2017年6月26日月曜日

徒歩から見る通学路(LC16台 石丸堅一朗 さん)

 今年度第1回目の学生記事をお届けします。文化学科2年生の石丸堅一朗さんが日常のなかで新しいパースペクティブを獲得する面白さを描き出してくれています。



徒歩から見る通学路
LC16台 石丸堅一朗

 2016年3月、私は1台の自転車を買ったはずだった。アメリカの西海岸出身の彼は、整備などされていない浜辺を走るための丈夫で大きな車輪を抱え、それでいてどこか控えめな濃いグレーを身に纏っていた。彼は当然のような顔をして、今まで私がサドルを跨いで以来、幾度となく握り続けてきたその場所に、ブレーキを携えていなかった。どうやら、ペダルを後ろに漕ぐことでブレーキ機能が働く仕組みらしい。中高6年間、汚いママチャリを乗り回してきた私にとって、まさに運命の出会いであり、ひとめぼれだった。それからというもの、彼とはいろいろな場所に出かけた。毎日の通学はもちろん、少し遠いスーパーやコンビニまで買い物に行ったり、近くの神社を巡ったりした。しかし、いつからだろうか。大好きな浜辺の景色を見せてやれぬまま、彼の姿を見る機会は徐々に少なくなっていき、現在では、自分の名前が呼ばれるのを待ちながら、ひたすらベンチを温め続ける代打要員の如く、アパート裏の駐輪場に常に待機している状態である。梅雨の雨に嫌気がさしたからか、冬の寒さをしのぐためにポケットに手を入れておきたかったからか、はたまた眠い目をこすりながら整えた髪型が、向かい風で台無しになってしまったからか。乗らなくなった原因なんて、自分でもよく覚えていない。ただ一つ言えることは、歩きながら眺める通学路には、これまでとは違う景色が広がっていたということだ。

  毎朝家を出て、ほんの数十秒歩くと、「すき家」が見えてくる。さらにそこから進むと「マクドナルド」「ガスト」「城南消防署」「ローソン」「マックスバリュ」が建ち並んでいる。それぞれ形が違うものの、24時間体制であることに変わりはない。

 私が寝ている間にも、誰かがそこでは働いていて、誰かがそこを利用している。私が通学しているときにも、誰かがそこでレジを打っていて、誰かがそこでコーヒーを飲んでいる。自転車に乗って通学する私には、愚かなことにそれに気づく力が無かった。当然のように横を素通りし、気づくことや考えることを放棄していた。しかし徒歩という選択をした今、様々なものに注意が向くようになった。店のガラス越しに見えるおじいさんは、毎日同じ席に座って、何かを飲みながら新聞を読んでいる。老眼なのだろう、新聞を近づけたり離したり、今度は自分の顔を近づけたり離したり、忙しそうだ。たまにペンを握って何かを書き込んでいる。何を書いているんだろう。毎朝何時からそこに座っているのだろう。朝早くから消防車や救急車の車両整備をしている消防士の人たちは、昨夜はどこかに出動したのだろうか。ちゃんと眠れているのかな。自転車で通り過ぎていた場所を、歩いて通り過ぎる。2秒で通り過ぎていた場所を、10秒かけて通り過ぎる。僅かな時間の違いだけれど、この時間が新しい発見を生む。様々な人、しぐさ、表情に気づく。新たな疑問や感情が生まれる。これが、徒歩だから見ることのできた景色。

 次に注目してみるのは、「西の堤池公園」。片江方面から通学する学生なら、知っている人も多いのではないだろうか。この公園は真ん中に大きな池があって、それを囲むようにして遊歩道が敷かれている(正式名称は、〈健康さわやかロード〉らしい)。この遊歩道を半分くらい進めば、福岡大学のすぐ近くの市民センターや城南図書館へとつながるようになっていて、実際にはそこまで変わらないのだろうが、体感的には近道をしたような錯覚を味わうことができるうえに、健康さわやかになれるというまさに一石二鳥の魔法ルートである。

 とはいえ私も、この健康さわやかロードの虜となったのは徒歩通学を始めてからで、自転車で通学しているときは1度も通ったことは無かった。なぜならば、健康さわやかロードの入り口には「この健康さわやかロードには自転車では侵入してはならない」風の注意書きや看板が設置されていて、なぜか私はこの言葉に「この先、日本国憲法は通用せず」という文言に抱く恐怖に似たものを感じていたからである。しかし、そんな中でも勇者は結構存在しているもので、大学生に限らず、小学生、会社員、主婦、翁と幅広い層の勇者が自転車に跨って健康さわやかロードを疾走していることも事実である。また、健康さわやかロードは、ランニングやジョギングをしている人や保育園生が集団でお散歩をしていたりと1日中賑わっていることが多いので、その中を変化球ブレーキ持ちの彼と共に進んでいく勇気が無かったのも、事実である。

前置きが非常に長くなってしまったが、この健康さわやかロードを利用して通学したい場合に、健康さわやかロード初心者が陥りやすいミスを今回はここに記しておきたいと思う。問題となってくるのは「時間」だ。福大に通う学生の中でも、1限から授業が入っている学生は多いだろう。だがその寝ぼけたままの思考でこの健康さわやかロードに足を踏み入れることは許されない。それは何故か。健康さわやかロードの中腹に存在する、福大へと抜けるために通らなければならない関所が開くのは「午前9時」だ。何の因果であろうか。1限の始まる時刻も「午前9時」。つまり、1限へと向かうためにこの健康さわやかロードに足を踏み入れた場合、その先に待っているのはベルリンの壁の如く立ちはだかる、固く施錠された門だけだ。このベルリンの壁は、私の健康さわやかロードデビュー日にも無情にも立ちはだかった。そびえたつベルリンの壁を前に、私は茫然と立ち尽くしているだけだった。時計は8時40分。引き返すしか策は無い。引き返すだけならいい。1限には余裕で間に合うだろう。しかし引き返した先で私を待ち受けるのは、正規ルートで通学中の多くの学生であった。その学生たちが健康さわやかロード勢でなければ何も問題はないのだが、その学生らの中に生粋の健康さわやかロード勢がいたとしたら、私の愚行はすぐさま露呈し、心の中で嘲笑されていたに違いない。この事件はまさに、「健康さわやかロード」という無駄な共通点が生み出した負の遺産であろう。この事件以来、私は正規ルートと健康さわやかロードの2つを巧みに使い分けながら通学するようにまで成長している。

 つい先日、1限へと向かう私は、健康さわやかロードをこちら向きに歩いてくる何かが見えた気がした。私は気づかないフリをして、静かに正規ルートへと足を踏み出した。

 自転車に乗っているから見えるもの、バスに乗っていたから気づいたこと。人が何かを気づき、感じる瞬間は人それぞれだ。私の場合は、それが徒歩であった。様々なモノに気づき、感じ、新しい発見をした。次の発見は、意外にもあなたのすぐ足元に転がっているのかもしれない。

2017年6月25日日曜日

領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内



領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」研究会のご案内

 私たち教員は分野に応じていくつかの「研究チーム」を運営しています。お互いの研究などを持ち寄って、発表したり討議したりすることは、研究活動を進めていく上でとてもよい刺激になっています。
 下記の研究チーム発表会を開催いたしますので、学生の皆さんもふるってご参加下さい。今回は倫理学の林先生のご発表です。普段の授業での「教員としての顔」とは違う、「研究者としての顔」を見られるチャンスかもしれません。

 文化学科の皆さんは参加自由です。参加したからと言って発言の強制などもありませんので、お気軽に聴講してください。

「善と悪に関する思想的研究」研究チーム代表 平井靖史



領域別研究チーム「善と悪に関する思想的研究」
平成29年度 第2回研究会

・日時:7月5日(水)、16:30-18:00
・場所:A612 教室
・提題者:林誓雄先生
・題目:「倫理と共感」

2017年6月24日土曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

今年度第三回目の哲学カフェ、詳細が決まりました。

 【LC哲学カフェ】
 娘よ、ギリシアのためにおまえを生贄に?――ギリシア神話で哲学する

 日時 7月10日(月)16:30-18:00
 場所 A706教室

今まで主にマンガ作品を取り上げてきましたが、今回ははじめての試みとして、ギリシア神話を。取り上げるのは、アガメムノーンが戦争のために娘のイーピゲネイアを生贄にする、というエピソード。

いつものように、参加者の自己紹介は行いませんし、無理に発言する必要もありません。途中入室、途中退室も自由。ちょっとだけ見物してみてすぐに退室、でも構いません。

そろそろ定期試験が気になり始める七月上旬、少しだけ現実逃避して、ギリシア神話と哲学で息抜きを。

エピソード解説
舞台は、トロイア戦争開戦直前の港アウリス。この港に、ギリシア側の軍勢が集結。総大将アガメムノーンが艦隊を出撃させようとするものの、しかし彼が女神アルテミスを怒らせてしまっていたため、女神の妨害で出港できない。予言者によれば、アガメムノーンの娘イーピゲネイアを生贄として捧げない限り、艦隊の出港は不可能。アガメムノーンは苦悩しつつ、娘を生贄に捧げるしかない、と決意。英雄アキレウスと結婚させると嘘をついて娘を呼び出し、彼女を生贄に捧げる……。

LC哲学カフェ開催:愛情の搾取?――『逃げ恥』から考える家族

すっかり報告が遅くなってしまいましたが、6月12日(月)の夕方、今年度第二回目のLC哲学カフェが開催されました。

前回のビブリオバトルから一転、今回は通常の哲学カフェ形式。参加者は学生諸氏や卒業生などが約10名、教員が2名。懐かしい顔を交えつつ、宮野真生子先生が進行役となって、議論がスタート。

今回の素材は、海野つなみのマンガ、『逃げるは恥だが役に立つ』。カフェのタイトルにある「愛情の搾取」という言葉はドラマ版にのみ登場するもので、原作では「やりがいの搾取」。お金を払わずに「好きな人の面倒を見るのがやりがいでしょ」と言って家事労働をさせるのは「やりがいの搾取」なので、ちゃんとお給料を払うべき……?


家事には終わりがない、どこまでやったらよいかの基準が難しい、などの話も飛び交いつつ、議論のメインは家族の問題へ。「家族」という言葉でイメージするものは? 厄介、切っても切れない、温かい……?

子供がいる/いないが家族の基準? いや、今や「ファミリー」という言葉は、親子の関係だけを表すものではない。あるファンたちのサークルが「ファミリー」と呼ばれることもある。ファン同士の強い絆もまた家族? ただし、このサークルからは簡単に抜けられるが、血縁関係の家族から抜けるのは難しい……。

自分の親のいる実家と、自分の子供のいる家族との区別。二つを合わせて一つの家族ではなく、二つの家族を持っている、という感覚。ところで、ペットは家族? 家族。知っていることが増えていくたびに、どんどん家族になっていく、という感覚。

結婚せずに独りでいるのはよい、悪い? 他者との関係性に巻きこまれること、不自由であることの重要性……? しかし、やはり独りは快適。20年後には、結婚することが当たり前でなくなる? あるいは、極端な二極化? 地域による違い、「家」意識の有無、家族経営で仕事をしている場合、等々。

家族と家庭は違う? パートナーや子供と一緒に暮らしている場が家庭で、離れてもつながっているのが家族? 子供が生まれることで、家族から家庭へ? 子供に限らず、一緒に何かを育てることで、パートナーとの関係が変わる? 小学校のクラスでうさぎを育てる経験や、仲間と一緒にアート作品を作り上げる経験もまた、何らかの家族/家庭を生み出す……?

では、どの時点から家族になるのか。夫婦二人だけではまだ家族ではない? 親一人と子一人でも、二人だけでは家族の「族」という感じに欠ける? 人数にかかわらず、長い時間と経験を共有することで家族になる? つまり、何かを共有していることが必要……?


その他、一般的な家族のイメージ、福山雅治主演の映画や歌の歌詞、「家庭的」という言葉が男性について言われる場合と女性について言われる場合との違い、「お財布一緒」問題、等々について議論。話が収束する気配の全く見られないまま、チャイムと共に強制的に終了。しかし終了後の教室でも、しばらく立ち話が続いたのでした。

私が今回感じたのは、家族については個々人のイメージがかなり固定されていて、なかなか自分の家族観から距離をとることができない、ということでした。それは決して悪いことではないにせよ、もしあえて距離をとって客観的に考えてみようとするならば、例えば、映画や小説、マンガやアニメ、音楽の歌詞などに見られる家族像を分析してみる、という手段が有効かもしれません。すでに多くの先行研究もありそうですが、ぜひ、誰かチャレンジを。

さて、次回は7月10日(月)の開催です。今まで扱ったことのないテーマを扱ってみる予定。詳細については、このブログ上の告知記事を参照して下さい。

2017年6月15日木曜日

中国社会に溶け込むムスリム・回民 ―異文化の接触地帯4―(磯田則彦先生)

 平成29年度第5回目の「教員記事」をお届けします。地理学の磯田則彦先生です。「異文化の接触地帯」をテーマに毎年ご寄稿いただいています。今年はその第4回目になります。



中国社会に溶け込むムスリム・回民
―異文化の接触地帯4―

   
     磯田則彦(地理学

 こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。

 まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフステージの要所要所で移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」。以前から、そんなことが気になってしまいます。

 また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。

 次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行う中で身近になってきた分野と言えるかもしれません。過去3回、私のフィールドの中から「インナーモンゴリア」と香港についてご紹介してまいりましたが、今回は中国に暮らすムスリム・回民についてご紹介いたします。

 「回民」(フイミン)と聞いて皆さんはどのような人々を想像しますか?「民」という文字が付いていますから何らかの民族あるいは社会集団のようなものをイメージされたのではないでしょうか?あるいは、中国に関心のある方でしたら、標題からイスラム教徒の「回族」(フイズー)のことではないかと考えたのではないでしょうか?「回民」とは、イスラームとそれにもとづく生活様式をベースとして、中国に暮らす「さまざまな出自の人々」を指します。同国北西部を中心に居住するウイグル族やキルギス族などのムスリムや、中東などから来ているムスリムとは基本的に異なるところが多々あります。彼らは、容姿も一般的な中国人とほとんど変わらず(白い帽子等を除く)、中国語を母語とし、漢族社会に溶け込んだ暮らしをしています。古代以降、いわゆる「海の道」・「草原の道」・「オアシス(絹)の道」を通って現在の中国に辿り着き、定住した人々の子孫です。その過程では混血が進みました。彼らの暮らしはとても穏やかなものです。では、具体的にどのような生活スタイルなのでしょうか?

 前述のとおり、回民の生活の中心にはイスラームがあります。彼らのコミュニティには必ずモスク(マスジッド)が存在します。中国語ではこれを「清真寺」(チンジェンスー)と呼びます。規模の大きなものは文字通り、「大清真寺」と呼ばれます。地域差こそありますが、国内のいたるところ(さまざまな地域)にこれらが見られます。清真寺は神聖なる、祈りをささげる場所であり、まさしく彼らの心の拠り所です。今では、真新しい電光掲示板により日々変化する祈りの時間が示されます。礼拝を告げる合図とともに今日も回民が清真寺に集まってきます。


 イスラームの教えにもとづく回民の生活には、アラビア語のクルアーンを読むことや食物禁忌(フードタブー)を守ることなど、世界のムスリムが日々実践していることが多数含まれています。後者の関係で回民の生業には飲食店経営が多く見られます。「清真」と書かれた看板は、イスラームの教えによる食品の提供を行っている店を表しており、国内のほとんどの都市においてしばしばそれを目にする機会があります。羊肉や牛肉を用いた料理や酒類を提供しないところに特徴があります。

 彼らのアイデンティティは、「ムスリムであり、中国人である」という点に要約されます。私は各地を旅しながら、千年以上に及ぶ彼らの長い道のりを考えるとき、悠久の昔に思いを馳せるとともに、異なる文化をその懐深くに受け入れてきた同国の寛大さ、力強さに深い感銘を覚えます。数千年に及ぶ中原(ジョンユァン)の文化は、異質なものを拒み受け入れず、遠ざけるのではなく、そばに置き寄り添い、受容して共生を図る。それでいて自身のアイデンティティや文化的背景については、決して他者に屈することはない。私がかの地を訪れ、その大地に身を置く時に感じる「何か吸い込まれていくような、溶け込んでいくような、何とも言いようのない感覚」は、実際、同じところからきているのかもしれません。

□磯田先生のブログ記事

2017年6月1日木曜日

目にみえないもの(一言英文先生)

 平成29年度第4回目の「教員記事」をお届けします。4月に赴任された心理学の一言英文先生です。



目にみえないもの
   
     一言英文(心理学

 自己紹介がてら、私がどういう人間で、なぜ文化と心理学の研究をするに至ったかについてこの記事を記したいと思う。そして、それらをふまえ、文化学科で心理学を教える上での学術的な見識のようなものを断片的にでもお伝えできればと考えた。職業柄、自分自身のことを書き綴るのは大変苦手なので、拙い文章になることを予めことわっておきたい。

 私は幼い頃、父の仕事の都合で、日本のはるか南に位置するニュージーランドという国で暮らしていた。人間より羊の数の方が多いこの牧歌的な国は、様々な文化的背景を持つ人が暮らす面白い国であった。マオリという原住民がいるところにイギリス人が入り、両者が和解した歴史なども一役買っていたのかもしれない。私は現地校に入れられ、英語がまったく話せないところでイギリス英語漬けになった。小学校低学年の時分というのは、身振り手振りである程度の友人を作ることができるようで、私はすぐに現地で友人を作ることができた。

 その後、「日本人」であるという理由でケンカになることや、帰国後、学校の友人に「一言君の服装はどこか違う」と言わることを経験してからというもの、心の奥底で漠然と、人々のものの見方は所変わると異なるということに気づくようになった。それも、当の人々は、自分のものの見方が、さも絶対的であるかのように振る舞う。帰国後は、自分なりに日本のことが理解できるだろうと中学校では生徒会をやってみたり、高校では剣道を、大学で居合道をやってみたりしたが、私が納得のできる形で文化に関する理解は得られなかった。どれも内容は楽しかったのだが、日本文化を疑うことなく受け入れた上でしか、これらを楽しむことができなかったためだと思う。私が知りたかったのは、人々が信じて疑わない、目にみえないものであった。

 大学生活も後半に差し掛かる頃、ニューヨーク帰りの先生が開いていた「比較文化心理学」という大変めずらしい心理学の講義を受け、私はそれにのめり込んだ。今思えば、何も正しく理解してはいなかったのだが、初めて大学の勉強に対する知的好奇心が湧いた気がした。結局、その先生のゼミに入り、心理学の基本的なところから応用的な面に至るまで、多くのことを自由に学ばせていただいた。

 私の知的好奇心を後押しした動機は、文化に対する怒りのようなものであった。私は日本人であることを理由に不当に扱われたり、帰国して外者扱いされたことに、子どもながらに不公平さを感じ、その原因が人々の文化にあると思い込んでいたように思う。不当な評価の原因が自分以外の存在にあると認識することは人に怒り感情を生じさせるが、私はこの怒り感情が、幸運にも知的好奇心に結びついた。感情は、それを表す言葉が否定的な印象を持つから不適応的なのではない。感じた後に、人がどのような行動を起こすかが適応的か否かを左右する。臨床心理学を専門としていた私の先生は、私のこの感情を見抜かれたのであろうか、上手く、私の行動を向社会的なもの、すなわち勉強と研究に向けて下さった。

 私見であるが、文化に関する心理学教育の本懐とは、人間の本質的な多様性を理解することで時間や国を超えてさまざまな生き方を生み出した人の素晴らしさに感じ入り、文化に愛情と興味を持って接する人間を育てることだと思う。それらの土台の上に、多様性の尊重や相互理解、忍耐強いコミュニケーションと分かりあいの喜びといった現代的なメリットがあると考える。この土台作りに失敗すると、偏見や拒絶、独りよがりや自文化中心主義に陥る。ここで、人間の本質とは、個人内に存在する物理的・機械的メカニズムのみで成り立っているものではない。我々は、家庭環境如何によって他者との付き合い方が変わり、義務教育の持つ前提によってやる気の出方が変わり、身近な友人関係で共有される常識によって健康習慣が変わる、「社会的に敏感な」本質を持っている。普段の生活の中で、人々がこの心の本質に気づくことは稀である。むしろ、個々人がこの本質に気づかない方が、社会全体としてはうまく回る何らかの力学のようなものが、人間が集まることで生じているのだと思う。とにかく、「魚は自らが水の中で泳いでいることに気づかない」ように、人間も、自らの心のあり方が文化を前提としていることに気づきにくい。つまり、文化と心の関係は目にみえないものである。この点に、文化に関する心理学を学ぶ意義がある。

 文化と心の関係がいかに目にみえないものかを端的に示す実験がある(なお、この実験はインターネット上で体験することができるので、興味がある方は次のURLで参加者になってみてほしい(http://www.labinthewild.org/studies/frame-line/)。
 この課題では、まず、正方形の枠線(例として、一辺9cm)と、その上辺真ん中より、正方形の中心に向かって垂直に引かれた短い線分(3cm)から成る刺激が提示される。課題としては、この刺激を見た後、それを伏せられた状態で線分のみを参加者自らが思い出して再生するというものである。課題は2種類に分かれており、一方では線分の「絶対的長さ」を再生する(正解は3cmの線分を書く)ことを求められ、もう一方では、新しく用意された正方形の枠(一辺6cm)に対する線分の「相対的長さ」を再生する(正解は2cmの線分を書く)ことを求められる。再生時にものさしなどは与えられず、覚えているとおりの線分を自由に再生するので、ぴったり3cmや2cmにはならない。再生された線分の長さが実際の正解からズレていないほど、絶対課題の場合は線分それ自体を知覚し、記憶し、再生することを、相対課題の場合は線分を周囲にある枠との兼ね合いの中で知覚し、記憶し、再生することを参加者が得意としていたことを示す。この課題を北米の欧州系学生と日本の日本人学生を対象に行うと、前者では絶対課題の成績が、後者では相対課題の成績がより良いという結果になる。

 なお、視線を記録するアイ・カメラを用いた後続の研究によれば、実際に日本人学生の方が欧州系学生よりも刺激提示直後から視野の中心に位置する主な対象と、その背景へと、交互に視線を移動していることが示されている。それぞれの国の国立美術館に所蔵されている画家が描いた人物画(人物画は、描かれる主な対象人物と、その人物の周囲に背景がある)においても、アメリカでは人物の顔が絵画全体に占める程度が日本より多く、日本では人物の顔が相対的に小さく、その代わりに服装や屏風といった人物の周辺が描かれる面積が大きく、いわば、背景の中に人物を位置づける描き方をしている。さらに、アメリカと日本の町並みを無作為に撮影し、日米学生にこれらを提示した直後に上と同種の課題を行うと、提示した町並みの国の見方(アメリカの町並みを見た直後は主な対象を、日本の町並みを見た直後は背景を見る)を一次的に再現することもできる。

 この結果は何を意味するか考えて見て欲しい。対象物と背景をどう見るか、という、電気屋で売っているセンサーでも行えるはずの認知過程が、実は普段目にしている環境からの情報入力によって特定の見方に水路づけられているのである。そして、この環境からの情報入力は、時代を越えて、先代のものの見方が反映された町並みの中で暮らすことで、次世代が水路づけられるというサイクルを介して再生産されている。また、文化と心の真の関係は、この例のように、実証心理学の方法論を使って標準化されたフェアな比較方法を用いることで垣間見ることができる。

 ちなみに、私自身も上の課題を行ってみた。このサイトでは、調査の最後に、欧州系学生と日本人学生の平均値に対し、参加者一人の結果がどの程度であったかを図示してくれるフィードバックが与えられる。「自分は日本人の平均値には及ばないだろうな」と思って結果を見てみると、興味深いことに、絶対課題を行った場合には欧州系学生の平均値以上に中心的に認知し、相対課題を行った場合には日本人学生の平均値以上に背景文脈的に認知していたとの結果であった。私は物の見方まで文化間に生きているようである。以前、国際学校に通う学生を対象に、心理尺度による価値観の測定を行ったことがあった。その時も、一般的な日本人学生に比べ、彼/彼女らの価値観は日本的な特徴と、日本では主流でないとされる価値観との両方が共に高い得点を示していた。すなわち、個人から得られる価値観の測定値を見る限り、私達は異なる文化の産物を自らの内に同居させることが可能なのである。むしろ、私達一人ひとりが異なる文化に呼応できる受け皿を持っている証左であると捉えれば、多様性教育の意義に対する裏付けの一つとなるような気がしている。

 人間は文化を使って生きている。ホモ・サピエンスがアフリカを歩き出し、多くの集団で生活をするようになって以来、人間はなんらかの文化の中で生きてきた。その頃から、人間は多くの他者と文化を創り、文化で共有される「人間らしい」生活を送り、そこから人生の意味を得て暮らしてきた。ポジティブ心理学と呼ばれる潮流の健康心理学と文化心理学の知見によると、人生に意味を感じている人(私の人生には意味がある、という項目文に賛成する人)ほど、血中の慢性炎症反応を引き起こす遺伝子発現が低下している。文化は、おそらく病院も保険制度も無い時代から、私達の先祖に人生の意味を提供することを通して彼/彼女らの普段の健康を保ってきた可能性がある。文化を損ねることは、日常の中で維持されている社会的に敏感な心に対し、生きる意味を失わせることに繋がりかねない。

 いうまでもなく、文化を形成するためには、多くの人間が共存する必要がある。人間が初めて大規模集団で暮らし始めた頃発明された最初の武器は投擲具(とうてきぐ)と呼ばれる投槍であったが、人間が他者に見せる笑顔は、丁度、人がものを投げて届く遠方から認識できる表情である。笑顔に用いられる大頬骨筋は一本のペンを前歯で噛むと収縮させることができるが、ペンを噛ませた状態で握力計を力いっぱい握ると、ペンを噛ませない状態に比べて力を入れることができない。おそらく人間は、争うか否かという瀬戸際において、笑顔を見せて共存してきたのである。グローバル経済と国家主義政策が渦巻く現代においては、太古の昔から人間が笑顔を持って互いを尊重し合い、互いに繋がりを持って文化を作り生存してきたという経緯を忘れてはならないと思う。このような観点に立ち、私自身は現在、文化によって笑顔の意味、すなわち幸福感という感情にこめられた意味の文化差について研究している。ジョン・レノンは人生の鍵が幸福の追求にあると歌ったが、もし、その幸福の追求が文化によって異なる行動を意味するのであれば、これほど悲惨な誤解はない。

 このように、私は自身の幼い頃の経験から、目にみえないもの−文化と心の関係−に興味を持った者である。勉強の結果、本来の目的であった日本文化への理解が進むこと以上に、人間がいかに社会的に敏感な存在であるか、そして、それゆえに文化が物の見方や健康といった、人間の根本的な部分に直結することを知るに至った。私は、私の先生がしてくれたように、学生には自らの知的好奇心を発揮して自由に学んでもらいたいと思っている。私はたまたま上のような見識を持つに至ったが、多様な背景を持つ学生は、それぞれに異なった見識に行き着くと思う。それらを知ることは私自身とても楽しみなことであるし、その見識を交わすことは笑顔で共存する人間にとって本質的な楽しみの一つだと信じている。また、上で引き合いに出したように、心理学は人文社会系の諸分野のみならず、予防医学や国際交流をはじめ、およそ人の文化的に健全な生活に関わる多様な分野と協働できる可能性を秘めているとも信じている。文化学科で心理学を学ぶ学生には、ぜひその社会的に敏感な心を発揮し、さまざまな分野との接点を秘めたこの学問を学ぶことで、人間のすばらしさに気づいて欲しいと期待し、本日の結びとしたい。


参考文献
増田貴彦・山岸俊男(著) 文化心理学 −心がつくる文化、文化がつくる心− <上・下> 培風館
G. ホフステード・G.J. ホフステード・M. ミンコフ(著)岩井八郎・岩井紀子(翻訳) 多文化世界 −違いを学び未来への道を探る− 有斐閣
Markus, H. R., & Conner, A. (2014). Clash!: How to thrive in a multicultural world. NY, Plume