2015年6月30日火曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

次回の哲学カフェ、日時とテーマが決まりました。詳細は下記の通りです。

  【マンガde哲学】
  あなたがこの10名のリーダーだとしたら?――『沈黙の艦隊』で哲学する

  日時 7月11(土) 16:30-18:00
  場所 A610教室

  参考文献 かわぐちかいじ『沈黙の艦隊(16)』、講談社、1992年、48-53頁。


飲み物は各自で用意して下さい。
参加者の自己紹介は行いません。また、無理に発言しなくても構いません。
途中入室、途中退室も自由です。
なお、終了後の懇親会等は予定していません。悪しからず。

第八回「マンガde哲学」開催


6月27日土曜日の夕方、今月の哲学カフェが開催されました。今回は初めての試みとして、学生さんが進行役を。参加者は学生諸氏が六名、教員が一名。途中から卒業生の姿も。

題材は、昨年話題になった『聲の形』。ただし単行本ではなく、雑誌に掲載された読み切り版。

取り上げられたのは、小学校の合唱コンクールの場面。耳の聞こえない西宮硝子。彼女は右手で隣の子の手に触れ、「手で音程を調整してもらっているんです」。そう説明する女性教員が審査員たちに「平等な審査をお願いします」と依頼。この「平等な審査」とはどのようなことか。彼女は審査員に何を求めているのか。

硝子は合唱コンクールに出るべきか、それでも出るべきではないか、という問題提起から議論がスタート。とにかくクラス全員が参加することを優先するならば、もちろん彼女も出るべき。しかしコンクールでの入賞を目指すならば、彼女は出るべきでない。実際、合唱コンクール後の黒板には「西宮のオカゲで入賞逃したよ!」との言葉が。

そもそもなぜ彼女は合唱コンクールに出ることになったのか。本人が「歌えるようになりたい」と望んだから? 確かに硝子の気持ちも大切。しかし、もっとクラスで話し合っておくべきだったのではないか。勝手に大人たちで決めてしまっているのが悪い。この女性教員の善意? しかしそれは単なるエゴや一般論でしかなく、本当に硝子のことを考えているわけではない……?

ところで、この「平等な審査」とは? 硝子の耳が不自由であることを考慮せず、他のクラスと同じように審査すること? 或いは、特別扱いして評価を甘くすること?

平等とは、どんな場合でも同じ扱いをする/同じ扱いをされること? しかし平等を求めている時点で、そもそも平等ではないことが前提。例えば、その人の外見次第で扱われ方は変わる。一人一人の能力にも差がある。

耳の聞こえない生徒が一人いるせいで授業の進度が遅れ、他のクラスと平等でなくなる。ならば、その学校全体で同じスピードにそろえる? その場合、他の学校と平等でなくなる。やはり硝子は特別支援学級に入るべき……?

平等が必ずしも良いこととは限らない? それとも、良い平等と悪い平等がある? スタートラインをそろえて競争させるような平等、結果として誰でも同じものが与えられるような平等。しかし皆、求めるものはバラバラ、価値観も様々。

話題は学級や学校の在り方、教育の在り方の問題から、さらに政府の在り方の問題まで。時に参加者が深く考えこむこともあれば、誰かの発言で一転、場が笑いに包まれることも。やがて六時のチャイムが鳴り響き、時間切れで終了となりました。

学生さんが進行役を務める初めての回でしたが、おそらく今までで一番活発な議論の交わされた、濃厚な回になりました。むしろ教員の邪魔さ加減が確認されて、反省すること頻り。今後も多くの学生さんに進行役を務めてもらえれば、と。

さて次回は7月11日土曜日、同じ時間帯に。かつて一世を風靡したあのマンガで、古典的なあの問題を。

試験勉強の息抜きに、ぜひ哲学カフェへ。

2015年6月19日金曜日

文化学基礎論潜入記、再び(LC12 小倉望未さん)

今年度の学生記事、第三弾をお届けします。
2012年度入学の小倉望未さんに、再び文化学基礎論に潜入してもらいました。



こんにちは! 文化学科四年生の小倉望未です。6月18日の文化学基礎論で、私の昨年観た映画ナンバー1を勝ち取った映画が資料に使われることを聞きつけ、眠い目を擦りつつ、寝坊で化粧をし損なった顔をマスクで隠しつつ、1限の講義へ潜入してきましたので、今回はその模様をお届けしようと思います!

今回の文化学基礎論は、時間論の平井靖史先生がゲストとして招かれ、講義をしてくださいました。今日の平井先生は黄色いシャツに黄色の腕時計をあわせていました! きょうも先生はとってもおしゃれです! 対して、小笠原先生はきょうも真っ黒……。

「幸せってなんだと思いますか?」

そんな問いから講義が始まりました。当てられた人が思い思いの答えを口にします。今の生活に満足していること、友人と遊ぶこと、家族といること、寝ること、ごはんを食べること……。どれも、ああ分かる、と共感できる答えですね。でも、実は、平井先生の問いと、挙げられた答えは、すこしのずれが生じていました。そのずれは、外延と内包の違いでした。

皆の答えは、どれも、「どういうときに幸せか」という具体例でした。平井先生が聞き出そうとしたのは、内包、定義を条件付ける要素だったのです。そこで、外延から抽象化した内包を取り出す作業を皆でしてみることに。具体例から共通項を見つけたり、具体例とその他のものを比較したりすると、内包が段々と見えてきます。満足していること、ひとりじゃないこと、当たり前のことができる、など、いくつかの幸せの要素が見つかりました。幸せ、それ自体が抽象的かもしれませんが、それを言葉にするということが大事だと平井先生は仰いました。

ここで、続いての問いです。「もしタイムトラベルが出来たなら、なにをするか?」

なにをしましょう? 私は、もしタイムトラベルができたなら、ケーキバイキングのスタートのときに何度も戻りたいです。スタートはとてもワクワクしているのに、終わると食べ過ぎて苦しくていつも後悔してしまうので……。他の人も、間違った行為を正す、だとか、楽しかったときに戻る、といった意見を挙げていました。

ここで、映画『アバウト・タイム』が資料として登場しました。この映画の主人公のティムは、21歳のとき、父親からティムがタイムトラベルが出来ることを告げられます。そして、冴えない男だったティムは、恋人をゲットするためにタイムトラベルの能力を使い始めるのです。

以下、映画のネタバレになってしまう怖れがありますので、もし映画に興味をもって下さった方がいましたら、先に映画を観られることをお勧めします。私の昨年の映画ナンバー1なので是非!

映画の終盤で、ティムは父親から、幸せになる秘訣を教えられます。
①ふつうに1日を送ること。
②もう一度、同じ1日を送ること。
父親が、彼に教えたのはこのふたつのルールだけです。

ティムは、タイムトラベルを習得してから、なにか失敗するごとに過去に戻っていました。でも、そうではなく、父親の助言に従って、1日をタイムトラベルをすることなくふつうに過ごし、そして、1日の終わりに、1日分だけ巻き戻って、同じ1日をもう一度過ごすようにしたのです。そうすると、彼は、つまらなかった1日のなかに、どれ程の見落としがあったのか気付き、世界がどんなに素晴らしいものか知ることができたのです。

そんな生き方を知りながら、ティムは、一度しか経験したくない1日だってある、と言います。タイムトラベルができたって、避けられない現実、不幸は必ずあるのです。

世の中にはタイムトラベルが出来ない人ばかりだと思います。だから、実際は考えるだけです。もし、あのとき、こうしていたら。どうせ考えることしか出来ないので、幸せになるコースを考えます。いま不幸であるなら、違うコースに進んだ人生を考えます。

それは当然のことのように思えますが、そうじゃない考え方を、平井先生が紹介されました。資料として渡されたのは、2003年1月4日の朝日新聞の記事でした。見出しは「お父さんの死 いつか読んで」。米国同時多発テロで、旦那さんを亡くされた女性が、そのとき、その後に感じたことを言葉にした本が出版されたという記事です。本では、旦那さんに綴られた手紙があり、そこには「テロで貴方を亡くすと分かっていても、もう一度結婚することを選ぶ」という内容のことが、彼女の言葉で綴られているそうです。

なぜそう思うのか。
ちょっとした失敗があると、必ずといっていい程、ああしていればよかった、とついつい思ってしまいます。そう思うのだから、辛い現実が起こることを知っているのなら、絶対に、それに遭わない道を選ぶようにするでしょう。

平井先生の、最後の問いが出されました。「最愛の人の命が、理不尽な理由で突然奪われてしまったとき、なにを思うのだろうか?」「もう一度同じ道がいいと思うのなら、それはなぜだろうか?」

その問い掛けに、教室が静寂に包まれたのを感じました。真っ直ぐに胸にくる問い掛けは、きっと教室中の全員から、不用意な言葉を奪ったのでしょう。それぞれが、問いを噛み締め、答えを模索している様子に、「これは宿題にしましょう」と平井先生が声を掛けられて授業は終わりとなりました。


平井先生は、時間論のご専門の先生として、タイムトラベルはないものだと仰います。それでも、きょうという1日が、タイムトラベルによって繰り返された二度目のきょうだと思って過ごすと、すこしばかりきのうより、発見があるのかもしれません。「きょうもまた同じ1日が……」と小笠原先生のぼやく声が耳に届きましたが、先生が素晴らしい1日だったと思いながら眠りについていればいいなあと思いつつ、いまこの文章を書いています。

さて、きょうという1日もそろそろ終わりますので、また朝に戻って、世界の素晴らしさを見つけて生きられればと思います。おやすみなさい。

小倉望未

2015年6月12日金曜日

ゼミ研修旅行でOPAM大分県立美術館を見学(植野健造先生)

「教員記事」をお届けします。本年度第四回は日本美術の植野健造先生です。


ゼミ研修旅行でOPAM大分県立美術館を見学
2014年5月30日(土)

 日本美術史、博物館学担当教員の植野です。2014年6月26日up記事以来の投稿ですが、前回同様ゼミ旅行の報告をさせていただきます。

 私のゼミでは、浦上雅司先生(西洋美術史)のゼミと合同で前期と後期に1回ずつ日帰りで、美術館や寺院や文化財などを見学する貸し切りバス見学研修旅行を行っています。先日5月30日(土)には教員2名、学生24名の総勢26名で大分市に行きました。

 朝8時30分に大学を出発し、午前中は大分県立美術館で「開館記念展 モダン百花繚乱『大分世界美術館』~大分が世界に出会う、世界が大分に驚く『傑作名品200選』」展を学芸員の方の説明を受けた後に鑑賞し、昼食は豊の国健康ランドで「とり天定食」をいただきました。午後は大分市美術館で「大分発アヴァンギャルド 芸術都市の水脈~田能村竹田からネオ・ダダまで~」展を、ここでも学芸員の方の説明を受けた後に鑑賞しました。

大分県立美術館にて 撮影:植野健造
 大分県立美術館は、活動成果やコレクションを旧・大分県立芸術会館から継承しつつ、ことし2015年4月24日に新たな姿で開館した美術館です。愛称はOPAM(オーパム、Oita Prefectural Art Museum の略)。建物の設計は、建築界のノーベル賞と言われる米プリツカー賞を受賞した坂茂(ばん・しげる)氏の建築設計事務所による。坂氏によると、「あまり美術館に行かない人たちをいかに引き寄せるか、そして美術を楽しんでもらい、日常的に人々が集まるそのような仕掛けを建築に与えた。1階は外からも中の様子がわかるようにガラス張りとし、無料で利用できる2層吹抜のアトリウムを設け、その中にミュージアムショップとカフェを設け、展覧会に興味がない人でも日常的に利用できるスペースとした。」とのことです。


 
 各地に県立美術館、市立美術館が競うように建設されたのは、1970年代から80年代のことでした。それから30~40年が経過し、多くの美術館が大規模な改築や立て替えの時期を迎えています。この間に、美術館をとりまく状況は大きく変化しました。一般的に各美術館とも財政的に厳しさが増す状況がある一方で、来館者数が行政評価のうえでよりもとめられる傾向にあると言えるでしょう。そうした状況の中で、各館の学芸員は質的に充実した展覧会を実現すべく工夫しながら奮闘しているようです。大分県立美術館も含め多くの改築、新築される美術館の動向を時代背景の推移と関連づけながら観察してゆきたいと考えています。

 記録として、2014年度後期の見学について書きとどめておきます。
2014年12月6日(土)
熊本市現代美術館「鉛筆のチカラ―木下晋・吉村芳生」展、島田美術館、熊本市・浄国寺、熊本市・来迎院、松本喜三郎作品を中心に見学。
※記事内の写真はすべて植野先生の撮影によるものです。

2015年6月11日木曜日

LC哲学カフェ開催のお知らせ

今月の哲学カフェ、日時とテーマが決まりました。今回は学生さんが進行役を。
前回と同様、土曜日の開催。詳細は下記の通りです。

  【マンガde哲学】
  平等な審査をお願いします?――『聲の形』で哲学する
  Presented by OGURA Nozomi

  日時 6月27日(土) 16:30-18:00
  場所 A711教室

  参考文献 大今良時「聲の形」(読み切り)、『週刊少年マガジン』2013年3月6日号所収、158-159頁。


飲み物は各自で用意して下さい。
参加者の自己紹介は行いません。また、無理に発言しなくても構いません。
途中入室、途中退室も自由です。
なお、終了後の懇親会等は予定していません。悪しからず。

2015年6月4日木曜日

文化学基礎論潜入記(LC12 小倉望未さん)

今年度の学生記事、第二弾をお届けします。
今回の執筆者は、2012年度入学の小倉望未さんです。



はじめまして! 文化学科四年生の小倉望未です。今回は文化学基礎論の授業に潜入して、その模様をお伝えしようかと思います!

文化学基礎論は、文化学科に入学した一年生が必ず受講する講義です。今年度の担当は小笠原史樹先生です。ただ、先生の講義を聞くだけではつまらない!ということで(勿論、小笠原先生の授業はとっても面白いんですよ! 嘘じゃないですよ!)、度々ゲストの先生が招かれます。今回は宮野真生子先生がいらっしゃいました。大学の講義で、ふたりの先生が登壇されるというのは四年生の私にとって初めての光景です……! なんと贅沢な! 今年の一年生はとてもラッキーなようです。

宮野先生は二回目の登場です。一回目の講義で、先生は九鬼周造やプラトン、漫画の『ストロボ・エッジ』を用いて、「恋をする、というのは、欠如を埋めようとすることだ」ということを言われました。今回の講義はまず、「本当に恋をするというのは、欠如を埋めるだけ? それだけ?」という問題提起が行われ、小笠原先生の講義からスタートしました。

先生の講義を簡単にまとめてみました。

恋愛の神であるエロースは、「美しい!」と言われている。しかし、と、ソクラテスは言う。エロースは美しさを求めている。エロースが既に美しいのであれば、エロースは美しさを求めない。すなわち、エロースは美しくない。ここからわかるのは、もし完全な存在がいるなら、その存在は何も欲しない、恋をしない、愛さない、ということだ。アリストテレスは神を、不動の動者であると言った。人から愛されるが、神は人を愛さない。ただ、「愛される者のように動かす」のだ。

しかし、聖書には神が世界(人間)を愛する描写がある。この愛を古代ギリシャ的エロースでは説明できない。実は、「愛される者のように動かす」という表現にはエロースが元のエローメノンというギリシャ語が用いられているが、聖書の中で人を愛するとき、ギリシャ語ではアガペーが使われている。完全である存在が愛するとき、その愛は欠如を埋めようとするものではない。では、その愛とは何なのか?

またひとつ、疑問が生まれたところで質問タイムが挟まれました。ここではエロースとアガペー、その言葉の意味について質問が集中しました。「アガペーは、戦国時代には大事や大切というように使われていて、今は愛と訳されている。与える愛、ともよく言われているが、それだけでは不十分……」と、アガペーが掴みきれぬまま、宮野先生、そして生徒が参加しての全体討論へ移ります。


さっそくひとりの手が上がります。「母性愛はエロースとは違う、母から子にあたえる無条件の愛だ」という意見が。それに対して宮野先生、「母性愛もエロースで説明できるんじゃない? 『子供が欲しい!』ってよく聞くし、欲しいってことは欠如を埋めようとしてる」と反論。さらに、「神から人ってそれぞれのレベルが違う。人が動物を愛する、みたいなもの。その愛はエロースっぽい」と、新たな視点を加えられました。続いて、「だめんず」を好きになってしまう女子、の話を引き合いに、「完全だからこそ欠如を求めるのでは?」という意見がでました。欠如があるから完全を求め、完全だと欠如を求め……と、イタチごっこが行われているような……。

「自分が作ったものに対する愛、愛着はアガペーなのでは?」という意見がありましたが、神は人を創っているので、頷けます。すかさず宮野先生が「恋愛にも愛着はあるよね」と。恋愛関係はふたりで作ったもので、そこに愛着が生まれることはある、それもアガペーなのでしょうか?

愛着と違う視点で、自分が関わっているから愛する、自己愛も登場しました。やや面倒くさそうに「自己愛がでると、なんでもかんでも自己愛になってしまう……」と言う小笠原先生に対し思わず私の声が出ました。

「でも、目の前で人が溺れていたら、なにも考えず飛び込みません? 自己愛なんて考えます?」
「僕は泳げないので飛び込みません」
「跳び込まなくても何かしらはしますよね?」
「します。けど、それは自分の社会的責任を考えたからそうします」
「人が目の前で流されてるのに、社会的責任が……なんて考えますかね。そこは本能というか」
「社会的責任は刷り込まれているんですよ」

……。私が川で流されて小笠原先生に助けられても、お礼は言いたくないなと思いました。

授業も終わりに差し掛かり、小笠原先生の「物語や、キャラクターで、これはアガペーだろ!みたいなの誰か思いつきますか?」という質問に、「アンパンマンはアガペーだ!」という回答が飛び出しました。これには両先生方も納得のご様子でした。

というわけで、今回の文化学基礎論は、エロースは欠如を埋めようとするもの、アガペーはアンパンマン、という結論で幕を閉じました。


久しぶりに朝の9時から教室で着席をし、講義に臨みましたが、眠気も吹き飛ぶスーパー面白い講義と、大きな教室で臆することなく手を挙げる後輩の瑞々しさに触れ、もうすっかり大学がマンネリ化した四年生にとってとても充実した90分間となりました。講義終了のチャイムの後、小笠原先生を取り囲み、講義や映画の話で笑顔を見せる彼等彼女等が、三年後もその姿勢を失いませんようにと、老婆心ながら静かに願い、教室を後にしました。

母性愛のお話が授業の中で出ましたので、一冊の本をご紹介してブログの締めにしようかと思います。

  千田由紀著『日本型近代家族――どこから来てどこへ行くのか』、勁草書房、2011年3月

母性愛は、人間に備わっているものなのか? 福岡大学図書館に所蔵されてますので、是非お手に取られて下さい。

小倉望未