2022年1月21日金曜日

幸福と運

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、哲学・倫理学の林誓雄先生です。


 ここ数年,飲み会がらみのブログ記事ばかりで,こいつはまともに教育・研究をしていないのではないか,と思われかねない状態である。そのため(もはや手遅れかもしれないが),さすがに今回はゼミのことについて,少しだけ(まじめに)書いてみることにしたい。

 今年度の後期ゼミは,思想系(哲学・倫理学)のゼミであるにもかかわらず(?),ありがたいことに,なんと15人もの方が配属希望をだしてくださった(ゼミの人数としては,過去最大・ちょっと多すぎかしら汗)。さてそのゼミでは,共通テーマを設定し,15人を5人*3グループに分けてグループワークをしてもらったのだが,取り組んだテーマの一つに「幸せ・幸福」というものがあった。哲学・倫理学においては,王道中の王道テーマの一つである。

 とはいえ,人類が二千年以上取り組んできてもなお,答えが見えてこないこのテーマに,ぼんやりと取り組んでいては結論など出るはずもない。そのため,もう少し絞り込んで,次のような「問い」に,答えを与えてもらうことにした(それでもまだ,あまり絞り込めていなかったのだけれど)。


---------- 問い ----------

①「(誰か/何かの)役に立つ」こと,

②「生きている価値」,そして

③「幸せ・幸福」

以上の3項間の関係はどのようなものかについて,

それぞれに対して具体的な例を与えながら説明した上で,

「幸せ・幸福な人生」とは,具体的にはどのような人生であるのか,

説明しなさい。

---------- ◆◇ ----------


 この問いについて,各グループにて資料集め・ディスカッション・スライド作成など,5回ほどワークをしたのちに,6回目に各グループからのプレゼンテーションを,そして7回目に,全体で合同討議を行って,さまざまな角度から,「幸せ・幸福な人生」とはどのようなものであるのか,考えてもらった。ざっと,各班の最終的な結論を列挙すると,以下の通りとなった。


---------- 結論 ----------

A班:「幸せ・幸福な人生とは、生きていることを実感出来る人生である。」

B班:「人の役に立つことや自分自身が幸せだと感じることを通して、生きる価値を見出し続ける人生こそが幸福な人生である。」

C班:「幸福な人生とは、自分の望む自己の生きている価値を感じられる人生であり、そのための手段になり得るのが(誰か・何かの)役に立つことである。」

---------- ◆◇ ----------


 もちろん,各班からはそれぞれの結論を支える理由・論拠が提出されており,たとえば,ポジティブ心理学の知見や,マズローの欲求五段階説,エリクソンのアイデンティティ概念に加えて,神谷美恵子『生きがいについて』での議論など,各班での調査と議論における努力のあとが垣間見えるものであった。その一方で,各班に共通して少なくとももう一つ,幸せ・幸福について考える上で見落としているのではないか,と思われる要素があるように見えた。すなわちそれは,「運」の問題である。

 倫理学における「運」の問題は,それこそこれまた,王道中の王道のテーマの一つであるわけだが,まさに人生について,特に「幸せ・幸福な人生」について考察するときには,触れずに通ることは難しいものの一つである(し,考察するにしても,とんでもなく難しく厄介な問題である)。

 たとえば,昨年末,大阪で起こったクリニック放火殺人事件にて,一人の人間の身勝手な犯行により,未来を完全に絶たれてしまった人々。未来を完全に絶たれたわけではないのかもしれないけれど,一人の人間の破滅的な犯行により,万全の準備をして臨もうと思っていた共通テストの本試を受けることができず,その心と体に傷を負ったまま,再試にまわることになった二人の受験生。あるいは,27年前に発生した,阪神淡路大震災によって,その命を奪われてしまった多くの人たち。はたまた,歌手として・俳優として芸能界でこれ以上ないような成功をおさめ,子どもにも恵まれたものの,その子どもが突然,札幌のホテルから身を投げて自死してしまった,二人の親。こうした人たちはみな,あえて一言でまとめることができるとしたら,「運」が悪かったと言うことができるかもしれない。もちろん,人間の悪意・自然災害・子どもの行動の影響など,その原因や理由には大きな違いがあって,すべてを「運」としてまとめてしまうことは,無茶であり乱暴に過ぎると,叱られるかもしれない。しかしながら,少なくとも「幸せ・幸福な人生」というものを考える上では,「運」の要素を外すことができないということに,間違いはないように思われる。

 「生きていることを実感できる人生」を歩んでいたとしても,突然,一人の人間の悪意によってその人生が終わらされたとしたら,その人の人生は「幸せ・幸福」であったとは言えないだろう。「人の役に立つことや自分自身が幸せだと感じることを通して、生きる価値を見出し続ける人生」を歩んでいたとしても,突然火山が噴火した影響で家が倒壊し,家族に死傷者が出てしまった場合,その人の人生が「幸せ・幸福」であるとは,なかなか言えないだろう。「(誰か・何かの)役に立つことで自分の望む自己の生きている価値を感じられる人生」を送っていたとしても,愛する娘がホテルの部屋から飛び降りてしまったとしたら,自分の人生が「幸せ・幸福」だったと思うような親は,きっといないだろう。こうしたことを考えると,人間が「幸せ・幸福」になるためには,あまりにも「運」の要素が大きいものであるようにも思えるし,自分が死ぬ間際になってしか,自分の人生が「幸せ・幸福」なものであるかどうかはわからないとも言えるだろう。

 さて,2年ほどが経とうとしているけれども,世界は相変わらずコロナ禍である。変異の続くウィルスに,われわれの生活も対応を余儀なくされ続けている。日常的なマスク着用はもとより,気兼ねなく新年会や送別会,卒業式後の謝恩会すら開催できない日々が今もなお,続いている。2年前までは,飲み会や大人数でのパーティなど,人生の一部として,なんの気兼ねもなくできていた。大学生なら,日々の授業や研究だけでなく,サークル活動・部活動,バイトやゼミコン・合コンなどなど,ノーマスク三密でのキャンパスライフのお楽しみが,少なくとも4年間続いていたはずである。しかし,その頃に比べると,今や授業は遠隔が当たり前,マスクは必須,大人数でのコンパなど気軽にひらけたものではない。緊急事態宣言が発出されれば,大学への入構も制限されて,楽しく貴重な青春の数年間が奪われることになってしまう。「運」悪く,そのような・もう戻ってこない・かけがえのない青春の1ページが奪われた人生は,果たして「幸せ・幸福」な人生と,言うことができるのだろうか。いやいや,たかだかマスク着用やコンパの開催制限ごときで「幸せ・幸福」ではないと言うだなんてちゃんちゃらおかしい,大震災や戦争が起こっていないだけもマシであろう,と言われるかもしれない。確かに,ウィルスは蔓延しているのだとしても,しかし多くの人間の命が即座に失われてしまうような極めて危険な状況とまでは言えないのかもしれない。その意味で,幸せではない・不幸だ,とするのはおかしいのかもしれない。しかしながら,それではもう少し厳密に考えるとすると,コロナ禍と戦時下では,何がどのように違うのだろう。一方が「幸せ・幸福」に影響せず,他方は「幸せ・幸福」に影響するのであるなら,その影響の違いは,どこにあると言えるのだろうか。。。

 といったことを,もう少し深く,ゼミの全体討論において,掘り下げてみんなで考えてみたかった,というのが正直なところであった。しかしながら,授業の途中まで覚えていたにもかかわらず,別の議論に熱を奪われてしまったために,この「運」の要素について,「幸せ・幸福」について考えるためには,とても大切なこの要素について,触れないまま授業を終わってしまったのは痛恨の極みである。だから,反省の意味もこめて,今晩は(も)お酒を飲んで,このコロナという不運のことを忘れることにしよう。(←反省していません)


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