2016年1月29日金曜日

平成27年度卒業論文発表会

1月28日、文化学科の卒業論文発表会が開催されました。
今年から口頭発表に加えて、あらたにポスター発表セッションが加わり、より多くの執筆者が発表の機会を得ることができました。


前半の口頭発表セッションでは、3名の学生がパワーポイントや発表資料を用いて、自分の扱ったテーマを簡潔に、しかし緊張感のある密度を持って説明してくれました。内容はいずれも高度なもので、文化学科での四年間の勉学の成果がそれぞれの仕方で現れているとてもすぐれた発表でした。




後半は隣の教室に移動して、ポスター発表セッション。部屋の壁全面に色とりどりのポスターが貼られ、あちこちに人だかりができて熱心な議論が繰り広げられていました。文化学科らしく卒業論文のテーマはまさに百花繚乱。学問的な意味でたいへん賑やかな発表会になりました。



立派な卒業論文を書き上げた四年生の皆さん、ありがとう。おつかれさまでした。
来年度に卒業論文を書く三年生たちも、大きな刺激を受けた様子です。また一年後が楽しみですね。

2016年1月17日日曜日

株式会社マイナビ・柴田千尋さんの講演を聞いて(LC13 高橋亜梨沙さん)

 文化学科フォーラムでは、定期的に学外の有識者による講演会を開催しています。昨年12月19日(土)には、株式会社マイナビの柴田千尋さん(2013年3月、文化学科卒業)に、「文化学科での学び、仕事のやりがい」と題して講演をしていただきました。3年生の高橋亜梨沙さんの感想記事を掲載いたします。


株式会社マイナビ・柴田千尋さんの講演を聞いて

  本講演会では、柴田さんが文化学科に入った理由や、柴田さんが大学生活でやってきたこと、実際に就職してその職場で思ったことなど、素直で率直な意見を聞くことができて、とても面白いと感じました。文化学科の先輩の就職の話、特に先輩がどのような就活を行っていたか詳しく聞く機会があまりなかったため、私にとって新鮮なお話でしたし、たくさん質問することができたので、就職活動を控えている私たちがどのように行動するべきか、たくさんのヒントを知ることができました。
  
  お話を聞いて学んだことは、「行動すること」、そして、「たくさんの情報を収集すること」、「人より早めにショックな体験をしてみること」、「決断することの大事さ」。私が一番大切だと思ったことは、「行動すること」です。

  柴田さんは、企業説明会の後、人事の人に質問しに行ったり、話しかけたりして、自分の存在をアピールしました。そうすることで、ここに興味がある、就職したい、といった熱意を見せることができるし、そういったことは大事であるとおっしゃっていました。「とにかく話しかける! 言わないよりは言った方が良い」と柴田さんがおっしゃったのを聞いて「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」という言葉が浮かびました。確かに、ただ説明を聞くだけでも、情報を得ることができるのですが、それだけではなく、話しかけた自分にしか知りえない情報を手に入れることができます。行動することで、たくさんの情報を得ることができるし、「人より早めにショックな体験をすること」に繋がります。ショックを受けることで、自分がこれから何をするべきか道が開けるきっかけになると思います。
  
  柴田さんは第一希望で就職したマイナビで働いて、「一年目、二年目は習うより慣れろの生活で、大変だった」とおっしゃっていました。何事にも「慣れ」は大切ですが、慣れるためにもまず、自分が素直になること、遠慮せずに分からないことは質問することです。特に柴田さんが強調されたのは、「メモをとること」でした。私もバイトのときは、そのことに気を付けるよう心がけていますが、質問をするときはどうしても躊躇してしまうので、今のうちに気を付けようと思いました。
  柴田さんが言われた就活のコツとは、「頭を使い、足を使い、人を使うこと!」。これは、就活だけではなく他の場面でも使うことができると思います。まず行動することが自分の成長につながります。今後、自分が何をすべきか、どう行動すれば良いのか、就活や就職したあとのことなど、様々な知識を身に着けることができました。今回、文化学科フォーラム講演会に参加できたことを嬉しく思います。柴田千尋さん、大変有意義なお話を聞かせていただきありがとうございました。


LC13台 高橋亜梨沙


2016年1月13日水曜日

卒業論文発表会のお知らせ

下記の日程で卒業論文発表会を執り行います。今年から、ポスター発表形式も加わっています。4年生以外のみなさんも、是非足を運んで、先輩たちの力作をその目で見てください。

日時 2016年1月28日(木)13:00〜16:00
場所 文系センター棟15回 第5・第6・第7会議室

第1部 口頭発表セッション 13:00〜14:00
第2部 ポスター発表セッション 14:00〜16:00
    セッション1      14:00〜15:00
    セッション2      15:00〜16:00

詳しいタイトルなどは、以下のチラシで。

くしゃくしゃになった時間(平井靖史先生)

「教員記事」をお届けします。2015年度第15回は、哲学の平井靖史先生です。


くしゃくしゃになった時間

平井靖史(哲学)


 わあ、今夜の月は格別に綺麗!と思ってスマホやデジカメを取り出して写真を撮って、ガッカリした経験はありませんか。どこに映ってるのかも分からないくらい小さな光の斑点。ほんとうは、こんなに大きくて月のクレーターもこんなにしっかり見えるのに。カメラの性能も年々向上してるけれど、人間の目の解像度にはまだまだ及ばないんだなあ、なんて嘆いたり。

 ではそんなに立派なはずの僕たちの目の解像度って、一体どれくらいなのでしょうか。驚かないで下さいね、たった120万画素なんです[1]。10年近く前に登場した初代のiPhone 3Gがすでに200万画素だったことを考えると(今から見ればお粗末な画質です)、にわかには信じがたいですよね。ちなみに最新のiPhone6Sは1200万画素だとか。

 さらに、その120万画素のほとんどは、腕を伸ばして立てた親指の先ほどの面積に集中していて、残りはまばらにしか配置されていないのです。でも、いつ目を開いても、視野全体を美麗な映像が埋め尽くしていますよね?月くらいのサイズだけ高密度の描き込みがなされていて、あとは雑なベタ塗り、なんてことにはなってませんよね。これは何を意味しているのでしょう?導かれる答えは、——僕たちの視覚には、「相当な加工が施されている」ってことですね。では、何によって?記憶によって、しかありません。

 つまり、「今見たり聞いたりしているもの」(これを「知覚」と言います)をつくりあげているもののうち、実際に「今の外界」からくみ取った情報はわずかでしかなく、残りは「過去に見たり聞いたりしたもの」(記憶)で補っている、ということです。


 みなさん、記憶ってものは、以前にあったことを「思い出す」時にしか使わないと思っていたかも知れませんが、上のような意味での「記憶」なら、実は何も思い出しているつもりもない、日常の全時間にわたって、フル活用しているわけです。ビックリですね。少し言い換えると、僕たちが現在だと思っているものは、ほとんど過去だってことですよね。

 時間は、みなさんが普通に考えているように、直線上に綺麗に並んでいるものではないのかも知れない。そんなことが見えてきます。僕の専門は、「時間の哲学」です。目や脳の仕組みについては、心理学・生理学でも扱われる内容です。でも、そうした事実から、「時間」というものの構造が、おもったより複雑で、そんな複雑な構造が、どのようにして生まれ、どのように機能しているのか、というのを考えることは、実は、ぼくたちの心の存在や、生命、倫理、など深い広がりを持った思想的な課題でもあるのです。


 さきほどの話は、月の光が目に入ってからの画像処理の話ですが、その手前でも、面白いことが起きてます。実は、月から僕たちの網膜に光が届くまで、1秒ちょっとかかるんです。つまり、僕たちが見てる月は、1秒遅れの、「過去の月」なわけです。太陽はいつも8分前の太陽です。同じように、北極星は430年前、スピカは250年前、ベテルギウスは640年前に、その星を出発した光たちです。宇宙の虚空をはるばるそんなに長い旅をして、やっと今僕の目の中に飛び込んだ光の粒子どもよ。夜空を見上げると、それらてんでバラバラな過去たちが、一面に繰り広げられます。そんなばらばらな時間の奥行きを、今、ぼくたちは「同時に」みて、うつくしいと思っているのですね。そんなでこぼこで、まちまちで、くしゃくしゃに折り畳まれた時空の構造を、僕たちは流れ去る今として経験してる。不思議やなあ。

 相対性理論については、また今度機会があれば。

[1]眼から脳に繋がる視神経の数(『ギャノング生理学23版』参照)。網膜上の視細胞の数ははるかにたくさんある。(2021/01/16追記、100万を120万に修正)

※写真はすべて平井によるもの。

2016年1月8日金曜日

第12回「マンガde哲学」開催

正月気分の抜けきらない1月6日水曜日、新年第一回目の哲学カフェが開催されました。参加者は学生諸氏が4名、教員が3名。

以前、第8回「マンガde哲学」で学生さんに進行役を務めてもらったのと同様、今回も学生さんが進行役。取り上げた作品は、沖田×華『ニトロちゃん――みんなと違う、発達障害の私』。告知の段階ではタイトル未定でしたが、今回のタイトルは「一緒に帰った子は友達?――『ニトロちゃん』で哲学する」。

この作品は「著者の体験をもとにしたフィクション」。小学生のニトロちゃんには「ニトロのルール」があり、決めた通りにできないとパニックに。ある日、同級生に誘われて一緒に帰宅した彼女は「一緒に帰った子は友達」と思いこむ。それから毎日同じ子を誘って帰るが、やがて断られてしまい、「どーしよ……、友達おらん……」「友達作らないと……」。

手当たり次第に声をかけて一緒に帰る相手を探し、ようやく相手を見つけてその日は難を逃れたものの、しかし、次の日の放課後に「ねー帰ろー」と同じ子を誘って無視される。黙って立ち去るその子の後を必死でついていくが、結局、その子は一度も振り返らずに帰宅。「なんだよ~、「帰りたくない」って言えよなー」。「もう友達じゃないんだと思った」ニトロちゃんは、「「友達」の意味が全然分かってない」……。

議論は、ニトロちゃんの「論理」を分析することからスタート。「一緒に帰った子は友達」と「友達は(毎日)一緒に帰る子」は異なるはず。にもかかわらず、ニトロちゃんはその二つを混同し、「一緒に帰らなければ、友達ではない」と推論している……?

ところで、最初の「一緒に帰った子は友達」という信念はどこから生まれたのか。単に頭の中で? それとも経験から? もし頭の中だけから生まれたならば、経験によって訂正されることはない? いや、ある? 最近の林先生のブログ記事に触発されて、習慣や徳に関する議論も。

友達の条件や、そもそも友達に条件をつけることの是非。障害を巡る小中学校の現状、「訓練」の現状。臨床心理学的な諸知見。某教員が「自分のことが書かれているのかと思った」と発言したり、アプリオリ性や「自分ルール」、「純粋ルール」等の言葉が飛び交ったりする中、6時のチャイムが鳴っても話は止まらず、やや時間を超過して終了。

というわけで、新年のLC哲学カフェも順調にスタート。次回の予定は決まっていませんが、卒業する四年生を中心に、何か特別な企画を? 今後の告知をお待ち下さい。

2016年1月6日水曜日

「徳」と「幸福」(林誓雄先生)

 「教員記事」をお届けします。2015年度第14回は、本年度から赴任されました倫理学の林誓雄先生です。

「徳」と「幸福」

林 誓雄(哲学)

 歩行者用の信号が、青から赤へと変わる。それを見た私は、横断歩道の手前で、歩みを止める。仮に歩みを止めず、そのまま横断歩道を渡ってしまえば当然、車道を走る車にはねられることにもなりかねないし、そうでなくとも、車のドライバーにクラクションを鳴らされ、怒られることになるだろう。

 とはいえ、そうだから私は歩みを止めて、信号が青へと変わるのを待っているのではない。すなわち、自分が怪我をしたり死んでしまったりすることを恐れて、赤信号を渡らないのではない。たとえ車が一台も走っておらず、そのために、怪我をする恐れが一切ないのだとしても、それでも私は、赤信号の横断歩道を渡らない。

 それならば、自分の評判が落ちるから、私は赤信号の横断歩道を渡らないのだろうか。仮にまわりで私の行動を見ている人がいて、その人が福岡大学関係者であったがために、「あたし見ちゃったんだけどさー、林先生ってさー、赤信号の横断歩道、平気で渡っちゃうタイプなんだよー」「えーマジでー? そんなひとに "倫理" を教えてもらってもさー、なーんか説得力なくなーい?」などといった話が、SNSなどを通じて拡散し、その結果、私の(教員としての、「倫理学」を教授する者としての)評判が落ちることを恐れて、赤信号の横断歩道を渡らないのだろうか。否、仮にその場に誰も居合わせておらず、私のことを誰も(神さえも!)見ていないとしても、私は赤信号の横断歩道を渡らない。

 歩行者用の信号機が赤を示しているとき、私が横断歩道を渡らないのは、「赤信号の横断歩道とは、渡ってはいけないものだから」である。注意してほしいことだが、私は決められたことを守ることに固執する「規則崇拝」を、よしとしているわけではない。そうではなく、私は、取り決められたことをきちんと守る「忠実な人間」でありたいと思っている、「忠実さ」という徳を備えた「善き人」でありたいと、そう思っているのである。反対に、車が来ていないのなら赤信号の横断歩道を渡ろうとすることは、あるいは誰も見ていないのなら、赤信号くらい無視しても平気だと考えることは、ある種の「悪徳(不忠実さ?)」を示すことになると考えているのである。

 それでは、どうして私は「忠実な人間」でありたいと思うのか。どうして私は「善き人」でありたいと願うのか。それは、「忠実」であることが、すなわち「忠実さ」という「徳」を発揮することが、自分の「幸福」につながると考えているからである。「徳」を発揮することが、「幸福」に至るための「必要条件」だと考えているからである。私は自分が幸せになるために、日々生きていく中で「善く生きる」ことを徹底しなければならない。毎日「勤勉に」働くべきである。困っている人を見かけたら「親切に」するべきである。ゼミ生たちとの飲み会では「気前よく」多めにお金を出すべきである。何かを質問されたら「正直に」答えるべきである。原稿の締め切りを「忠実に」守るべきである(このブログの原稿の締め切りは「2015年12月16日」でした半月ほど原稿が遅れてしまいましたごめんなさいごめんなさい許してください大泣)。などなど。

 こうした日々の「徳」の積み重ねが、「幸福」へとつながっているのである。最終的に、死ぬ間際くらいになって自分の人生を振り返ったとき、自分のこれまでの足跡を見つめ直し、日々「善く生きて」きたと思えるのならば、その人は「幸せな人生」を送ったと言えるのである。臨終の間際に過去を振り返り、何らの瑕疵もなければ、「自分の人生とは、一片の恥も悔いもない、まことに幸福なものであった」と思えるのである。18世紀スコットランドの哲学者デイヴィド・ヒュームは、こうした「徳」と「幸福」との関係について、次のように述べている。

あらゆる高潔な人々にあっては、裏切りや詐欺に対する反感が極めて強いので、利得や金銭的な利益がどれだけ見込まれるとしても、それによってその反感が相殺されることはありえない。心の内的な平和、高潔の意識、自身の振る舞いを満足しながら振り返ること、これらこそ、幸福にとって必須な事情なのであり、それらを重要なものとだと感じるあらゆる正直な人によって育まれ涵養されることだろう。 (EPM 9.23)

 なるほど、車にはねられる心配がないのなら、赤信号など無視してしまうことで早く目的地にたどり着くことができるのだから、そのような意味での利得をえることはできるだろう。しかしそのような利得をえる見込みによっては、悪徳に振る舞うことに対する反感が相殺されることはない。むしろ、そうした悪徳な振る舞いを行わなかったことによって確保される「心の内的な平和」が、自分の振る舞いを振り返って何らの落ち度もないと満足することこそが、「幸福」にとって必要なことなのだと、そのようにヒュームは述べていると思われる。
 
 私は「幸福」になることを目指して生きている。そして、そこへたどり着くためには、日々「徳」を発揮して生きることが、「善く」生きることが、求められるのである。だから私は、歩行者用の信号が赤を示しているのなら、たとえ車が一台もやってきていないとしても、そして私のことを観察する人がまわりにまったく見当たらないとしても、私は横断歩道を渡らない。なぜなら、歩行者用の信号が赤を示しているときは横断歩道を渡ってはならないと取り決められているから、取り決められたことは守らねばならないから、そして、取り決めを守ることは正しいことだからである ————— 。


 ………とかいったことを考えている私には、実は、「徳」がまだ、備わっていない。古代の哲学者アリストテレスによると、「徳」とは「習慣」から形成されるものだが、その性格の状態が一定になってようやく、「徳が備わった」と見なされることになる(『ニコマコス倫理学』第2章)。「徳が備わった」状態になった人は、もはや「その有徳な行為が幸福にたどり着くために必要である」とか、「取り決められたことは守らねばならないのだ」とか、「取り決めを守ることは正しいことである」などといったことを一切考えることなく、赤信号を見れば自動的に歩みを止めるのである。

 しかしこれが私にはできない。否、まだできる状態には至っていない。毎日毎日、大学に来る途中の歩行者用の信号機が赤を示すたびに、「うわー信号赤になってしもたでこれー、でも、ここで止まるのが幸福にいたる途やねん…。赤信号を無視する奴らは幸福にはいたれへんのじゃ!あ、あいつ、車が来ていないことをいいことにしれっと赤信号渡りやがったチックショー!」などと思っている人間に、「徳」が備わっているはずもない。

 ただ、私はいつになったら、件の「徳」を身につけることができるのだろうか。というか、こんなことばかり考えていて、私は本当に「幸福」へとたどり着くことなど、できるのだろうか。そもそもこれが本当に、「幸福」にたどり着く唯一の途なのだろうか。アリストテレスやヒュームたちが論じた「幸福」とは、正しいものだったのだろうか…。

 「幸福」とは何なのか。どうしたらわれわれは「幸福」へと至ることができるのか。この問いは、果てもなく深まっていき、その底は、最終的な答えは、ないようにも思えてくる。とはいえ、諦めるのも癪なので、この冬はいまいちど、哲学者たちのテキストを紐解いて、温かいコーヒーを傍に、彼らの深遠な思想の中に潜ってみることにしよう。もちろん、潜り続けて、考え続けるとしても、ドンピシャの答えは見つからないかもしれない。しかし、潜り続けて、考え続けないと、得るものが何もないということだけは、確かなことのように思われるのだ。


参考文献
・アリストテレス『ニコマコス倫理学』朴一功訳、京都大学学術出版会、2002年
・Hume, D. [1751] An Enquiry concerning the Principles of Morals(『道徳原理の探求』からの引用の際には、略号としてEPMを用い、Beauchamp版(David Hume, An Enquiry concerning the Principles of Morals, ed., by Beauchamp, T. L., Oxford U. P., 1998)の節、段落番号を順に付す。訳は林によるものである。)