2024年2月28日水曜日

画家・野見山暁治先生のこと

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は,芸術学・美術史の植野健造先生です。


画家・野見山暁治先生のこと

植野健造(芸術学・美術史)

 

 日本美術史、博物館学等担当教員の植野です。今回は福岡大学にも縁のあった画家・野見山暁治先生のことについて書いてみたいと思います。

野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)先生は、 昨年2023622日、心不全でご逝去されました。享年102歳、最後まで現役の画家であり続けた生涯でした。

野見山暁治先生は1920年現在の福岡県飯塚市に生まれました。嘉穂高等学校卒業後、1938年東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学、1943年卒業、ただちに戦争で応召、満州に派遣されるが、病気のため帰国しました。戦後1952年から1964年にかけて12年間フランスに留学、滞仏中の1958年ブリヂストン美術館で個展を開催し、これによって同年第2回安井賞を受賞しました。帰国後、1968年東京芸術大学助教授、1972年から教授を務めました。1978年『四百字のデッサン』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するなど著書も多く、2014年文化勲章を受章されました。

福岡大学文系センター棟4階の第4会議室奥のロビーに、野見山暁治先生の「卑弥呼の国」という大きな油絵作品が掛けられています。1986年の作品で、同じ文系センター棟5階の国際会議室ロビーの壁面に設置されている石彫レリーフの下絵にあたります。両作品とも通常は残念ながら非公開となっています。


1984年、福岡大学は創立五十周年を迎え、その記念事業の一環として文系センター棟が建設されました。その後、1985年同センター棟5階の「国際会議室」ロビー壁面に、福岡大学が二十一世紀に向けて躍動するに相応しい絵画を飾ることになり、福岡県出身で東京芸術大学名誉教授の野見山暁治画伯に作品を依頼することになったようです。

 野見山先生は絵の制作にあたり、同センター棟16階ラウンジから博多湾を眺める機会をもちました。他の国々から風が博多湾に向かって吹いてくるような印象を受け、さらにその風がひとつになって集まってくる人々が創ったという伝説の国のイメージが湧きあがり、一挙に油絵にして描きあげたのが油絵「卑弥呼の国」と題した作品であると述べられています。その後「卑弥呼の国」は、約半年間かけて、石彫レリーフとして制作され、1987年に石材27枚をつなぎ合わせ横約11.3メートル高さ約3メートルの壁面に石彫レリーフが完成設置されました。

 野見山先生は、これら2点の作品が一般市民の方々のみならず、福岡大学の学生さんたちにも公開されていないことをつねづね残念に思われているようでした。

fig.1
野見山暁治《卑弥呼の国》
1986年、油彩・カンヴァス
福岡大学文系センター棟4階第4会議室ロビー
2011720日撮影

 

fig.2
野見山暁治(原画・監修)《卑弥呼の国》
1987年完成、石彫レリーフ
福岡大学文系センター棟5階国際会議室ロビー
2011715日撮影

 

 ちなみに、私は久留米市の石橋財団・石橋美術館(現在は久留米市美術館)の学芸員時代の2004年に野見山先生の絵を美術館で購入してもらえることになり、作品の選定のため東京都練馬区の野見山先生のご自宅兼アトリエを訪問する幸運に恵まれました。その際に購入した《風の便り》(1997年)は現在、東京の石橋財団・アーティゾン美術館に所蔵されています。貴重な思い出です。

先生の本格的な回顧展覧会は、これまで1983年に北九州市立美術館で、1996年に練馬区立美術館で、2003年に東京国立近代美術館ほか3館で、そして2011年に石橋美術館などで開催されました。石橋美術館での回顧展の際に、ある美術史家が新聞紙上の展覧会評で次のようなことを書かれていました。野見山暁治の回顧展は過去何度か開催されたが、この画家の凄いところは、最近作がつねに最も新鮮で気力に満ち魅力的な作品となっている、そのために回顧展も自動的に最新のものが最も充実している、と評されていました。この評言(ディスクール)に私も大いに同意するところです。私は個人的見解として、現代日本において最も優れた絵を描く画家であったと評価しています。

 野見山先生は新型コロナ禍の中、202112月に満101歳を迎えられました。同年には高島屋などで近作の個展を開催されて、なお身体も制作も充実しておられるところを示されていました。また、近年は作品を整理するために、福岡県立美術館はじめゆかりの美術館に作品を寄贈され、それらの美術館で画家・野見山暁治をあらためて顕彰する展覧会が開催されました。

野見山先生のステンドグラスの作品は、JR九州新幹線博多駅の「海の向こうから」、福岡空港国際線ターミナルビルの「そらの港」、飯塚市役所庁舎の「還ってくる日」などがあります。皆さんも記憶にとどめていただき、機会があればそれらの作品を鑑賞していただければと思います。

話も文章も魅力的で絵はとびきりの名手、最高に格好良かった野見山暁治先生のご冥福をお祈りします。


fig.3
野見山暁治(原画・監修)《海の向こうから》
20113月完成、ステンドグラス
JR九州 博多駅 新幹線3階連絡改札口内 4
2012624日撮影

 

fig.4
野見山暁治(原画・監修)《そらの港》
2013129日完成、ステンドグラス
福岡空港 国際線ターミナルビル3階ロビー
2014831日撮影

 

fig.5
野見山暁治(原画・監修)《還ってくる日》
201734日完成、ステンドグラス
飯塚市役所 エントランスホール
2020113日撮影

 

fig.6
久留米市美術館で開催された「野見山暁治の見た100年」展会場で自作について語る野見山暁治先生
久留米市美術館にて
2023421日撮影

 

 

 

2024年1月12日金曜日

2023年度 卒業論文発表会のお知らせ


 下記のとおり、卒業論文発表会を開催します。今年度に卒業論文を提出した4年生のうち、2名が発表します。LCの学生の皆さんが学年を超えて集まることのできる貴重な学科行事です。ぜひご参加下さい。

 1-3年生の皆さんも、卒論で先輩がどのようなことを研究して卒業していくのか、自分が卒論を執筆する上で大変参考になります。4年生で自分は卒論を書いていないという方も、同級生の友人が大学での最後に発表する卒論発表をぜひご覧になって下さい。



・日時 2024年1月30日(火)13:00~14:30

・開催方式 対面

・会場 文系センター棟15階 第5会議室


プログラム

1. 武井遥菜さん〈指導教員:林誓雄(哲学・倫理学)〉

  ケインの責任論から考える、未成年者の責任について


2. 山口大貴さん〈指導教員:大上渉(心理学)〉

  日本の神社仏閣に対する犯行パターン抽出と類型化の試み




2023年11月29日水曜日

映画館へ行くこと、目的を持たないこと

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は,哲学・宗教学の小笠原史樹先生です。


映画館へ行くこと、目的を持たないこと

小笠原史樹(哲学・宗教学)

2023年11月18日土曜日

ありがたい言葉

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は,文化人類学の中村亮先生です。



ありがたい言葉

中村亮(文化人類学)

 文化人類学のフィールドワークは、肉体的・精神的につらいものである。しかし私が、20年以上もフィールドワークを続けてこられたのは、現地の人びとの知恵や技術、その生き様に魅了されてきたからだ。人びとから学ぶことのなんと多いことか。そのなかでときおり、自分の価値観をくつがえすような、もしくは、謎が一気にとけてゆくような、「ハッ」とする言葉に出会うことがある。これがフィールドワークの魅力である。
 そのうちの一つが「海女がつくる里海」に書いた、福井県の海女さんの「海も畑と同じように耕さないとダメになる」という言葉である。この言葉に「里海の思想」を見いだせた気がして感動したことを覚えている。ここではもう一つの例として、私が学生時代にカルチャーショックを受けた一言について書いてみたい。それは、タンザニア南部のキルワ島でのフィールドワーク中に出会った言葉である。

 人口1000人ほどのキルワ島は、島民全員がムスリムのイスラーム社会である。私は、マングローブとサンゴ礁に囲まれたこの島の漁民文化について調べている。文化人類学のフィールドワークでは、村社会に溶け込むために、一般家庭に居候させてもらうのが常である。私もキルワ島では、モハメド家に居候させてもらっている。モハメドさんは、私が2000年に初めてキルワ島を訪れた際に出会った、20年来の大親友である。

 2003年にモハメドさんが家を建てたときに、ありがたいことに私用の部屋を作ってくれた。それ以来、モハメド家にお世話になっている。当時モハメド家は、モハメドさんと奥さん(仮にAさんとする)と子供3人の、仲の良い5人家族であった。Aさんはとても明るい性格で、働き者で、料理上手な人である。とくに私は、Aさんが毎朝ポットいっぱいに作ってくれる生姜入りの紅茶が大好物であった。朝食後に紅茶を飲みながら調査ノートをまとめる。最高の居候先である。

 平和なモハメド家に事件が起きたのは、忘れもしない2004年12月のことであった。なんと、モハメドさんの不倫が発覚したのである。仕事で頻繁に対岸の町に行くモハメドさんは、そこで一人の女性と知りあい深い仲になってしまった。狭い社会である。不倫の噂はそのうちAさんの耳に届いた。
 
 Aさんに問い詰められたモハメドさんは、最初はしらを切っていたが、やがて不倫を認めた。それからは夫婦喧嘩の日々である。家には不穏な空気がながれた。普段は優しいAさんが、「リョウも知ってたんでしょ!」とすごい剣幕でつめ寄ってくる。「僕は知らなかったよ」と、情けなく自分の部屋に逃げ込んでしまうことしかできない。

 険悪なムードがつづいた何日目かのことだった。リビングで言い争う声に目が覚めた。その日のAさんの怒りは激しかった。私は「もしも離婚することになったら大変だ、一体どうなるんだろう」と、自室の扉の前で聞き耳を立てていた。その時、Aさんがモハメドさんに言ったのである。「不倫するくらいならその女と結婚しろ!」と。

 扉越しにこの言葉を聞いた時に、「ああ、ついに離婚するんだ」と落胆した。しかしその勘違いにすぐに気がついた。Aさんは「自分と離婚して不倫相手と結婚しろ」と言ったのではない。「第二婦人として不倫相手と結婚しろ」と言ったのである。そのことが理解できた時に、私は少なからぬショックを受けた。

 キルワ島はイスラーム社会なので一夫多妻婚が認められている。頭ではそのことを分かっていた。だが、私の一夫多妻理解は「一人の男性が四人まで同時に妻をもつことができる婚姻制度」という辞書的なものであった。しかし、Aさんの言葉で、一夫多妻とは何かについて、生活者の視点から理解できた気がした。それは「人間関係を断ち切ることを回避することができる婚姻制度」であったのだ。

 現代日本のような一夫一婦制社会で不倫が発覚した場合、その結末は、不倫相手と別れる・妻と離婚する・妻と不倫相手のどちらからも愛想をつかされる、などだろう。有名人の不倫の場合は、社会的に制裁されることもある。いずれにせよ、どこかしらの人間関係を切るしかなく、その後に残った人間関係も気まずいものになってしまう。つまり「発覚した不倫」から人間関係が広がることは無いのである。

 しかし一夫多妻制社会においては、不倫相手を第二婦人とするという選択肢がある。この場合、妻とも不倫相手とも人間関係を正式に保つことができるのである。不倫の結末が、一夫一婦制と一夫多妻制とでは大きく異なることがあるのだ。実際に翌年、モハメドさんは不倫相手を第二婦人として結婚した。もちろんこれでAさんの怒りが完全におさまったわけでも、モハメドさんの不倫の罪が消えたわけでもないが、モハメド家の親族関係が広がったことは確かである。

 この出来事を文化人類学的に考えてみる。モハメドさんが不倫相手に貢ぐことは、モハメド家のお金が外部(他人)に流れることを意味する。しかし第二婦人に貢ぐのであれば、それは内部(親族)のために使ったお金となる。お金の意味が変わるのだ。また、Aさんの3人の子供は、対岸にある第二婦人の家に居候しながら対岸の中学校に通った。島に住むモハメドさんの父親が病気になった時も、病院に近い第二婦人の家から通院した。つまり、不倫相手を第二婦人としたことで、モハメド家の人的・経済的な相互扶助の輪が、島を超えて対岸にまで広がったのである。

 あの時、Aさんは離婚を要求することも考えただろう。しかしそこをぐっとこらえて「その女と結婚しろ!」と言ったのだ。私はその言葉に本当に感謝している。Aさんの英断のおかげで、モハメド家は離散することなく、逆に、人間関係と相互扶助の輪を広げることができたのだ。そして私は、あれから20年たった今でも、Aさんの美味しい紅茶を飲みながらフィールドワークを続けることができているのである。



2023年10月18日水曜日

2023年度 オープンキャンパス(学生記事)

 8月6日に行われたオープンキャンパスの様子について、スタッフとして参加した2名の学生にレポートしてもらいました。

(1)古賀愛結さん:文化学科3年

 皆さん、こんにちは!文化学科3年の古賀愛結です。

 2023年8月6日(日)にオープンキャンパスが開催され、非常に多くの方々に来場して頂きました。今回私は、文化学科のスタッフとして参加させて頂きました。学部学科ごとに教室が割り振られており、先生方とともに入り口の装飾や、内装にこだわりながら、準備を行いました。展示のコーナーには卒業論文コーナーや教員の紹介パネル、文化学科で学ぶことができる7つの学習領域が細かく説明された回転式のパネル、実際に受講している講義資料など、様々なものを設置しました。

 また、教室に個別相談コーナーを設け、文化学科に興味をもった多くの高校生や、保護者の方々に来て頂き、質問の受け答えをすることができました。そこでは、「なぜ文化学科に入ろうと思ったのですか。」「文化学科ではどのようなことを学んでいますか。」といった質問を数多くいただきました。文化学科での学習内容に疑問を感じている学生が多いように感じました。文化学科では主に7つの領域について学ぶことができます。そのため、様々な分野の中から自分が興味をもったものを選択し、この学科で将来の方向性を決めていこうと、入学している人が多い印象です。進路に関する不安や、文化学科のことだけでなく、日々の大学生活についても話すことができ、生徒の目線に立ってお話をする良い場所となりました。そして、文化学科で学ぶ「笑い」をテーマとした模擬講義が2つ行われました。私がお手伝いさせていただいた講義は古川善也先生による「心理学における「笑い」」をテーマにしたものでした。講義には想像以上の非常に多くの学生方、保護者の方々に足を運んでいただきました。30分間という短い時間でしたが、来場してくださった多くの方々には、大学の授業の進め方や雰囲気を感じることができ、心理学に少しでも興味を持っていただけたのではないかと思っています。私自身もとても興味を持ちながら、この講義を受けることができました。このオープンキャンパスを通して3年前、私もこうして大学へ胸を躍らせ訪れたことを思い出し、とても感慨深く感じました。この度は福岡大学オープンキャンパス、文化学科のブースへお越しいただきありがとうございました。来年の春、福岡大学で皆さんにお会いできるのを楽しみにしております!


(2)立野夏帆さん:文化学科3年

 みなさんこんにちは、人文学部文化学科3年生の立野夏帆です。今回は令和5年8月6日に開催された福岡大学オープンキャンパスの様子をお届けします!

 福岡大学のオープンキャンパスは毎年多くの方が足を運ばれますが、今年は二日間(8月5日、6日)とも快晴で非常に暑い中での開催でしたが、17,319名の方にご来場いただきました。初めて福岡大学を訪れた方は、とても広いキャンパスに驚いたと思います。私も高校2年生の頃福岡大学のオープンキャンパスに初めて参加し、広さと緑の多さに驚き、校内をぐるぐる回ったことを思い出しました。

 私は文化学科のブース(A棟703)で文化学科のスタッフとして学生目線で高校生の方や保護者の方と交流をしました。文化学科の個別相談コーナーは教室に入る前から目を引く飾り付けが施されており、教室の中は文化学科で学べる7領域の紹介や教員紹介のパネル、卒業論文の展示、実際に授業で使用したレジュメの展示などがありました。その他にも在学生・教員による個別相談も行いました。

 文化学科のブースに足を運んでいただいた方の中には福岡だけではなく北海道など他県から訪れた方もおられ、大学選びに対する意識の高さに驚きました。学生の方だけではなく、付き添いの保護者の方も多くみられ、親子仲良くブースの展示物を見たり、個別相談に参加したりする様子も見ることができ微笑ましかったです。

 文化学科の模擬講義は「文化学科で学ぶ『笑い』」をテーマとし、午前は心理学教員の古川善也先生、午後は西洋芸術学教員の浦上雅司先生による授業が A棟401教室で30分ずつ行われました。私は浦上先生の「西洋美術における『笑い』」の授業にスタッフとして参加しました。短い時間ではありましたが、参加された方々は文化学科の雰囲気を味わいながら、大学生の講義を一生懸命理解しようとしているように見えました。皆さんが講義を真剣に受けている姿を客観的に見て、普段の自分を見直し初心を取り戻すきっかけになった気がします(笑)

 今回相談に来た方の質問で特に多かったのは、「文化学科は何を学ぶ学科なのか?」でした。文化学科では7つの分野(心理学、宗教学、哲学・倫理学、社会学、文化人類学・民俗学、地理学、芸術学・美術史)を専門的に学ぶことができます。つまり、1つの分野が自分に合わなくても別の分野があるため、「色々なことを学びたい!」、「これから興味のある分野を探したい!」方にとてもおすすめできる学科だと思います。

 他にも「臨床心理学科と文化学科で学ぶ心理学の違いは何ですか?」、「文化学科に決めた理由は何ですか?」、「就職先はどのようなところがありますか?」、「男女比はどのくらいですか?」など沢山の質問に対して在学生目線で丁寧に答えることができました。もちろん、自分には答えることが難しい質問などは他のスタッフや教員に助けを求めながら楽しく交流ができたと思います。

 今回のオープンキャンパスを通して、少しでも皆さんのお役に立つことができたなら幸いです。来年の春、皆さんとお会いできることを楽しみにしています!



2023年9月14日木曜日

2023年度 卒業論文相談会のご案内(LC21台/3年次対象)

卒業論文相談会のご案内(LC21台/3年生対象)


 文化学科では、10月上旬の「卒業論文指導願」提出期限に先立ち、3年生を対象に卒業論文の相談会を開催します。文化学科において「卒業論文」は必修科目ではありませんが、大学での学びの集大成として、ぜひ卒業論文に取り組んでみませんか。

 当日は、卒業論文の手続きについて説明を受けた後、学科教員と卒論について個別に相談することができます。卒業論文執筆に興味・関心のある皆さんは、ぜひご出席ください。(この相談会に先立ち、自分の研究テーマについて本を読んだり資料を集めたりといった具体的作業を進めておくことも推奨します。)


 日   時 : 2023年9月29日(金)16:20~

 場   所 : 文系センター15階 第5会議室

 スケジュール:

       16:20~   手続きに関する全体説明

       16:35分頃~ 各教員との個別相談


 卒業論文を書くために必要な手続きについては、『2023年度版 文化学科教員紹介』の「卒業論文を書くために――卒業論文をめぐるQ&A」もご確認ください。

                                                         以上

2023年8月7日月曜日

人工知能と夏休み

 「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は,哲学・倫理学の林誓雄先生です。



人工知能と夏休み

林誓雄(哲学・倫理学)

 今話題の生成型人工知能を使って書かれたレポートに,どのように対応するのか。学生が,自分の力で作成したものではないのだから,不正行為の産物と判断するのか。しかしその判断は教員側に可能なものなのか。むしろ人工知能をうまく使いこなせるようにするための指導や教育が必要なのではないか,などなど,各所で議論が盛り上がりを見せている。

 一方で,例えば前期の社会思想史の課題として提出されたレポートを,あるいは学会誌に投稿された学術論文を,人工知能を使って評価・審査することができるのだとしたら,あるいは人工知能が代わりに評価・審査してくれるようになるのだとしたら,評価・審査の効率が格段にあがることで教員・審査者の負担が劇的に減るだけでなく,学生さんや投稿者に対する評価・審査の的確性や公正性も大幅に向上することになり,それは間違いなく,学生さん・投稿者・教員・審査者にとってのみならず,世界全体にとって好ましいことなのではないかと,ぼんやり夢を描いてみることがある。しかしながら,やはりそれは夢でしかないのだろうと,大変悲しい気持ちにもなるのである。レポートや論文の評価・審査は,どこまでいっても,いつまでたっても,人間にしかできないものと思われるからである。

 「基礎演習」において通常は学び,私の「論理学」の授業でも触れることだが,レポートや論文には,論証が含まれていなければならず,その論証は,筆者のテーゼ・仮説・主張や意見と,それらを支える理由・根拠から構成されていなければならない。そこでまずは,どれがテーゼであり,それをどの理由・根拠が支えているのかを特定する作業が始まる。その際,その理由・根拠はテーゼを十分に支えていると言いうるのかを確認することになるわけだが,その「十分に支える」ということで一体なにを意味しているのか,なにを基準に「十分に」と判断するのか,そもそも,それら理由・根拠として提示されているものは「理由・根拠」としての役割を果たしえるものなのか,一方で示されている理由・根拠は,他方で示されている別の理由・根拠とうまく整合するのかなどなど,こうした諸々の事柄が評価・審査においては問われることになるし,こうしたことについて教員・審査者は考え,判断を下さねばならない。さらには,そうした根拠づけ関係が適切であると判断できるとしても,それによって導き出されるテーゼ・仮説・主張には,どのような意味・意義・ご利益があるのか。そのテーゼを提出することでそのレポート・論文は,当該の領域に対して,あるいは学術業界全体に対して,どのような影響を及ぼすことになるのか。そうした諸々を考えあわせることによってようやく,当該レポートに「可」以上をつけるのかどうかについて,あるいは当該論文を雑誌に掲載するかどうかについて,最終的な判断が下されることになる。

 さて巷で注目を浴びている人工知能に,あるいは今後,さらに進歩を遂げるであろう人工知能に,以上のようなことは,果たして可能であるのだろうか。私には,そのようなことは部分的にでさえ,不可能であるのだろうと思えてならない。当該の領域や学術業界全体に対する「影響」とはいったいどのようなものであって,それを評価する場合に,何を人工知能に実装すればよいのか。そんなものを実装することなど,可能であるのか。論文の「意味・意義・ご利益」とは,数学的な・統計的な計算によって,どうやったら弾き出すことができるのか。そもそも,レポートや論文において論証されることで示されるテーゼ・仮説・主張というものは,これまでにない新しくも独創的で面白いものであるはずである。そうした「新しさ」「独創性」「面白さ」を備えたテーゼ・仮説・主張は,「これまで」に存在しないからこそ,新しいし独創的だし面白いと評価されるのである。だとしたら,「これまで」にしか依拠できない計算機・人工知能には,そういったものを理解・実装することなど,できはしないと考えられるのである。レポートや論文には,その筆者の「想い」が乗る。そしてその「想い」をしっかりと受け止めた上で,レポートや論文を吟味し評価を下すことができるのはやはり,同じ「想い」を持ち合わせた仲間であるところの人間だけである,そのように思われるのである。

 世間を騒がせている人工知能には,文章を手際よくまとめることができるそうである。そうやって要点のみを手早くおさえることが,そしてタイムパフォーマンスを極限まで追求することが,この現代を生きるために求められていることのようにも思える。そのような現代に生きるわれわれは,文章というものを,人間の紡ぎ出した言葉たちを,じっくりゆっくり読むということを,そして時間をかけてそれについて,あれやこれやと考え続けるということを,いつの間にかしなくなってしまっているのかも,しれない。しかし,そのままでは,他人の言うこと・書くことを,間違って受け取ってしまうことに,なりかねない。あるいは,論理的に文章を書いたり読んだり,できなくなるように思えるのだ。

 「論理」というと,人工知能や計算機と即座に結びつく,それこそ効率や処理の速さと深く関係しているものと思われがちである。だけれども,実は真逆であるのだと,私は考えている。論証において,何が「根拠」でどれが「主張」なのか。それを見極めることさえ,容易なことではないように思える。人間が,文章の意味や概念を丁寧に拾うことで,あるいは筆者の想いを大切に汲み上げることによって,ようやく見えてくるものが主張であり根拠なのだと思われるのである。それこそ,世界の側に客観的に存在し,だからこそ容易に人工知能に実装できるであろうと思われがちな原因と結果の関係ですら,なにをどう理解すれば捉えることができるのか,不明なままである(因果関係はまさに,いまだ決定的な答えが出ていない「哲学の難問」の一つである。一体何が,原因と結果の関係を決めているのだろう。だれか私に,教えてくれませんか?)。「因果関係」ですら,おそらくは人工知能への実装が難しいと思われるのに,いわんや「主張-根拠関係」など,その実装は夢のまた夢としか,思えないのである。

 ちなみに,今話題沸騰中の人工知能に,私の授業「論理学A」のテスト問題の一部を解かせてみたのだが,見事に不正解を連発したのは,個人的に大変興味深いところであった。件の人工知能4.0ver.は,「前件否定の誤謬」も捉えられないばかりか,適切な接続表現を選ぶ問題すら間違うことが多い,という顛末であった。もちろん,このブログを読んでいるみなさんは,(人工知能が間違えた)次の問題くらい,いとも容易く解けますよね? だって,みなさんは,論理的思考力を鍛えられた,人間のはず,ですもの?

------------------------------------------------------------------------------------------------------
 問題 次の論証は演繹(100%正しく,一つの結論を導き出だしているもの)か,
    それとも,推測(他の結論も出てしまうもの)か。
   
    根拠:雨が降ったら,オープンキャンパスは中止だ。
    根拠:を。。。雨は降っていない。
    結論:なら,オープンキャンパスは中止じゃない! やーりー!

 解答        演繹 / 推測
------------------------------------------------------------------------------------------------------

 人間が,論理的に,文章を読んだり書いたりするには,実はとてつもなく時間がかかるものである。あるいは,とてつもない時間をかけないと,論理的に文章を読んだり書いたりはできない。だから焦らずゆっくりと,文章を読み進めてみてほしい,急がずじっくりと,文章を書いてみてほしいと思うのである。もちろん世間は,効率や処理速度にこだわりがちだけれど,それをいったんこの夏くらいは脇において,好きな本を読むときには,あるいはレポートや論文を書くときくらいは,じっくりゆっくり時間をかけてみてほしい。

 というわけで(どういうわけで?),効率やら処理速度やらを求められることについては,それこそ人工知能や計算機に任せておいて,われわれ人間は,じっくりゆっくりと,ああでもないこうでもないと,ダラダラノロノロ考えることにするとしよう。われわれはきっともっと,ノロく遅く本を読んだり,じっくりゆっくりと何かについて考えたりしていてよいのである。だってわれわれ人間は,ほんとうにちっぽけで愚かでノロマな存在なのだから。ノロくて愚かでちっぽけだということを言い訳にして,この夏休みもゆっくりじっくり,アイスコーヒー片手に,本を読むことにするとしよう。ひどい暑さが続いている。ときには酷い夕立だってやってくる。そのような外に出るのは,とてつもなく億劫で面倒なので,長いあいだ,積ん読にしてほったらかしにしていた数多くの本たちに「ごめんなさい」と謝ったうえで,それらをじっくりゆっくり噛み締めながら,のんびりゆったり読むことにしよう。