2018年5月20日日曜日

第1回 LCシネマ文化学が開催されました


5月14日月曜日の夕方、第一回目のLCシネマ文化学が開催されました。参加者は学生さんが11名に教員が1名の、計12名。天神北のKBCシネマで映画を鑑賞した後、全員でぞろぞろと某ファストフード店へ移動。今観たばかりの映画作品について、二つの席に分かれてトーク。

今回鑑賞した作品は「馬を放つ」。原題は「ケンタウロス」(Centaur)。キルギスの映画で、作中の言語はキルギス語。山々に囲まれた草原の村を舞台に、伝統的な遊牧民の文化と現代の文明、さらにイスラームの文化などが交錯する、印象的な作品でした。

 映画『馬を放つ』公式サイト(外部サイト)

映画後のトークの内容については「ネタバレ」を避けるために詳しくは書きませんが、作中の諸場面に関する解釈や、主人公の行動の動機に関する意見などが次々に述べられた他、主人公と親戚の関係、長老を中心とする村の在り方、遊牧民とイスラームとの価値観の違いなど、参加者それぞれの視点から様々な問題が提起され、話し合われました。「映画を観ていたときにはわからなかったが、皆で話していてわかるようになった」との感想が聞かれる一方、最後まで答えの出ない「謎」も幾つか。

普段観る映画とは異なるそのような「わかりにくさ」も含めて、皆で同じ作品について話す楽しさを味わってもらえたならば、第一回目としては大成功。さらに、その場で話して終わりではなく、事後にミニ・レポートを書くのもきっと楽しい……はず。

さて、LCシネマ文化学は今後も、できれば月一回くらいのペースで開催していく予定です。参加希望者は随時募集中ですので、まずは気軽にご連絡下さい。次回は六月、あのオペラを……?

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 課外活動「シネマ文化学」開催のお知らせ

2018年5月15日火曜日

タンザニアで「父」になる(中村亮先生)

 平成30年度第3回目の「教員記事」をお届けします。今年度より赴任された中村亮先生です。文化人類学の見地から、「父になる」とはどのようなことか、興味深く考察されています。



タンザニアで「父」になる
     中村亮(文化人類学

 私が専門とする文化人類学は、異文化を知り、人間の生活様式の固有性、多様性、普遍性について考えることで「人間とは何か?」について探求する学問である。と言うと、なんだか難しく聞こえてしまうが、実状は、海外のある場所に長く滞在し、そこの生活や文化について現地の人に教えてもらうというものである。これを「フィールドワーク(現地調査)」という。フィールドワークは文化人類学の最大の魅力である。私自身が文化人類学を志したきっかけも、「人間とは何か?」を探求するという高尚なものではなく、単にフィールドワークがしたかったからであった。

 一冊の本との出会いが私を文化人類学にみちびいた。和崎洋一著の『スワヒリの世界にて』(1977年、NHKブックス)である。和崎洋一(1920-1992年)先生は、日本におけるアフリカ研究の草分け的存在である。京都大学アフリカ学術調査隊の一員として、1963年にタンザニアのマンゴーラというサバンナの村でフィールドワークを開始した。子供たちに読み書きを教える寺子屋(マンゴーラ・ロンド)の先生として「村入り」し、人びととの信頼関係をきづきながらおこなった10年間のフィールドワークについて書かれたのが『スワヒリの世界にて』である。
 名古屋大学の大学院浪人中、偶然図書館でこの本を目にした。当時、私は日本の近代文学を学ぶ文学青年であり、「スワヒリ」は私とはまったく関係のない世界であった。しかし、なぜか私はこの本を手にとり読みはじめた。そして気がつけば一気に読みおえていた。はじめにいだいた感想は「世の中にこんな面白い仕事があるんだ」というものであった。すぐに読みかえした。次の感想は「こんなに楽しい仕事があるなんてズルい!」であった。そして三回目に読みおえたときには「自分にもこのような仕事ができるだろうか」と自問しつつ、なかば文化人類学を学ぶことに決めていた。
 それは2000年の4月のことであったが、5月には広島で開催されたアフリカ学会にもぐりこみ、夏の大学院入試では日本文学ではなく文化人類学を学ぶことができる名古屋大学の比較人文学講座(偶然にも和崎洋一先生の息子の和崎春日先生が教授としていらした)を受験していた。なんとか合格したあと、バイトに精をだしてお金をため、12月にはあこがれのタンザニアにむけて出発した。日本文学を志していた学生が、一冊の本との出会いによって、その8カ月後にはタンザニアの地を踏んでいたのである。
 とにかく私も和崎先生のように「自分の村」を見つけて「村入り」したかった。はじめてのタンザニア滞在は3カ月ほどしかなく、おまけに松葉づえで思うように移動できなかったが(足の骨を折っていた…)、幸運にもタンザニア南部の「キルワ島」というサンゴ礁とマングローブに囲まれた美しい島にたどりつくことができた。その日から17年たったいまでもキルワ島を「自分の村」として毎年通いつづけている。


(写真1)

さて、前置きが長くなったが、タンザニアで「父」になった話である。

『スワヒリの世界にて』の一節に、村入りがすすんでいく過程で和崎先生の呼ばれ方(呼名)が変化するという話がある。はじめは「日本人mjapani」「客人mgeni」として他人行儀だったものが、「友人rafiki」や「兄弟ndugu」と変わり、あだ名がつき、その後「サイエンシ(科学)をする人」として村社会に位置づけられていく。このような変化が自分にも起こるのだろうかとドキドキしていたが、果たして私にも呼名の変化とそれにともなう社会的役割の変化があったのである。
島での滞在期間が長くなるにつれて、日本人・客人から友人・兄弟へと「順調」に変化しているなと思っていたが、ある年のキルワ島訪問で驚いた。なんと、半年ぶりに会ったモハメド家(住み込み先)の子供たちが、私のことを「お父さんbaba」と呼ぶのである。もちろん私は彼/彼女たちの本当の父親ではない。しかし「お父さん」と呼ばれる。これはどうしたことかと最初は面食らったが、スワヒリ社会の「親族名称」について知っていれば、その理由がある程度理解できるのである。スワヒリ社会とはスワヒリ語を話す人びとが暮らす社会のことで、キルワ島もこれに含まれる。
日本では一般に「父」や「母」は「生みの親」を意味する。しかし、スワヒリ社会では「父」「母」の範囲が日本と比べて広いのである。図1を見てもらえれば分かるが、父の兄弟も「父」と呼ばれ、母の姉妹も「母」と呼ばれるカテゴリーに入る。文化によって親族名称やその適応範囲が異なることは、文化人類学の初期の研究で明らかになっている。

(図1)

しかし、いくら親しくなったからといっても、外国人である私が「父」カテゴリーに入ることがあるのだろうか?と疑問に思っていた。だがこれは、住み込み先の主人モハメドさん(1965年生)が、この年齢のタンザニア人にはめずらしく「一人っ子」であることを考えるとなんとなく納得できるのである。どういうことかというと、モハメドさんは「自分にはいざというときに助けあえる兄弟がいないので、誰とでも仲良くするんだ」とよく言っていた。はじめてのキルワ島訪問以来の親友であるモハメドさんとの10年以上のつきあいの結果、私はまず、彼の「兄弟」のカテゴリーに入れてもらったものと思われる。そして、子供たちからすれば父の兄弟は「父」であるので、私は「お父さん」と呼ばれるようになったのではないかと推測するのである。

(写真2)

子供たちから「お父さん」と呼ばれるのはうれしいのだが、私としてはどちらかというと「おじさん」と呼ばれる存在になりたかったのである。なぜならば、スワヒリ社会では父と子供の関係は、尊敬と緊張をともなった一歩距離をおいたものとなる。これを文化人類学では「忌避関係avoidance relationship」という。その逆で、冗談を言いあったりできる親密な関係を「冗談関係joking relationship」という。「父」カテゴリーに入ってしまった私と子供たちとの間には少なからず「忌避関係」が生じてしまったようである。「お父さん」と呼ばれる以前とくらべ、とくに同性の長男や次男が私に対してよそよそしくなったと感じる。
できれば、子供たちの両親世代の男性で唯一の「冗談関係」である「母の兄弟=おじさんmjomba」として、子供たちと気軽につきあっていたかった。しかし、「父」として子供たちに尊敬されつつ、子供たちの将来に対して助言や経済的援助をあたえるという責任ある立場も、これまでお世話になったモハメド家への恩返しであると考えるならばお安い御用である。モハメド家の「我が」長男と長女の結婚の際には祝儀として少なからぬ出費があったが、それも「父」として当然のことであろう。もうすぐ結婚する次男の結婚式も盛大に祝ってあげたいと思う。
こうして「父」としての役割をひきうける覚悟を決めた私であったが、その後、モハメドさんの第二夫人の長男の「名付け親somo」に(うっかり)なってしまった。これは、私が想像していた「名付け親」とは違い、「父」以上に大変な役割であったのだが、この話については別の機会にゆずりたい。

*画像、図はすべて中村亮
  図1.スワヒリ社会の親族名称と忌避関係・冗談関係の範囲
  写真1.タンザニア南部キルワ島の船着き場
  写真2.2000年以来の親友のモハメドさん(右)と中村(左)、2004年撮影


□中村亮先生のブログ記事