2014年12月29日月曜日

終わりと始まりの時間論(平井靖史 教授)

「教員記事」をお届けします。第十六回は哲学の平井靖史教授です。



終わりと始まりの時間論


年末ですね〜。

でも「年が終わる」ってどういうことでしょう。

みなさんご存じの通り、カレンダーの月にしても、年にしても、学期にしても、ある意味人間が勝手に設定した区切りにすぎません。客観的には何も終わらないです。
時間の流れそのものに区切りがあるわけではないですもんね。
授業のコマ、卒業、年末年始、記念日…etc。
こうした時間の区切り、節目は、ほとんどすべて人為的な、便宜上のものと言えそうですよね。


それでも、「何かが終わり、何かが始まる」という時間的な区切りは、ぼくたち人間の時間経験にとっては(たんなる日常生活の便宜以上の)重要な意味がありそうです。
僕の専門にしているベルクソンという哲学者は、僕たちの「心の時間」と客観的な「世界の時間」の関わりを、とても面白い仕方で理解しようとしています。少し話してみますね。


まず、誰でも「今この瞬間」の時間の流れは経験しますよね。
現在は、地続きでどんどん過去になっていくというイメージ。



でもときに僕たちは、環境から節目を与えられたり、ときには自分で決断して、「そこまでの過去」を「現在」から「切断」します。「心機一転」という機会は、ひとが自分の人生を作っていく上で重要な要素です。僕たちは、単純にずう〜っと同じ一本の時間の糸を紡ぎ続けているわけではないんです。



では、こうして断ち切られて、現在から切り離されてしまった過去は、どこに行ってしまうのでしょうか?
跡形もなく消えてなくなってしまうのでしょうか?
ベルクソンはそうは考えませんでした。この「切断された過去」こそが、積もり積もって、僕たちの「こころ」の「厚み」を作っている、と考えたのです。
ベルクソンは(ちょっと特殊な)「心身二元論」の哲学者です。彼は、身体とこころを、「現在」と「過去」の関係と考えたのです。こういうことです。



僕たちの身体は、「現在」の空間の一部を占める物体にすぎません。
僕たちの意識でさえ、ふつうは「現在」の関心事に埋もれてしまっています。
でも、僕たちのこころは、「流れる現在」の「意識」だけでできているわけではなく、そうした慌ただしい意識経験の背後に、それを流れとして成り立たせる「地」のような、そんな「厚み・深さ」を持って存在している。
そしてこの厚みは、こうして切り離されてきた「過去」の集積でできている、と考えたのです。表層的な意識の現在からは断たれることで、逆に自分という存在の本体にとりこまれる、という感じかな。
「過去」はもちろん物質(現在)ではないですから、こころが物質でできていない(これは伝統的に哲学の大問題なのですが)のは当然なわけです。



過去が自分を作る。
それは、ただ漫然と過ぎ去っていく「連続」的な現在の時間だけでは、説明が付きません。
そうした日常の流れに、偶然に、あるいは意図的に、刻み込まれた「切断」こそが、人間経験の深みを作っていく、というお話(というとなんか分かりやすい気がする!(笑))。


こころは、過去でできているんだぞ、と。



〜〜〜〜〜
最後にひとつだけ。
だけどこの「切断」、いつも上手くいくわけじゃないですよね。ほんとうは。
自分の一部として、うまく取り込むことができない過去もあります。
なぜ抹消しなきゃいけないのか分からないまま、涙をのんでたった独りで葬らなきゃいけない過去もあります。
時間は残酷だけど、でもきっと癒やせるとしたなら、それも時間だけなのかも知れませんね。

よいお年をお迎え下さい。

平井靖史教授
※写真はすべて平井によるもの。

0 件のコメント:

コメントを投稿