島原・長崎研修旅行
LC15台 土井良祥子
文化学科2年土井良祥子です。私の所属する小笠原ゼミは前期にはキリスト教の聖典の一つである『創世記』について、ディスカッションをメインにゼミを行ってきました。今回のゼミ合宿では、隠れ切支丹弾圧の歴史のある長崎県島原市、および、教会群やキリスト教関連遺産で有名な長崎市を訪れました。その研修の模様をお伝えします。
夏季休業終了間際の9月12日月曜日の朝、小雨の降る中、まず島原市の島原城へ向けて出発しました。島原城には切支丹関連の資料館が併設されており、多くのキリスト教関連品の展示があります。海外からの伝来品のほか、日本刀のキリシタン鍔や東洋人らしい顔立ちのマリア像など、日本独自の品も収蔵されています。広く公に布教されていた時代から厳しい弾圧の時代への歴史の変化なども展示品から窺えました。今回事前学習として、遠藤周作の『沈黙』を通読していた私たちには、特にキリスト教弾圧期の資料が強く印象に残りました。同作中に「彼等(切支丹)流に屈折された神」という表現があります。それがどういった存在であったのか、またキリスト教の神とどのように異なるのか。展示されている品々はこれらの問いを読み解くよい手がかりとなりました。
続いて、島原の湧水を利用した四明荘という庭園へと向かいます。庭園内の池にせり出すように建てられた和室からは松や楓の美しい庭が見え、湧水の流れる音が心地よく響いていました。ゼミの課題や議論をここですると捗りそうという声もちらほら。季節ごとにまた違った美しさがあるそうです。紅葉の季節にもう一度伺いたいお庭でした。
美味しい料理と島原の湯に癒されたところで、翌日には長崎市内へと移動。その道中、『沈黙』の一節を取り上げて議論になりました。「あの人は沈黙していたのではなかった」とはどういう意味なのか。私たちが導き出した答えは、弾圧期において、神はなんの救いも与えず沈黙していたのではないということです。主人公のロドリゴや切支丹がその救いに気づいていなかったのだ。踏絵を「踏みなさい」という神の声、「基督は、彼らのために、転んだだろう」というフェレイラの言葉。これらから私たちは神の大きな力による救済だけでなく、切支丹と共に苦しみを背負う神とその神による救済もあるのではないかという示唆が前述の一節には描かれているのだと結論付けました。後者の神の存在は私たちの目に新しいものとして映りました。『創世記』の中で描かれている神とは異なるものです。
さて、長崎市内はゼミ生の多くが以前にも修学旅行で一度訪れており、今回で二度目の訪問となりました。キリスト教関連遺産の一つである、大浦天主堂を拝観した際に、以前とはその印象がかなり違っていました。キリスト教に関してほんの少し知識があるだけで注目する点や感じ取るものがこんなにも変化するのかと驚きました。話をしてみると、みんな同じように感じている様子。ただステンドグラスの美しさやその場の雰囲気を感じるだけで終わっていた頃とは全くの別ものでした。大学で学ぶことの面白さの一つとして、世界が広がることがあります。今回の研修ではそのことを改めて体感しました。天主堂内には絵画やマリア像など、新約聖書の福音書に関するものが多数あります。ゼミでは後期には福音書を授業のテーマとします。この授業を終えて再度この長崎の地を訪れると更に新たな発見があることでしょう。知らないことを学ぶ楽しさを実感したゼミ合宿となりました。
担当教員による補足、あるいは失われた時を求めて
上記、「事前学習として、遠藤周作の『沈黙』を通読していた私たち」とあります。私から確かに、合宿前に(或いは、遅くとも宿への到着までに)『沈黙』を通読しておくように、と指示。しかし、合宿前に読み終えたゼミ生は皆無。初日の午前、島原へ向かうジャンボ・タクシーの車内で皆、急いで文庫本に目を走らせていたものの、結局、通読できた人は少なかったような……? 文庫本を開いたまま、早々と眠りの世界へ赴いたゼミ生もいたように記憶していますが、何かの錯覚だったのかもしれません。
二日目、島原から長崎市へ向かう貸切バスの中で、『沈黙』に関するディスカッションを行いました。課題は「『沈黙』の結末、「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」(p.295)とはどのような意味か。説明せよ」というもの。「あの人」とはイエス・キリストのことです。迫害されて苦しむキリスト者たちを、なぜ神は救ってくれないのか、なぜ神は沈黙しているのか。この問いに対して『沈黙』は「沈黙していたのではなかった」という「答え」を出すわけですが、その意味について議論。
前日の深夜、白熱する人狼ゲームを通して、信じることよりは疑うことを学んでしまったゼミ生たちが、寝不足の頭で、しかし信仰の在り方について議論する言葉に耳を傾けつつ、私もまた幾らか微睡みながら、車窓から長崎の景色を眺めていたのでした。
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