「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、地理学の磯田先生です。
こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。
まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフサイクルの重要なステージで移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」以前から、そのようなことが気になってしまいます。
また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。
次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行うなかで身近になってきた分野といえるかもしれません。過去7回、インナーモンゴリア・香港・回民・哈尔滨・广州・西安についてご紹介してまいりましたが、今回は北運河と南運河の合流点である天津(ティエンジン)についてご紹介いたします。
天津は、中国の4つの直轄市のひとつで同国を代表する大都市です。人口は約1,500万人。100kmあまりの距離にある首都・北京とは高速鉄道や高速道路で結ばれており、前者を利用すれば30~40分の時間距離です。渤海(ボーハイ)に面した港町であり、物流・貿易がこの街を特徴づけています。多くの違いは存在するものの、私たち日本人には東京近郊にある横浜を思い起こさせる街です。国内最大の中華街と(日本の中華料理の)天津飯がさらに両者の距離を縮めてくれるような気がします。実際の天津の街並みは古いものと真新しいものが同居しており、ちょっと不思議な感覚になります。南市食品街の古い門構えと商店街には、所狭しと小売店と飲食店が犇めき合っています。その様子は、まるで日本の駄菓子屋さんと露店が何かのイベントで多数集まったかのような感じです。天津麻花儿(マーファー)や包子(バオズ)はご当地発祥のものでとくに有名です。私が訪れた5年前には人、人、人の混雑ぶりでした。食べ歩きをする人たちも多く、「天津小吃」(ティエンジンシャオチー)の名で知られています。
天津にはかつての租界があり、その数は中国最多であったと言われています。異国情緒漂う市内中心部にはヨーロッパ風の街並みを巡る観光馬車が走り、ゆっくりとその景観を見て回ることができます。少し離れたところには運河があり、世界史で勉強した隋代の大運河(隋唐大运河)の一端を見ることができます。江南と华北を結ぶ運河の歴史は隋代よりもはるか昔の春秋時代に溯ります。南方の水を北方に送る運河は、時代とともに経済的な価値を大きくしていきました。洛阳と华北が結ばれていたときには洛阳が栄え、元代に運河を直線状に軌道修正した時には大都(北京)に多くの富がもたらされました(京杭大运河)。順次拡張されてきた運河は天津にも多くの人々や物資を運んできました。現在、天津には同国56の民族のうち50以上のそれらが暮らしているという報告もあります。郊外にある回族の清真大寺はこの街の多民族・多文化的な面を表しています。
中国の水上交通は、概して西から東への流れに要約されます。长江や黄河に代表される大きな河川が東流しているからです。運河はその流れを人工的に修正したものにほかなりません。太古の昔に何という大胆な発想でしょう。この新たな流れが異文化の交流を促進し、人々の生活を変えてきた大きな要因となったわけです。大胆な発想というものは容易く得られるものではありませんが、何かに触れることにより、意外なことから気づかされることもあります。天津にはそのきっかけとなる異文化が満ちているような気がします。
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