありたいと、そう思っているのである。反対に、車が来ていないのなら赤信号の横断歩道を渡ろうとすることは、あるいは誰も見ていないのなら、赤信号くらい無視しても平気だと考えることは、ある種の「悪徳(不忠実さ?)」を示すことになると考えているのである。

 それでは、どうして私は「忠実な人間」でありたいと思うのか。どうして私は「善き人」でありたいと願うのか。それは、「忠実」であることが、すなわち「忠実さ」という「徳」を発揮することが、自分の「幸福」につながると考えているからである。「徳」を発揮することが、「幸福」に至るための「必要条件」だと考えているからである。私は自分が幸せになるために、日々生きていく中で「善く生きる」ことを徹底しなければならない。毎日「勤勉に」働くべきである。困っている人を見かけたら「親切に」するべきである。ゼミ生たちとの飲み会では「気前よく」多めにお金を出すべきである。何かを質問されたら「正直に」答えるべきである。原稿の締め切りを「忠実に」守るべきである(このブログの原稿の締め切りは「2015年12月16日」でした半月ほど原稿が遅れてしまいましたごめんなさいごめんなさい許してください大泣)。などなど。

 こうした日々の「徳」の積み重ねが、「幸福」へとつながっているのである。最終的に、死ぬ間際くらいになって自分の人生を振り返ったとき、自分のこれまでの足跡を見つめ直し、日々「善く生きて」きたと思えるのならば、その人は「幸せな人生」を送ったと言えるのである。臨終の間際に過去を振り返り、何らの瑕疵もなければ、「自分の人生とは、一片の恥も悔いもない、まことに幸福なものであった」と思えるのである。18世紀スコットランドの哲学者デイヴィド・ヒュームは、こうした「徳」と「幸福」との関係について、次のように述べている。

あらゆる高潔な人々にあっては、裏切りや詐欺に対する反感が極めて強いので、利得や金銭的な利益がどれだけ見込まれるとしても、それによってその反感が相殺されることはありえない。心の内的な平和、高潔の意識、自身の振る舞いを満足しながら振り返ること、これらこそ、幸福にとって必須な事情なのであり、それらを重要なものとだと感じるあらゆる正直な人によって育まれ涵養されることだろう。 (EPM 9.23)

 なるほど、車にはねられる心配がないのなら、赤信号など無視してしまうことで早く目的地にたどり着くことができるのだから、そのような意味での利得をえることはできるだろう。しかしそのような利得をえる見込みによっては、悪徳に振る舞うことに対する反感が相殺されることはない。むしろ、そうした悪徳な振る舞いを行わなかったことによって確保される「心の内的な平和」が、自分の振る舞いを振り返って何らの落ち度もないと満足することこそが、「幸福」にとって必要なことなのだと、そのようにヒュームは述べていると思われる。
 
 私は「幸福」になることを目指して生きている。そして、そこへたどり着くためには、日々「徳」を発揮して生きることが、「善く」生きることが、求められるのである。だから私は、歩行者用の信号が赤を示しているのなら、たとえ車が一台もやってきていないとしても、そして私のことを観察する人がまわりにまったく見当たらないとしても、私は横断歩道を渡らない。なぜなら、歩行者用の信号が赤を示しているときは横断歩道を渡ってはならないと取り決められているから、取り決められたことは守らねばならないから、そして、取り決めを守ることは正しいことだからである ————— 。


 ………とかいったことを考えている私には、実は、「徳」がまだ、備わっていない。古代の哲学者アリストテレスによると、「徳」とは「習慣」から形成されるものだが、その性格の状態が一定になってようやく、「徳が備わった」と見なされることになる(『ニコマコス倫理学』第2章)。「徳が備わった」状態になった人は、もはや「その有徳な行為が幸福にたどり着くために必要である」とか、「取り決められたことは守らねばならないのだ」とか、「取り決めを守ることは正しいことである」などといったことを一切考えることなく、赤信号を見れば自動的に歩みを止めるのである。

 しかしこれが私にはできない。否、まだできる状態には至っていない。毎日毎日、大学に来る途中の歩行者用の信号機が赤を示すたびに、「うわー信号赤になってしもたでこれー、でも、ここで止まるのが幸福にいたる途やねん…。赤信号を無視する奴らは幸福にはいたれへんのじゃ!あ、あいつ、車が来ていないことをいいことにしれっと赤信号渡りやがったチックショー!」などと思っている人間に、「徳」が備わっているはずもない。

 ただ、私はいつになったら、件の「徳」を身につけることができるのだろうか。というか、こんなことばかり考えていて、私は本当に「幸福」へとたどり着くことなど、できるのだろうか。そもそもこれが本当に、「幸福」にたどり着く唯一の途なのだろうか。アリストテレスやヒュームたちが論じた「幸福」とは、正しいものだったのだろうか…。

 「幸福」とは何なのか。どうしたらわれわれは「幸福」へと至ることができるのか。この問いは、果てもなく深まっていき、その底は、最終的な答えは、ないようにも思えてくる。とはいえ、諦めるのも癪なので、この冬はいまいちど、哲学者たちのテキストを紐解いて、温かいコーヒーを傍に、彼らの深遠な思想の中に潜ってみることにしよう。もちろん、潜り続けて、考え続けるとしても、ドンピシャの答えは見つからないかもしれない。しかし、潜り続けて、考え続けないと、得るものが何もないということだけは、確かなことのように思われるのだ。


参考文献
・アリストテレス『ニコマコス倫理学』朴一功訳、京都大学学術出版会、2002年
・Hume, D. [1751] An Enquiry concerning the Principles of Morals(『道徳原理の探求』からの引用の際には、略号としてEPMを用い、Beauchamp版(David Hume, An Enquiry concerning the Principles of Morals, ed., by Beauchamp, T. L., Oxford U. P., 1998)の節、段落番号を順に付す。訳は林によるものである。)



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