2019年9月22日日曜日

外国人旅行者から留学生になって変わった食文化

このたびの学生記事は、「情報処理入門」を受講している交換留学生さん(文化学科ではない学生さん)の記事です。


 

ES19台 チェジヒョン

みなさん、こんにちは。人文学部の留学生のチェジヒョンです。みなさんは、天神や博多でお店に韓国人がたくさん並んでいるのを見たことがありますか? 最近、福岡に訪れる韓国人がどんどん増えていて、みなさんもそうした場面を見ると気になると思います。私は韓国人ですが、福岡を含め日本の色んな都市を旅行した経験があり、今年の4月から福岡大学の人文学部で留学生活をしています。そこで今回は、日本に旅行で訪れる韓国人と、日本に住んでいる留学生の食文化について、紹介します。

「旅行者である時の食文化」
まず外国人である韓国人が、日本へ旅行に来た場合の食文化について話したいと思います。この場合、ほとんどがホテルなどに泊まり、滞在期間もあまり長くありませんので、自分で料理を作る時間も場所もありません。そして多少高くても、日本の料理を体験しようとお店で食事をします。

1.和食に慎重なアプローチ
 日本と韓国は、食材や味が西洋の料理より似ているため、日本の料理への挑戦は難しくありませんが、それでも万が一食べられなかったら困るので、韓国人にもなじみがあるような料理のお店が人気だと思います。全員が気軽に食べられる肉料理の「極みやハンバーグ」や、味噌ソースのように韓国人も慣れている色んなソースのある「天神ホルモン」は、韓国人に人気があります。そして、福岡の有名な料理の豚骨ラーメン屋さんの「一蘭ラーメン」も韓国人には不慣れな味ですが、味の段階を調節できるサービスがあって、たくさんの韓国人が訪れています。
 

▲天神ホルモン(※写真はいずれも筆者撮影)   一蘭ラーメン▲
2.新しい形の食文化にビックリ
韓国のコンビニは日本より発達していないので、日本のコンビニに行った韓国人は全員驚きます。色んな味の「ほろよい」をはじめ、ローソンの高品質の「もち食感ロール」と「たまごサンドイッチ」、カップ麺なのにおいしいうどんまであるため、みんな必ずコンビニに行きます。食事の後に、間食とか夜食で食べることが多いです。
日本の自動販売機も、韓国人には新しい形の食文化の一つです。どこでも自動販売機に出会い、いつもキラキラしていて人目を引きます。それと種類も飲み物からアイスクリームまで様々で、飲み物も冷たいものから温かいものまであって必ず買ってしまいます。
            
▲コンビニのデザート        自動販売機の飲み物▲

「留学生である時の食文化」
 次は、4月から始まった留学生活の間に変化した食文化について話したいと思います。留学で日本に来たため、日本の料理を食べる期間が長くなりました。それでいつも外食するのは経済的に負担になって、自分で料理を作って食べることもあります。このパートでは4つに分けて書きたいと思います。

1.合理的な価格でちゃんとした和食を
外食をするお店が、旅行で来た時とちょっと違います。留学生である今は、日本人の友達もできて友達にすすめてもらうことが多いです。おすすめのお店は、実際に日本に住んでいる人から教えてもらったため価格が合理的です。そしてお好み焼きとか焼きそばのように、外国の味は一切入っていない料理まで種類が幅広くなります。長い期間、日本で生活するため、日本の料理に慣れようと思って頑張っています。

デザートも旅行者の時とは変わります。旅行では観光にも時間がかかるので、カフェに行ってのんびりしたりは、あまりしていませんでした。しかし留学生になった後は、授業が終わってから時間があれば、日本人の友達に誘われて一緒に行ったりします。デザートも、一人一個ずつ注文することにビックリしました。
         
▲福大近くのお好み焼き屋さん     白金茶房のパンケーキ▲

2.和風の洋食に挑戦
 日本にいる期間が長くなったので、日本の料理だけではなくピザとかパスタのような洋食も食べます。日本はそれぞれがメニューを注文することが特徴なのかは分かりませんが、ピザの場合は、韓国と違ってピザのサイズが小さくて、ピザを一個ずつ注文することになりました。また、外食のパスタは、色んなトッピングを入れることよりも、ソースにこだわっていると思いました。それで、パスタ麺とソースを買ってきて、韓国式でトッピングをたっぷり入れて手作りで食べる方が多いです。
     


      ▲ドミノピザ                     手作りのカルボナーラ▲

3.手作りで楽しむ韓食
 寮には日本人以外にも、韓国人を含め色んな国から来た外国人の友達がいます。それで韓国料理は、寮で韓国人の友達と一緒に作って食べることが多いです。食材をスーパーで買うたびに感じることは、食材と果物が一人前で分かれていて、とても便利だということです。賞味期限が短い食材もありますが、食べやすいように切られているので短いのだと思います。こんなふうに韓国料理を自分で作って食べるため、思ったより外で食べることは少なくなりました。そして韓国にいる時ほど野菜のおかずを食べることができなくなったので、サラダもたくさん買って食べます。
       
▲手作りのタッカルビ          手作りのホットク▲

4.コンビニと自動販売機の利用の変化
最後に、コンビニと自動販売機の利用について、どんな変化があったのか話してみようと思います。コンビニは、お弁当を買うために行くことが多くなりました。そして自動販売機よりスーパーで飲み物を買うほうが安いことを知って、急な場合を除いては使用しなくなりました。

この記事では、私が旅行者と留学生、この二つの立場で日本に滞在して感じた食文化の違いについて論じました。私は、文化の中で食文化が一番楽しいし、興味を持ちやすいと思います。みなさんも、この記事がきっかけになって文化に興味ができたら、文化学科についてもっと調べてみてはいかがでしょうか?

2019年9月18日水曜日

ことばがあなたの文化を豊かにしてくれるかも

「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、古代ギリシア哲学の小林信行先生です。


 
最近『イル・ポスティーノ』という映画を観た。もう70年くらい昔のイタリアを舞台にしたものだ。水にも不自由するようなイタリアの小さな島に住む青年と、島で亡命生活をするためにやって来たチリの有名詩人との友情物語といったらよいのだろうか。漁師の息子なのに漁には不向きで、定職もなく生きていた青年が、郵便配達をすることで知り合った有名な詩人から詩のことばを学びはじめる。そのことばの学習が青年にもたらすものを描き出す点にこの映画の面白さがある。感傷的な結末は物語特有の到達点であり、作品全体に効果的な印象を与えている。
 この映画を見終わって、同趣向の映画をいつか観たような気がして記憶をたどると、『小さな中国のお針子』という映画を思い出した。これも70年ほど前の中国の話。文化大革命と呼ばれる政治的混乱で多くの人たちが迫害されていた頃を舞台にした青春物語だったように思う。党からの指令で地方農村労働に従事させられた学生たちが困難な生活をしながらも、そこで出会ったお針子にバルザックなどを語り聞かせて青春を謳歌していた、といった話だったと思う。中国の辺鄙な農村にバルザックという組み合わせの面白さと、そんな時代を後になってから回想するという形式がこの作品の場合の効果的印象として残っている。
 郵便配達人の場合もお針子の場合も、ことばの力が重要なテーマとなっている。私たちはどんな環境下におかれても、それが自分の生命にとって深刻でもない限りはほとんどその環境に慣れてしまい、それなりに適応して生きてゆくようになるものだ。たとえば私たちが地底人であるとした場合、ぼんやりとした光さえあれば、そしてそれ以上の明るさというものを知らなければ、地底環境下での物事の認識にもとづいて生活をしてゆくことになるだろうし、それなりの文化もそこには形成されるだろう。ところがそのような世界にも奥行きと広がりはあり、自分の日常的な生活空間とは異質なものに出会い、いわゆる異文化経験をすることがある。その時ちょうど戸外の光に出会ったときのように、人は驚いたり戸惑ったり憤ったり恐怖を感じたりあるいは喜んだりする。それは異質なものが私たちの感覚を刺戟した結果であろうが、ことばとの接触によっても引き起こされることもある。
 この後者の経験内容は注目に値する。とくに言語的に未熟な場合がそうであるように、日本語がしゃべられているにもかかわらず、しかも知らないことばが羅列されているわけでもないのに、何が言われているのかさっぱり理解できない経験は誰しも思い当たるところがあるだろう。日頃用いている言語でさえも表現の仕方が変わると、途端に不可解になってしまうわけである。だが他方で、その難解な経験が思いもよらない形で世界の見方を教えてくれることがある。たとえば自分の愛する人が思いもかけず別の人と親密な関係をもっていると知ったときの不愉快さ、苦々しい気分、吐き気、呪詛の言葉を発するなどの経験が「要するにおまえは嫉妬しているのだ」と表現されたとき、そのことばによる自己理解は、その人を情念にまみれて懊悩しているだけの地底人であることを止めさせ、違う存在に変える可能性がある。これは単に使う語彙数の多寡の問題だというよりも、当事者が物事をどのように見たり感じたりするかの問題である。もしそのことばを学び知らなければ、ひとは自らの内面をも見ないままに相変わらず感情に翻弄されるばかりの生き方をすることになりかねない。郵便配達人はそのようなことぱを暗喩で学び、お針子はバルザックで学び、かれらは文学とか物語といったものを通じて違う世界に踏み出し始めるのである。その先に何が待っているかは人それぞれであるにせよ。
 できるかぎり物語り的であることから離れて、客観的で事実的な語りを無反省に重視する現代は、文学的世界をファンタジーという美名のもとに貧相な世界に変えてしまったり、少し読むだけでうんざりとしてしまう同語反復の世界に変えてしまっている。(この場合の同語反復とは、文学が自然風物についても人間関係についてもあれこれと同じのような言葉を何世紀にもわたって操っているにすぎないという意味。)物語や文学に真実はない、リアルはない、あるのはそのときどきの各人の思いに過ぎないという強い信念は、なにも現代人特有の思想基盤をなすものとは言えないだろうが、そのような認識は文学から真理への道を閉ざしてしまうという、やっかいな立場に片足を踏み込んでいる。ことばの豊かさは生半可な客観性を凌駕しており、リアルで真なる存在への道を切り開くこともある、という認識が文学の信条となるべきものであると思う。客観性や事実だけが文化の中心にあるわけではない。
 最後に、語彙貧困を嘆く若い人たちのために、穂村弘『短歌の友人』(河出文庫)というすぐれた現代歌論集を紹介しておきたい。スマホによる情報収集ばかりの人には最後まで読み通すことに困難はあるだろうが、時間をかけて熟読することに挑戦する人にとっては、ことばのさまざまな用法に気づかされ、文化との深い関係を知り、言語的教養の裾野を広げることができるだろう。

2019年9月15日日曜日

LC哲学カフェ開催:夜の動植物園で哲学する


昨日、9月14日土曜日の夕方、LC哲学カフェが開催されました。

今回は新企画として、福岡市動植物園へ。「夜の動植物園」をめぐりながら、その場その場で哲学の議論をする、という試み。参加者はLCの学生さんが2名、他大学の学生さんが2名、教員1名の、計5名。

主に話題になったのは、次の三つ。

第一に、檻について。普段は入ることのできないゾウ舎が特別に公開されていて、中に入ることができたのですが、ゾウの檻は、棒と棒の間隔が広く、人間は自由に出入りが可能。この檻は、ゾウにとっては檻でも、人間にとっては檻ではない。つまり何かが「檻」であるかどうかは相対的に決まることでしかなく、同じものが檻だったり、檻でなかったりする。確かに、人間の檻も、虫やネズミなどは自由に出入りが可能。したがって、檻ではない……?

第二に、「価値」について。植物園で、一年に二日(?)しか花を咲かせない「オオオニバス(?)」を鑑賞。しかし、「一年に二日」という希少性が価値を持つのはなぜか。例えば、結婚。誰かと結婚して、毎日一緒に暮らす、とする。すると、その誰かと一緒にいることの希少性は下がる。ならば、結婚とは、相手の価値を下げることなのか。一年に二日しか会わない相手と、毎日会う相手とでは、どちらの方が価値があるのか。あるいは、希少性と親密度は異なる? 両者は矛盾する、それとも矛盾しない……?

第三に、動物の「裸」について。動物たちは裸なのに、なぜ見ていて「セクシー」とは感じないのか。単に種が違うから? あるいは、動物たちは裸でいることが普通だから? 動物たちにも服を着せるのが普通ならば、裸でいる状態を「セクシー」と感じるようになるかもしれない。逆に人間も、もし皆が毎日裸で生活していれば、性的なものを感じなくなる? いや、服を着て生活している現在でも、裸を直ちに「セクシー」と感じるとは限らない。セクシーさは裸そのものではなく、裸を隠すことから生まれてくる……?

……以上のように書いてみると、何だか、哲学談義に終始していたような印象を与えるかもしれませんが、実際には、動植物園を素直に楽しんでいる時間がほとんどで、哲学談義はごく一部。歩きながらの議論はなかなか難しく、「哲学カフェ」としては課題が残ったものの、緩やかで、心地好い時間となりました。


次回については何も決まっていませんが、いずれまた、どこかで何かを。諸々、このブログ上でお伝えしますので、続報を気長にお待ち下さい。

2019年9月13日金曜日

卒業論文相談会開催のお知らせ(再掲)

卒業論文相談会開催のお知らせ
(LC17台/3年生対象)



 文化学科では、10月上旬の「卒業論文指導願」提出に向けて、3年生を対象に卒業論文相談会を開催します。会場には文化学科の全教員が集合し、その場で個々の教員に、卒業論文について個別に相談することができます。卒業論文を書くかどうか迷っている人も、ぜひ参加してみて下さい。


 日時 2019年9月27日(金)16:30-18:00
 場所 文系センター棟15階 第5会議室

※当日は『2019年度版 福岡大学人文学部文化学科 教員紹介』を持参して下さい。

 なお、この相談会に参加しなくても、卒論の指導を受けることは可能です。

 卒業論文を書くために必要な手続きについては、『2019年度版 福岡大学人文学部文化学科 教員紹介』の24-30頁「卒業論文を書くために――卒業論文をめぐるQ&A」を参照して下さい。

教務・入試連絡委員       
林 誓雄、藤村健一 

 卒業論文関連の最近のブログ記事はこちら。
平成30年度卒業論文発表会が行われました
平成29年度卒業論文発表会が行われました
平成29年度卒業論文相談会が開催されました
卒業論文

2019年9月5日木曜日

令和元年度 卒業論文中間報告書の提出について
(LC16台以上/4年生対象)

卒業論文を提出する予定の4年生は、指導教員と相談の上、下記の期間中に中間報告書を提出してください。

 提出期間 9月20日(金)から9月27日(金)16:30まで
 提出場所 文系センター低層棟1階 レポートBOX

中間報告書の分量や形式は、指導教員の指示に従ってください。

教務・入試連絡委員 林誓雄・藤村健一

2019年9月4日水曜日

「宮野先生のご業績を語る会」開催のお知らせ

去る7月22日に亡くなられた宮野真生子先生のご業績をめぐって、在学生・卒業生・教員が集い語らう場として、以下のイベントを学科主催にて開催いたします。

宮野先生のご業績を語る会
日時:9月21日(土)14:00〜17:00
場所:福岡大学図書館多目的ホール

身近な問題から切り込んで、広く豊かな哲学の思索へとしなやかに、しかし時に厳しく導く宮野先生の教えに、どれほど多くの福大生たちが感化されてきたことでしょう。
哲学を通じての出逢いを重視し、それを「出逢いの哲学」にまで昇華された宮野先生のお仕事を巡って、学生・卒業生の皆さんと共に思いを重ねる時間にできればと思います。

宮野先生の代表的なご業績としては、単著である『なぜ、私たちは恋をして生きるのか——「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版、2014年)、共編著である三巻本の『愛・性・家族の哲学』(ナカニシヤ出版、2016年)があり、さらに20199月には博士論文を基にした単著『出逢いのあわい九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀内出版)、磯野真穂先生(国際医療福祉大学大学院)との共著書、計二冊を刊行予定でいらっしゃいます。 

登壇者として、磯野真穂先生(国際医療福祉大学大学院)、学科員から小笠原史樹先生、宮岡真央子先生、平井靖史先生のほか、職員の八尋直哉さん、卒業生の野里のどかさんを予定しています。

宮野先生の教員個人ページ

2019年8月29日木曜日

日本神話にまつわる小話:八塩折酒のこと


「教員記事」をお届けします。今回の寄稿者は、日本の神話と宗教、仏教、インド哲学の
岸根敏幸先生です。




 お酒の力はすごい。なにしろ、あのヤマタノヲロチでさえ酔い潰してしまったのだから。

 そのお酒は古事記神話では「八塩折酒」と呼ばれています(日本書紀神話では「八醞酒」。ただし、果実酒や毒酒と捉える伝承もあります)。読み方は「やしほをりのさけ」ですが、yashihoworiということで、ア行の「オ」とワ行の「ヲ」という母音が連続するので、母音縮約が起こり、yashihori、すなわち、「やしほり」と読むことも可能です。「八」は、文字通り8という数を表す場合もありますが、日本神話では「多くの」という意味で使われる場合もあります。「塩」は塩ではなく、「回」「度」と同様に回数を表す助数詞です。「折」(終止形は「をる」)は、本来「折り曲げる」「折り取る」という意味のようで、ちょっと意味がとりにくいですが、「白波の八重折るが上に」(『万葉集』4360番)という表現もあるので、折り返す、つまり、また元に戻るということで、繰り返すことを意味すると考えてよいでしょう。ですので、八塩折酒というのは、醸造の行程を何度も繰り返すことによって造られたお酒ということになります。
 このように何度も醸造されて、ヤマタノヲロチを酔い潰したようなお酒ですから、飲んだら火を吐くほどに、アルコール度数の高い強烈なお酒というものを想像してしまいます。実際そのように説明している書籍もあるでしょう。しかし、実はそうではないのです。
 お酒(ここでは日本酒のことです)は、米と水を主な原料とし、麹カビによって、デンプンをブドウ糖に分解する行程と、酵母菌によってブドウ糖を分解してアルコール発酵する行程を通して、造られます。この二つの行程が同時進行する(これを「並行複発酵」と言います)のが日本酒醸造の特色なのです。
 八塩折酒はこの醸造によってできたお酒を水の代わりにして、さらに醸造することを繰り返すのです。何度もアルコール発酵させるのですから、さぞアルコール度数は高くなると思いがちですが、酵母菌は自分が作ったアルコールの濃度が高くなると、発酵活動を停止し、死滅してしまうのです。ですので、水の代わりにお酒を使用すると、元々アルコール濃度が高いので、酵母菌のアルコール発酵は抑制されてしまい、麹カビが作るブドウ糖が増えていくのです。したがって、八塩折酒というのはアルコール度数の高い強烈なお酒なのではなく、とても甘い、ジュースのようなお酒であったと考えられます。ヤマタノヲロチが酔い潰れてしまったのも、あまりにも甘美なお酒だったので、無我夢中になって、八つの頭が同時にお酒を飲み続けたからだったのです。
 かつて出雲の国であった島根県松江市に、この八塩折酒を再現したお酒を造っている蔵元があります。日本神話の研究に携わる者として、八塩折酒の味も知らないでどうするという思いから、インターネットで購入したことがあります。最初の一口の印象ですが、辛口のお酒が好きな私にとっては、「これはどうなんだろう。ジュースのように甘いな」という感じでしたが、その後、時間を置いて、そのような甘いお酒なんだと思って飲めば、それはそれで味わえるものでした。
 しかし、造るのになんと手間のかかるお酒でしょうか。すでに出来上がっているお酒を水代わりにして仕込みに使い、また醸造するのです。こういう形で、仕込みに使う水の代わりにお酒を用いたり、予め水にお酒を混ぜたりして造るお酒は「貴醸酒」と呼ばれています。名前の通り、とても贅沢なお酒です。なぜなら、ほとんどタダに等しい水に代わってお酒を使うのですから。
 スサノヲに命じられて、そんな手間のかかるお酒を大量に造り上げたアシナヅチとテナヅチという老夫婦の働きは見事と言うしかありません。これは単にスサノヲの命令に従ったからというのではなく、ヤマタノヲロチに娘たちを喰われ続け、唯一生き残っていた娘であるクシナダヒメの命を何とか助けようと必死だったからでしょう。
 なお、ゴジラ映画で新境地を開いたとも言える「シン・ゴジラ」には「ヤシオリ作戦」というのが登場します。これは、血液凝固剤をゴジラの体内に大量注入して、血液の循環を停止させ、それによってゴジラを凍結させてしまうという作戦なのです。はるか昔の日本神話に登場する、ヤマタノヲロチを酔い潰して、退治する機会を作った八塩折酒が、現代の映画で装いを新たに登場しているのです。