2015年1月28日水曜日

平成26年度 卒業論文発表会のご報告

宮野先生から、昨日開催された卒業論文発表会の模様のレポートをいただきました。


 2015年1月27日に平成26年度卒業論文発表会がおこなわれました。事前の告知になったにもかかわらず、1年生から4年生まで多くの学生さんと教員が集まり、ちょっと緊張したムードに包まれた図書館多目的ホール。

 まずは、篤永理彩さんの「「マスク」の文化論」からスタート。「マスク」と言っても仮面のほうではなく、いわゆる医療用マスクです。じつはこのマスク、西洋人は重篤な病気でない限り外出時に着用しません。それに対し、日本人はちょっとしたことでもマスクをつかいます。さらに最近多く見られるようになった「だてマスク」という現象から、日本人独特の「内と外」を分ける感覚について文化論的に迫る力作でした。やはりこの「だてマスク」現象は多くの学生さんたちの興味を惹くところであったらしく、質疑もその点に集中しました。

 二番目の発表は、藤田真美さんの「延岡から考える地方都市について」。延岡における「まち」とはどこで、これからどうなっていくべきかという問題を、延岡の戦後の発展を支えた旭化成、および延岡のイベントから多角的に考える発表でした。旭化成の企業城下町として発展した延岡における企業人と住人の間の格差や、高齢化した地方都市の問題などに対して質問が飛び出しました。

 三番目の発表は、井上歩美さんの「組織における「感謝」の機能に関するポジティブ心理学的研究」でした。井上さんは、ポジティブ感情を伸ばすとは一体どういうことなのかという問題意識から「感謝」に注目し、じっさいの企業でおこなわれている朝礼の形式についてデータ分析をすることで、感謝がもたらすプラスの循環について発表しました。これに対して、ついネガティブ感情を持ってしまうときはどうすればいいのかといった質問やどういう資料を用いて調査をおこなったのかという質問が出ました。

 ラストを締めくくったのは、馬場康一郎くんの「近代日本における兵役拒否について」。馬場くんは、まず平和主義を二つに分けた上で、絶対平和主義の立場に基づき日本で初めて兵役を拒否した矢部喜好について紹介してくれました。そのうえで、いまの日本において兵役は課されていないけれども、現在緊迫しつつある国際情勢のなかで、兵役拒否の問題は平和について考える一助になるとの意見を述べました。これに対して、無宗教だと言われる日本において宗教に基づく兵役拒否の問題がどれだけ影響力を持ちえるのか、また宗教以外の個人的良心に基づく拒否をどう考えるのかといった今の私たちと兵役の問題を結びつける観点からの質問が出ました。

 学生さんからの質問が多く、ほとんど教員が口を挟む暇もないほどの状況で、大変有意義な会になったと思います。発表してくれた学生さんたちにとっては、自分の論文を見直す良い機会になったでしょうし、3年生以下の学生さんにとってはこれからの卒業論文に向けて、一つの指針になったことと思います。やっぱり卒業論文を書くのは、貴重な体験なんだなぁと痛感しました。

 みんな、卒論書きましょう!

2015年1月19日月曜日

平成26年度 文化学科卒業論文発表会 開催のおしらせ

文化学科の卒業論文発表会を1月27日(火)に開催いたします。
ご関心のある方は是非お運び下さい。

日 時:2015127() 13:00


司 会:宮野真生子 准教授

プログラム:
 ①篤永理沙  「マスク」の文化論
 ②藤田真美   延岡から考える地方都市について
 ③井上歩美   組織における「感謝」の機能に関するポジティブ心理学的研究
 ④馬場康一郎 近代日本における兵役拒否について



平成26年度卒業論文発表会ポスター

2015年1月16日金曜日

文化学科で学ぶ意義 (平兮元章教授)

「教員記事」をお届けします。第十八回は社会学の平兮元章(ひらなもとのり)先生です。

世界的ベストセラーとなり,日本でも反響をよんでいるトマ・ピケティ「21世紀の資本」を引用し,本学文化学科で学ぶ意義を述べられています。




 世界的なベストセラーとなっているトマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)において、彼は「民間資本収益率が所得と産出の経済成長率を上回る事態が長期にわたっている今日、このままでは資本主義は持続不可能なさらなる貧富の格差を生み出し、民主主義社会やそれが根ざす社会正義の価値観が崩壊する危機にある」と警告を発しています。

 他人事では済まされないこのような状況において、文化学科に所属する教員・学生・入学を希望する人びとにとって何ができるでしょうか。例えば、異常な利子の低下をすぐに是正する権限などわれわれにはありません。ピケティは「この危機に真剣な関心をもって格差是正の方法を見いだす取り組みをしなければ、最貧困層の上向きの転換はありえない」と言っています。

 文化学科に入学することの利点あるいは強みとして常に用意されてきた答えは「多角的な視点から物事を見ることができる」、「常識や固定観念にとらわれない広い視野と柔軟な発想力を身につけることができる」という一見抽象的で曖昧な宣伝文句です。このスローガンのもとで繰り返されている日々の授業や学習は無意味なもので、現実には役立つものではないのでしょうか 決してそうではありません。ピケティのいう資本主義の破綻や貧困、格差の問題に限らず、民主主義、社会正義、格差社会における生きる意味やそれの喪失と問い直し、都市・村落での生活と意味、そこでの人びとの意識・・・等々は文化学科で学び、検討・分析することのできるテーマでもあります。マクロからミクロにおよぶ事象について学ぶことができます。


 日々の生活において突きつけられている問題を真剣に考え、多角的な思考力・創造力を養っておかなければ、何らかのアクションをおこすことはできずに、ただ流されて生きるだけになってしまいます。今は社会の中で責任をもって生きることのできるさまざまな力を養いましょう。

                                                     平兮元章

2015年1月9日金曜日

第四回「マンガde哲学」 (哲学カフェ) 開催結果(宮野先生)

先日ご案内した「第四回マンガde哲学」が開催され,宮野真生子先生よりそのご報告をいただきましたので,以下に掲載いたします。


 第四回マンガde哲学「好きになるってどんなこと?ー『ハチミツとクローバー』から考える」が17日(水)に開催されました。この日は後期の講義が終わり「予備日」という、ようするに何もない日。学内も閑散としており、人が集まるのかと心配していましたが、教員たちのお土産(生八つ橋と「もろこし」という謎の秋田土産)のおかげか(?)学生さん15名と教員2名、お菓子を食べつつ和やかにカフェがスタートしました。

 配付された資料に描かれているのは、「ある人の前だと、緊張してご飯を食べるのもうまくいかない、トイレに行きたいとも言えない」という状態。そんな「物を飲み込むのも苦しいような気持ち」こそ、「恋」である?そもそも、「人を好きになる」ってどんな状態なのだろう?

 そこでまず女子陣から出たのが、いわゆる「ギャップ萌え」。たとえば、ちょっと不良っぽい人が猫に優しくしていると、「いいな」となる。意外性に人は惹きつけられる。ふだん私たちは人と付き合うときに、事前に相手をある意味で値踏みしていて、その期待値との関係で人の魅力は増減するという話。ところがこれに対して、男子陣から「それじゃぁ、人にポイントつけて評価してるってこと?」との反論が。そこから、たしかに私たちは人とのつきあいで、相手を色んな角度から評価しているけれど、この人が「好き」ってときには、そうした評価の軸それ自体が役に立たなくなる。それくらい「特別」な存在として相手を見て、条件や評価軸が吹っ飛んだとき、「好き」になるんだと。では、その「好き」の感情はどんなものなのか。それは単なる「好印象」とは違うはずで、たとえば、全くタイプじゃない人を好きになる場合だってある。では、「トキメキ」が好きという感情なのか、それとも「一緒にいてラクだ、安心する」というのが好きなのか。そこで出たのが、「好きは色々ある」説。そのときの自分が求めているもの(ドキドキ感か安心感か)によって、「好き」という感情の中身も変わるという意見。毎日のご飯はホッとするし、特別な外食はテンションがあがる。やっぱり両方欲しい。でも、一般的に「好き」っていうと、「ドキドキ」「特別」をイメージしがちで、毎日のごはんや安定はイメージが悪い。それって「倦怠期」って問題?! でも、「慣れ」っていう好きのかたちもあるんじゃないの・・・?
 
さらに、「物」を好きになるのと、「人」を好きになるのは違うのかという質問に、多くの学生さんたちが「やっぱり人を好きになると相手の目が気になる・・・(オムライスが好きでもオムライスにどう見られているかは気にならない)」と、人を好きになるときの、相手との関係性に言及。でもそれって、「自分が好き」って話から、「相手に好かれたい」というふうに「好き」の方向が変わってない?どうしてそんなふうに変わるんだろう・・・?それは、「相手に嫌われたくない」「自分が傷つきたくない」という「守りの態度」があるからで、結局のところ、「自己チュー」「自分勝手」な欲望じゃないかという指摘が飛び出し、議論が紛糾。「好き」は、単なる自分のためのことなのか、いやでも、相手の幸せを祈る他者への純粋な思いもあるはずだ、でも、「告白」するときって結局、「自分の気持ち」を伝えればいいだけじゃないか・・・とワイワイやっている間にタイムアップ。終わってからも、「結局好きって何なんだ−」という叫びが飛び出したり、新年早々熱い時間になりました。

2015年1月1日木曜日

多数決で決めたのに不満をもつひとが過半数?! (平田暢教授)

みなさま明けましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2015年最初の「教員記事」をお届けします。第十七回は社会学の平田暢先生です。





「多数決で決めたのに不満をもつひとが過半数?! (平田 )」



 明けましておめでとうございます。2015年が、特に文化学科を志望する受験生の皆さんにとって良い年になりますように。
 昨年末には衆議院の総選挙が行われました。結果や投票率など色々考えることがありそうですが、ここでは社会的な意思決定の方法という視点で選挙を考えてみたいと思います。
 1人が1票を投じてもっとも得票の多かった候補を選ぶ、という方法は今の私たちには当たり前すぎて、方法として改めて考える機会は少ないように思います。ところが気をつけてニュースなどを見ていると、そうではない方法も見られます。オリンピックの開催地を決めるIOC総会の投票では、得票が過半数に達する候補地が出るまでもっとも得票の少ない都市から脱落させて投票を繰り返す、という方法を取りますし、バチカンの法王選挙であるコンクラーヴェでは、法王候補でもあり投票者でもある枢機卿たちが、誰かが過半数の票を獲得するまで互選を繰り返します。また、歴史上もっとも長く続いた共和国である、ヴェネツィア共和国の元首選挙は、投票とくじを組み合わせるという、びっくりするくらい煩瑣な手続きで行われていました(詳しくは塩野七生さんの『海の都の物語』をご覧下さい)
 1人が1票を投じて決めるという基本は同じでも、そのやり方を変えると結果が変わる、ということが理解されているということだと思います。どのような投票が望ましいのかある種の理想があり、その理想に基づいて投票の方法が決められていると考えた方が良いかもしれません。この理想は1つとは限りません。投票者の意思や選好(少しなじみのない言葉ですがpreferenceの訳で、好んで選ぼうとする欲求のことです)を投票の結果にどのように反映させるか、ということに変わりはなくとも、たとえば最大の満足を得る人をもっとも多くすべきと考えるか、最大の不満を持つ人をもっとも少なくすべきと考えるかで投票の方法は変わってくると予想されます。さらに掘り下げて考えれば、投票そのものを否定するということもあるでしょう。
 方法である以上、投票には欠点や問題、落とし穴があってもおかしくはありません。投票にかかわるパラドックスは複数指摘されていますが、その中に、

「多数決で可否を決めたにもかかわらず、過半数のひとが不満をもつ」

というものがあります。一見すると決してあり得ないことのように思えるのでインパクトがありますね。このパラドックスは厳密に言えば代議制と直接民主制の齟齬にかかわっているのですが、「Ostrogorskiのパラドックス」(オストロゴルスキーと発音するようです)と呼ばれています。
 再現してみましょう。いま、X氏、Y氏の2人の候補者がおり(政党が2つあると考えても良いでしょう)、選挙に当たって争点となっているのはα、β、γの3つの政策であるとしましょう。政策としてX候補は3つの政策をすべて推進すること(賛成)を、Y候補はすべてに反対であることを表明しています。賛成を○、反対を×で表すと下記の通りになります。

             政策α   政策β   政策γ
        X候補      ○     ○     ○
        Y候補   ×      ×     ×

 他方、有権者は3つの政策それぞれについて賛成、反対の意見を持っています。政策への賛否の組み合わせから有権者には4つのタイプがあるとしましょう。各タイプは自分の意見により近い候補者に1票を投じるはずです。たとえば、全体の23%を占める、政策αには反対だが政策βと政策γには賛成の有権者(○と×で表すと「×○○」になります。TypeⅠとします)は、自分の意見に近いX候補に投票すると予測できます。他にも3つのタイプの有権者がいて、各タイプの政策への賛成、反対と構成比率は下記の表の通りだとしましょう。
 このような状況において、投票の結果どちらの候補者が当選するか考えてみると、TypeⅠ、TypeⅡ、TypeⅢの有権者はいずれも2つの政策に賛成していますので、X候補に投票すると考えられます。他方、3つの政策すべてに反対のTypeⅣの有権者は当然Y候補に投票するでしょう。その結果、当選するのは合計70%に達するTypeⅠ、TypeⅡ、TypeⅢの有権者の支持を得たX候補ということになります。得票率70%は圧勝と言えます。



 つぎに、候補者ではなく各政策について住民投票のような直接投票が行われた場合、賛成、反対がどのようになるか見てみましょう。政策αは、TypeⅡとTypeⅢの有権者が賛成していますが、合計53%に達するTypeⅠとTypeⅣの有権者は反対することになるので、結果は否決ということになります。政策βと政策γについても同様で、結果はやはり否決されることになります。
 つまり、候補者(あるいは政党)の選挙においてはすべての政策に賛成の候補(政党)が圧勝したにもかかわらず、争点になったすべての政策については過半数が反対、ということが起こっているのです。そのため、多数決で決定したにもかかわらず、過半数のひとが不満を持つことになるのです。
 無論、選挙をすると必ずこのようなことが起こると言っているわけではありません。しかしながら、数理的にこの現象を分析してみると、仮に100%の支持率で当選したとしても過半数の政策について過半数の有権者が不満をもつ場合や、80%の支持率で当選したとしてもすべての政策について過半数の有権者が不満を持つ場合があることが指摘されています。おそらく現実にも起こっているはずです。ここまでの話は投票率100%を前提としていますが、投票率が下がると、その場合はパラドックスとは言えなくなるでしょうが、当選した候補者の政策に有権者の過半数が不満を持つ可能性は高まるでしょう。
 個別の政策の是非を直接問う住民投票が行われることが実際にも度々あります。首長や代議員を選んだ後に新たな問題が発生したケースもあるでしょうが、背景にOstrogorskiのパラドックスが存在するケースも多々あると考えられます。住民投票は、候補者や政党を選ぶ場合と異なり、個々の政策や争点について決定を下せますし、首長や代議員の当選は、選挙時に掲げられた政策に対して必ずしも白紙委任状が与えられた訳ではないことの確認になります。そのような意味で住民投票には大きな意義があると考えられます。
 十分な議論が困難といった直接民主制の抱える問題は措くとして、政策ごとに投票すればOstrogorskiのパラドックスは回避できるか、というとそう単純でもありません。特に大きな政策には、政策を支える下位の政策や争点が存在します。たとえばアベノミクスにおいては、「三本の矢」と呼ばれる、①金融政策、②財政政策、③成長戦略がそれに当たります。前述の表に従って、例えばTypeⅠの有権者は①には反対だが②と③には賛成で・・・と考えていくと、直接投票の結果アベノミクスは7割から支持されるものの、アベノミクスの個別の政策に対しては過半数が不満を持つ、ということが起こりえるのです。
 1人が1票を投じて決める、という方法がうまく機能するのは割と大変で難しいことなのですね。
 今回は投票に注目しましたが、他の事柄についても“方法”という視点でいろいろなものを見てみると様々な発見があると思います。ある種の結果や新しい事実、独創的な理論などを目にすると、私たちはついその結果、あるいは成果にばかり目がいきます。その際に少しでも方法への関心を持ち、「どのようにして」と考えることができれば、それが大学で求められる知的好奇心の1つのあり方になるのではないか、と思う次第です。

引用・参考文献

佐伯胖,1980,『「きめ方」の論理』,東京大学出版会.
塩野七生,1980,『海の都の物語-ヴェネツィア共和国の一千年-』,中央公論社.

与謝野有紀,1997,「代議制における投票のパラドックス-オストロゴルスキー・パラドックスの成立可能性について-」,岩本健良(),『社会構造と社会過程のフォーマライゼーション』,pp.173-186,科学研究費成果報告書.