多様な人々が行き交う街・香港
―異文化の接触地帯3―
―異文化の接触地帯3―
磯田 則彦(地理学)
香港の人々は、いわゆる中国語(普通話)も広東話も話します。何だかんだ言って同じ「中国語」なのでしょう?と思われる方も多いと考えられますが、まったく「別物」です。具体的に言えば、香港の人々は中国語(普通話)も広東話もわかりますが、北京(ベイジン)や上海の人々には広東話はほとんどまったく聞き取れません(話せません)。その状況は、まるでベトナムの言葉を聞いているかのような感覚だと言えばおわかりいただけるでしょうか。香港に隣接する深圳(シェンジェン)ですらそうなのです(経済特区として発展し、大都会となったこの街には広東以外からの来住者がたくさんいます)。一方、香港の人々の中には日常的に英語を使用する方がたくさんいます(教育を中心に、どのような環境で育ったかによります)。電車やバスに乗っていると、彼らが一続きの会話の中で3者を次々に用いているのが聞き取れます。言うなれば、「言語のチャンポン」といったところでしょうか?最初は驚きましたが、慣れてくるとそれが当たり前に感じられるから不思議なものです。複数の言語を習得できるか否かは、大いに環境によると痛感させられました。
こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。
まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフステージの要所要所で移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」。以前から、そんなことが気になってしまいます。
また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。
次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行う中で身近になってきた分野と言えるかもしれません。前回・前々回と私のフィールドの中から「インナーモンゴリア」についてご紹介してまいりましたが、今回はぐっと南下して近々返還20年を迎える香港についてご紹介いたします。
日本社会に暮らす私たちにとって、「香港を知らない人はいない」と言えるくらいこの街は有名です。それは、中国への返還前後ともに同様です。多くの人々が観光やビジネスで香港を訪れます。果たして、どんな街なのでしょうか?香港は19世紀に清からイギリスに割譲された土地で、南京条約により香港島が、そして北京条約により九竜半島南部が割譲されました。「ホンコン(Hong Kong)」や「カオルン(Kowloon)」などの呼称・表記が日本社会では一般的ですが、元来この地は遠い昔から中国・広東の一部です。いわゆる中国人はマンダリン・チャイニーズ(普通話)で「シャンガン(香港)」・「ジュウロン(九竜)」と呼びます。
香港の人々は、いわゆる中国語(普通話)も広東話も話します。何だかんだ言って同じ「中国語」なのでしょう?と思われる方も多いと考えられますが、まったく「別物」です。具体的に言えば、香港の人々は中国語(普通話)も広東話もわかりますが、北京(ベイジン)や上海の人々には広東話はほとんどまったく聞き取れません(話せません)。その状況は、まるでベトナムの言葉を聞いているかのような感覚だと言えばおわかりいただけるでしょうか。香港に隣接する深圳(シェンジェン)ですらそうなのです(経済特区として発展し、大都会となったこの街には広東以外からの来住者がたくさんいます)。一方、香港の人々の中には日常的に英語を使用する方がたくさんいます(教育を中心に、どのような環境で育ったかによります)。電車やバスに乗っていると、彼らが一続きの会話の中で3者を次々に用いているのが聞き取れます。言うなれば、「言語のチャンポン」といったところでしょうか?最初は驚きましたが、慣れてくるとそれが当たり前に感じられるから不思議なものです。複数の言語を習得できるか否かは、大いに環境によると痛感させられました。
香港は、澳門(マカオ)と並んで「東洋と西洋の文化が融合した街」とよく言われます。上述の言語のほかにも、建築物や乗り物、食文化などさまざまなところにそのことが確認できます。まさに異文化の接触地帯になるわけです。最後に、今回私の目に留まったものを少々お話しさせていただきたいと思います。一つ目は、九竜の繁華街にあるモスクです。この街にはムスリムも少なからず暮らしています。ビジネスで香港に移り住んだ方が多いようですが、豊かになった香港では以前から東南アジアからホームヘルパーとして出稼ぎにくる方が多いそうです。仏教・道教、キリスト教圏でもない世界からの来住者です。きっと、モスクは家族とともに心の拠り所となっているのでしょう。二つ目は、隣接する深圳の博物館で見た一枚の写真です。多くの日本人観光客と異なり、私は大陸(深圳)側から香港に入りました。小さな川や湾のすぐ向こう側が香港です。1960年代から1970年代にかけて、大陸の人々にとって香港はどのような街に見えたのでしょうか?不安や心配事から解放されて自由に生きられるところ、故郷を捨ててでも移り住みたい場所、そう考えた人々もいたことでしょう。当時、命がけで香港に移り住もうと考えた人々が、現在では、買い物や仕事などのために簡単な手続き一つで香港との間を行き来している人々の姿を見たとき、一体何を思うのでしょうか?私はこの一枚の写真に魂を揺さぶられました。どのような写真であったのかは、皆さんの想像にお任せします。はっきりしていることは、今も昔も香港にはどこか自由な雰囲気が漂っているということ、そしてこの魅力が多様な人々を惹きつけてやまないということです。
□磯田先生のブログ記事
・異文化の接触地帯インナーモンゴリア
・国境を渡る風・満洲里
□磯田先生のブログ記事
・異文化の接触地帯インナーモンゴリア
・国境を渡る風・満洲里
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