2016年5月29日日曜日

今この時から自立の日までに(岩隈 敏先生)


「教員記事」をお届けします。2016年度第4回目は、岩隈 敏先生です。


今この時から自立の日までに     

                          文化学科 岩隈 敏 (哲学

  もうずいぶん前に、新入生に向けて一文を書いたことがあります。
  それを多少、加筆修正して掲載します。

                              

 今まで君は、いろいろのことを両親や学校に望み、期待してきた。そしてその多くが叶えられ、ここまで育ってきた。今からは自分がどんな期待に応えられ、何ができるかを考えて欲しい。そのために必要な力と、人間としての器量を、この大学、文化学科で精一杯努力して身につけて欲しい。

 第二次世界大戦中、ユダヤ人強制収容所において、ひどい拷問や僅かな食べ物での強制重労働、ガス室でいつ集団虐殺されるとも知れない恐怖など、過酷な体験をした心理学者ヴィクトール・E・フランクルは言う(『夜と霧』みすず書房、2002)。

 この惨たらしい限界状況で生き続きえたのは誰だったか。ドイツ国民が救済に立ち上がるだろう。連合軍がやがて助けにくるだろう。戦争はすぐに終結するだろう等々と、他を頼み、人に期待した者は、その当てが外れるたびごとに自滅していった。ただ生き抜く力を維持できたのは、愛する妻や子供が待っている、世に認められた中途の仕事や研究が完成を待っている等、待つものの期待に応えようとした者だけだった、と。


「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何をわれわれに期待しているかが問題なのだ。・・・われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が問われたものとして体験されるのである。」


 終末医療に携わる柏木哲夫は(『死を看取る医学-ホスピスの現場から』NHKライブラリー、1997)確実な死を間近にして、その受容能力が高く、残った命を強く生きることができるのは、自律的な生き方をしてきた人、自分のもつ力や経験、技術などを与えながら人生を送ってきた人だという。

 さて、君は自分の人生からいったい何を期待されているだろうか。また君は人に何を与えることができるだろうか。

 自分の人生からの期待に応え、人に何かを与えるために、自立の日までに君は何をする必要があるだろうか。


□岩隈先生のブログ記事
大学とは何でしょうか?
 

2016年5月20日金曜日

文化学科バスハイクに参加して(LC15台志柿英俊さん)

今年度1回目の学生記事をお届けします。LC15台の志柿英俊さんが昨年参加したバスハイクについて書いてくれました。
 


文化学科バスハイクに参加して
                  LC15台 志柿英俊

 昨年9月2日(水)朝8:45という少し早い時間、旧図書館横の駐車場に様々な学年の文化学科の学生及び先生方が集まりました。文化学科バスハイクに参加するためです。今回のバスハイクの目的地は北九州でした。当初の訪問先の予定は、①シャボン玉石けん(株)→②門司港レトロ地区→③安川電機(株)といったものでしたが、安川電機(株)が嘉穂劇場へと変更になりました。個人的に安川電機のロボット工場見学を楽しみにしていたのでちょっと残念に思いましたが、私は県外出身であることもあり、一度も行ったことのない場所ばかりだったので、とても新鮮な体験でした。
 
 
最初に訪問したのはシャボン玉石けん(株)です。創業100年以上の歴史ある会社で「シャボン玉石けん」という会社名と同じ名前の石けんや洗剤などを作っています。この会社で作っている製品は無添加で肌や環境にも優しいのだそうです。説明の後には、幾つかの製品を貰うことができました。帰って使ってみたのですが、色落ちせずに汚れを落としているのが実感できました。

 次に訪れたのは門司港レトロ地区です。ここでは古い街並みと新しい都市機能を調和させた「街づくり」を見ることができました。昼食にはB級グルメとして有名な焼きカレーを食べました。これは北九州市の町おこしにも一役かっているそうです。カレーというよりもグラタンに近い印象で、初めて食べましたが、とてもおいしかったです。また自由行動で街をブラブラ歩いていると門司区のマスコットキャラクターであるじーも君を見つけました。

 最後に訪れたのは嘉穂劇場です。
ここは1931年に建てられたもので、芝居だけでなく有名人のイベントなども数多く行われてきたそうです。2003年に水害を受け、一時は閉鎖される可能性もあったそうですが、多くの人の支援により存続させることができました。中はとてもきれいで、以前水害があったとはとても思えませんでした。他にも奈落と呼ばれる地下や芝居で使う小道具、昔行われた公演のポスターやチケットなどがあって楽しく見学できまし た。

 今回のバスハイクで、かなり断片的ではありますが福岡について学ぶことができました。過去から受け継がれてきた様々なものが今日の文化を作り上げているのだと改めて実感でき、とても勉強になる一日でした。今後も、こうした文化学科の行事に意欲的に参加していきたいです。














2016年5月16日月曜日

多様な人々が行き交う街・香港 ―異文化の接触地帯3―(磯田則彦先生)

「教員記事」をお届けします。2016年度 第3回目は、地理学の磯田則彦先生です。


多様な人々が行き交う街・香港
―異文化の接触地帯3―

磯田 則彦(地理学)

 こんにちは。文化学科教授の磯田則彦です。私の専門は、人口研究と異文化の接触地帯の研究です。両者ともに複合領域的な研究になりますが、それぞれに非常に魅力的な分野です。

 まず、人口研究についてですが、具体的には人口移動研究と人口問題研究が中心になります。前者については、日本・北アメリカ・北・西ヨーロッパを中心に研究してきました。人は生まれてから死ぬまである場所に定住し、一切別の場所に移ることがなくてもよいのでしょうが、実際にはライフステージの要所要所で移動を行う人が大勢います。果たして、「その人たちは、どのような属性で、どういった理由で移動を行うのでしょうか?」。以前から、そんなことが気になってしまいます。

 また、後者については、非常に大まかな表現を許していただければ、「人口が停滞から減少へ向かいつつある社会」(現時点では、概して先進諸国の一部や東欧諸国に多く見られます)や、「短期間に人口が急増している社会」(概して、後発開発途上国とイスラーム諸国に多く見られます)を対象として研究を行っています。出生と死亡に影響を与える社会経済的要因や政策などが中心的なテーマです。

 次に、異文化の接触地帯の研究ですが、このトピックスについては、文化学科で専門のゼミや講義を担当し、学生諸君の卒業論文の指導を行う中で身近になってきた分野と言えるかもしれません。前回・前々回と私のフィールドの中から「インナーモンゴリア」についてご紹介してまいりましたが、今回はぐっと南下して近々返還20年を迎える香港についてご紹介いたします。

 日本社会に暮らす私たちにとって、「香港を知らない人はいない」と言えるくらいこの街は有名です。それは、中国への返還前後ともに同様です。多くの人々が観光やビジネスで香港を訪れます。果たして、どんな街なのでしょうか?香港は19世紀に清からイギリスに割譲された土地で、南京条約により香港島が、そして北京条約により九竜半島南部が割譲されました。「ホンコン(Hong Kong)」や「カオルン(Kowloon)」などの呼称・表記が日本社会では一般的ですが、元来この地は遠い昔から中国・広東の一部です。いわゆる中国人はマンダリン・チャイニーズ(普通話)で「シャンガン(香港)」・「ジュウロン(九竜)」と呼びます。


 香港の人々は、いわゆる中国語(普通話)も広東話も話します。何だかんだ言って同じ「中国語」なのでしょう?と思われる方も多いと考えられますが、まったく「別物」です。具体的に言えば、香港の人々は中国語(普通話)も広東話もわかりますが、北京(ベイジン)や上海の人々には広東話はほとんどまったく聞き取れません(話せません)。その状況は、まるでベトナムの言葉を聞いているかのような感覚だと言えばおわかりいただけるでしょうか。香港に隣接する深圳(シェンジェン)ですらそうなのです(経済特区として発展し、大都会となったこの街には広東以外からの来住者がたくさんいます)。一方、香港の人々の中には日常的に英語を使用する方がたくさんいます(教育を中心に、どのような環境で育ったかによります)。電車やバスに乗っていると、彼らが一続きの会話の中で3者を次々に用いているのが聞き取れます。言うなれば、「言語のチャンポン」といったところでしょうか?最初は驚きましたが、慣れてくるとそれが当たり前に感じられるから不思議なものです。複数の言語を習得できるか否かは、大いに環境によると痛感させられました。
 
 香港は、澳門(マカオ)と並んで「東洋と西洋の文化が融合した街」とよく言われます。上述の言語のほかにも、建築物や乗り物、食文化などさまざまなところにそのことが確認できます。まさに異文化の接触地帯になるわけです。最後に、今回私の目に留まったものを少々お話しさせていただきたいと思います。一つ目は、九竜の繁華街にあるモスクです。この街にはムスリムも少なからず暮らしています。ビジネスで香港に移り住んだ方が多いようですが、豊かになった香港では以前から東南アジアからホームヘルパーとして出稼ぎにくる方が多いそうです。仏教・道教、キリスト教圏でもない世界からの来住者です。きっと、モスクは家族とともに心の拠り所となっているのでしょう。二つ目は、隣接する深圳の博物館で見た一枚の写真です。多くの日本人観光客と異なり、私は大陸(深圳)側から香港に入りました。小さな川や湾のすぐ向こう側が香港です。1960年代から1970年代にかけて、大陸の人々にとって香港はどのような街に見えたのでしょうか?不安や心配事から解放されて自由に生きられるところ、故郷を捨ててでも移り住みたい場所、そう考えた人々もいたことでしょう。当時、命がけで香港に移り住もうと考えた人々が、現在では、買い物や仕事などのために簡単な手続き一つで香港との間を行き来している人々の姿を見たとき、一体何を思うのでしょうか?私はこの一枚の写真に魂を揺さぶられました。どのような写真であったのかは、皆さんの想像にお任せします。はっきりしていることは、今も昔も香港にはどこか自由な雰囲気が漂っているということ、そしてこの魅力が多様な人々を惹きつけてやまないということです。

□磯田先生のブログ記事
異文化の接触地帯インナーモンゴリア
国境を渡る風・満洲里