2022年2月28日月曜日

大観音像と現代宗教のゆくえ

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、地理学の藤村健一先生です。


1.久留米市の救世慈母大観音

 成田山久留米別院明王寺は久留米市の観光名所の一つである。境内には地獄の責め苦の様子を人形で表した「地獄館」や、インド・ブッダガヤの大菩提寺を模した「平和大仏塔納骨堂」などの堂宇があるが、最もよく知られているのは「救世慈母大観音」である。

救世慈母大観音(2022年2月筆者撮影。以下同様)

 これは同寺の住職の発願により1983年に造立された、高さ62mの白亜の大観音像である(成田山久留米分院ウェブサイト[https://www.kurume-naritasan.or.jp/about/jibokannon/])。遠方からでもよく見えるため、周辺地域のランドマークになっている。


国道3号線・成田山入口交差点付近から見た救世慈母大観音

 観音像の胸や肩の辺りには展望孔(一辺20~30cm程度の小窓)がある。拝観料を払って像の内部に入り、螺旋階段を昇って展望孔をのぞくと周囲を見下ろす景色が楽しめる。像の内部では水子供養も行われている(成田山久留米分院ウェブサイト[https://www.kurume-naritasan.or.jp/kigan/mizuko/])。


展望孔
展望孔からの景観

 この観音像は鉄筋コンクリート製で、近年汚れが目立ってきたため、昨年約2億円を費やして表面を白く塗りなおす修復作業が行われた(「「慈母観音像」化粧直し 久留米」読売新聞オンライン2021年3月30日[https://www.yomiuri.co.jp/local/fukuoka/news/20210329-OYTNT50108/])。費用は寄付(志納)やインターネット(READYFOR)を通じたクラウドファンディングで賄ったという(成田山久留米分院ウェブサイト[https://www.kurume-naritasan.or.jp/kurafan/])。


2.全国の大観音像

 こうした大観音像はここだけでなく全国各地に分布している。地理学者の津川康雄は1998年、ランドマーク研究の一環として、全国の大観音像の分析を行った(津川康雄「宗教的ランドマークとその要件―大観音像を例として―」立命館地理学10、1998年[http://hdl.handle.net/10367/2234])。津川によれば当時、高さ25m以上の大観音像は全国に14体あった(岩壁に削られた大観音像はこれに含まない)。

 これらの観音像は大半が鉄筋コンクリート製である。造立は昭和初期に始まるが、多くは第二次世界大戦後に造られた。久留米市の救世慈母大観音のように寺院が主体になって造立したものもあるが、多くは観音信仰を有する資産家が私財を投げうって造ったものである。ただし維持管理に多額の費用を要するため、個人的所有から寺院等を介在・付置して宗教法人化したり、併設の諸施設とともに観光客などから入場料収入を得て費用を捻出したりしている例が多い。はじめからレジャーランドなどに観光資源として造立されたものも少なくない。

 津川は、資産家による造立の動機には本人の「宗教的純粋さ」に加えて、「何らかの形で成功の証を大観音像に託し、後世への自らの存在感を自己満足的に満たす」側面もあると推察している。また、「一部に商業主義的に造立されたものと思われるものが若干見られることは残念である」とも記している。

 一方で、「根本的に大観音像は宗教的建造物である」と述べ、「信仰対象としての普遍性とともに、あらゆる人々に違和感なく受け入れられる存在であり、人々に安らぎや安堵感をもたらす」ので、造立にあたって「人々から大きな反対意見が生じない」。「いずれ他の宗教的健造物などと同様に文化財的価値が見出される可能性が高い」と指摘している。実際、全国の大観音像の先駆けとされる群馬県高崎市の「高崎白衣大観音」(1936年造立。高さ42m)は、2000年に国の登録有形文化財に指定された。


3.「迷惑観音」

 しかし近年、一部の大観音像が廃墟化し地元で問題視される事態となっている。なかでも有名なのは、兵庫県淡路市の「世界平和大観音像」である。これは1982年、淡路島出身の実業家が造立した高さ100mの観音像で、展望台を備え、像の内部には絵画やクラシックカーなどが展示されていた。ここは一時、「豊清山平和観音寺」を名乗っていたものの、宗教法人格は得ておらず、実態は観光施設であったとみられる(徳永猛城「淡路島の「観音さん」が解体へ 国が8億円超の税金かけ」朝日新聞デジタル2021年8月28日[https://www.asahi.com/articles/ASP8W3K7JP7PPTIL046.html])。

 当初は観光客を集めたが、徐々に人気が薄れていった。実業家が1988年に亡くなった後、妻が施設を相続したが、その妻も2006年に死亡し、遺族が相続を放棄したため閉鎖された。その後荒廃が進み、2014年には像の外壁の崩落が見つかったため、倒壊を恐れた周辺住民が市へ対応を求める事態になった。これを報じた産経新聞の記事では「迷惑観音」と呼ばれている(藤崎真生「所有者不在で荒れ果て放置される巨大迷惑観音像…複雑に絡む権利・法律、倒壊の危険も行政は手を出せず」産経ニュース2014年10月2日[https://www.sankei.com/article/20141002-A237XK3LORIRLNA3WLFLPKOCUI/])。

しかし市は有効な手を打てず、大観音像の荒廃はますます進行した。結局、相続人不在を理由に2020年に国有化され、政府が約9億円をかけて像を解体することになった。読売新聞はこの大観音像を鬼怒川温泉(栃木県)の廃墟ホテル群などと併せて取り上げ、こうした「老朽化した民間の巨大施設」の処理に自治体が苦慮していると報じている(加藤律郎「廃虚となった巨大観音像、なぜかオーナーは国…「税金」9億円かけて異例の解体工事中」読売新聞オンライン2022年1月21日[https://www.yomiuri.co.jp/national/20220121-OYT1T50211/])。これらは周囲の安全と景観を損なう「迷惑施設」といえよう。「人々に安らぎや安堵感をもたらす」はずの大観音像が地元でこのように扱われるのは皮肉である。


 こうした「迷惑観音」はここだけではなく、各地で問題化しているようだ。昨年の日刊SPA!の記事では、廃墟化が進んでいる「迷惑大仏」の例として、前述の「世界平和大観音像」のほかにもいくつかの大観音像が紹介されている(池田潮「廃墟化が進む「迷惑大仏」の末路。全国に点在、まるで時限爆弾」日刊SPA! 2021年8月5日[https://nikkan-spa.jp/1768659])。これらは周辺住民から崇敬されたり、ランドマークとして親しまれたりしているとは言い難い。

 世界平和大観音像のように、個人や会社の管理下にあるものは、相続や経営難などで荒廃し「迷惑観音」化するリスクをはらんでいる。久留米市の救世慈母大観音のように、寺院が適切に補修・管理していればその可能性は小さいが、日刊SPA!の前掲記事によれば、寺院所有の大観音像の中にも管理が行き届かないものがあるという。

 大観音像は一種の高層建築なので遠くからでもよく見え、特徴的な形状ゆえによく目立つ。そのため、荒廃すると広範囲に廃墟景観をさらす「負のランドマーク」になってしまう。

 一方で、津川が指摘したように、地域のランドマークとして定着し、支持されている大観音像も少なくない。例えば高崎白衣大観音は、アンケート調査によれば、多くの高崎市民からシンボルックなランドマークとして肯定的に捉えられている(津川康雄「宗教的ランドマークの成立過程―大観音像を例として―」地域政策研究1-1、1998年[http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun1-1/mokuji1-1.htm])。

 仙台市の「仙台大観音」(高さ約100m)は、1991年にレジャーランドの一角に造立された(津川「宗教的ランドマークとその要件」)。当初、周辺住民からは不評だったが、今では地域のランドマークとして親しまれている。ここは2017年にタイの映画のロケ地として使われたこともあり、外国人観光客も増えてきているという(古山和弘「身の丈100m「吸引力」抜群 仙台大観音(仙台市)」日経電子版2018年6月19日[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO31847890V10C18A6H91A00/])。


4.観光と融合する現代宗教

 ところで近年、宗教学界では、教団中心の制度宗教が弱体化するなかで、制度宗教への深い関わりを望まない個人が、宗教を自分の好みに合わせ取捨選択して消費する「軽い宗教」の拡大が指摘されている。聖地や「パワースポット」を訪れる人が増え、宗教ツーリズムが盛んになっているが、これらは「軽い宗教」の拡大の一端として捉えられる。「軽い宗教」は市場原理と需給関係のなかでやり取りされる流動的な宗教であり、供給側の寺院・神社は消費者の好みに合わせて自らを調整している(山中弘「宗教ツーリズムと現代宗教」観光学評論4-2、2016年[https://doi.org/10.32170/tourismstudies.4.2_149]。山中弘「消費社会における現代宗教の変容」宗教研究91-2、2017年[https://doi.org/10.20716/rsjars.91.2_255]。岡本亮輔「ジェネリック宗教試論―脱信仰化する現代宗教―」山中弘編『現代宗教とスピリチュアル・マーケット』弘文堂、2020年所収)。

 こうした状況では、宗教と観光の境界が曖昧になってくる。これをもって「宗教と観光の融合」を指摘する研究者もいる(岡本亮輔『聖地巡礼』中公新書、2015年)。

 しかし、注意したいのは、観光地には流行り廃りが顕著である点である。消費者のニーズの変化に対応できず人気の無くなった観光施設は、もはや利益を生まぬ無用の存在として、鬼怒川温泉の廃墟ホテル群のように放置されることもある。宗教と観光がこのまま融合していくと、宗教施設にもそのような形で廃墟が続出する恐れがある。廃墟となった宗教施設は心霊スポット化し、地域の迷惑施設になりかねない。

 従来、聖地や宗教施設を維持管理してきたのは教団である。たとえば京都の有名寺院は、これまで兵火や経済的基盤の喪失といった苦境にあっても、宗門の僧侶や信徒が中心になって、堂宇や境内地を何とか維持しようと努力してきた。教団やそれに属する聖職者・信者にとって、信仰の拠点である聖地や宗教施設は特別な意味を持つ。そのため、経済的利益の有無にかかわらずその維持管理に注力し、容易に手放さない。

 だが、観光客は特定の場所・施設に執着する理由がないので、流行のスポットには束になって押し寄せるが、人気の無くなった所からは潮が引くようにいなくなる。観光業者も同様に執着心に乏しく、不採算のホテルや観光施設は躊躇なく閉鎖・売却されることが多い。

 観光施設と同様に、大観音像もこれまで所有者が転々としてきたものが少なくない。今後、宗教と観光の融合が今以上に進展すれば、大観音像のみならず一般の寺院や神社も観光施設としての性格を強め、やがて「迷惑観音」ならぬ「迷惑寺院」・「迷惑神社」が全国に続出するのではないかといささか心配になる。

 実のところ、大観音像はウェブメディアやSNSなどでB級スポットのように扱われることも珍しくない。しかし、大観音像の多くは宗教施設と観光施設の両方の性格を有するマージナルな存在であり、いわば「宗教と観光の融合」のパイオニアである。であれば、大観音像は現代宗教の行き先を暗示しているのかもしれない。果たしてその将来は暗いか明るいか?



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