今月28日に開催される予定だったLC哲学カフェですが、諸事情により急遽、開催延期となりました。
参加を予定されていた方々には、本当に申し訳ない限り。来月こそは必ず再開しますので、引き続き、このブログでの告知をお待ち下さい。
なお、開催延期に伴い、以前の告知記事は削除しました。
福岡大学人文学部文化学科の公式ブログでしたが,2024年3月末をもって停止いたしました。記載情報は2023年度までのものですので,ご注意ください。 2024年度以降の学科の情報は「https://www.hum.fukuoka-u.ac.jp/department/lc」をご覧ください。
2015年10月15日木曜日
2015年10月3日土曜日
東日本復興支援プロジェクト報告(佐藤基治先生)
「教員記事」をお届けします。本年度第十回は、心理学の佐藤基治先生が、福岡大学の「東日本復興支援プロジェクト」の報告をしてくださいました。毎年行われている同プロジェクトの活動は、現地の方々からも高く評価されています。
8月下旬に実施された福岡大学の「東日本復興支援プロジェクト」へ参加した。45名の福岡大学生が3班に分かれ活動し、そのうちの1つのグループに同行した。文化学科の学生諸君の中には、この企画を知らなかった人も多いようなので、ここに活動の様子を記して、なにかを考える手掛かりにしてもらいたいと思う。
福岡大学は東日本災害ボランティア福岡大学派遣隊という名称で2011年夏の第1次から2014年の第4次まで、合計約300人のボランティアを派遣してきた(詳しくは大学のホームページの記事参照)。今年度からは名称が「東日本復興支援プロジェクト」に変更された。それは、地震から4年が経過し、さまざまな人々や組織の活動が、「東日本大震災に対するボランティア活動」から、「東日本復興への支援」へと内容が変化しつつあることに対応している。地震による被害が、人口減少、高齢化や産業の空洞化といった全国の地域社会が抱える問題を顕著化させたので、単なる原状回復ではなく、復興を契機にこれらの課題を解決し、「新しい東北」を創造したいと復興庁が唱えているからである。このような考え方の基礎となる実際の東日本地域の状況を自分の目で確かめるのも今回の活動の目的の一つである。
8月18日午前中に、学生と教職員計50名が福岡空港に集合し、仙台空港に向けて出発した(写真1)。仙台空港から貸し切りバスで高速道路を約2時間走行すると南三陸町に到着する。最初に防災対策庁舎で線香をあげ、被災者の冥福を祈るとともに、ボランティア活動の無事を祈念した。昨年の活動の際には防災対策庁舎が更地に文字通り「孤立」していた(写真2、3)が、現在は周囲の区画に高さ10メートルほどの盛り土がなされており、防災対策庁舎は盛り土の山々に埋もれたように存在する。この辺りは津波で大きな被害を受けた場所で、「復興」が進む中で、防災対策庁舎を「忘れないでほしい」という思いと「忘れさせてほしい」という思いの間で、現地の人々は未だに揺れ動いている。
19日は南三陸町の雑草で覆われた避難路の清掃をした。これは「椿道プロジェクト」という津波の際の避難路に、塩害に強い椿の木を植えて道標にしようとする活動の一環である。椿の木の成長のためには下草を抜く必要があり、それは人の手で地道にやっていくのであるが、ところがそのような軽作業に従事する人手がないのである。ボランティア活動といえば、大震災直後には体力を必要とする作業もあり、強靭な体力を持つ人が過酷な環境の下で限界まで活動するというイメージだが、現在では寧ろ軽い作業に従事するボランティアが必要とされているようだ。重機を使った復興作業が進む一方で、たくさんの人手が必要な作業は中々捗らない。派遣隊の一部、15人で3時間ほど働くと歩きやすい径になるのにである(写真4,5)。
20日は南三陸ボランティアセンターの紹介で漁業作業に派遣された。作業はホタテ養殖の漁具の手入れであったが、より重要な活動は漁師の視点からの津波の体験、「復興」事業への感想の聞き取りであったように思う。「津『波』っていうから、白い波がしらのあるのを想像するかもしれないけど、『引き波』でいったん数百メートルほど沖まで海がなくなったかと思うと、『押し波』でビルのような灰色の壁が押し寄せてきた。」。ニュースなどでは復旧した道路や鉄道だけが報道され、放置された部分を目にすることは少ないが、道路沿いにはいまだに打ち上げられた漁船やグニャグニャのガードレールが放置されており、未開通の線路は雑草に埋もれてしまっている(写真6)。
21日の活動は気仙沼市の小学校で、夏休み中の学童保育の手伝いであった。普段は20人ほどの低学年の小学生を2,3人の教員で担当しているが、15人の大学生がサポートすると、ほぼ1対1での対応が可能となり、児童には好評の様子であった。
22日、23日は石巻に移動した。海岸沿いの津波の跡を高台の日和山から見渡すことができる(写真7)。震災前は住宅などが立ち並ぶ街だったのが、一面の更地のままである。海岸沿いは大規模な公園になることが決定したが、どこまでを公園にするかという新たな問題が生じている。22日は石巻市のボランティア団体の案内で海岸部を見学し、その後、防災に関するワークショップを体験した。東日本大震災で得た教訓を生かした「防災・減災」、「自然災害への備えと対応」が主要なテーマであった。23日は石巻専修大学のボランティア団体とのワークショップを行った。「復興から地域の問題を解決する」がテーマであり、「震災の風化を防ぐ」「被災地の問題を「知ること」は、地域問題の解決を考えること」と考え、「自分が、いま、すぐ、できる「行動」を考える。一人ひとりの小さな行動が、防災や地域問題の解決へとつながることを考えてみた。
こうして約1週間の活動は終了した。ここでは現地の様子を簡単に報告したが、この企画では事前研修と事後研修も行われた。事前研修では、活動の目的、日程や場所を含めた活動内容の決定、活動に必要な物資の準備などを参加学生自らが行った。事後研修では、東日本の状況を自分自身が確実に把握するために、次年度のメンバーに引き継ぐために、家族・友人・知人に伝達するために、年末までに報告書を作成する予定である。
震災直後の、多くの人がボランティア活動に参加するときには、それはそれで人手が必要な時期であり有用なのだが、4年の歳月が過ぎた今、もっと地味な形での人手、息の長い活動が必要なようだ。震災直後には何となく気を削がれて、参加できなかった人も、こっそりと東日本の復興支援に参加してはどうだろう。新聞やテレビではわからない東日本の現状、復興の様子、人々の暮らしを直接目にするのは、「文化の多角的総合的理解」を目指す文化学科の学生にとって、有意義だと思う。今後は11月25日に学内で報告会を開催し、来年4月には次期の参加者募集の予定である。
東日本復興支援プロジェクト報告
佐藤基治(心理学)
![]() |
| 図1 |
8月18日午前中に、学生と教職員計50名が福岡空港に集合し、仙台空港に向けて出発した(写真1)。仙台空港から貸し切りバスで高速道路を約2時間走行すると南三陸町に到着する。最初に防災対策庁舎で線香をあげ、被災者の冥福を祈るとともに、ボランティア活動の無事を祈念した。昨年の活動の際には防災対策庁舎が更地に文字通り「孤立」していた(写真2、3)が、現在は周囲の区画に高さ10メートルほどの盛り土がなされており、防災対策庁舎は盛り土の山々に埋もれたように存在する。この辺りは津波で大きな被害を受けた場所で、「復興」が進む中で、防災対策庁舎を「忘れないでほしい」という思いと「忘れさせてほしい」という思いの間で、現地の人々は未だに揺れ動いている。
![]() |
| 図2 |
![]() |
| 図3 |
19日は南三陸町の雑草で覆われた避難路の清掃をした。これは「椿道プロジェクト」という津波の際の避難路に、塩害に強い椿の木を植えて道標にしようとする活動の一環である。椿の木の成長のためには下草を抜く必要があり、それは人の手で地道にやっていくのであるが、ところがそのような軽作業に従事する人手がないのである。ボランティア活動といえば、大震災直後には体力を必要とする作業もあり、強靭な体力を持つ人が過酷な環境の下で限界まで活動するというイメージだが、現在では寧ろ軽い作業に従事するボランティアが必要とされているようだ。重機を使った復興作業が進む一方で、たくさんの人手が必要な作業は中々捗らない。派遣隊の一部、15人で3時間ほど働くと歩きやすい径になるのにである(写真4,5)。
![]() | ||
図4
|
20日は南三陸ボランティアセンターの紹介で漁業作業に派遣された。作業はホタテ養殖の漁具の手入れであったが、より重要な活動は漁師の視点からの津波の体験、「復興」事業への感想の聞き取りであったように思う。「津『波』っていうから、白い波がしらのあるのを想像するかもしれないけど、『引き波』でいったん数百メートルほど沖まで海がなくなったかと思うと、『押し波』でビルのような灰色の壁が押し寄せてきた。」。ニュースなどでは復旧した道路や鉄道だけが報道され、放置された部分を目にすることは少ないが、道路沿いにはいまだに打ち上げられた漁船やグニャグニャのガードレールが放置されており、未開通の線路は雑草に埋もれてしまっている(写真6)。
![]() |
| 図6 |
22日、23日は石巻に移動した。海岸沿いの津波の跡を高台の日和山から見渡すことができる(写真7)。震災前は住宅などが立ち並ぶ街だったのが、一面の更地のままである。海岸沿いは大規模な公園になることが決定したが、どこまでを公園にするかという新たな問題が生じている。22日は石巻市のボランティア団体の案内で海岸部を見学し、その後、防災に関するワークショップを体験した。東日本大震災で得た教訓を生かした「防災・減災」、「自然災害への備えと対応」が主要なテーマであった。23日は石巻専修大学のボランティア団体とのワークショップを行った。「復興から地域の問題を解決する」がテーマであり、「震災の風化を防ぐ」「被災地の問題を「知ること」は、地域問題の解決を考えること」と考え、「自分が、いま、すぐ、できる「行動」を考える。一人ひとりの小さな行動が、防災や地域問題の解決へとつながることを考えてみた。
![]() |
| 図7 |
震災直後の、多くの人がボランティア活動に参加するときには、それはそれで人手が必要な時期であり有用なのだが、4年の歳月が過ぎた今、もっと地味な形での人手、息の長い活動が必要なようだ。震災直後には何となく気を削がれて、参加できなかった人も、こっそりと東日本の復興支援に参加してはどうだろう。新聞やテレビではわからない東日本の現状、復興の様子、人々の暮らしを直接目にするのは、「文化の多角的総合的理解」を目指す文化学科の学生にとって、有意義だと思う。今後は11月25日に学内で報告会を開催し、来年4月には次期の参加者募集の予定である。
2015年9月28日月曜日
講演会のお知らせ(平井靖史先生)
今週の金曜日10月2日、福岡市天神のアクロス福岡にて、当学科の教員である平井靖史先生による講演会が開催されます。
山口大学時間学研究所主催の「時間学アフタヌーンセミナー in 福岡」という企画の一貫で、ご自身の専門である「時間の哲学」についてお話をされます。対象は市民一般で、入場無料(予約不要)ですので、ふるってご来場下さい。
山口大学時間学研究所主催の「時間学アフタヌーンセミナー in 福岡」という企画の一貫で、ご自身の専門である「時間の哲学」についてお話をされます。対象は市民一般で、入場無料(予約不要)ですので、ふるってご来場下さい。
日時:2015年10月2日(金)、14:00〜16:00
場所:アクロス福岡 円形ホール(福岡市中央区天神一丁目1−1)
対象者:市民一般
対象者:市民一般
題目:こころは過去で出来ている——現代時間論から見る心の哲学
講師:平井靖史(福岡大学人文学部文化学科教授)
主催:山口大学時間学研究所
共催:公益財団法人 山口大学講演財団、日本時間学会
後援:福岡市教育委員会
問い合わせ:山口大学時間学研究所 tel 083-933-5848
主催:山口大学時間学研究所
共催:公益財団法人 山口大学講演財団、日本時間学会
後援:福岡市教育委員会
問い合わせ:山口大学時間学研究所 tel 083-933-5848
詳細は以下のチラシをご覧下さい。
2015年9月24日木曜日
平成27年 卒業論文相談会が開催されました
9月18日に3年生を対象にした卒業論文相談会を開催いたしました。この合同説明会では、卒業論文のテーマや方向性をある程度固めた、あるいは書くことに迷っている3年生たちが、文化学科の教員と個別に相談することができます。今年も例年同様多くの3年生が参加し盛況でした。約一年後、どんな個性豊かな卒業論文たちが仕上がってくるのでしょう、いまから楽しみですね。
2015年9月21日月曜日
宮野ゼミ合宿記(LC12 井上拓海くん)
今年度10回目の学生記事をお届けします。現4年生の井上拓海くんが、今月初旬に山口県で行われた宮野ゼミ合宿の報告を寄せてくれました。
下関についたころにはもう正午でしたから、お腹を空かせた宮野ゼミ一行は唐戸市場の定食屋に向かいます。僕たちは山口名物ふぐの定食など、おいしい海鮮料理を食べたり、宮野先生においしいアイスやコーヒーをご馳走になったり、午後の哲学の勉強会に備えてエネルギーを蓄えました。
午後になり、僕たちは下関市から山口市内へと移動しました。勉強会は近代日本の哲学者である西田幾多郎が住んでいた家で行いました。僕は昨年、宮野先生の「日本の思想」という受講し、西田の哲学に深い感銘を受けていましたので、その講義の中で扱われた哲学者の西田幾多郎の家に入れるというだけで心躍る気持ちでした。

西田幾多郎の家、そこは予想通り古い家でした。狭い玄関、古い急な階段、古い座敷、古い書物….。西田幾多郎の幽霊でも出てきそうな…。まぁとにかく雰囲気は十分です。この合宿に向けてゼミ生は西田幾多郎著の「善の研究」の1つの章を読んで、1枚のレポートにわかったこと、わからなかったことをまとめて来ました。この勉強会では西田幾多郎が「善の研究」の第二章の言わんとすることをみんなで話し合いながら理解する、ということでした。勉強会が始まると、ゼミ生は西田幾多郎の真似をして丸メガネをかけてテキストを片手に、あーでもない、こうでもないと議論をしました。不思議なことに、ゼミ生や先生と議論をすることによって、1人で「善の研究」を読んでいた時よりも、西田幾多郎の思想をよく理解できました。そして知的興奮を味わいました。あっという間に3時間が経ちました。みんなと哲学についていろいろと考えたり、議論をするのはとても楽しかったです。哲学をする前と後では少し世界が違って見える体験をこの日もできたような気がします。
話は少しズレますが、僕が大学に入って、哲学に出会えたことは人生の快事だと思っています。固い価値観が壊され、世界がまるで違って見え、心が震える。以前よりも少しだけ生きやすくなる。呼吸がしやすくなる。こんなにも世界は広いんだと。
哲学勉強会が終わり、宮野ゼミ一行は宿泊先に向かいます。あとはもう遊びです(笑)宮野ゼミは遊びと勉強のメリハリがしっかりとしているので(笑)
夜になると、旅館で、温かい温泉に入り、おいしい食事を食べ、宴会場で旅館の名物女将が毎日上演する女将劇場をみんなで観に行ったりしました(僕は女将に連れられ舞台に上がって踊りました、大盛況?でした)夜が深くなってくるとくだらない話や、お年頃の学生の恋の話等で盛り上がりながらゼミ生や先生と飲むお酒はとても美味しかったです。
翌日は、山口観光です。中原中也記念館、秋芳洞、秋吉台に行き、精一杯遊びました。最後は歩いて本州から九州へ帰ります。歩くと言っても関門海峡の海底トンネルを歩いて九州に入るだけです(笑)
宮野ゼミ合宿記
9月のある雨のよく降る朝、宮野ゼミの学生と先生を乗せたバスは九州を出て本州に向かいます。山口市内に向かうのです。九州を出て、ちょうど下関市に着いたころには雨は上がっていました。下関についたころにはもう正午でしたから、お腹を空かせた宮野ゼミ一行は唐戸市場の定食屋に向かいます。僕たちは山口名物ふぐの定食など、おいしい海鮮料理を食べたり、宮野先生においしいアイスやコーヒーをご馳走になったり、午後の哲学の勉強会に備えてエネルギーを蓄えました。
![]() |
| 西田旧宅にて |
午後になり、僕たちは下関市から山口市内へと移動しました。勉強会は近代日本の哲学者である西田幾多郎が住んでいた家で行いました。僕は昨年、宮野先生の「日本の思想」という受講し、西田の哲学に深い感銘を受けていましたので、その講義の中で扱われた哲学者の西田幾多郎の家に入れるというだけで心躍る気持ちでした。

西田幾多郎の家、そこは予想通り古い家でした。狭い玄関、古い急な階段、古い座敷、古い書物….。西田幾多郎の幽霊でも出てきそうな…。まぁとにかく雰囲気は十分です。この合宿に向けてゼミ生は西田幾多郎著の「善の研究」の1つの章を読んで、1枚のレポートにわかったこと、わからなかったことをまとめて来ました。この勉強会では西田幾多郎が「善の研究」の第二章の言わんとすることをみんなで話し合いながら理解する、ということでした。勉強会が始まると、ゼミ生は西田幾多郎の真似をして丸メガネをかけてテキストを片手に、あーでもない、こうでもないと議論をしました。不思議なことに、ゼミ生や先生と議論をすることによって、1人で「善の研究」を読んでいた時よりも、西田幾多郎の思想をよく理解できました。そして知的興奮を味わいました。あっという間に3時間が経ちました。みんなと哲学についていろいろと考えたり、議論をするのはとても楽しかったです。哲学をする前と後では少し世界が違って見える体験をこの日もできたような気がします。話は少しズレますが、僕が大学に入って、哲学に出会えたことは人生の快事だと思っています。固い価値観が壊され、世界がまるで違って見え、心が震える。以前よりも少しだけ生きやすくなる。呼吸がしやすくなる。こんなにも世界は広いんだと。
哲学勉強会が終わり、宮野ゼミ一行は宿泊先に向かいます。あとはもう遊びです(笑)宮野ゼミは遊びと勉強のメリハリがしっかりとしているので(笑)
夜になると、旅館で、温かい温泉に入り、おいしい食事を食べ、宴会場で旅館の名物女将が毎日上演する女将劇場をみんなで観に行ったりしました(僕は女将に連れられ舞台に上がって踊りました、大盛況?でした)夜が深くなってくるとくだらない話や、お年頃の学生の恋の話等で盛り上がりながらゼミ生や先生と飲むお酒はとても美味しかったです。
翌日は、山口観光です。中原中也記念館、秋芳洞、秋吉台に行き、精一杯遊びました。最後は歩いて本州から九州へ帰ります。歩くと言っても関門海峡の海底トンネルを歩いて九州に入るだけです(笑)
![]() |
| 秋芳洞にて |
LC12台 井上拓海
2015年9月17日木曜日
I like Music or I love Music ?(小林信行先生)
「教員記事」をお届けします。本年度第九回は古代哲学の小林信行先生です。
I like Music or I love Music ?
新学期に新しいゼミのメンバーが顔合わせをする時、互いに簡単な自己紹介をすることがあると思う。あたりさわりのない紹介の一つに、私の趣味は音楽を聴くことです、というものがある。たしかにキャンパスでも街角でもイヤホンをつけたまま歩いている人は多い。もちろん音楽だけではなく、語学の勉強だとか、ラジオ放送の場合もあるだろうが、やはり音楽が一般的だろう。だからこそ音楽好きを自称することは、自分を主張するときよりも人々に紛れて自分を隠すことに向いている。
では自己主張的な音楽好きとはどのような人たちだろうか。かれらはいったいどんな聴き方をしているのだろうか。自分でも移動の際に何回かイヤホンをつけて音楽を聴いてみたことがある。しかし、どうも聴いた気がしない。何よりも、危なくて仕方ない。何かにぶつかりそうになったり、地下鉄を乗り過ごしそうになったり。イヤホンにしろヘッドホンにしろ、周囲から隔絶された状態が作り出されているのでつい音楽に集中してしまい、今ここが何処なのか、そもそも自分が何をしていたのかさえ忘れてしまう。そうかといって、周囲に注意しながら聴いていると、実際には音楽なんて断片的な雑音に近くなってしまい、仕舞いには音が聞こえてくること自体が煩わしくなる。だから自分は音楽好きなのだと自覚している。
今となってはずいぶん昔の話だが、ソニーが携帯プレーヤーを世界的にヒットさせたとき、猿がイヤホンをつけて音楽に陶然と聴き入っているようなコマーシャルがTVで流れていた(YouTubeに動画あり)。あっ、自分もこの猿といっしょだ、といささか複雑な気持ちになったが、音楽好きに人間も動物もないと主張しているようなCMに感心させられた。また、ある学生が家では毎日スピーカーに頭を突っ込んでいますという話をしたときにも、またCD店で買い物をして “No Music, No Life.” とプリントされたシールをおまけにもらったときにも、それなりに感心したことがある。つまり何を言いたいかといえば、音楽を聴いていることがその時は生のすべてであり、また後から考えれば生の一部となるような時間をもつことのできる人間は音楽好きと言えるのではないか、ということなのだ(ただし猿に人生はないだろうが)。
他方でBGMを好む人たちもいる。なんとなく音楽を流している場合もあるだろうし、何か仕事をしながら流している場合もあるだろう。それは環境の一部となった音楽(聴覚)であり、そこでの気温や湿度(触覚)や光(視覚)などと一体になってかれらに心地よい状態を作り出しているように思われる。おそらくその環境が何となくぼんやりさせてくれたりあるいは仕事に専念させてくれるから音楽も要素の一つとして加えられているのであろうが、もしそうだとすれば音楽は生そのものではなく、調味料の一種のようになっているのではないか。もちろん、調味料でも重要なものは重要だという言い方も可能であるし、調味料ひとつで料理がすっかり変わってしまうこともあるだろう。しかしBGMの場合、その環境下でなされる仕事の方にその人の生があるのではないだろうか。哲学的には、環境的なものは生の副原因であると見なされうる。
音楽についてこんな面倒なことを考えるよりも、もっと気楽に音を楽しめばいいのではないか、という声も聞こえてきそうだ。しかし音楽にかぎらず、誰にでもつきまとう好みや愛好はどこかでその人をかたち作っているわけあり、そのよう好みや愛好に自分がどのようにかかわっているかを振り返るだけでも、思いがけない自己発見につながるように思われる。就活の時期が来てあわてて自分さがしに奔走しないためにも、日頃から自分が何を好きなのか、何故好きなのかを気にしてみてはどうだろうか。その答えもそれとのかかわり方も、自分自身で見つける以外にない点が重要なのだけれど。
新学期に新しいゼミのメンバーが顔合わせをする時、互いに簡単な自己紹介をすることがあると思う。あたりさわりのない紹介の一つに、私の趣味は音楽を聴くことです、というものがある。たしかにキャンパスでも街角でもイヤホンをつけたまま歩いている人は多い。もちろん音楽だけではなく、語学の勉強だとか、ラジオ放送の場合もあるだろうが、やはり音楽が一般的だろう。だからこそ音楽好きを自称することは、自分を主張するときよりも人々に紛れて自分を隠すことに向いている。
| photo by y. hirai |
今となってはずいぶん昔の話だが、ソニーが携帯プレーヤーを世界的にヒットさせたとき、猿がイヤホンをつけて音楽に陶然と聴き入っているようなコマーシャルがTVで流れていた(YouTubeに動画あり)。あっ、自分もこの猿といっしょだ、といささか複雑な気持ちになったが、音楽好きに人間も動物もないと主張しているようなCMに感心させられた。また、ある学生が家では毎日スピーカーに頭を突っ込んでいますという話をしたときにも、またCD店で買い物をして “No Music, No Life.” とプリントされたシールをおまけにもらったときにも、それなりに感心したことがある。つまり何を言いたいかといえば、音楽を聴いていることがその時は生のすべてであり、また後から考えれば生の一部となるような時間をもつことのできる人間は音楽好きと言えるのではないか、ということなのだ(ただし猿に人生はないだろうが)。
他方でBGMを好む人たちもいる。なんとなく音楽を流している場合もあるだろうし、何か仕事をしながら流している場合もあるだろう。それは環境の一部となった音楽(聴覚)であり、そこでの気温や湿度(触覚)や光(視覚)などと一体になってかれらに心地よい状態を作り出しているように思われる。おそらくその環境が何となくぼんやりさせてくれたりあるいは仕事に専念させてくれるから音楽も要素の一つとして加えられているのであろうが、もしそうだとすれば音楽は生そのものではなく、調味料の一種のようになっているのではないか。もちろん、調味料でも重要なものは重要だという言い方も可能であるし、調味料ひとつで料理がすっかり変わってしまうこともあるだろう。しかしBGMの場合、その環境下でなされる仕事の方にその人の生があるのではないだろうか。哲学的には、環境的なものは生の副原因であると見なされうる。音楽についてこんな面倒なことを考えるよりも、もっと気楽に音を楽しめばいいのではないか、という声も聞こえてきそうだ。しかし音楽にかぎらず、誰にでもつきまとう好みや愛好はどこかでその人をかたち作っているわけあり、そのよう好みや愛好に自分がどのようにかかわっているかを振り返るだけでも、思いがけない自己発見につながるように思われる。就活の時期が来てあわてて自分さがしに奔走しないためにも、日頃から自分が何を好きなのか、何故好きなのかを気にしてみてはどうだろうか。その答えもそれとのかかわり方も、自分自身で見つける以外にない点が重要なのだけれど。
2015年9月7日月曜日
最近の研究について(岸根敏幸先生)
「教員記事」をお届けします。本年度第八回は神話学・宗教学の岸根敏幸先生です。
わたしが担当する今回の教員記事では、最近、取り組んでいる研究について紹介したいと思います。それは『古事記』と『日本書紀』の神話を比較研究するというものです。
一般に「日本神話」と言いますと、『古事記』や『日本書紀』の最初の部分にある神話(以下では、それぞれを「古事記神話」「日本書紀神話」と呼びます)をイメージする人が多いと思いますが、そのほかにも、地域の伝承を記している『風土記』、特定の氏族の伝承を記している『古語拾遺』『出雲国造神賀詞』、神に対して奏上する文章である「祝詞」、さらに日本各地にある神社創建の由来を記している「御由緒」などにも神話的な記述が含まれている場合があります。その意味で、日本神話は実に多様であると言えるでしょう。
とは言うものの、天(あめ)と地(つち)が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでを、壮大なスケールで描いている点で、古事記神話と日本書紀神話が他の神話を圧倒していることは疑いようのない事実であり、この二つの神話が「記紀神話」と総称されて、日本神話を代表するものとして位置づけられてきたわけです。
しかし、この古事記神話と日本書紀神話ですが、それぞれの記述を比較してみると、実に多くの違いが見られます。そのことに触れるまえに、まず日本書紀神話に見られる特異な構成について話しておく必要があります。
日本書紀神話は二本立てになっていて、編纂者が正式に認める神話(以下では、これを「本文神話」と呼びます)と、それ以外の神話(以下では、これを「別伝神話」と呼びます)から成り立っています。そして、日本書紀神話を構成する全11段のそれぞれで、本文神話のあとに別伝神話が付随するという形をとっているのです。なお、各段にある別伝神話が一つとは限りません。たとえば第五段には実に11種類もの別伝神話が付随しています。分量的に見ても、別伝神話は日本書紀神話全体の75パーセントも占めているのです(漢字の数から概算)。本文神話と別伝神話は基本的に内容が異なっており(同じであれば、わざわざ別伝神話として記載する必要はないですから)、また、別伝神話どうしでも様々な違いが見られます。
日本書紀神話はなぜこのような構成になっているのでしょうか。その編纂作業は、総裁である舎人親王(天武天皇の皇子)と当時の学者たちが、様々なルートを通じて収集した神話を取捨選択するという形でおこなったと推測されますが、なんらかの理由によって――たとえば学者的な良心とか、特定の神を記録から抹消してしまうことに対する罪悪感、あるいは、祟りへの恐れとか――、正式には採用しなかった神話にもそれ相応の価値を認め、保持しようとする意図がはたらいたという可能性も考えられるでしょう。
このような事情があるので、日本書紀神話の特色について厳密に考えようとする場合、編纂者が正式に認めている本文神話だけを対象にしなければなりません。たとえ日本書紀神話のなかに含まれていても、別伝神話は編纂者が正式に認めている神話ではないのです。それを混ぜ合わせて捉えようとすると、日本書紀神話を編纂した人たちの意図を見誤ることになるでしょう。この点に関して一例をあげるならば、死に関わる黄泉つ国という世界は別伝神話に出てくるだけで、本文神話にはまったく登場しません。つまり、『日本書紀』の編纂者は黄泉つ国を正式には認めなかったのです。したがって、「『日本書紀』の神話に登場する黄泉つ国」というような表現には十分注意する必要があるでしょう。
さて、元に戻って、古事記神話と日本書紀神話――特に本文神話――を比較してみますと、前述のように、天と地が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでという神話全体の進行はほぼ同じなのですが、記述の全般にわたって様々な違いが見られます。大本が同じなのだから、そのような違いは枝葉末節の問題であると思うかもしれませんが、その違いのなかには、たとえば「高天原」という天上の世界をどう位置づけるか(日本書紀神話は高天原という世界を正式には認めていないと指摘する先行研究もあります)、アマテラスとタカミムスヒのどちらを皇祖神(天皇家の先祖神)と位置づけるか、スサノヲという神をどのように捉えるか、オホナムヂと出雲神話をどのように位置づけるかなどのように、日本神話の根幹に関わるような違いも見られるのです。
わたしはこの二つの神話を、似てはいるが、まったく別の独立した神話として捉えるべきであると考えています。その点から見ますと、前述した「記紀神話」のように、古事記神話と日本書紀神話の記述を混ぜ合わせるような捉え方では、古事記神話と日本書紀神話の違いを矮小化してしまい、それぞれの神話の特色を見失わせてしまう危険性があるでしょう。さらに、そのような捉え方をするかぎり、一見、同じように見える二つの神話が、おそらくそれほど離れてはいない時期に相次いで成立し、そのあとも併存し続けているという謎は永久に解明されないでしょう。
ということで、数年ほど前から、古事記神話と日本書紀本文神話の記述を徹底的に比較して、一致する点や異なる点を調べ、それらをもとに、それぞれの神話のもつ特色を明らかにしてゆくという研究を行っています。その研究成果は来年に一冊の書物としてまとめる予定です。
最後に一言。わたしは元々、日本神話の研究者ではなかったのですが、いつの間にか日本神話の面白さに取りつかれて、今日に至っています。講義、ゼミ、卒論指導などを通じて、その面白さを伝えることができればと思っています。
一般に「日本神話」と言いますと、『古事記』や『日本書紀』の最初の部分にある神話(以下では、それぞれを「古事記神話」「日本書紀神話」と呼びます)をイメージする人が多いと思いますが、そのほかにも、地域の伝承を記している『風土記』、特定の氏族の伝承を記している『古語拾遺』『出雲国造神賀詞』、神に対して奏上する文章である「祝詞」、さらに日本各地にある神社創建の由来を記している「御由緒」などにも神話的な記述が含まれている場合があります。その意味で、日本神話は実に多様であると言えるでしょう。
とは言うものの、天(あめ)と地(つち)が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでを、壮大なスケールで描いている点で、古事記神話と日本書紀神話が他の神話を圧倒していることは疑いようのない事実であり、この二つの神話が「記紀神話」と総称されて、日本神話を代表するものとして位置づけられてきたわけです。
しかし、この古事記神話と日本書紀神話ですが、それぞれの記述を比較してみると、実に多くの違いが見られます。そのことに触れるまえに、まず日本書紀神話に見られる特異な構成について話しておく必要があります。
日本書紀神話は二本立てになっていて、編纂者が正式に認める神話(以下では、これを「本文神話」と呼びます)と、それ以外の神話(以下では、これを「別伝神話」と呼びます)から成り立っています。そして、日本書紀神話を構成する全11段のそれぞれで、本文神話のあとに別伝神話が付随するという形をとっているのです。なお、各段にある別伝神話が一つとは限りません。たとえば第五段には実に11種類もの別伝神話が付随しています。分量的に見ても、別伝神話は日本書紀神話全体の75パーセントも占めているのです(漢字の数から概算)。本文神話と別伝神話は基本的に内容が異なっており(同じであれば、わざわざ別伝神話として記載する必要はないですから)、また、別伝神話どうしでも様々な違いが見られます。
日本書紀神話はなぜこのような構成になっているのでしょうか。その編纂作業は、総裁である舎人親王(天武天皇の皇子)と当時の学者たちが、様々なルートを通じて収集した神話を取捨選択するという形でおこなったと推測されますが、なんらかの理由によって――たとえば学者的な良心とか、特定の神を記録から抹消してしまうことに対する罪悪感、あるいは、祟りへの恐れとか――、正式には採用しなかった神話にもそれ相応の価値を認め、保持しようとする意図がはたらいたという可能性も考えられるでしょう。
このような事情があるので、日本書紀神話の特色について厳密に考えようとする場合、編纂者が正式に認めている本文神話だけを対象にしなければなりません。たとえ日本書紀神話のなかに含まれていても、別伝神話は編纂者が正式に認めている神話ではないのです。それを混ぜ合わせて捉えようとすると、日本書紀神話を編纂した人たちの意図を見誤ることになるでしょう。この点に関して一例をあげるならば、死に関わる黄泉つ国という世界は別伝神話に出てくるだけで、本文神話にはまったく登場しません。つまり、『日本書紀』の編纂者は黄泉つ国を正式には認めなかったのです。したがって、「『日本書紀』の神話に登場する黄泉つ国」というような表現には十分注意する必要があるでしょう。
さて、元に戻って、古事記神話と日本書紀神話――特に本文神話――を比較してみますと、前述のように、天と地が分離して世界が始まるところから、初代の天皇となるカムヤマトイハレビコが誕生するまでという神話全体の進行はほぼ同じなのですが、記述の全般にわたって様々な違いが見られます。大本が同じなのだから、そのような違いは枝葉末節の問題であると思うかもしれませんが、その違いのなかには、たとえば「高天原」という天上の世界をどう位置づけるか(日本書紀神話は高天原という世界を正式には認めていないと指摘する先行研究もあります)、アマテラスとタカミムスヒのどちらを皇祖神(天皇家の先祖神)と位置づけるか、スサノヲという神をどのように捉えるか、オホナムヂと出雲神話をどのように位置づけるかなどのように、日本神話の根幹に関わるような違いも見られるのです。
わたしはこの二つの神話を、似てはいるが、まったく別の独立した神話として捉えるべきであると考えています。その点から見ますと、前述した「記紀神話」のように、古事記神話と日本書紀神話の記述を混ぜ合わせるような捉え方では、古事記神話と日本書紀神話の違いを矮小化してしまい、それぞれの神話の特色を見失わせてしまう危険性があるでしょう。さらに、そのような捉え方をするかぎり、一見、同じように見える二つの神話が、おそらくそれほど離れてはいない時期に相次いで成立し、そのあとも併存し続けているという謎は永久に解明されないでしょう。
ということで、数年ほど前から、古事記神話と日本書紀本文神話の記述を徹底的に比較して、一致する点や異なる点を調べ、それらをもとに、それぞれの神話のもつ特色を明らかにしてゆくという研究を行っています。その研究成果は来年に一冊の書物としてまとめる予定です。
最後に一言。わたしは元々、日本神話の研究者ではなかったのですが、いつの間にか日本神話の面白さに取りつかれて、今日に至っています。講義、ゼミ、卒論指導などを通じて、その面白さを伝えることができればと思っています。
登録:
投稿 (Atom)










