拝観料とは何か?観光寺院とは何か?
藤村健一(地理学)
宗教学者の岡本亮輔氏は、2015年の著書『聖地巡礼』(中公新書)の「序章」で、両者の関係の変化を次のように分析した。
さらに「第3章 世界遺産と聖地」の中で、現在の両者の関係を次のように評価した。
一方で岡本氏は今年2月、講談社のウェブサイト「現代ビジネス」に「日本で急速に進む『宗教の観光利用』の危うさに気づいていますか」という論文を発表した。この中では近年、日本で宗教の観光資源化が目立っており、自治体と宗教法人の「政教連携」によってその促進が企図されている現状を紹介したうえで、次のように懸念を示している。
これを読むと、やはり宗教と観光の関係は簡単ではないとあらためて感じる。
昨年某日、朝日新聞大阪本社の岡田匠記者から取材依頼の連絡が入った。岡田記者とは一面識もなかったので、何事かと思いながら依頼書を読んだ。これによれば最近、京都・奈良や鎌倉の寺院で拝観料の値上げが相次いでいるとのこと。ついては「藤村先生に拝観料について、色々と教えて頂きたい」と書かれていた。
私は2016年、「京都の拝観寺院の性格をめぐる諸問題とその歴史的経緯」(『立命館文学』645)という論文を書いたので、たぶん記者がこれを読んで依頼してこられたのだろうと考えた。けれども、“拝観料の専門家”だと思われていたとは意外だった。
たしかに当時は観光寺院(拝観寺院)について調べていて、同年には「上海における仏教の観光寺院の空間構造・性格・拝観」(『E-journal GEO』11-1)という論文も書いた。しかし、自分の専攻分野はあくまでも宗教地理学だ(と思っている)。宗教地理学では、宗教に関わる空間の構造・意味・変化などについて明らかにする。そのため、これらの論文では、観光寺院の建物配置や、人々の観光寺院に対する意味づけ(イメージ)、歴史などを分析した。拝観料についてもこの中で触れているが、私自身、別段拝観料に詳しい訳ではないし、最近の値上げについてもよく知らない。岡田記者にはそのようにお伝えしたが、結局、求めに応じて私見を述べさせてもらった。その内容は、昨年11月14日の『朝日新聞』朝刊記事(岡田匠「大寺院の拝観料 相次ぐ値上げ」)の中で、私のコメントとして掲載された。
ただ考えてみると、拝観料を専門としている研究者はたぶんいない。これに関する既往研究も僅かしかない。だから、この問題についてコメントできる者が私くらいしか見当たらなかったのだろう。「鳥なき里のこうもり」の心境である。
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しかし、京都・奈良などの有名寺院を見るには拝観料が必要だから、支払ったことがある人は多いはずだ。また京都では1980年代、拝観料に上乗せする「古都保存協力税(古都税)」が社会問題になった(88年廃止)。最近でも、朝日報道以降、『読売』(「社説」2017年11月26日朝刊)や『日経』(「拝観料 相次ぎ値上げ」2018年1月11日朝刊)など各紙が相次いで拝観料の値上げ問題を取り上げている。にもかかわらず、仏教学や観光学などの関連学界では(古都税問題が起きた80年代を除いて)拝観料が注目を集めることはない。その背景には、拝観料の性格のあいまいさがあるとみられる。
朝日記事の中で、私は「拝観料には宗教行為のお布施と、文化財を見ることへの対価の両方がある」とコメントした。拝観料は、拝観者の大多数を占める観光客にとっては、文化財の入場・見物のための定額料金である。一方、寺院側は建前ではそれを拝観者の自発的な寄進(お布施)だと捉えている。とはいえ、不特定多数の拝観者(観光客)に対する教化に熱心な寺院は少ない。それゆえ、これを観光産業の文脈のみで論じることはできないが、かといって仏教教学の立場で論じることも容易ではない(ただし、観光寺院が加盟する京都仏教会は、古都税問題以降、拝観行為の教義的な正当化に努めている)。
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拝観料を徴収する観光寺院もまた、あいまいな存在である。同記事で、私は宗教地理学の立場から「観光寺院は宗教空間、観光施設、文化財の3つの側面がある」とコメントした。これらの側面(性格、意味)については『立命館文学』の拙稿で詳述し、今年度の「文化地理学」の授業でも説明したが、ここではこれら3つの相互関係について手短に述べたい。
「観光施設」というのは、観光産業や観光客の側からの意味づけである。観光産業はビジネスである以上、営利目的であり、観光客は支払う対価にみあったサービスを求める。しかし、観光寺院といえども教団や僧侶、信者(檀家)にとっては「宗教空間」であり、営利目的の施設ではないという認識がある。拝観料も、宗教活動に伴うお布施とされ非課税である。観光寺院の僧侶であっても、自分たちの寺が単なる観光施設とみなされることにはしばしば抵抗感をもっている。
このように、「宗教空間」と「観光施設」の側面は、あまりしっくりいかない関係にある。そこで観光寺院としては、不特定多数の観光客に拝観させることを教義的に正当化する必要が生じる。朝日の記事には「山川草木すべてに仏があり、境内に入れば宗教心を感じる。拝観は宗教行為だ」という清水寺幹部の声が紹介されているが、これはその一例といえる。
一方、多くの寺院では、お堂や仏像などが「文化財」に指定されることに対し、さほど抵抗感をもっていない。しかし「文化財」は行政が選定するものなので、「文化財」と「宗教空間」の関係は政教関係の文脈で捉えることもできる。憲法の政教分離原則のもと、両者の関係は潜在的に対立要素をはらんでいるともいえよう。
これらの関係に比べれば、「観光施設」と「文化財」の関係は親和的である。観光施設に「文化財」という公的なお墨付きが与えられれば、集客力が向上する。文化財保護を担当する行政機関としても、観光を通じて文化財への国民の理解が進むことが期待できる。しかも、昨年3月に閣議決定された『観光立国推進基本計画』には、文化財を観光振興に積極的に活用していく政府方針が明示されている。しかしその翌月、山本幸三・地方創生担当大臣が「観光マインドがない学芸員はがんだ」という趣旨の発言を行った際には、文化財保護を担う学芸員から反発の声が上がった(佐藤丈一・岸達也「学芸員 怒り心頭」『毎日新聞』2017年4月20日朝刊)。
このように、観光寺院の3つの側面は、宗教界、観光業界(観光客)、行政の関係者が、それぞれ異なる立場から寺院を意味づけた結果として生じている。同時に複数の側面を併せもつがゆえに、「観光寺院」はあいまいでどことなく違和感を抱かせる概念となっている。
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さきほど、「宗教空間」と「観光施設」の関係はしっくりいかないと述べた。それでは、「宗教」と「観光」の関係はどうだろうか?
宗教学者の岡本亮輔氏は、2015年の著書『聖地巡礼』(中公新書)の「序章」で、両者の関係の変化を次のように分析した。
“近代以降は、聖地巡礼と観光はひとまず別の現象として語られてきた。”
“そして場合によっては、巡礼(者)と観光(客)は対立するものとしてとらえられている。”
“ただ、その様相は、現在また変わろうとしている。”
“現在起きているのは宗教と観光の融合である。” (下線引用者)
“そして場合によっては、巡礼(者)と観光(客)は対立するものとしてとらえられている。”
“ただ、その様相は、現在また変わろうとしている。”
“現在起きているのは宗教と観光の融合である。” (下線引用者)
さらに「第3章 世界遺産と聖地」の中で、現在の両者の関係を次のように評価した。
“これは単に宗教文化が観光用の商品として加工され、販売されているということではない。宗教と観光が融合しながら、従来とは異なる仕方で互いを位置づけ直し、新しい距離感を持って存在し始めているのである。”
“こうした状況においては、世界文化遺産制度は、宗教が社会の中に新たな位置取りをするための重要なルートになっている。世俗の基準と評価を意識しながら、宗教は、見るに値すべき文化として再び価値を与えられているのである。” (下線引用者)
“こうした状況においては、世界文化遺産制度は、宗教が社会の中に新たな位置取りをするための重要なルートになっている。世俗の基準と評価を意識しながら、宗教は、見るに値すべき文化として再び価値を与えられているのである。” (下線引用者)
一方で岡本氏は今年2月、講談社のウェブサイト「現代ビジネス」に「日本で急速に進む『宗教の観光利用』の危うさに気づいていますか」という論文を発表した。この中では近年、日本で宗教の観光資源化が目立っており、自治体と宗教法人の「政教連携」によってその促進が企図されている現状を紹介したうえで、次のように懸念を示している。
“神社仏閣は歴史的に地域の核となってきた場合が多く、有力な観光資源になりうる。そして現在、観光も地域全体で取り組むべき重要課題とみなされるようになっている。”
“つまり、宗教と観光が一体となって地域を動員する形が生まれやすくなっているのだ。”
“しかし、筆者はすぐに軍靴の音が聞こえてくるタイプではないつもりだが、政教分離という近代国家の基本原則が観光化という意外な文脈でなし崩しに侵されることには注意を払う必要があると考える。” (下線引用者)
“つまり、宗教と観光が一体となって地域を動員する形が生まれやすくなっているのだ。”
“しかし、筆者はすぐに軍靴の音が聞こえてくるタイプではないつもりだが、政教分離という近代国家の基本原則が観光化という意外な文脈でなし崩しに侵されることには注意を払う必要があると考える。” (下線引用者)
これを読むと、やはり宗教と観光の関係は簡単ではないとあらためて感じる。
結局のところ、聖地や寺院、神社などの宗教的な空間をめぐって、宗教界・観光業界・行政が、互いの立場の違いに配慮しつつ、一定の距離を置いて関わるのが望ましいといえるだろう。
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