「魚釣り」という文化
小林信行(哲学)
文化学科は文化の総合的理解を目指している。ところが「総合的」ということばには分かりやすい側面とそうではない側面とがある。「分かりやすい」というのは、玩具として有名なLEGOのように、さまざまなパーツを思いのままに結合させて一つの全体像を作り上げればよいというイメージが浮かびやすいからであり、他方で「分かりにくい」というのは、どんなにパーツを結合させても、そこに何か総合的な観点が成立しなければ、パーツはただの寄せ集め、焦点のない単なる集積物になってしまうからである。
あまりなじみのない人もいるだろうが、ここで「魚釣り」が総合的に理解されるものであることを紹介してみたい。これはプラトン『ソピスト』という著作に述べられている議論で、やや面倒な紹介であるが少し我慢して欲しい。まず、魚を釣ることも一つの技術であるが、それは大きく言うと何かを作る技術ではなくて、何か獲得する技術だ。しかし獲得の仕方にも、誰かと競って獲る場合と自分で狩猟して獲る場合(ハンティング)とがあり、魚を釣ることは後者に属する。そして狩猟するにしても、相手が無生物の場合(たとえば鉱物ハンター)と生物の場合(一般的なハンター)とがあって、釣りはこの後者である。だが、生物相手と言っても、陸生と水棲とがいるから、魚釣りは水棲生物相手と言わなければならないが、鳥などにも水辺に住むものがいるので、魚類を相手にする狩猟が釣りだと規定しなければならない。また、魚を釣ることは魚を網などで獲る漁とは区別されるので鉤[つりばり]漁と言わねばならず、しかもそれは銛[もり]のように上から下を狙って獲るではなくて、下から上に釣り上げて獲るものだ。おまけに、昼間だけではなくて夜釣りのことも考慮しなければならないだろう。
今ではもっと精密で適切な説明が可能であろうが、しかしとにかく紀元前に示された素朴な項目の羅列からだけでも、魚を釣るという一見したところ単純な行為がいかに複雑きわまりないものであるかを感じ取ってもらえるのではないか。このようなこともまた総合的理解と呼びたいのだが、大事な点は、すでに存在している漠然とした何らかの全体像を改めて総合的に捉え直なおす、というところだ。一般的には総合によって何か斬新な全体像が期待されることが多い。しかしそのようなものが釣りの場合に現れてくるわけではないし、そもそもこれまでの釣りのイメージに代わるような全体像が求められているわけでもなく、ただ魚釣りというものの見直しが行われているだけである。
「総合的な見方」にはそれが求められる脈絡や時代状況がつきまとっている。社会的要請と呼ばれるものがその典型である。あまりにものごとが細分化された現代社会では、何か問題が生じた場合、その問題を一つの総合的な観点から見ようとする試みが社会的要請となり、時代の要請となっている。要するに、「総合的理解」が求められるとき、無理をして新しい像を作り出すばかりではなく、むしろ漠然としていた既知の文化について、より内実のある全体像を提示してもよいのではないか。釣りは一つの仕事として安定した社会的要請をもつ文化であるから、二千年以上の昔に上のような釣りの考察がなされていたとしても何ら不思議はないが、現代では現代の要請に応じて釣りについてのプラトンより充実して豊かな総合的全体像を明らかにすることも可能だろう。
ところでプラトンを例として挙げたのは、「総合的理解」の方法について重要な手がかりを与えてくれるからである。それは、プラトンが「魚釣り」を一つの技術として扱っている点だ。どのように獲得しているか、その対象は何か、といった細部を解明しているのは、そこに人間の知的活動があるからだ。鯛と平目を釣る場合は同じ鉤でよいのか、網で獲る魚を鉤で釣れるのか、夜行性の魚をどうやって昼間に釣るのか、といったことに知性をはたらかせていることが魚釣りの技術というものである。文化とは自然発生的に見えても、上のようにこまごまとした知性活動の集合と考えうるものであり、その活動を丁寧に細部にわたって再構成することが当の文化の全体を理解させることになるのではないか。つまり、総合的理解ということで意味されているものは、実は「分析的理解」と表裏一体であるのではないだろうか。
□小林先生のブログ記事
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