2016年12月25日日曜日

なぜ私は締めに、ラーメンを食べてしまったのか — 酒と理性と情念と —(林誓雄先生)

今年最後の「教員記事」をお届けします。2016年度11回目は哲学の林誓雄先生です。



なぜ私は締めに、ラーメンを食べてしまったのか
— 酒と理性と情念と —
    
     林 誓雄(哲学

 忘年会・新年会シーズンたけなわである。学生も教員も皆、思い思いのメンバーと、お酒を呑みに、街へ繰り出す日々が続いていることだろう。とはいえ、私の場合、別にそのようなシーズンであるなしに関係なく、毎週のように呑んだくれているわけだが…。そして、ついつい呑み過ぎてしまい、記憶を失うこともしばしば…である……。

 そんな、記憶(および、その他の大切なもの)を失って家に帰り、その翌朝、重たい身体を何とか動かし、体内からアルコールを抜くべく、シャワーを浴びているときなどに、ふと考えてみたことがある(別名、「反省」とも言う)。それはすなわち、記憶や意識を失いつつも、酔いにまかせて、なぜ私は締めに、それが不健康であるとよくよく理解しているにもかかわらず、こってりラーメンを食べてしま(い、挙げ句の果ては、終電すら逃してしまい、結局はタクシーで帰る羽目にな)ったのか、ということである。以下では、そのとき(反省時)の私のささやかな考察を、まとめることにしたいと思う。すなわち本稿は、人間というものが、どのようなメカニズムに基づいて行為するのかについての考察、一言で、人間の「行為の動機づけ」についての一考察である。

 人間の「行為の動機づけ」の仕組みについては、古くから、哲学者たちの間でさかんに議論が交わされてきた。私の専門とする、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームもまた、その中のうちの一人であり、現代のメタ倫理学と呼ばれる領域のうちの「行為の動機づけ」の議論において、多大なる影響を及ぼしている。

 ヒュームによると、伝統的に人間とは、理性と情念(=感情)という二つの原理によって行為するものと考えられてきた。そして、「理性と情念の闘争」ということが、さまざまな場面で言われてきたわけだが、その対立においては一般に、次のように主張され、また命じられてきたのだという。すなわち「何か、行為をするにあたっては、理性にしたがい、理性によって自分の行為を規制して生きることこそが、倫理的な・健康的な・立派な生き方なのであり、われわれは皆、そのようにするべきである」と。逆に、「情念にしたがってはならず、むしろ情念に抗うようにせよ」と、そのように(幼い頃より口すっぱく)言われてきたのである、と(T 2.3.3.1)。

 確かに、特段、哲学的な議論においてだけでなく、普段の生活の中においても、「感情的に行動するな」、あるいは逆に、「理性的に行為しなさい」と言われるような場面を、われわれは頻繁に目にするし、そういう場面に出くわすことも多いだろう。そこでは、(神にその起源を有するがゆえに)理性とは永遠、不変なものであり、善を司るものであることが前提とされている。その一方で、情念とは盲目で、移り気で、そしてしばしば、われわれに嘘をつかせるなど、悪を司るものであることが、議論の前提とされている(ibid.)。

 しかし、こうした伝統的な人間観に、ヒュームは疑問を投げかける。すなわち、果たして本当に、理性にしたがって、われわれが行為することなど、できるのか、と。このようにヒュームが疑問を抱くのは、伝統的な哲学においては、理性とは(1)数学的・直観的な計算能力か、あるいは(2)因果関係や目的手段関係について把握する推論能力かの、どちらかだとされているからである。
 
 ヒュームに言わせると、われわれ人間が数学的な計算能力だけで、行為に至ることはない。5+7=12であることがわかったからといって、われわれは行為へと突き動かされることはない。そしてまた、推論能力のみによっても、われわれが行為に至ることはない。例えば、目の前に置いてある冷たいビールを呑もうと、私が手を動かす場面を考えよう。確かに、目の前のビールが原因となって、それを呑むことで、私は心地よい気分になるから、ビールを手に取るという行為が生まれはする。しかしながら、ビールが「原因」となり、それを呑むことで心地よい気分になるという「結果」が私にもたらされることを、私が把握しているとしても、それだけで私は、行為へと突き動かされることはない。私が行為するためにはもうひとつ、「心地よさを取り込みたい」という欲求(=情念)が、理性による推論とは別に、はたらいていなければならないのである。

 以上の議論より、われわれ人間は、理性の能力のみでは、行為へと突き動かされることはない。この「理性と情念との関係」についてヒュームは、次のような刺激的な言葉を残している。


理性は情念の奴隷であり、奴隷のみであるべきである。つまり理性が、情念に付き従う以外の役目を申し立てることはできないのである。(T 2.3.3.4)


 さて、以上のようなヒュームの人間観を、具体例を交えてまとめ直すと、次の通りとなる。すなわち、人間を、車に例えて説明するならば、車のエンジン部分が「情念(=感情)」であり、車のハンドルが「理性」に相当する。ハンドルだけを、グリグリ動かしても、前にも後ろにも進むことはない。理性だけをはたらかせても、われわれ人間は動かないのである。逆に、エンジンだけがはたらくとしても、ハンドルによる方向づけがうまくいかないと、前や後ろには進むことはできたとしても、しかし、崖から転落してしまったり、壁にぶつかってしまったりすることになる。つまり、エンジンであるところの情念が、人間を駆動する本質的部分ではあるとしても、しかしハンドルとしての理性による方向づけがあってはじめて、人間は合理的に行為することが可能となるのである。以上がヒュームの人間観である。そして、こうした人間の捉え方は、現代では「ヒューム主義」と呼ばれている。

 ところで、もしかするとここで、車が動く上で必要となる部分がひとつ、上の説明には欠けていることに、気がついた人がいるかもしれない。それはすなわち、車のブレーキである。伝統的な哲学においては、車のブレーキも、理性が担当すると考えられてきた。だからこそ、「感情・情念を理性で抑える」というような表現が、一般に受け入れられているのかもしれない。

 しかしながら、ヒュームはこのブレーキの役割を、理性には認めない。理性はあくまでも、人間の行為の方向づけをするだけである。それでは、ヒュームの人間観において、ブレーキの役割を担うものは何か。それは、他ならぬ「情念(=感情)」である。しかもこの、ブレーキの役割を担う情念のことを、ヒュームは「穏やかな情念」と呼ぶ。


特定の穏やかな欲求や傾向は、実際には存在している情念なのだけれど、こころに、ほとんど情動を生みださず、それゆえ、直接的な感じや感覚によって知られるというよりもむしろ、その結果によって知られることが多いのは確かである。こうした欲求には二種類ある。すなわち、善意や敵意、生命愛、そして子供への思いやりなど、人間本性に元々植え付けられている特別な本能と、そのようなものとしてだけ考えられる場合の、善に向かう一般的な欲と、悪に対する一般的な嫌悪である。こうした情念のどれもが穏やかであり、魂に波風をまったく引き起こさない場合、そのような情念は実に安易に、理性が決定したものと取り違えられる、つまり、真偽を判断するのと同じ能力から生じると考えられるのである。(T 2.3.3.8)


 伝統的な哲学、および一般的な考え方においては、人間には理性と情念(=感情)が備わっており、情念が暴れようとすることを、理性が抑えるものであると、そのように考えられてきた。しかしながら、ヒュームに言わせるとそれは間違いであり、一般に「理性」対「情念」の対立と思われているものは、実は「穏やかな情念」対「激しい情念」の対立なのである。それにもかかわらず、伝統的な哲学においては、穏やかな情念のはたらきは、その穏やかさゆえに、こころに波風を立てることなくはたらく「理性」のものだと、そのように勘違いされてきた、これがヒュームの診断である。理性はあくまでも、情念の奴隷としてしかはたらくことができない。理性と情念とは、まったく異なるフェーズではたらくものなのであるから、その二つが「対立」したり、「闘争」したりするなど、できるはずもないのである。

 さて、以上のヒュームの診断が正しいとしよう。そして私はつい最近まで、その診断が、概ね正しいものだと考えてきた。ヒュームにしたがうならば、不道徳・不健康・愚かな行為へとわれわれを突き動かしがちな「激しい情念」を、善へと向かい・悪を嫌悪する「穏やかな情念」によって規制することで、われわれは善く・健康的に・立派に生きることができる、ということになるだろう。

 ここで、読者によっては、「激しい」と「穏やか」という言葉使いから、「穏やかな情念」など、「激しい情念」に勝てるわけがないと、思う人がいるかもしれない。しかしながら、激しさや穏やかさは、行為への動機づけにおいては、あまり関係がないとヒュームは述べる。行為の動機づけにおいて重要となるのは、情念の「強さ」である。われわれは、穏やかであるけれども、しかし「強い」情念をもっていれば、「激しい情念」によって不道徳・ 不健康・愚かな行為を、しでかしてしまうことはないのである(Cf. T 2.3.4.1-2)。

 さて、本題はここからである。そして、問題となるのは、他ならぬ「酒」である。冒頭で示した、私の愚かな行為について、もう一度思い出していただこう。私は、酒を大量に摂取したために、(明瞭な)意識や記憶を失う状態へと至った。しかしながら、そういった状態であっても、私はどういうわけだか、呑みの締めにと、ラーメン屋に入っていき、とんこつラーメンを食したのである。このとき、仮に酒が入っていなければ、私は自分の健康と、目の前の快楽とを天秤にかけ、きっと妥当な判断を下して、立派に行為していたことであろう。すなわち、「ヒューム主義」の枠組みにしたがって説明するならば、健康で長生きしたいとする「穏やかな情念」が、目先の快楽を味わいたいとする「激しい情念」に打ち克ち、そしてそれを抑制し、締めにラーメンなど食べずに、大人しく家に帰ってきたはずである。そうすると、次のように分析することができるように思われる。すなわち、〔A〕酒のせいで大人しく家に帰らずにラーメン屋の暖簾をくぐったとするならば、それは、酒が原因となって、「穏やかな情念」のはたらきが弱まり、あるいは封じ込められ、「激しい情念」が野放しになってしまったのだ、と。いや、可能性としてはもう一つ考えられる。すなわち、〔B〕酒が原因となって、「激しい情念」のみが、そのはたらく力を増大させ、その結果、私は「穏やかな情念」の言うことなど聞かず、唯々諾々と「激しい情念」の導きにしたがってしまったのだ、と。

 以上の分析は、しかしながら、納得できないところがある。すなわちそれは、〔A〕の場合、なぜ「穏やかな情念」は、そしてそれのみが、酒に弱いのか、ということである。同様に、〔B〕の場合であれば、なぜ「激しい情念」は、そしてそれのみが、酒によってパワーアップするのか、ということである。

 同じ「情念」とカテゴライズされるものであるならば、「穏やかな情念」だけでなく「激しい情念」の両方が、酒によって、そのはたらきを封じ込められる、あるいは両方が、酒によってパワーアップしてしかるべきであるように思えるのである。しかしながら、現実にはそうなってはいない。すなわち、酒はどういうわけだか、どちらか一方の情念のみに、影響を及ぼしている。これは、「一貫性」という点で問題があるように思われる。そして、この一貫性という問題について、適切な説明が与えられない場合、もしかするとヒュームの人間観それ自体が、そもそもまちがっていることを示すことになるように思われるのだ。

 ヒュームの人間観(理性は情念の奴隷)が正しいものではないとすると、即座に対案として、伝統的な哲学における人間観が思い浮かぶ。すなわち、人間の理性と情念とは、そのどちらにも動機づけの力が備わっており、情念の自分勝手な蠢きを、理性がただしく抑えることによって、人間は善く・健康的に・立派に生きることが可能になる、という捉え方が、やはり妥当なものであったのである、と。

 だが、伝統的な人間観にも、依然として難点はつきまとう。それは、ヒューム主義的な人間観に当てはまったのと同じものであるが、なぜ「理性」は、そしてそれのみが、酒に弱いのか、ということである。あるいは、なぜ「情念」は、そしてそれのみが、酒によってパワーアップするのか、ということである。伝統的な人間観の場合、理性と情念とは、別個の存在とされているわけだから、ヒューム主義が直面した「一貫性」という問題については、それを回避することができるだろう。しかしながら、それでもやはり、なぜ酒が、一方の原理にのみ影響を及ぼすのかという点については、説明が与えられなければならない。とりわけ、哲学や倫理学を研究している者からすると、どうして「理性」が、そしてそれのみが、酒に弱いのかということについては、納得のいく説明が欲しいところである。なぜなら、理性とは神にその起源があるとされているにもかかわらず、それが酒に弱いということは、神の全能性と矛盾するように思われるからである。いや、もしかすると、全能とか言っておきながら、実はカミサマって、酒にだけは弱いのかも、しれない。

 かくして、人間についての捉え方は、ヒューム主義と伝統的な哲学、どちらが正しいものであるのだろうか。理性は情念の奴隷であるのか、それとも、理性によって情念は、抑え込むことができるのか。あるいは、これら両方ともに、人間の捉え方として間違っているのか。ともかくも、以上の考察から、一つだけ言えることがある。すなわち、それは、「お酒は、ほどほどに」ということである(自戒)。


参考文献
Hume, D. [1739-40] A Treatise of Human Nature, eds., by Norton, D. F. & Norton, M. J. 1st Ed, Oxford U. P., 2000. (引用・参照の際は、略号としてTを用い、巻、部、節、および段落の番号をアラビア数字で順に付す。訳は筆者によるものである。)


□林先生のブログ記事
「徳」と「幸福」

2016年12月21日水曜日

文化学科ゼミ紹介(LC14台 入船 佑 さん)

 今年度10回目の学生記事をお届けします。文化学科3年生の入船佑さんが、平田暢先生のゼミ(文化学演習Ⅲ・Ⅴ Ⅳ・Ⅵ)について報告してくれました。


平田ゼミ紹介
LC14台 入船 佑

 今年の平田先生のゼミでは前期・後期を通じて、自由について今一度考えるということを大きなテーマとしています。前期は、帝政を脱し様々な権利が憲法で保障されてより自由な国家となったヴァイマール共和国が、何故ナチスドイツとなってユダヤ人の大量虐殺に代表される非人道的な行為を多数行ったのか、ということを『ヒトラーとナチ・ドイツ』[石田勇治(著)、講談社現代新書]をテキストとして、歴史上の事実を確認しつつ議論しました。

 また後期では、なぜ人々がナチスやヒトラーを支持したのか、ヴァイマール共和国の人々が特例と言い切れるのか、異なった場所や時代を生きる私たちそれぞれが自由についてもう少し向き合い考える必要があるのではないか、ということを『自由からの逃走』[エーリッヒ・フロム(著)、日高六郎(訳)、東京創元社]をテキストとして考察しています。自由によってもたらされる孤独や不安に対し人間がどのような対応をとるのか、という問題を中心に自由に対するフロムの様々な指摘を踏まえて議論しています。

 ゼミは以下のように進められます。まず毎回二人一組になって担当範囲のレジュメを作成し報告し、報告者とその他の2名が検討課題を提示します。提示された計3つの検討課題を比較検討し、最終的には1つに絞って議論を深めます。

 たとえば、『自由からの逃走』第1章と第2章を扱った回では、「第1章でフロムは近代人が自由と同時に得た孤独が精神的な破滅をもたらすと述べているが、孤独によって引き起こされるどのような感情がそういった破滅をもたらすのか、また、近代人は自由を放棄してでも孤独を回避しようとするのか」という検討課題について議論しました。

 議論の結果、「孤独によって生まれた、所属する集団の他の構成員に対しての劣等感や疎外感、今まで意思決定の根拠としていたものの不在、他者の考えが分からなくなったことへの不安、そして孤独になる以前は他者と協力して解決していた問題に1人で立ち向かわなければならなくなったときの無力感といった感情が、人間に精神的な破滅をもたらしたり自由を放棄させたりするのではないか」という意見にまとまりました。



 二人一組で作業するため、テキストをしっかりと読み込んで連絡を密に取り合い意見の交換をきちんと行わなければ良いレジュメを作成することは困難です。また、その回のテーマに沿った検討課題を作成することもなかなか難しい作業です。なので、報告が中途半端であったり、良い課題が設定出来なかったりしたことで先生からご指導をいただく回もあります。しかし、いただいた指導は次回の資料作成に活かすことが出来ますし、またその二つが上手くいった回の議論は上で示したように意義のあるものとなります。

 自由という私たちの身近にあるものについて一度立ち止まって考えてみることは、これから生きていく上で大切なことです。また、あまり面識のない同級生や上級生と一緒に作業をすること、そして課題を見つけることは、成功・失敗を問わず社会人になった時に活きる経験だと考えます。




2016年12月8日木曜日

ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(髙下保幸先生) 

「教員記事」をお届けします。2016年10回目は心理学の髙下保幸先生です。



ユ-モア・ウォッチング in フクダイ    
     髙下保幸(心理学

 気持ちが落ち込み後ろ向きに考え込み、眉をひそめて周りを見れば、暗くて嫌なことばかりが目につきます。反対に背筋を伸ばし前向き思考で眉を開いて見れば、そこには結構おもしろく楽しい世界が待っているものです。

 ということで、8年前の文化学演習では、学生への課題として、大学生活のなかで見つけた「ちょっとおかしなこと」を書き出すように求めました。

 学生が提出した事例のなかで、ちかさん(愛=ちか という読み方に初めて接しました。なるほど愛するとは近づくことでもあります)が見つけた事例は、読んでその場面を想像するだけで思わずにやりと楽しくなるものでした。日頃からキャンパス内の隅々に、また学生たちの生態に目をこらしている眼力、ひいてはユーモア力の持ち主と見受けられました。この学生こそ文化学科の看板とする「多角的視野」をもつ存在ではないかとも思われました。

 前置きはともかく、何題も出してくれた「ちょっとおかしなこと」のなかから3題再掲しますので、ユーモアの楽しさを味わってみてください。


ちか版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(1)

 大学の教室の机の上には、学生の残した数々の名画が描かれている。たとえば、つい最近見つけたのが、頭はかわいいドラえもんであるが、体はパンツをのみ着用している筋肉もりもりの男性の絵である。

 その絵は、ありふれた落書き絵と思われるが、よくよく考えると気になった。ドラえもんにはなくてはならないポケットの存在が…。

 この絵の作者がそこまで考えて描いたわけではなかろうが、それを見る側としてはどうしても考えてしまう。

  身を隠すたった一枚の布がポケットなのか?



ちか版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(2)

 落書きといえば、前期のある授業の中で私も机上にメッセージを残してみた。                        

 「私は誰でしょう?」

 次の週、なんとそこには返事が…。

 「机?」

 その通りですね。



ちか版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(3)

 大学の昼休み。教室では、数多くのカップルが昼食をとっている。食べ終わった後の少しの時間も、二人は会話を楽しんでいる。

 ある日のこと、あるカップルの彼氏が突然並んで座っていた席を離れ、そしてすぐに戻ってきた。

 彼女が「どうしたの?」と聞く。

 彼の答えた一言で、このカップルはまた一歩互いの距離を近づけることになった。

 「個室が満室だった」



 以上のちかさんのユーモア・ウォッチングに負けじと、四十年に及ぶ福大生活のなかで教員の側から見つけた「ちょっとおかしなこと」を披露いたします。

  出す前から、勝負は決まっているようにも思われますが。もちろん、私の負けと。


髙下版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(1)

 ゼミの時間。コの字の席列の向こう正面に座っている男子学生の一人が、シャープ・ペンシルの芯を横の方に飛ばしてしまった。

 それを見ていた私は、このときとばかりに間を置かずに言った。

 「とんだことだったね!」

 三十名ほどのゼミ生。そのうち数名しか笑わず…。

 そこには、むなしい時間と空間があった。



髙下版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(2)

 教師をやっていて、授業中に退席する学生の多さには、いちいち腹を立てていてもきりがない。

 それで、途中退室する学生には、その都度、皮肉っぽいメッセージをぶつけて見送ることにした。

 「途中退席のひとには、授業料の払い戻しは致し兼ねます」

 「途中退席は緊急の時以外は遠慮願います。ただし、親を死なすのは一度きりです」

 こんな下手な文言は「ユーモア」を専門にしている立場としては決して言わない、代わりにことわざのもじり、「地口」を仕掛けてみる。

 「立つ鳥、後は飛び落ちる」

 「後悔、今立つ」

 いずれも何の効果もなし。

 皮肉が通じる相手ではなかった…。



髙下版 ユ-モア・ウォッチング in フクダイ(3)

 大きな講義室、心理学の講義をいつものごとく淡々と進めている。

 ふと受講席の方を見ると、ドアが開いていた講義室の入口から、大学の構内を根城にしている薄汚れた犬(学生は「福大犬」と呼んでいた)が入ってくる。

 さらに受講席の間の通路をヨチヨチと教壇に向かって寄ってきて、教室の真ん中あたりで、ビクターのブランドの犬のように座り込んだ。聞く耳を側立てていかにも聴いているようにもみえる。私、教師の声、 ”voice of master” を…。

 その犬の場違いな存在に気づいた学生は、ちょっとした笑いにどよめいた。

 5分ほど授業を進めたあと、熱心な受講犬はどうしているかとその場所に目を向けると、はやその姿はなし。

 「犬も喰わない」講義であった…。


 以上の、長い福大での生活を振り返っての、おかしくも、ちょっとわびしい想い出をもって、髙下最後の教員エッセイを閉じます。


□髙下先生のブログ記事
かわいい」考

□髙下先生の授業紹介
文化学科ゼミ紹介

2016年11月22日火曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

次回のLC哲学カフェ、下記の通り、詳細が決まりました。

 【映画de哲学】
 「君の名は。」で哲学する、再び
 ※ネタバレあり

 日時 12月5日(月) 16:30-18:00
 場所 A605教室

映画を観ていることを前提に、いわゆる「ネタバレ」ありで議論します。勿論、映画を観ていない人も参加してもらって構いませんが、ネタバレの覚悟を。

なお、今までの哲学カフェと少し異なり、冒頭は宮野真生子先生と小笠原による映画の分析、及びクロストーク。その後、全体で議論。

参加者の自己紹介は行ないませんし、無理に発言しなくても構いません。途中入室、途中退室も自由ですので、ぜひ一度、気軽にのぞいてみて下さい。

2016年11月19日土曜日

映画de哲学開催:「君の名は。」で哲学する

11月15日火曜日の夜、福岡市博多区の某映画館に学生諸氏6名、教員2名が集合。初めての「映画de哲学」が開催されました。

予想外の遠足気分にやや浮かれつつ、「本当は「ジャック・リーチャー」が観たい」と言い始めた教員(小笠原)を制し、全員で「君の名は。」を鑑賞。参加者の約半数は二回目の鑑賞で、中には三回目という人も。

映画鑑賞後、「新海誠監督の今までの作品をすべて観ている」という教員二名が早速マニアックな分析を開始。皆で口々に感想を述べながら、屋台の並ぶ川沿いをぞろぞろと歩き、天神方面へ移動。某居酒屋へ辿り着き、「哲学カフェ」ならぬ「哲学居酒屋」が始まりました。

作品のテーマや一つ一つの場面を検討してみたり、他の映画と比較してみたり。二回目・三回目だからこそ気づいた「伏線」について語ったり、なぜこんなにヒットしているかの理由を想像してみたり。日本文化の話になったり、RADWIMPSの話になったり。

恋愛、出会い、必然性と偶然性、夢、時間、等々のキーワードが飛び交いましたが、いわゆる「ネタバレ」になってしまうため、議論の詳細については省略。
(※「ネタバレ」ありの哲学カフェを、下記の通り、近々開催する予定)

未だ話し足りない状態だったものの、終電の時間を考慮し、程良い時間に解散。幾らか後ろ髪を引かれつつ、各自、帰路に就いたのでした。


というわけで、初めての映画企画も無事終了。今後も引き続き、映画関連のイベントを開催していく予定です。乞うご期待。

また来月初旬、「君の名は。」に関する「ネタバレ」ありの哲学カフェを。改めてこのブログ上で告知しますので、興味のある人はぜひ、気軽に御参加下さい。

2016年11月7日月曜日

福岡大学文化学科に入学して

 今年度9回目の学生記事をお届けします。文化学科2年生の柿木一光君が、文化学科への入学動機と現在の学生生活について報告してくれました。


福岡大学文化学科に入学して
LC15台 柿木一光

 去年の春、私は福岡大学に入学しました。高校時代の私は、自分の進むべき道がわかっていませんでした。受験をするにあたって、自分なりに学んでみたい事は何なのか考えました。私は、歴史に興味があり、特に外国の文化を学んでみたいと思いました。歴史の中でも文化史に興味がある事がわかってきました。その時に福岡大学のパンフレットを偶然見つけ、文化学科を知りました。これは、何かの出会いだと思いました。文化学科はいろいろな専門分野があり、その中から自分の専門を決める事ができるということでした。

 しかし、受験をする直前に私は重い病気にかかってしまい、入院してしまいました。入院している中で気持ちの変化があり、色んな人に感謝の念が湧いてきました。自分の将来をしっかりと見定めたいと、心に決めました。

 子ども達の将来に関わり、「人を育てる」喜びを得たいと思い、教員を目指すことにしました。私の兄が体育の教員をしていて、教職については色々と聞いていて大変だということも知っていました。しかし、大学で沢山のことを学びたいと考え、社会科の教員になるための教職の授業が取れる文化学科を選びました。受験はなんとか成功しました。

 大学では充実した日々を過ごしています。私は入学後、自分なりに行動して、剣道部に所属しました。周りのみんなは、スポーツ科学部の人達ばかりです。正直に言って部活は大変です。しかし、その厳しい状況を乗り越えていくことが大切であると感じています。私は「武士道とは何か」について興味があります。剣道を通して、その事をつきつめていきたいと思っています。
また私は、文化人類学のゼミに所属しており、民族学の観点からも武士道について思索を深めていきたいと考えています。これは途方もない事ですが、自分にできる事から日本を変えていきたいという思いもあり、その点からも武士道の精神を勉強すべきだと考えています。社会に出て、それがそのまま役に立つとは限りませんが、日本人とは何か、その根源にあると思われる武士道について大学で学んだ事が、グローバル社会を生き抜く上で大切だと考えます。「自分はこういう精神を持った日本社会で育った」と、世界の様々な人々に理解してもらうには必要な事だと思っています。

 色々な事が出来るので、大学生活は楽しいです。しかし、受け身の態度では、大学生活は充実しません。自分から積極的に行動していくことをお勧めします。

 文化学科には先述したような文化を理解するために必要な講義が沢山あります。私は現在、色々な講義を受けていますが、やりがいのある講義ばかりです。教員になるという将来の目標の実現に向け、1日1日頑張っていきたいと考えています。

2016年10月16日日曜日

島原・長崎研修旅行

 今年度8回目の学生記事をお届けします。文化学科二年生の土井良祥子さんが、小笠原ゼミの研修旅行について報告してくれました。


島原・長崎研修旅行

LC15台 土井良祥子

 文化学科2年土井良祥子です。私の所属する小笠原ゼミは前期にはキリスト教の聖典の一つである『創世記』について、ディスカッションをメインにゼミを行ってきました。今回のゼミ合宿では、隠れ切支丹弾圧の歴史のある長崎県島原市、および、教会群やキリスト教関連遺産で有名な長崎市を訪れました。その研修の模様をお伝えします。

 夏季休業終了間際の9月12日月曜日の朝、小雨の降る中、まず島原市の島原城へ向けて出発しました。島原城には切支丹関連の資料館が併設されており、多くのキリスト教関連品の展示があります。海外からの伝来品のほか、日本刀のキリシタン鍔や東洋人らしい顔立ちのマリア像など、日本独自の品も収蔵されています。広く公に布教されていた時代から厳しい弾圧の時代への歴史の変化なども展示品から窺えました。今回事前学習として、遠藤周作の『沈黙』を通読していた私たちには、特にキリスト教弾圧期の資料が強く印象に残りました。同作中に「彼等(切支丹)流に屈折された神」という表現があります。それがどういった存在であったのか、またキリスト教の神とどのように異なるのか。展示されている品々はこれらの問いを読み解くよい手がかりとなりました。

 続いて、島原の湧水を利用した四明荘という庭園へと向かいます。庭園内の池にせり出すように建てられた和室からは松や楓の美しい庭が見え、湧水の流れる音が心地よく響いていました。ゼミの課題や議論をここですると捗りそうという声もちらほら。季節ごとにまた違った美しさがあるそうです。紅葉の季節にもう一度伺いたいお庭でした。

 美味しい料理と島原の湯に癒されたところで、翌日には長崎市内へと移動。その道中、『沈黙』の一節を取り上げて議論になりました。「あの人は沈黙していたのではなかった」とはどういう意味なのか。私たちが導き出した答えは、弾圧期において、神はなんの救いも与えず沈黙していたのではないということです。主人公のロドリゴや切支丹がその救いに気づいていなかったのだ。踏絵を「踏みなさい」という神の声、「基督は、彼らのために、転んだだろう」というフェレイラの言葉。これらから私たちは神の大きな力による救済だけでなく、切支丹と共に苦しみを背負う神とその神による救済もあるのではないかという示唆が前述の一節には描かれているのだと結論付けました。後者の神の存在は私たちの目に新しいものとして映りました。『創世記』の中で描かれている神とは異なるものです。


 さて、長崎市内はゼミ生の多くが以前にも修学旅行で一度訪れており、今回で二度目の訪問となりました。キリスト教関連遺産の一つである、大浦天主堂を拝観した際に、以前とはその印象がかなり違っていました。キリスト教に関してほんの少し知識があるだけで注目する点や感じ取るものがこんなにも変化するのかと驚きました。話をしてみると、みんな同じように感じている様子。ただステンドグラスの美しさやその場の雰囲気を感じるだけで終わっていた頃とは全くの別ものでした。大学で学ぶことの面白さの一つとして、世界が広がることがあります。今回の研修ではそのことを改めて体感しました。天主堂内には絵画やマリア像など、新約聖書の福音書に関するものが多数あります。ゼミでは後期には福音書を授業のテーマとします。この授業を終えて再度この長崎の地を訪れると更に新たな発見があることでしょう。知らないことを学ぶ楽しさを実感したゼミ合宿となりました。



担当教員による補足、あるいは失われた時を求めて


 上記、「事前学習として、遠藤周作の『沈黙』を通読していた私たち」とあります。私から確かに、合宿前に(或いは、遅くとも宿への到着までに)『沈黙』を通読しておくように、と指示。しかし、合宿前に読み終えたゼミ生は皆無。初日の午前、島原へ向かうジャンボ・タクシーの車内で皆、急いで文庫本に目を走らせていたものの、結局、通読できた人は少なかったような……? 文庫本を開いたまま、早々と眠りの世界へ赴いたゼミ生もいたように記憶していますが、何かの錯覚だったのかもしれません。

 二日目、島原から長崎市へ向かう貸切バスの中で、『沈黙』に関するディスカッションを行いました。課題は「『沈黙』の結末、「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」(p.295)とはどのような意味か。説明せよ」というもの。「あの人」とはイエス・キリストのことです。迫害されて苦しむキリスト者たちを、なぜ神は救ってくれないのか、なぜ神は沈黙しているのか。この問いに対して『沈黙』は「沈黙していたのではなかった」という「答え」を出すわけですが、その意味について議論。

 前日の深夜、白熱する人狼ゲームを通して、信じることよりは疑うことを学んでしまったゼミ生たちが、寝不足の頭で、しかし信仰の在り方について議論する言葉に耳を傾けつつ、私もまた幾らか微睡みながら、車窓から長崎の景色を眺めていたのでした。

2016年10月14日金曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

次回のLC哲学カフェ、とりあえず企画のみ、決定しました。

 【映画de哲学】
 「君の名は。」で哲学する

 日時・場所 未定

今回は新企画、「映画de哲学」。

まず、皆で映画館へ行き、「君の名は。」を鑑賞。その後、近くのカフェに場所を移し、今観たばかりの映画について議論します。

映画の代金、及びカフェの飲食代は各自で。

参加希望者は、その旨、小笠原までメールで御連絡下さい。アドレスは教員紹介の冊子に記載されています。

日時は未定。参加希望者と相談の上で決めますが、全員の希望に対応できるとは限りませんので、その点は予め御了承下さい。

2016年10月4日火曜日

注意の仕組み(佐藤基治先生)

「教員記事」をお届けします。2016年9回目は心理学の佐藤基治先生です。



注意の仕組み    
     佐藤基治(心理学


 大学で心理学の教員をやっていると、いろいろなところから講演の依頼があります。私は「心理学」が専門で、その中でも「交通」を研究のテーマのひとつにしているので、事故や安全に関連した話を依頼されます

 各都道府県には交通安全協会というものがあります。運転免許の交付や更新の時に、最近の事故の傾向に関する講習を受けますが、その講習を実施しているのが交通安全協会です。また、5台以上の自動車を業務に使用している事業所は「安全運転管理者」という担当者を選任し、管理者は年に一度「安全運転管理者講習」を受けることが義務づけられており、協会はその講習も実施しています。

 この講習で90分ほどの講演を私がおこなうのですが、その内容の一部を文字にしてみました。就職して職場の「安全運転管理者」となり、「講習」を受けに行ったと想像しながら読んでください。なお、授業ではないので、一部、あいまいな部分がありますが、大学生の皆さんは、疑問を感じたら自分で調べ直して下さい。



『注意の仕組み—交通事故防止のために』

1. はじめに

こんにちは、福岡大学の佐藤です。大学では心理学を教えています。心理学を教えているというと「じゃぁ、私の心の中はお見通しですか?」と問い返されますが、残念ながら、あなたの「こころ」はわかりません。同様に「わたし自身のこころ」もわかりません。では何を教えているかというと、右の図の「水平方向の線分は本当にまっすぐだろうか?」左下の図(1)の「どのスイカが大きいだろうか?」とか図(2)の「どのカップヌードルが大きいだろう?」といった問題を考えています。この話はまたいつかどこかでします。


交通事故による死者数は1年間におよそ4千人です。1970年には年間16,765人でしたから、ずいぶんと改善されましたが、それでも、毎年4千人の方が命を落とされるのは大変なことです。また、近年の特徴として、高齢者の交通事故死者数が増加し、2014年には2,193人の高齢者が交通事故でなくなっています。天寿を全うしようとする時期にいきなり激痛とともに、終末を迎えさせられるというのはどう考えても納得できないと思います。

 今日は自動車の運転場面を念頭に、「注意」に関する心理学の知識を紹介します。これが、交通事故を1件でも減らす手助けになればと考えています。


2.注意とはなにか

 「注意がどのようなものかは誰もが知っている」(James,1890)。今から100年以上も前の有名な心理学者の言葉です。ところが、長い月日が過ぎた現代でも注意研究は盛んにおこなわれています。つまり、100年を経てもいまだに「注意」は十分に明確にはされていないということです。例えば、「手を挙げてください」といえばだれもが同じように行動しますが、「注意してください」といった時には隣の人と同じことをしているとは限りません。

 それでも、「注意」に関してある程度の共通認識はあります。「注意」とは「気を付けること、用心すること」と辞書にはあります。心理学の辞書には「処理すべき情報を選択し、それ以外のものを制御する心的機能」、「情報の存在に気づく、情報を選択する、情報の一側面に集中する」とあります。

 私たちの周囲には情報があふれており、目や耳などを通して絶えず取り入れています。ところが、情報を全部取り込んでいたら対処できません。むしろ余計なことを無視した方がうまくやれます。そこで、必要な情報と、その余計な情報を見極めるのが注意ではないかと考えられています。これでも不十分な定義かもしれませんが、とりあえずはこう考えながら「注意」を考えてみます。


3.「注意」を向ける能力の限界

 どんなふうに「注意」は働いているのでしょうか。例えば、目で物を見る能力、つまり、視力を考えてみます。「視力」というと「目の構造、あるいは能力」を思い浮かべると思いますが、実は、「脳」の能力も関係しています。
注意を向ける能力の限界(1)

 右の図で中央の「+」を見つめたままで、右側の線の数を数えてください。次に左側の線を数えてください。右側の線の数を数えることは可能であるのに、左側では数えられません。これは、一般に視力と考えられているものは、「網膜上の解像度」だけではなく、「脳がモノのどのくらい細かい部分にまで注意を向けられるかに依存している」ことを示しています。

注意を向ける能力の限界(2)
同様に右の図で中心の「+」を見つめたままで周辺の「●」に「注意
」してください。外側の「●」に「注意」を向けることは難しいです。離れたところに注意を持っていくことが困難を伴うことを実感できましたか。因みに上半分の点の数は、下半分より少なくなっています。実は視野の中の下の方が注意を向ける能力がわずかに優れていることが明らかにされています。空には注意すべきものはそう多くはないが、地上には多いのかもしれません。自動車のメータ類が下の方にあるのはこのような「注意」の特性が理由でもあります。


4.物体の追跡

 「注意」の特性の一つに持続性があります。注意は瞬間的なものと思いがちですが、実際にはある時間の間、注意を継続させる必要がある場合が多いように思われます。運転の場面では、例えば、「先行する自動車を追視する」、「自転車や歩行者の動きを捉える」などがあります。歩行者や対向車を一瞥して、注意の仕事が完了するわけではありません。衝突を避ける方に対象が動いているのか、このままでは衝突するのか、自分の動きと対象の動きから次の行動を決定する必要があります。 

 上の図の中の8つの青く丸い図形のうち、4つが数回点滅します。その後すべての「〇」がいろいろな方向に動きます。目を動かさずに、点滅した4つの「〇」を追いかけてください(※ここでは動きません)。意外に簡単です。左の図上では図形の中に白い3本の柱を挿入しました。この柱の後ろ側を「〇」が通過するときには、見えなくなります。先ほどと同じことをします(※ここでは動きません)。ちょっと難しくはなりますが、まだ大丈夫です。最後に、左の図下では柱を背景と区別できなくし、同じことをします。つまり、ランダムに動く「〇」が突然消失したり、出現したりします(※ここでは動きません)。追跡はほぼ不可能になります。

 これらの状況で使われている何かを「注意」と考えると、「注意」を向けないとこれらの課題を遂行できないこと、対象の数が増加すると「注意」が不足しそうなこと、「遮蔽」などで簡単に妨害されるという「注意の脆弱性」があり、さらにそれが状況により異なることなどがあきらかになってきます。「運転中にメールをしていると事故を起こす」、「たくさんの自動車や歩行者がいると疲れる」、「Aピラーで歩行者を見失う」などといった現実の交通場面への適用は皆さんにお任せします。

 このほかにも「運動誘発盲」「注意の瞬き」「変化の見落とし」「不注意による見落とし」など、自動車の運転と関連した興味深い現象がいくつかあるのですが、それはまた別の機会に紹介いたします。


5.まとめ

 「注意」という能力は未だに十分に解明されていないこと、情報を選択する素晴らしい能力であること、しかしながらいくつもの「弱点」を持つものだということを説明しました。

 今日の話の背景にある自動車の運転時は人間にとって特殊な状況です。世界で最も速く走れる人は、100メートル約10秒、時速約36㎞です。その運動能力にふさわしい「注意」の能力しか持っていない私たちが、時速50キロで走るものを運転しているのですから、「注意」の能力を超えた無理な運動をしており、これが事故の原因の一つだと考えられています。研究者、行政機関、安全運転管理者の皆さんのなすべきことは、「注意」の仕組みを明確にし、その限界を広くアナウンスし、個々の運転者に注意の特性を実感する機会を設けることだということになります。

最後に宿題です。
ア)走行速度が大きくなると危険である理由を「注意」の文脈で考えてください。
イ)わき見運転や、酒気帯び運転が禁止されている理由を「注意」の文脈で考えてください。



□佐藤先生のブログ記事

□佐藤先生の授業紹介

2016年10月1日土曜日

LC哲学カフェ開催

9月26日月曜日の夕方、A605教室で久しぶりにLC哲学カフェが開催されました。参加者は学生諸氏が6名に教員が2名、さらに卒業生とそのご家族も加わり、計10名。

今回のテーマは「最も幸せな人生とはどのようなものか?」。今までの「マンガde哲学」では毎回、一つのマンガ作品を素材として取り上げてきましたが、今回は趣向を変えて、一つの問いをテーマに。そしてこの問いは、先日のLCガイダンスゼミナールで課題として出された問いでもあります。

ガイダンスゼミで配られた資料を改めて眺めつつ、ゼミの発表ではこんな意見が出た、あんな意見も出た、と思い返すことから、徐々に話が始まりました。

ゼミの発表では「最も幸せな人生に永遠の命は不要」という意見が多かったが、本当にそうなのか。永遠に生きてあらゆる快楽を味わい続けることができるならばそれで良いし、それが最も幸せな人生ではないか。老いた状態でいつまでも死ねないのが苦痛? では、もし永遠に若いままならば。周囲が皆死んでいくのに独りで生き続けるのは苦痛? もし10人だけ、自分と一緒に永遠に生きる人を選べるならば。

結局、生きている現状に不満があるので、その不幸から逃れるために死を望む? 幸福ならば、永遠に生きても良い? 逆に、不幸がないと後ろめたい? 「ずっと幸福で最後だけ不幸な人生と、ずっと不幸で最後だけ幸福な人生とどちらが良いか」と問われ、参加者の中で意見が分かれる場面も。

苦しみが何もない状態は退屈? いや、退屈は必ずしも不幸ではない。ボーっとしているのも幸せ。いや、ダラダラ過ごしていると「人間の底辺」にいるように感じてしまう。しかし、それは駄目なことなのか。「勤勉は善い」という価値観にとらわれすぎ? そもそも「最も幸せな人生」=「最も善い人生」と言えるのかどうか。

幸福が少ない方が、希少価値がある。苦労した後でこそ幸せを感じる?

幸福と不幸は人によって感じ方が違うし、同じ人でも小学生のときと、大学生になった今とでは幸福の感じ方が違う。ともすれば、何も知らないことが一番幸福なのかもしれない。あるお店のアイスクリームしか知らなかったときは、そのアイスで最高の幸福を感じていたが、別の高価なアイスの味を知ってしまった今、あのときの幸福は失われてしまった……。いやむしろ、美味しいアイスを知らないでいることの方が不幸では、との指摘も。

色々なことをすべて自分の思い通りに選べる人生が、最も幸せな人生? 自分の欲望を満たした結果、誰かを傷つけてしまった場合は? それでも幸せ?

幸福と他者の関係。幸福とは自分の精神的な状態のことで、すなわち「幸福を感じる」=「幸福である」と言える? あるいは、他者の視点も必要? 何が幸福なのか、自分独りで決めることはできない? 最高の幸福を感じさせてくれるような機械があったとして、その機械にずっとつながれ続けていたいと思うかどうか。「私は幸福を感じていた」という偽の記憶を植えつけられた人は、幸福だったと言えるのかどうか。

人を幸せにして幸せを感じることもあるはず。しかし「恋人が幸せだから自分も幸せ」は嘘? 結局、自己満足や錯覚。では「子供が幸せだから自分も幸せ」は? 子孫繁栄のための本能。最終的にはすべて自分のため? では「卒論生が幸せだから指導教員も幸せ」は?

その他、死は幸福なのか不幸なのか、神は幸福なのか、教育で幸福を教えることはできるのか、等々が問われ、また、自分が他人からどう思われているのか考えないのが幸せ、冷静さと幸福は対立する、努力から幸福が生まれる、努力や健康は国が押しつけてきた価値観でしかない、等々の意見が出て、当然のように特に結論は得られないまま、6時のチャイムと共に終了。その後、大学近くの某居酒屋に場所を移し、さらに夜遅くまで議論は続いた、との噂も……。

久しぶりの開催だったためか、あるいはテーマのためか、次々と意見が飛び出したわけではなかったものの、皆でじっくり悩みながら、まるで暗闇の中、手探りで何かを見つけ出そうとするかのように少しずつ論点を挙げていく、という、緩やかで心地好い時間となりました。

とはいえ、この形式での開催にはややマンネリ化の気配も。教室にばかり閉じこもっていないで、次回はいよいよ学外へ……? 詳細についてはこのブログで告知しますので、ぜひ一度、気軽に御参加下さい。

2016年9月26日月曜日

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内


 以前にも紹介しましたが、文化学科の先生たちは分野に応じていくつかの「研究チーム」なるものを運営しています。お互いの研究などを持ち寄って、発表したり討議したりすることは、研究活動を進めていく上でとてもよい刺激になっています。
 下記の研究チーム発表会を、学生の皆さんに公開いたします。普段の授業での「教員としての顔」とは違う、「研究者としての顔」を見られるチャンス。また今回は、特別企画としてお二人の先生からお話を伺います。宮野真生子先生からはご専門の九鬼周造と和辻哲郎について、岩隈 敏先生からはカント哲学について。今年度で退職される岩隈先生のお話が聞ける最後のチャンスでもあります。

 文化学科の皆さんは参加自由です。参加したからと言って発言の強制などもありませんので、安心して(?)聴講に来てみるといいですよ。

「善と悪に関する思想的研究」研究チーム代表 平井靖史



領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」
平成28年度 第4回研究会

・日時:1月31日(火)、14:00-17:10
・場所:A605 教室

プログラム
14:00-15:30:宮野真生子先生「間柄と倫理―九鬼周造と和辻哲郎」(質疑含む)
15:40-17:10:岩隈 敏先生「カントの経験の理論」(質疑含む)

2016年9月21日水曜日

平成28年度LCガイダンスゼミナール

9月17日土曜日、中央図書館の多目的ホールを主な会場として、今年度のLCガイダンスゼミナールが開催されました。当初は4月開催の予定でしたが、地震のために延期。後期の開始直後、9月の開催となりました。

今年度のテーマは「文化学科で考える『しあわせ』」。せっかくの土曜日、しかも三連休初日の朝から図書館に集められ、一日中ゼミに参加させられて何が「しあわせ」だ、という怨嗟の声も聞かれる中、冒頭、二つの講義からスタート。

機材トラブルでブログラム記載の順番が変更になり、最初は文化学基礎論(一年生必修の講義、前期開講)の担当教員による講義から。課題は「最も幸せな人生とはどのようなものか?」。前期の文化学基礎論の授業内容を復習しながら、各教員がこの問いを考えるためのヒントを。最も幸福な人生を送るためには最も不幸な人生を経験しなければならない? 幸福は相対的か普遍的か、幸福と時間の関係、永遠の命は必要か不要か、美術表現に見る幸福、等々。

続けて二つ目は、文化人類学の髙岡先生による講義。鮭の加工場に注目したドキュメンタリ番組を題材に、「フィールドワーク」という調査方法について説明され、「幸福をテーマにテレビ番組提案票をつくってみよう」という課題が出されました。

同じ「しあわせ」というテーマに、一つ目の課題が抽象的な仕方でアプローチしようとしているのに対し、二つ目の課題は具体的な現場に注目。講義後、この二つの課題が一年生たちの各グループに割り当てられ、それぞれのグループが図書館内の指定された場所に移動して、グループ作業が始まりました。昼休みを挟みつつ、サポートの上級生と一緒に、タイムリミットまでに発表(10分間)の準備を。なかなか意見が出ずに苦しんだり、逆に様々なアイディアが出てまとまらなかったり。中には、常に笑い声の絶えないグループも。


午後2時半、再び全員が多目的ホールに集合し、まずは前半、髙岡先生からの課題に取り組んだグループが発表。手書きのレジュメをスクリーンに映しながら、日本人と外国人の休日の過ごし方を比較する、元暴力団の人々にインタビューする、インドにある日本人宿「久美子の家」を取材する、お笑い芸人に関するドキュメンタリを作る、等々の番組企画が説明され、質疑応答が行われました。

10分の休憩後、後半は、文化学基礎論の課題に取り組んだグループの発表。幸福を感じるためには不幸を感じることが必要、永遠の命は不要、ストレスあっての幸せ、幸福は相対的なもの、「幸福>不幸」であることが幸福、等々の主張がされ、質疑応答。お互いの主張が対立しているように見えた二つのグループが、少し議論した結果、直ちに「同じです」と合意に達する場面も。

すべてのグループの発表が終わった後、残り時間で全体討論。或る教員から、仮に「幸福を感じるためには不幸を感じることが必要」と言えるならば「不幸を感じるためには幸福を感じることが必要」とも言えるのか、「幸福を感じる」と「幸福である」は等しいのか、という二つの問題が提起され、一年生や上級生が何とか答えようと挑戦。

その後、講義を担当した教員たちが講評のコメントを述べ、一日がかりの長いゼミもようやく終了。例年、このゼミの後には新入生歓迎会が待っているのですが、今年度の新入生歓迎会は既に6月に開催されたため、そのまま解散となりました。

発表の10分を使いきれずに苦戦したグループも多く、また、テレビ番組の企画を「しあわせ」に結びつけることや、「最も幸せな人生」の「最も」という部分について考えることにも苦戦したようで、色々と課題は残ったかもしれません。しかし一日中、ともかく一つの課題に取り組み続けた、この経験には十分な意義があります。かつ、このゼミはあくまでも「ガイダンス」。これから文化学科で何をどのように学んでいくのか、参加者に幾らかでもイメージをつかんでもらえたならば、このゼミは成功だったことになります。

未だ大学生活は始まったばかり。古人曰く、Festina Lente(ゆっくり急げ)、です。

最後に、ゼミを手伝ってくれた9名の上級生に心から感謝を。一年生の皆さんは来年度以降、今度はぜひサポートの側でこのゼミに参加して下さい。

平成28年度 卒業論文相談会が開催されました

 3年生対象の、平成28年度卒業論文相談会が9月21日(水)に開催されました。今年も例年と変わらず多くの3年生が参加しました。

 この相談会は、教員と3年生が一堂に会して行われます。複数の教員と話をすることで色々なヒントが得られたことでしょう。この相談会を出発点として、卒業論文のテーマと指導教員が決まっていきます。

 これから1年以上をかけて、どのような個性豊かな卒業論文が生まれてくるのか、力作を期待しています。




2016年9月16日金曜日

「魚釣り」という文化(小林信行先生)

「教員記事」をお届けします。2016年8回目は小林信行先生です。



「魚釣り」という文化    
     小林信行(哲学

 文化学科は文化の総合的理解を目指している。ところが「総合的」ということばには分かりやすい側面とそうではない側面とがある。「分かりやすい」というのは、玩具として有名なLEGOのように、さまざまなパーツを思いのままに結合させて一つの全体像を作り上げればよいというイメージが浮かびやすいからであり、他方で「分かりにくい」というのは、どんなにパーツを結合させても、そこに何か総合的な観点が成立しなければ、パーツはただの寄せ集め、焦点のない単なる集積物になってしまうからである。

 あまりなじみのない人もいるだろうが、ここで「魚釣り」が総合的に理解されるものであることを紹介してみたい。これはプラトン『ソピスト』という著作に述べられている議論で、やや面倒な紹介であるが少し我慢して欲しい。まず、魚を釣ることも一つの技術であるが、それは大きく言うと何かを作る技術ではなくて、何か獲得する技術だ。しかし獲得の仕方にも、誰かと競って獲る場合と自分で狩猟して獲る場合(ハンティング)とがあり、魚を釣ることは後者に属する。そして狩猟するにしても、相手が無生物の場合(たとえば鉱物ハンター)と生物の場合(一般的なハンター)とがあって、釣りはこの後者である。だが、生物相手と言っても、陸生と水棲とがいるから、魚釣りは水棲生物相手と言わなければならないが、鳥などにも水辺に住むものがいるので、魚類を相手にする狩猟が釣りだと規定しなければならない。また、魚を釣ることは魚を網などで獲る漁とは区別されるので鉤[つりばり]漁と言わねばならず、しかもそれは銛[もり]のように上から下を狙って獲るではなくて、下から上に釣り上げて獲るものだ。おまけに、昼間だけではなくて夜釣りのことも考慮しなければならないだろう。

 今ではもっと精密で適切な説明が可能であろうが、しかしとにかく紀元前に示された素朴な項目の羅列からだけでも、魚を釣るという一見したところ単純な行為がいかに複雑きわまりないものであるかを感じ取ってもらえるのではないか。このようなこともまた総合的理解と呼びたいのだが、大事な点は、すでに存在している漠然とした何らかの全体像を改めて総合的に捉え直なおす、というところだ。一般的には総合によって何か斬新な全体像が期待されることが多い。しかしそのようなものが釣りの場合に現れてくるわけではないし、そもそもこれまでの釣りのイメージに代わるような全体像が求められているわけでもなく、ただ魚釣りというものの見直しが行われているだけである。

 「総合的な見方」にはそれが求められる脈絡や時代状況がつきまとっている。社会的要請と呼ばれるものがその典型である。あまりにものごとが細分化された現代社会では、何か問題が生じた場合、その問題を一つの総合的な観点から見ようとする試みが社会的要請となり、時代の要請となっている。要するに、「総合的理解」が求められるとき、無理をして新しい像を作り出すばかりではなく、むしろ漠然としていた既知の文化について、より内実のある全体像を提示してもよいのではないか。釣りは一つの仕事として安定した社会的要請をもつ文化であるから、二千年以上の昔に上のような釣りの考察がなされていたとしても何ら不思議はないが、現代では現代の要請に応じて釣りについてのプラトンより充実して豊かな総合的全体像を明らかにすることも可能だろう。

 ところでプラトンを例として挙げたのは、「総合的理解」の方法について重要な手がかりを与えてくれるからである。それは、プラトンが「魚釣り」を一つの技術として扱っている点だ。どのように獲得しているか、その対象は何か、といった細部を解明しているのは、そこに人間の知的活動があるからだ。鯛と平目を釣る場合は同じ鉤でよいのか、網で獲る魚を鉤で釣れるのか、夜行性の魚をどうやって昼間に釣るのか、といったことに知性をはたらかせていることが魚釣りの技術というものである。文化とは自然発生的に見えても、上のようにこまごまとした知性活動の集合と考えうるものであり、その活動を丁寧に細部にわたって再構成することが当の文化の全体を理解させることになるのではないか。つまり、総合的理解ということで意味されているものは、実は「分析的理解」と表裏一体であるのではないだろうか。

 □小林先生のブログ記事
年寄り趣味で申し訳ありませんが
I like Music or I love Music ?

2016年9月15日木曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

今月末のLC哲学カフェ、下記の通り、詳細が決まりました。

  LCガイダンスゼミナール連動特別企画:
  最も幸せな人生とはどのようなものか?

  日時 9月26日(月) 16:30-18:00
  場所 A605教室


今回は今までの「マンガde哲学」と異なり、マンガの作品を題材にするのではなく、一つの問いを掲げることからスタート。そしてこの問いは、今週土曜日に開催される、LCガイダンスゼミナールの講義②の問いでもあります。

ガイダンスゼミに参加した一年生が、この問いについてさらに深く考えてみるもよし、二年生以上の学生諸氏が、初めてこの問いに取り組んでみるもよし、です。この問いからスタートして、全く違う話題へ展開していくのも可。

参加者の自己紹介は行ないませんし、無理に発言しなくても構いません。途中入室、途中退室も自由ですので、ぜひ一度、気軽にのぞいてみて下さい。

2016年9月14日水曜日

卒業論文中間報告書の提出について

卒業論文中間報告書の提出について
(LC13台以上/4年生対象)

卒業論文を提出する予定の4年生は、指導教員と相談の上、下記の期間中に中間報告書を提出して下さい。

 提出期間 9月23日(金)から9月30日(金)まで
 提出場所 人文学部事務室

中間報告書の分量や形式は、指導教員の指示に従って下さい。

教務・入試連絡委員 大上渉・小笠原史樹

2016年9月12日月曜日

【再掲】卒業論文相談会の開催について

卒業論文相談会の開催について(再掲)
(LC14台/3年生対象)


 文化学科では、10月上旬の「卒業論文指導願」提出期限に先立ち、3年生を対象に卒業論文の相談会を開催します。個々の教員に個別具体的な相談ができる貴重な場です。卒業論文を書くかどうか迷っている人も、是非とも足を運んでみましょう。
 また、この相談会に先立ち、自分の研究テーマについて本を読んだり資料を集めたりといった具体的作業を進めておくことも推奨します。


■日時:2016年9月21日(水)16:30~18:00
■場所:文系センター15階 第5会議室

 *『2016年度版 文化学科教員紹介』を持参してください


 なお、卒論相談会に出ないと指導が受けられないということではありません。

 教員とオフィス・アワーやeメール等を利用して、積極的にコンタクトをとり、テーマを決定して10月3日(月)~10月14日(金)に人文学部事務室宛に「卒業論文指導願」を提出してください。

 卒業論文を書くにあたっての具体的手続は、『2016 年度版 文化学科教員紹介』の24-31頁「卒業論文を書くために」を参照してください。

 下記の卒業論文関係の学科ブログ記事もよい参考になります。

平成27年度提出の卒業論文題目一覧
平成27年度卒業論文発表会に参加して(LC13台 佐野主季くん)
平成27年度卒業論文発表会
卒業論文発表会のお知らせ
卒業論文

教務・入試連絡委員 大上 渉・小笠原 史樹

2016年9月1日木曜日

私のゼミについて (岸根敏幸先生)

「教員記事」をお届けします。2016年度第7回目は、岸根敏幸先生です。



私のゼミについて

岸根敏幸(宗教学)

 文化学科にはすべての教員が担当する「文化学演習」(以下、「ゼミ」と呼びます)という少人数制の授業があります。この授業をどのようにおこなうかは担当教員によって様々であり、たとえばテキストを輪読したり、通常の講義とほぼ同じような講義をしたり、グループに分かれて発表やディベートをしたり、共同でなにかを制作したりと、色々な形があろうかと思います。私のゼミでは従来、日本神話に関連した課題を学生にあらかじめ割り当てて、一回の授業を一人で(場合によっては二人共同で)担当してもらい、発表とそのあとの質疑応答に対応してもらう、という形をとってきました。発表が不十分で、出席者が質問するのをためらってしまうような場合もありましたが、しっかり準備がなされた発表の場合、そのあとの質疑応答も充実していたように記憶しています。

 このようなゼミに取り立てて不足を感じていなかったため、これまで長く続けてきたわけですが、数年前から別の形に改めた方がよいのではないかと思うようにもなりました。その大きな理由として、学生は自分に割り当てられた発表については一生懸命調べ、発表資料を作成してくるのですが、他の人の発表に対しては、必ずしも十分な予習をしていない、ひどい場合には、なにも予習をしてこないことさえあるという点が挙げられます。自分の発表さえ乗り切れば、あとは質疑応答に加わって、発表者が作った配布資料を見ながら、それなりに発言すれば、ゼミの時間をやり過ごすことができてしまうのです。たとえ一度であっても、きちんと準備をして発表し、質疑応答にも責任をもって対応できたならば、それでよしとするという考え方もあるでしょうが、様々な事柄に注目しながら、日本神話についてより深く探究してゆくという私のゼミの目的からすると、割り当てられた一つの事柄だけを調べればいいというわけでないのです。

ゼミ写真 1

 また、このこととは直接関係しませんが、人文学部の学生に対するアンケート調査結果によると、文化学科の学生は他学科の学生に比べて、授業に対する準備学習の時間が著しく少ないという実態が浮かび上がっています。他学科とは異なり、文化学科の場合、特定の専門分野を積み上げてゆくようなカリキュラムにはなっていないため、それほど準備学習をしなくても、授業を乗り切れてしまう側面があることは否めません。しかし、それぞれの授業には、長年そのような研究に従事したことによって得られる面白さがあるはずであり、それをある程度理解するためには、やはり十分な準備学習をしてもらうという方向性が必要となるでしょう。

ゼミ写真 2
 ゼミの問題に加えて、以上のような文化学科が抱える問題もあって、ここ数年、どのような形でゼミをおこなったらよいのか思案していました。たとえばテキストを毎回の授業で少しずつ輪読してゆくという形をとれば、すべての学生が予習や復習をしてくるという点はクリアできるでしょうが、ゼミでテキストを読むというのは、私としてはどうも性に合わないので、踏み切れませんでした。そして、ようやくたどり着いたのが、今年度からおこなっている形です。それは、あらかじめ通知した授業の課題について、すべての学生が調査、および、問題の考察をおこなっておき、それを前提にして、授業で議論し、さらに理解を深めてゆくというものです。

 この形のゼミでは特定の学生が資料を配布して発表することはありませんので(ただし、熱心な学生が当日、自発的に資料を配布して、意見などを発表することは構いませんが)、自分で課題についてきちんと調べておかないと、議論についてゆくことはできないでしょうし、また、その課題について単に調べるだけではなく、どのような問題が存在するのかということを考えておかないと、議論を方向づけたり、展開させたりすることはできないでしょう。このように調査と考察を前提にしながら、議論の場において積極的に発言することがこのゼミでは強く求められるのです。成績評価もこの一点のみに重点を置いており、しっかりした準備学習に基づいて、議論で積極的に発言する学生は高く評価されるでしょうが、ただ単に座って、貝のように口を閉ざしている学生は、たとえ半年間すべての授業に出席したとしても、次年度に再履修という憂き目に遭うかもしれません。

 このようにして、15名の学生からなる私のゼミでは、前期に11の課題をめぐって議論をおこなってきました。扱った課題はつぎのようなものです。

①スサノヲ、②黄泉つ国、③サチ、④古語拾遺、⑤天つ神と国つ神、⑥失われた釣り針型神話、⑦トンボ、⑧オノゴロ嶋、⑨神の姿形、⑩三種の神器、⑪南九州の四神宮。
※ どの課題も正式には「日本神話における<課題>」または「日本神話と<課題>」という形になります。

 授業に先立つガイダンスでは、ゼミ用の準備学習ノートを用意し、予め通知した課題ごとに、自分で調査したことや考察したことを随時、書き記しておくようにアドバイスしました。ほとんどの学生がそのようなノートを用意して、授業に臨んでいます。

ゼミ写真 3
 半年間を振り返ってみると、議論がうまくいったときもあれば、そうでなかったときもありました。また時には、本来、黒衣(くろご)に徹すべき私がそのおしゃべりな性格と議論を盛り上げようとする過分な配慮から、熱弁を振るってしまうこともしばしばありました。課題についても、活発な議論ができるようにもう少し工夫すべき点があるでしょう。全体として改善の余地はまだまだありますが、様々な事柄に注目しながら、日本神話についてより深く探究してゆくという、私のゼミで掲げている目的に向けて歩みを進めることができたのではないかと思います。ということで、今後も引き続き、このような形でゼミをおこなってゆくつもりです。日本神話について深く探究したいと思う意欲的な学生はぜひとも私のゼミへ。

□岸根先生のブログ記事

2016年8月9日火曜日

LC哲学カフェ再開のお知らせ


長くお休みしていたLC哲学カフェですが、夏休み明けから再開する予定です。日時の暫定案は下記の通り。

  9月26日(月) 16:30-18:00

場所や内容は未定。後日、改めてこのブログ上で告知します。

未だ一ヶ月以上も先ですが、興味のある学生さんは、ぜひ今からスケジュールの調整を。


「そもそもLC哲学カフェって何?」という方は、次の記事を御参照下さい。

  LC哲学カフェって何?

過去の活動記録は次の通り。

  2014年9月27日 『ハンナ・アーレント』でかたらんと?
  2014年10月31日 ペンギンは白と黒なのがかわいい?――『よつばと!』で哲学する
  2014年11月26日 どの石がボクを好き?――『ぼのぼの』で哲学する
  2014年12月10日 それは数字の8? それともちっちゃな雪だるま?――スヌーピーと哲学する
  2015年1月7日 好きになるってどんなこと?――『ハチミツとクローバー』から考える
  2015年3月30日 ニセモノの自分、ホンモノの自分?――『彼氏彼女の事情』で哲学する
  2015年4月15日 紙の本を読みなよ――ビブリオバトルで決める大学生必読のマンガ
  2015年4月28日 まあっもったいない?――『ミノタウロスの皿』で哲学する
  2015年5月23日 私はあの時どんな顔をすればよかったのだろう――『空が灰色だから』で哲学する
  2015年6月27日 平等な審査をお願いします?――『聲の形』で哲学する
  2015年7月11日 あなたがこの10名のリーダーだとしたら?――『沈黙の艦隊』で哲学する
  2015年11月4日 人間であるために最低限必要な部品?――『攻殻機動隊』で哲学する
  2015年12月9日 忘れられるって死んでるのと同じ?――『ヘルタースケルター』で哲学する
  2016年1月6日 一緒に帰った子は友達?――『ニトロちゃん』で哲学する

2016年8月6日土曜日

オープン・キャンパスが開催されました

 平成28年度オープン・キャンパスが、本日2016年8月6日(土)に開催されました。

  大上 渉 先生の模擬講義「犯罪捜査と心理学」、  林 誓雄 先生の模擬講義「『正義』の名の下に、何をやっても許される?-おとり捜査の倫理学-」には計600名近い多くの方々が聴講に来てくださいました。

 教員・在学生による個別相談も盛況で、熱心なご相談、ご質問を数多くいただきました。

 模擬講義を担当してくださった2先生、教員スタッフ、学生スタッフの皆さん、そして何よりも文化学科を訪れてくださった高校生、保護者の皆さんに心よりお礼申し上げます。



2016年7月31日日曜日

歌詞の中の神々(小笠原史樹先生)

「教員記事」をお届けします。2016年度第6回目は、小笠原史樹先生です。



歌詞の中の神々

最近まで中州の大洋映画劇場で、クリスチャン映画を3作品連続で公開する、というイベントが開催されていた。この場合の「クリスチャン映画」とは単に「キリスト教をテーマにした映画」ではなく、「キリスト教の信仰の立場から作られた映画」のこと。上映されたのは「復活」(Risen)、「天国からの奇跡」(Miracles from Heaven)、「祈りのちから」(War Room)。私はクリスチャンではないものの、仕事と趣味を兼ねて3作品とも観に行き、相応に楽しんだ。

「復活」が古代のエルサレム等を舞台にしているのに対し、残り2作品の舞台は現代アメリカ。「天国からの奇跡」の冒頭、教会の壇上で会衆を前に、バンドが演奏している場面が出てくる。軽快なポップスのメロディに乗せて“Lord, I’m longing for your ways/I’m waiting for the day”(主よ、あなたの道を切望しています。その日を待っています)とか、歌っている。「祈りのちから」のエンドロールで流れるのも、同様のキリスト教的な曲。“I am a warrior on my knees”(私はひざまずいた戦士)、“Even though our enemy roars like a lion, the Lion of Judah is on our side”(敵が獅子のように吠えても、私たちにはユダ族の獅子が付いている)。

「ユダ族の獅子」はイエス・キリストを指している。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(『ヨハネの黙示録』5章5節、新共同訳)。

どうやら「クリスチャン・ロック」というジャンルがあるらしい、と知ったのは、昨年、やはり中州の映画館で観た「神は死んだのか」(God’s not Dead)がきっかけだった。作中、ニュースボーイズという実在のバンドが登場して歌う。“My God’s not dead/He’s surely alive/He’s living on the inside/Roaring like a lion”(私の神は死んでいない。彼は確かに生きている。心の中にいて、獅子のように吠えている)。キリスト教とロックは対立している、とばかり思っていたので、この映画を観たときは驚いた。

1970年、ジョン・レノンは“God”という曲を発表している。“God is a concept by which we measure our pain”(神なんて、僕らの痛みを測るための概念でしかない)、“I don’t believe in Bible(…)I don’t believe in Jesus(…)I just believe in me, Yoko and me, and that’s reality”(聖書なんて信じない(…)イエスなんて信じない(…)僕は僕だけを信じる、ヨーコと僕だけを。確かなのはそれだけ)。

1976年にはセックス・ピストルズが“I am an anti-Christ”(俺は反キリスト)と声を張り上げ、2000年にはマリリン・マンソンが“I’m not a slave to a god that doesn’t exist”(俺は神の奴隷じゃない、神なんて存在しない)と叫んだ。ブラック・サバス(黒い安息日)やジューダス・プリースト(裏切り者の司祭)に至っては、そのバンド名からして反キリスト教的である。

しかし気づけば、既に1990年代から、インペリテリがキリスト教的な歌詞の曲を発表してもいた。1994年のアルバムのタイトルは“Answer to the Master”(主に答えよ)。ジャケットも、ミヒャエル・パッハーの「聖ヴォルフガングと悪魔」というキリスト教の絵画。さらに1996年のアルバム、一曲目の出だしは次の通り。“Father forgive them, they know not what they do”。ほとんどそのまま、新約聖書からの引用である。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(『ルカ福音書』23章34節、新共同訳)。実はブラック・サバスにも、キリスト教的な曲がある(“After Forever”、1971年)。

邦楽の歌詞でも案外、神への言及は多く見られる。YUIの「How Crazy」、「Oh 神様 ちょっと不公平だって思うよ」。チャットモンチーの「世界が終わる夜に」、「わたしが神様だったら こんな世界は作らなかった/愛という名のお守りは 結局からっぽだったんだ」。どちらも2007年。

1974年、荒井由実の「やさしさに包まれたなら」、「小さい頃は神さまがいて/不思議に夢をかなえてくれた」。1997年、川本真琴の「1/2」、「唇と唇 瞳と瞳と 手と手/神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる」。広瀬香美の「ロマンスの神様」や植村花菜の「トイレの神様」、最近ではハナエの「神様はじめました」(鈴木ジュリエッタのマンガ『神様はじめました』に由来)や椎名林檎の「神様、仏様」、等々。

今一番気になっているのは、RADWIMPSの幾つかの曲。「おしゃかしゃま」、「もしもこの僕が神様ならば 全てを決めてもいいなら/7日間で世界を作るような 真似はきっと僕はしないだろう」。「狭心症」、「そりゃ 色々忙しいとは思うけど/主よ雲の上で何をボケっと突っ立ってるのさ/子のオイタ叱るのが務めなんでしょ/勇気を持って 拳を出して/好きなようにやっちゃって」。「五月の蝿」には直接「神」という言葉は出てこないが、次の歌詞が印象的。「激動の果てにやっとたどり着いた/僕にもできた絶対的な存在/こうやって人は生きてゆくんでしょ?/生まれて初めての宗教が君です」。そして「実況中継」では、神様と仏様が喧嘩になる――。

しばしば日本は「無宗教」と言われるが、誰かが「神様」と歌って、その言葉を聴いて多くの人が自然に理解する程度の、漠然とした「神」の概念は共有されているはず。これらの歌詞を集めて分析してみたり、洋楽と比べてみたりすることで、現代日本における「神」の在り方が見えてくるかもしれない。勿論、音楽だけでなく映画や小説、マンガやアニメ、ゲーム等も格好の研究対象になるだろう。ごくごく身近なところに、いくらでも学問のネタは転がっている。

というわけで、もし万が一、私が研究室でジューダス・プリーストを聴きながら『夏目友人帳』を読んでいたとしても、決して怠けているわけではないのである……おそらく。


□小笠原先生のブログ記事

平成28年度オープン・キャンパス

 今年度のオープン・キャンパスのお知らせです。
 文化学科の模擬講義、個別相談には右のポスターを目印にどうぞ。

模擬講義
 会場  8号館2階 826教室


1)「犯罪捜査と心理学」
 講師  大上 渉 准教授
 時間  11:30 ~ 12:10

2)「『正義』の名の下に、何をやっても許される?
  -おとり捜査の倫理学-」
 講師  林 誓雄 講師
 時間  14:00 ~ 14:40



教員・在学生による個別相談
 会場  A棟6階 A615 教室
 時間  10:00 ~ 16:00





 また、ご来場頂いた方には、各界で活躍する文化学科の卒業生や在学生を紹介した『文化学科卒業生・在学生名鑑』(2016年版)をプレゼントします。卒業生24名、在学生10名の記事に加えて、文化学科の行事や就職先の情報も載っています。文化学科の学生が手作りで製本しました。

 250部限定ですので、品切れの際はご容赦下さい。





昨年の文化学科のオープン・キャンパスの様子はこちらをご覧下さい。


文化学科での学生生活がよくわかる、学生記事はこちら。
 ・文化学科の時間割
 ・大学生活を充実させるためにたいせつなこと



大学全体オープンキャンパスの案内はこちらをどうぞ。
 http://nyushi.fukuoka-u.ac.jp/event/op/

 


2016年7月29日金曜日

文化学科の時間割

  今年度7回目の学生記事をお届けします。L15台の宮崎祐樹君、中川響介君、永井健太君が2年次前期までの文化学科の時間割について紹介してくれました。
 松岡明里さんと水永まなみさんの「大学生活を充実させるために大切なこと」の記事もぜひあわせて読んでください。文化学科での学生生活がよくわかると思います。
 また、オープンキャンパスに来られた方は、4年間を通しての文化学科の時間割が展示されていますので、ぜひご覧下さい。


文化学科の時間割

LC15台 宮崎祐樹 中川響介 永井健太

 今回、人文学部文化学科に在学中である私たち3名は、文化学科の学生がどのような学業生活を送っているかを、一般に広く知ってもらうために、私たちの時間割を紹介します。受験生の方はぜひ参考にしていただきたいと思います。

 まず文化学科2年の宮崎祐樹が、1年次前期の時間割を紹介します。私は人間の行動に関心があり、文化学科を受験しました。特に心理学Aは受講した中でもとても面白くためになる授業でした。ほかの授業は、高校で理系だったため、理数系の科目を多めにとり、期待値、分散、標準偏差などを学びました。第2言語は中国語、朝鮮語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語の6種類の選択肢があります。私はサッカーに興味があり、スペインに試合観戦などをしにいくためスペイン語を学び、事実、この授業のおかげでスペインでもそつなく会話をこなすことができました。

 大学生になり、レポートが作れるかどうか不安だったのですが、必修科目の基礎演習Ⅰでは、レポートの書き方をとても丁寧に教えていただき、この授業のおかげでレポートを素早く作成できるようになりました。また、文化学基礎論では文化学科で学んでいくために必要不可欠な知識を学びます。具体的には哲学や宗教学、文化人類学などのさわりの部分を学習し、基礎的な知識を身につけます。
(宮崎祐樹) 



 次に、中川響介が2年前期の時間割を紹介します。文化学科では、哲学、地理学、心理学、宗教学、社会学、倫理学、美術史、文化人類学などの、幅広い学問分野を学習します。私たちが当たり前に過ごしている生活の習慣を地域や年代ごとにとらえて異文化を理解し、人の探求を通して、固定観念にとらわれない幅広い視野と柔軟な発想力を持てる人材の育成を目指しています。例えば、木曜5限の哲学の基礎Ⅰ(宮野先生)では、「世間」と「社会」をテーマにし、まず「世間」と「社会」の違いを考え、私たち大学生は、「世間」と「社会」のどちらに属していることが多いのか、「世間」と「社会」の2つを100%としたとき、私たちは、どのくらいの割合で過ごすべきなのか、グループごとにディスカッションをしました。授業で知識を得て深めるだけでなく、グループ活動を行うことで、友達との輪が広がり仲を深めることも出来ます。

 また、私は、教員免許と博物館学芸員資格の課程を履修しています。私が文化学科に進学を決めた最大の理由が、この2つを履修することができるからでした。やはり、大学に進学をしたからには、多くの資格を習得したいと思いました。履修科目数が増えるので、他の人より時間割の余裕が少なく、テスト勉強が大変になるかもしれませんが、しっかりと励みたいと思います。教職課程では、4年生の時に母校の高校で教育実習を行い、博物館学芸員課程でも、各博物館で実習を行う予定です。また、これらの授業を通じて得るものは多く、大変やりがいを感じています。多種多様な視点を学べることが文化学科の良いところだと感じています。これからますます人間・社会・文化の理解を深められるよう、学業に励んでいきたいと考えています。
(中川響介) 



 最後に、永井健太が文化学科全般について総論します。このように文化学科では、様々な学問分野を学ぶことができます。入学した時はレポートの書き方やグループでの討論、発表等に戸惑うこともあると思います。しかし、大学の講義とは、高校の授業のように生徒が先生からただ教えてもらうといった形式ではありません。自分が何を学びたいか考え、本などで調べて、友達と話し合い、結論を出すというような、自分から進んで学習しようという意欲が必要です。この気持ちがないと、大学の講義の本当の面白さはわからないでしょう。しかし、折角高い学費を払って大学に通っているのに、積極的に学ばないのはもったいないです。大学に入ろうとしているけれど、どの学科にするか決めかねている受験生の方には、福岡大学人文学部の文化学科をお勧めします。

 文化学科では様々な国や地域の文化を幅広く学ぶことができます。私はアダムとイブなどの神話的な話に興味を持ち、宗教学関連のゼミを受講しています。そこでは聖書などを物語的に読み取り、ゼミのグループが各々さまざまな解釈をし、議論しています。また、私の友人は、自分たちで調べたい文化のフィ―ルドワーク(現地調査)を行い、まとめて発表をしています。

 文化学科では演習(ゼミ)が必修科目となっているため、いろいろな分野の研究をしている先生方の授業を受けることができます。哲学や地理学、文化人類学などの分野から自分の興味がある分野を選択し学習します。ゼミではレジュメやレポートを作成・発表し、討論を通じて結論を出すといった形式です。これを繰り返すことによって、自分の意見をまとめて人に伝える能力やパソコンでの資料作成などの力が付きます。これは社会に出ても必要になっていく能力です。文化学科は自分の興味がある分野を学ぶのに適した学科だと思います。
(永井健太)

2016年7月28日木曜日

大学生活を充実させるために大切なこと

  今年度6回目の学生記事をお届けします。LC14台の松岡明里さんと水永まなみさんが大学生活を充実させるために大切なことを考えてくれました


大学生活を充実させるために

LC14台 松岡明里  LC14台 水永まなみ

 大学生活を充実させるために大切だと思うことは、自分から動くことです。大学は高校生の時までと違い、周りが色々と世話をしてくれなくなります。一見自由になるから良いことと捉えられがちですがこれは自分が何も行動しない限りは物事が進まない、色々な経験をするチャンスが減る、何も起こらない日々になるなどの恐れがあるということです。せっかくの4年間なのに自分から行動を起こさなければ、後から「4年間何もなかった」というような大学生活になってしまうかもしれません。   
福岡大学 正門

 自分から動くということには具体的にいうと、色々なことがあります。自分がしたいことにチャレンジしてみたり、授業をいつもより積極的にきいてみたり、ゼミなどの発表の場で思い切って意見を発表してみたり、友達を遊びに誘ってみたりなど様々です。一見当たり前にするべきことだと思う人もいるかもしれませんが、実際にそれらのことをできている人は少ないと思います。つい自分の甘さに負けてしまったり、不安になったり、勇気がでなくて挑戦できなかったり、わかっているのに行動できなかったりする時があるからです。しかし、そのままでは後悔することになってしまいます。一歩踏み出せず後悔したことがある人はたくさんいるのではないでしょうか。

 自分から動くことで新たな動きや出来事が生まれます。今まで話したことのないような人とも話す機会が増え、こういう人もいるのだなと思ったり、思っていたよりも気が合う人がいたりもして新しい発見が生まれます。自分から行動したその先には新しい仲間との出会いがあるのです。そして、自分から挑戦したいことにチャレンジすることにより成長することができ、積極的に授業を受けることにより普通に受けていただけじゃ気がつかなかったような面白い発見があります。また、意見を発表することは自信につながり、その学問への興味にもつながります。友達と遊ぶと楽しい時間を過ごせます。小さいことから大きなことまで、自分から動いて行うことで色々なことが変わっていくのです。

 自分から動くということによってうまれるパワーは自らが思っているより、とてつもなく大きいものなのだと思います。なぜなら、あなたの以前の選択による行動がなければ、今の生活は大きく違ったものであったのかもしれないのですから…。自分から動くことによって起きるパワーの大きさに、私たちは気づいていないのではないでしょうか。気づいていない中で日々たくさんのことを選択し、生きているように思います。そのパワーの大きさに気づくときが、1人1人が大きな一歩を踏み出す時なのではないかと感じます。   
           
福岡大学の景色
 このように自分から動くということには大きな力があり、自分を成長させることにつながり、充実した日々を送ることにつながるのです。自分から動かなければ何も始まりません。だからこそ、自分から動くことが出来ない人にはぜひ勇気を出してもらいたいなと思います。福岡大学には「学生チャレンジプロジェクト」など、みなさんのチャレンジを後押ししてくれる制度があります。また福岡大学には2万人以上の学生がいます。あなたの今までの価値観を変えてくれるような出会いもあるかもしれません。たくさんの人との出会いがあり、それによりたくさんのことに気づけます。影響を受け合い互いに成長できます。「あの子も頑張っているから私も頑張ろう」と思えるような友達と出会うこともできます。ぜひこの福岡大学で自分から動くことによって様々な経験をして大学生活という限りのある大切な時間を思いっきり過ごし、成長していって欲しいと思っています。
(松岡明里)



 大学生活は4年間、本当にあっという間に過ぎていきます。大学生活を充実させるために大切だと思うことは、まず時間を上手く活用することです。例えば、大学生は自分で時間割を組みます。そのため、時間割の組み方次第で自由に時間を作ることができます。その隙間の自由な時間を有効に使うことが濃い毎日を送れるかどうかに大きく関わってきます。だらだらと何もせず過ごすことも時には必要ですが、しっかりと計画的に取り組むことで夢や目標などを見つける切っ掛けにもなると思います。私も、思い立ったらすぐ行動することを心がけています。自分のやりたいと思ったことにどんどん挑戦し、あとから後悔することのないようにこれからも続けていこうと思っています。
      
 それから、部活動やサークルに入ることをお勧めします!福大には200団体近くの部活動、サークル、愛好会などがあります。興味のあることや趣味などを同じように持つ仲間たちと一緒に活動しています。私自身、現在女子ソフトボール部で活動をしています。中学や高校の時は、顧問の先生に言われるがまま、ただがむしゃらに部活動に取り組んでいました。とくに高校3年間は、寮に入り、ソフトボールをすることだけに没頭していました。しかし今は、大学生らしく自分たちで知恵を出し合いながら戦術を考えたり、日々の練習メニューを考えたりしています。また、大会や遠征の手配なども自分たちで行っています。

 大学生になった初めの頃は、今までと全く違う環境でソフトボールをやることに対して、戸惑うことも多かったです。社会にでる一歩手前ということもあり、礼儀や上下関係は厳しいです。目上の方と話す機会があるため、丁寧な言葉遣いや挨拶などのマナーが身に付きます。自分自身のためにもなり、とても良い経験となっています。

 また、文化学科で学んだことを、部活動内でのチーム作りや自分自身のパフォーマンスに生かすように工夫しています。例えば、集団心理の観点から、どのようにすれば全体のやる気や効率が上がるか、また、会社などの組織を引っ張っていける人材にはどのような特徴があるかなど、それらを部活動に置き換えて考えたりしています。チーム内でも、次は最高学年になるので、学んだことをしっかりと生かしていきながら強いチーム作りを行っていきたいと思っています。

 週6日で活動しているため、とてもハードスケジュールで正直大変です。真夏の炎天下の中、ずっと外で練習をすることは身体的にも精神的にもきついです。なかなか結果が出ずに苦しい思いをするときもあります。しかし、ソフトボールはチーム競技です。だからきついときは互いに声を掛け合ったりして、仲間と一緒だからこそ頑張れます。苦労した分、大会で勝った時や、結果が出た時はとても大きな達成感を得ることができます。また、自分自身だけでなくチームメイトが結果を残した時も、自分のことのようにとても嬉しいです。部活動に入部したことで、たくさんの人と出会うことができました。4年間続けることは、すごく大変だし根性がいることだと思いますが、4年間しっかり頑張ることで、何にも変えることのできない大きな経験として、これからの人生に必ず役立つと思っています。

 あっという間の大学生活を充実させるために、何かに打ち込んだり、いろいろなことに挑戦してみたり、とにかくしっかりと自分自身で考えて行動してみてください!私も社会に出る一歩手前の今、学べるだけしっかり学び、遊べるだけしっかり遊んで、残りの大学生活を楽しもうと思います。

                                     (水永まなみ)

*画像はすべて筆者撮影