2022年6月2日木曜日

美大から哲学へ

  「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学の平井靖史先生です。


 たまに聞かれるので、書いてみようかと思う。「どうして油絵から哲学することになったんですか」という疑問。

 最初の大学は武蔵野美術大学の油絵科で、在学生の皆さんの歳の頃には画家になる気満々だったのです。でも、結局美大を卒業した後、東京都立大学の哲学科に「学士入学」で入り直します。そこから卒論書いて修論書いて博士課程に進んで就職して今に至るまで哲学をやってます。

 何がきっかけだっただろう。


 こういう振り返りはいつでも記憶の編集が入るのでそれを差し引いて考えないといけないけれども、ランボーはきっかけの一つだったと思います。19世紀フランスの詩人アルチュール・ランボーです。20代前半には筆を折った早熟の天才。クールな伝説に満ちていて、誰もが(というと言い過ぎですが)憧れる詩人に、自分もかぶれていました。美大で「第一」外国語にフランス語をとったのもそのためでした。そこで藤田尊潮先生に出会って、原文でランボーの詩や他の作家の文章を読んだり、象徴主義など関連する知識を惜しげもなく伝授してもらいました。先生のところに週何日通っていたかは覚えていないけれども、創作しながらずっとフランス文学に触れていました。

 それが嵩じていくうちに、ファン心理ですね。ランボーの背景にあるカバラ思想(ユダヤ教神秘主義)にも興味が湧いて、図書館に通っては『平凡社大百科事典』の関連する項目をコピーしまくって読み漁りました。そこから、宗教学、宗教思想を経由して、哲学の国に入っていた気がします。中沢新一という宗教人類学者が量子力学やら現代数学の話とからめて宗教論を語るという横断的な仕事をしていて、それにも大いに感化されたことをここに告白します。そこから柄谷行人、浅田彰、岩井克人などのいわゆる「現代思想」までは一直線でしたね。

 そう、ちょうどその頃だったと思うんですけど、バルザックの『セラフィタ』というスエーデンボルグの宇宙論の影響を受けたと言われる物語にヒットして、藤田先生のところに持ち込んで一緒に読ませてもらいました。両性具有の天使が十一次元だったかの思弁的宇宙論を展開する、厨二感全開の小説で最高でした(書いてて久々に読み直したくなりました)。


 そこから、哲学科に進むというアイデアが次第に脳の大きな領域を占めるようになり、藤田先生の紹介で、同じく武蔵美の哲学の先生である富松保文先生の研究室の扉を叩くことになります。富松先生からは、進学する大学選びから、ギリシア語・ラテン語、哲学の翻訳作法といった受験対策、ひいては哲学的な議論の組み立て方や外国語二次文献の読み方にいたるまで、文字通り研究者としての基礎体力に必要なことを一通り教わりました。今考えてみたら、そんな濃密なプライベートレッスンをタダで受けていたので、ほんとうに感謝という言葉ではまったく足りません。どうやって返せるかを考えないとですね。

 だいたいそんな経緯ですが、よく思われるように、芸術から哲学に「転向」したという感じは本人にはまったくありません。ごく自然な流れで、自分としては同じことの手段が変わったくらいの気持ちでいます。どちらも世界と出会って、そこに問題が生まれる。それを形にするという仕事。それらの問いは人に理解されるとは限らないプライベートなものだけど、それゆえに普遍的であって、生きることの全てがそこにあるような、そんなところまで似ています。最後の形にするのが絵筆か言語か、キャンバスか論文か、その手先のフィット感の違いくらいじゃないでしょうか。

 最後にランボーの詩の中からお気に入りを一つ。拙訳で。

アルチュール・ランボー
「曙」(『イリュミナシオン』所収)

夏の曙を懐(いだ)いてしまった。

立ち並ぶ宮殿の前に、身動きするものは何もなかった。水は死んでいた。影たちのキャンプも、まだ森の道に留まっていた。僕は、歩きながら、生き生きとしてほの暖かい息吹たちをつぎつぎと目覚めさせていったんだ。するとね、小石たちが瞼を開いた。翼の群れが音もなく舞い上がった。

最初の挙動はと言えば、初々しくも蒼ざめた煌めきにあふれていた小径で、一輪の花が僕に名を告げてくれたことだった。

モミの木越しに髪を振り乱すブロンドの滝に微笑みかけた僕は、その銀ギラの峰に、女神の姿を認めたんだ。

そこで僕は、一枚一枚そのヴェールを剥(む)いていった。並木道では、腕を振り振り。原っぱを抜けるときには、雄鶏のやつに密告してね。大きな街にはいると、女神は教会の鐘やドームにまぎれて、姿をくらましてしまって。それでも僕は、大理石の河岸を乞食みたいに駆けずり回っては、彼女を追い続けた。

道を登りきったところ、月桂樹のある辺りかな、ついに僕は、集めたヴェールで彼女をふわりと取り巻いたんだ。ふと、彼女の茫漠たる身体が、かすかに匂いたった。曙と子供は、樹の足元に倒れ込んだ。

目覚めれば、正午だった。
(訳 平井靖史)

※写真はすべて平井によるもの。 

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